ガレリア座第31回公演「小鳥売り」〜役が好きになるって、幸せなことだよね〜

ガレリア座の公演、「小鳥売り」が終演。台風接近で首都圏の鉄道が次々運休する中、練馬文化センターに足を運んでくださったお客様に、まず感謝。とにかく冒頭から舞台に対する反応が本当に温かくて、その温かな拍手や笑い声に乗せられて、本当に気持ちよく演じることができました。


トランペット吹きのマナちゃんが、とっても素敵な写真を撮ってくれました。

ガレリア座オペレッタに出会って、いろんな役を演じてきたのだけど、そんな中でも印象に残っているのが、「天国と地獄」のジュピター、「乞食学生」のオルレンドルフ、「美しきエレーヌ」のカルカス、「ヴェニスの一夜」のデラックア。今回やらせていただいた、ヴェプス男爵、という役も、これらの役と共通項があって、要するに権力をふりかざして民衆から金や色をむしり取ろうとする小悪党なんだよね。これらの共通項を持ったキャラクターを、少し前の日記で、イタリアに古くから伝わる「コメディア・デラルテ」の「パンタローネ」という、ステレオタイプのキャラクターの系譜を継ぐものじゃないか、みたいなことを書きました。でも、そういう伝統的なステレオタイプ、という位置づけだけでなく、ヨーロッパ各国に共通する風刺精神や諧謔精神が、金や色に汚い権力者を舞台上で笑いものにする、という仕掛け自体を必要とした、という側面も勿論あると思う。実際、オッフェンバックオペレッタには、ジュピターを初めとして、当時の最高権力者であるナポレオン三世を笑いものにするためのキャラクターが沢山出てくるし。

でもね、この小悪党たちが、本当に人間臭くて憎めなくって、やりがいがあるんですよ。その役についてすごく深掘りしたくなるし、このオッサン、どんな奴なのかなぁ、と思いながら役作りをしていくプロセスが楽しくて仕方ない。ヴェプス男爵なんてね、ドイツの小さな領国を口八丁手八丁で渡り歩いていて、ある程度事務処理能力も高いし、色んなイベントとか上手に仕切ったりするんだろうけど、出入りの業者から袖の下もらってたのがばれたり、宮廷の女官に手を出したりして、その領国から逃げ出して、みたいなことを繰り返してたと思うんですよ。爵位も貴族の中では最低位の男爵どまりだし。で、妹かお姉さんがうまく嫁いだ先の伯爵家を頼って、ライン・プファルツの大公家に家令みたいなポジションで雇われていて、相変わらず袖の下取ったり女の子のお尻追いかけたりはやめられない。そして、同じようなチャラい生き方をしている、伯爵家の跡継ぎで自分の甥っ子のスタニスラウスが、もう可愛くて仕方ない。

そんなことは台本には全然描かれていないんだけど、そういう書かれていない裏歴史みたいなのを考えたり、色んなセリフをアドリブで付け加えたりするのが楽しい。やっぱりこういうオヤジって、外見の威厳みたいなのに拘るから、髭生やすだろう、なんて思って、生まれて初めて髭生やしてみたり、昔はドンファンとしてならした、とは言え、ちょっと女性の口説き方は古臭いところがあるだろうから、求愛のセリフは歌舞伎調にするとそういうニュアンスが出るかな、とか。そういうことを考えさせてくれる役って、やっぱりやりがいのあるいい役、だと思うんです。(ちなみに、アドリブで付け加えた「ピコ太郎」ネタにちゃんと反応してくれた優しいお客様にも本当に感激しました。大感謝。)

昔、お芝居をやっていた時に、共演したプロの役者さんから、「北さんはそれなりに声色の引き出しとか、技術の引き出しがあるから、演技プランに煮詰まってしまった時に、そういう技術に頼っちゃうんですよね」と言われたことがあります。でも、今回のヴェプス男爵では、自分の技術とか、声の色やテンポ感をどうするか、みたいなことはあまり考えずに、この胡散臭いオヤジはこういう時どうするだろう、というのをひたすら役に寄り添って演じていた気がする。それが楽しいと思えたってことは、本当にこのヴェプス男爵っていう役が好きだったんだなぁ、と、演じ終わってみてから改めて思ったりします。

役作りのプロセスでは結構癇癪持ちで、色々周囲を不愉快にさせることも多かったですが、我慢して付き合ってくださった共演者の皆さん、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。いつまでたっても発展途上の歌唱に辛抱強くダメを出し続けてくれたマエストロ、それを支えてくれたオケのみんな、素敵な舞台を作り上げてくれたいつもの裏方スタッフさんたち。そして、このヴェプス男爵、という愛すべき役を、私に演じさせてくれた主宰の八木原くんに。本当にありがとう。そして何より、この役を一緒に愛してくれたお客様一人一人に、ありがとうございました。

一つ終わって、また次のこと。役者の醍醐味は、色んな人の人生を疑似体験できること。その楽しみを探して、また新しい舞台に挑戦していきます。今後ともよろしくお願いいたします。やっぱり舞台っていいなぁ。


二幕舞台。本当に綺麗な舞台でした。

「透明なゆりかご」、とか、「グッド・ドクター」、とか

医療もののドラマっていうのは人気があるんですねぇ。汚いものも綺麗なものも含めて、人間の本質が一番露骨に表面化する瞬間っていうのは、人の生き死にに関わる瞬間とセックスに関わる瞬間で、映画やドラマがその二つを永遠のテーマにしているのは多分そういう理由。セックスに関する描写が自己規制のせいで制限されている昨今、医療ドラマが人気なのは、それが今、テレビドラマという表現の中で、人間の本質を描ける一番いい題材だからなのかな、とも思う。

少し前に最終回を迎えた「グッド・ドクター」にはかなりハマりました。娘は最近首まで浸かってしまっているTEAM NACSの戸次さん目当てに、私は、さくら学院の卒業生の松井愛莉さん目当てに見てたのだけど、とにかくどの役者さんも存在感があって本当に素敵。真ん中にいる山崎賢人さんや上野樹里さんの演技が素晴らしいのは勿論なのだけど、子役の役者さんたちがみなさん達者で、それにもすごく泣かされました。8話でお兄さん役で出ていた池田優斗君の複雑な感情表現、最終話の松風理咲さんのひたむきな演技には脱帽。さらに、戸次さんを初めとして、2話の黒沢あすかさん(塚本晋也さんの「六月の蛇」に出てた性格女優)、院長役の柄本明さんなど、脇役の演技も重厚。そういう中で、松井愛莉さんが本当に自然体のいいお芝居をやっていて、さくら学院にいた頃は本当に何もできなかった松井さんが、いい役者さんになったなぁ、なんて思ったり、8話でお母さん役で出ていた酒井若菜さんが、実はグラドルだった頃から結構好きだったんだけど、本当にいい女優さんになっちゃったなぁ、なんて思ったり、おじさんなりの色んな感慨もあった。

そして、今日、帰宅して、偶然テレビをつけたら、懐かしい鈴木杏さんがお母さん役をやっている「透明なゆりかご」の最終回をやっていて、もう号泣してしまって困ってしまう。鈴木さんの目には魔力があるね。あの大きくて透明な目から、一粒涙がこぼれるだけで、もうこちらはボロボロ。このドラマでも酒井若菜さんがお母さん役をやってるんだね。酒井さんって、なんか富田靖子さんみたいなポジション占めつつあるんだなぁ。

女房の実家が小児科医で、義兄が新生児医療のエキスパートだ、ということもあって、こういう医療ドラマ、特に子供の病気を題材にされると、それだけでなんとなく思い入れてしまう、というのもあるんですけど、やっぱりこういう物語に入れ込んでしまうのは、ふゆちゃんのことがあったからだな、と思います。娘の幼稚園の同級生で、脳腫瘍で6歳で亡くなったふゆちゃんは、年をとった者が先に死ぬ、という条理が、決して絶対ではない、ということを私に教えてくれました。吉田秀和の「たとえ世界が不条理であったとしても」を読んだ時にも、ふゆちゃんのことが頭をよぎった。どれだけ世界が不条理だったとしても、僕らはこの世界で前を向かなければならない。病気と闘う子供たちはみんな、僕らにそういう心の力をくれる天使なんだと、本当に思う。

万年筆女子会コンサートVol.3「世界民謡めぐり〜歌は千年、筆は万年〜」

女房が参加しているこの「万年筆女子会コンサート」、前回までの2回は、万年筆に絡めて、「文豪シリーズ」「国産礼賛」、と続けてきたのですが、今回は、ネタが切れた、ということで、とにかく色んな民謡でいこう、と決めたそうです。そこで、世界で記録に残っている「民謡」を探してみると、大体1000年くらいの歴史を持っている、ということに気づいたうちの女房が、「歌は千年、筆は万年」というキャッチコピーを考え出した。まぁ無理くりなんですけど、意外となるほど感があっていいですよね。

本番コンサートは、舞台監督兼バーテンさんとして手伝わせてもらったんですけど、バーテンさんが結構楽しかった。9月末の公演に向けて、ヒゲをはやしていたせいもあって、私だと気づかなくて、ホール付のバーテンさんと思いこんじゃった人もいたみたいで、なんだか嬉しかったです。へへへ。

コンサートの内容について。このグループの魅力は、なんといってもその声の色合いの多彩さと、それがアンサンブルになった時のブレンドの見事さ。そしてそのブレンドをがっちり支える田中知子さんのピアノの豊かな音。様々な国の民謡の多様な彩りもあって、ものすごくカラフルな演奏会、という印象。

でも、繰り返しになるけど、やっぱりこのグループを稀有なものにしているのは、その見事なアンサンブルだと思います。個々のソロ曲の完成度ももちろんとても高くて、どの歌手も安定感と個性でものすごく輝いているのだけど、その煌きが和音になって絡み合った時にホール全体を満たす音の層の厚さに、ふんわりと身体全体が包み込まれてしまって、その多幸感ったら半端ない。

前にも書いたことがあるんですけど、ソロ歌手として活躍しているオペラ歌手が何人か集まってのジョイントコンサートで、ソロ曲はとっても素晴らしいんだけど、余興のようにして演奏されるアンサンブルがどうにもハモらなくて、なんだか残念な気持ちになることが結構あります。それに比べて、万年筆女子会のアンサンブルで、がっかりさせられたことは一度もない。ある意味失礼な言い方になるかもしれないけど、ソリストとして見たら、もっと声のパワーや色合いの豊かな歌い手はいるかもしれない。でも、これだけのレベルのオペラ歌手が揃って、これだけ完成度の高いアンサンブルを聞かせてくれるグループって、日本全国探してもなかなか見当たらないのじゃないかな、と思う。それぞれの選手は9秒台を出していなくても、4人になれば世界一になってしまう400メートルリレーみたいに。

今回、どうしてこんなにこのグループのアンサンブルががっつりハモるのかな、と聞いていて、そうか、と思ったのが、田辺いづみさんの声の厚み。一人だけのメゾソプラノの田辺さんの安定したピッチの柔らかな声に含まれる豊かな倍音の層が、個性豊かなソプラノ歌手の声たちをしっかり取り込んで、さらに豊饒な響きを生み出す。やっぱりアンサンブルの基礎は低音部なんだよな、と、ピッチが悪くて荒れたドラ声のベースのワタクシは大変反省しながら聞きました。

出会いというのは奇跡の積み重なりで、この5つの声が重なり合って生み出されたこの音の煌きも奇跡の産物。そしてきっと、そんな出会いのきっかけになった万年筆の発明も奇跡なら、歌われている歌が1000年受け継がれてきたのも奇跡。そんな奇跡がキラキラ輝いている瞬間を、会場のバーテンとして支えられた幸せをかみしめた一日でした。次のコンサートが待ち遠しいなぁ。

はてな日記も終わりますね

気が付けばこの日記、1か月も更新をさぼっておりました。連動しているGAGブログとか、何といってもFACEBOOKで日常のつぶやきを発信するようになって、どんどんこの日記の更新が滞っていく中で、つい先日、はてなダイヤリー機能の廃止が発表されましたね。自分自身のネットでの情報発信の頻度をそのまま反映しているような気がしたなぁ。

自分のはてな日記については、今後も継続していこう、とは思っていて、GAGブログでは宣伝を、はてな日記(今後は、新しいはてなブログを作って引き継ぐつもりですが)では色んなインプットに対するまとまった感想文を、で、FACEBOOKでは日常のつぶやきを、という分担にしていこう、と思っています。こうして見ても、一般人である私が世界に情報発信できるツールがこれだけあって選べる時代になったんだね。インターネットなんてものが存在しなくて、「パソコン通信」の黎明期に社会人になった身としては、本当に隔世の感がある。

日記のクローズに向けて色々準備はしていきますが、とりあえずは、この1か月間のインプットの中で、8月25日に、渋谷のラトリエで開催された、万年筆女子会コンサートVol.3「世界民謡めぐり〜歌は千年、筆は万年〜」の感想を書き留めておきます。ずいぶん時間がたってしまって申し訳なかったです。

「ヘンゼルとグレーテル」〜多幸感と重層性と〜

8月11日、たましんRISURUホールで、東京シティオペラ協会のオペラ公演、フンパーディンク作曲「ヘンゼルとグレーテル」(ノーカット版)を鑑賞。うちの女房がグレーテルを演じた舞台。多幸感に満ちた音楽と、幾重にも重なったモチーフの重層感溢れる豊饒な音楽と、そして同じく、シンプルな中に複雑な歴史と背景を感じさせる物語の深みに、語りたいことが溢れてきて大変。今日はその感想を。


全編のクライマックス、子供たちを現実から夢の世界に誘う天使たち。もう泣けて泣けて。
 
指揮:竹内聡
演出:川村敬一

ヘンゼル:末広 貴美子
グレーテル:大津 佐知子
ペーター(父):櫛田 豊
ゲルトルート(母):上木 由理江
魔女:伊藤 潤
眠りの精:堀江 恵美子
露の精:田中 彰子

合唱:東京シティオペラ協会合唱団
子供たち:KEI音楽学院の生徒たち
演奏:赤塚 博美(エレクトーン) 大杉 祥子(ピアノ)

という布陣でした。
 
まずは音楽の話ですが、女房がこのオペラに出演する、という話をあるオペラ歌手にしたら、まず言われたのが、「この演目はね、オーケストラがものすごく分厚いから、声のない歌い手の声は全然聞こえなくなるんだよ」という話でした。さすがワーグナーの弟子、とにかくオーケストラが分厚くて、声で対抗するのは大変なのだそうです。「子供向けのオペラだ、と思って、子供に演じさせたり、若手の声のない歌い手に演じさせる舞台が多いけど、なめたら大けがする演目だからね」と。

今回は、その重層的なオーケストラを、音量コントロールの自由度の高い赤塚先生のエレクトーン伴奏で聴けた、という点でも、作品の輪郭がくっきりして逆に良かったのかもしれない、と思ったりします。おそらく生楽器の演奏よりも、登場人物のモチーフがすごくくっきりと際立って聞こえて、フンパーディンクの音楽がまさにワーグナーの影響をそのまま受けているんだな、というのがとても分かりやすかった。

個人的にはワーグナーってのがどうにもダメな人間で、心地よくなる直前で出したり引っ込めたりするあの勿体ぶった感じが我慢ならないんだけど、フンパーディンクの音楽はまっすぐ心地よいし、子供向けのSingspielを発展させてオペラに仕上げた、という製作プロセスのせいもあってか、個々のモチーフはドイツ民謡のシンプルで美しいメロディーが中心なので、何より分かりやすくて耳に優しい。「ライトモチーフ」を勉強するにはこのオペラから入るのが、私みたいな初心者にはいいのかもね、と思ったり。

歌った女房に言わせると、聴衆に届いている音楽に比べて実際の楽譜は難度が非常に高いそうで、そういう意味でも一筋縄ではいかない演目なのだそうです。ライトモチーフは決してこれみよがしに飛び出してくるわけではなく、でも常に登場人物に寄り添って、さりげなく何気なく自分を主張している。そんなモチーフが美しい背景の音楽の中で溶け合っている、まさにドイツの森の中で登場人物たちだけがふっと浮き上がって見えてくるような多層的な音楽がたまらなく心地よい。

次に物語について。プログラムに指揮者の竹内先生が書かれていた文章を読むと、子供たちを森に追いやる残酷な義母は、人間的な弱さを抱えた優しいお母さんになっていたり、全体に、グリム童話にある、親と子の対決と、その親のたくらみを出し抜く子供の小賢しさ、みたいな、ちょっと汚い部分がずいぶんきれいに処理されている。グリム童話が実は残酷、というのはよく言われる話で、この物語だって、自分を殺そうとする親と子供の戦い、みたいな部分があるし、極めつけは魔女を焼き殺してお菓子にして食べちゃう、というクライマックスだよね。要するにこれって、人食いの話じゃん。

実際、METで見た最新演出の「ヘンゼルとグレーテル」は、この物語のカニバリズムの側面を前面に押し出していて、幕間にはゾンビみたいな断末魔の人間の顔のイラストが映し出されたり、最後に子供たちみんなでむしゃむしゃ食べるのは、こんがり焼けた魔女の丸焼き(そのまんま人間の形をしている)でした。クリスマスより、街中がスプラッタに染まるハロウィンに上演した方がいいような演出。

多分この物語のルーツをたどれば、30年戦争で荒廃したドイツで、飢えに苦しんだ人たちが実際に体験したカニバリズムが基になっていることは容易に想像できる。飢えに苦しんだ家族が、食い扶持を減らすために子供を森に捨てる。森の中には、戦争で荒廃した村を尻目に、自給自足で豊かに暮らしている老婆がいて、子供はその老婆のたくわえを奪い、老婆も殺して食べてしまう。なんて陰惨な話。

そういう物語の陰惨さを、明るいハッピーエンドのファンタジーに転換する仕掛けがこのオペラにはいくつもあって、親子の関係を改善したのもその一つなんだけど、やっぱり極めつけは、眠りの精と露の精、という魔法の精霊たちの登場によって、悲惨な現実から子供たちが魔法の異世界にジャンプするシーン。カッコウの声が響く森の中で、天使たちの祈りの歌が聞こえてくると、もうそれだけで泣けてきちゃう。そこまでの物語は、森でイチゴをお腹一杯になった子供が、道に迷ってそのまま森の中で幸せな死を迎える、という、アンデルセンの泣ける童話になりそうな物語で、子供たちがどんどん追い詰められていくのに、それでも「神様が守ってくれる」と祈りの歌を捧げるところなんか、続く最悪の悲劇を想像させて涙なしに聞けない。そうやって「ああ、もうこの子たちはこのまま天に召されるんだな」と思ったところに、異世界への扉が開き、お菓子の家という最大の救済が姿を現す。


なんといってもお菓子の家だよね〜

長い歴史や様々な改訂を経て、純粋な子供の祈りが救済をもたらす、という、きわめてシンプルな物語がそこにはあって、やっぱりMETの演出はちょっとグリムの原作に影響されすぎてるよなーと思う。もっとシンプルに楽しく作れば、こんなに素敵なお話なのに。

原作のなかで、親子の対決部分を担うのがヘンゼル(親の企みの裏をかいて、石を落として帰り道を見つけたりする)で、後半の魔女との対決部分を担うのがグレーテルなのだけど、親子が和解してしまっているオペラ版では、純粋な子供と邪悪な魔女の対決が主軸になる。なので、このオペラの推進役になるのはやはりグレーテルで、例によって手前味噌になるかもしれませんが、女房はこの物語の軸になる役をうまくやり切っていたと思います。8歳の子供に見せるためには、胸を開いて肘を後ろに持っていくといいんだ、などと、子供になるための姿勢からしっかり研究して取り組んでおりました。日本語歌唱の安定感も抜群。

どこかで耳にしたことのある分かりやすいドイツ民謡のメロディーたちが、複数のライトモチーフになって絡み合い、ドイツの黒い森のような深い深い色合いを生み出す、その中でキラキラと輝くピュアな子供の夢のような歌声。こんなに多幸感に満ちたオペラって、なかなかないよね。東京シティオペラ協会のみなさま、本当に幸せな時間をありがとうございました。共演者の皆様、スタッフの皆様、女房が大変お世話になりました。またどこかで、こんな素敵な時間をご一緒出来たら嬉しいです。

杉崎寧々がさくら学院を変えたんだよなぁ

BABYMETALのYUIMETALの近況は全く不明で、アミューズ株主総会で、「体調は回復している」という情報があっただけで、10月の日本公演に復帰してくれるのかどうかもわからない。BABYMETALのファンクラブのTHE ONEからは、10月公演のチケット販売情報の詳細はまたお知らせするから、ちょっと待ってて、みたいな、「僕らも頑張ってるから忘れないでね」、みたいなメールが届いて、俺たちが待ってるのはそういうことじゃないんだけどなぁ、と思いつつ、とにかくYUIMETAL、というより、水野由結さんが幸せに、たとえ曲がりくねった道でも、自分の道をしっかり歩んでいることを遠くから祈るしかない。

三吉彩花さんが、矢口監督のミュージカル映画の主演に抜擢された、というニュースに、さくら学院の父兄さんたちが快哉を叫んでいたりするんだけど、2017年度の卒業式で、森先生が送辞で言っていた、「君たちが卒業後に色々成功しているニュースなんてのは、いやでも耳に入ってくるんだから、これから外の世界で、いっぱい失敗しておいで。そして、この、君たちが一番自分らしくいられる、さくら学院に戻ってきて、そんな失敗談を先生に聞かせてください。そういう、君たちが自分らしくいられる場所としての、さくら学院を、先生たちはずっと守っていくから」という趣旨のセリフを思い出す。さくら学院が、将来のプロのパフォーマーを育成する育成機関として存在している以上、卒業生には、芸能界で活躍することが最も期待されているのが事実。だから、森先生が、「成功」と言う時、それはやっぱり、三吉さんや松井愛莉さんのように、芸能界でしっかり実績を残していくことを意味しているのも事実だと思う。

パフォーマーを育成する育成機関としては、投資を回収する、という意味でも、プロのパフォーマーになって成功しない卒業生を生み出したことは「失敗」であり、そういう卒業生は「挫折した」と思われるのが本来。でも、中学を卒業したまだ高校生の女の子が、いくら中学時代に、一流の指導者の元で高度なレッスンを重ねたとしても、芸能界で必ず成功するとは限らない。芸能界はそんなに甘いものじゃない。

なので、さくら学院は、ある時点から、自分たちが育成しているのは、パフォーマーではなくて、「スーパーレディー」なのだ、という建前にシフトした気がしていて、その大きなきっかけになったのが、杉崎寧々さんじゃないのかな、と思う。さくら学院の初期メンバー、と言われる、武藤、三吉、松井、中元、杉崎、飯田、堀内、佐藤、菊池、水野、のうち、卒業してすぐに芸能界を引退する、と言ったのは杉崎寧々さんだけで、この彼女の決断と、その後のさくら学院に対する関わり方が、ある意味、さくら学院を、「パフォーマーを育てねばならない」という呪縛から解放して、より人間的なもの、本質的なものを学ぶ場として機能させるようになったのじゃないか、という気がする。

杉崎さんについて語りたいことは山のようにあって、色んなアーカイブで見るステージ上での彼女は、どちらかというとAKB系の接触系アイドルに近いファンへのサービス精神にあふれていて、過去のさくら学院の卒業生の中でも、菊池最愛以上にアイドルらしいアイドルだった気がする。色んな葛藤と幻滅を経て、結果的に、芸能界引退という道を選んだのに、杉崎さんの卒業は本当にさわやかで、その後も、夢だった看護学校への入学を果たして、芸能界で輝くだけじゃないスーパーレディーの道があるんだ、ということを具体的に示してくれた。それが、その後の卒業生が、芸能界を引退したとしても、さくら学院公演に顔を出し、その写真を見て父兄が温かいエールを送る、そんな先例になったんじゃないかな、と思う。杉崎さんなんか、多分、日本で一番ファンの多い看護師になるんだろう。芸能界を引退した武藤彩未さんや、野津友那乃さん、白井沙樹さんとかにも、いまだに父兄からのエールが絶えない。それって、杉崎さんが、「芸能界で失敗したって、いくらでも他の場所でスーパーレディーになれるんだよ」という姿を見せてくれているおかげなんじゃないかな、と思う。

杉崎寧々さんが、卒業式の当日に書いた学院日誌の、「女神になる」という言葉が本当に鮮烈で、そして、ねねどんは間違いなく、さくら学院の女神になったのだと思う。挫折した人、失敗した人に対して、それでもいいんだよとそばで寄り添ってくれる女神になったのだと。そんな女神が、水野さんのそばにも寄り添ってくれていることを、ただ祈るしかないのだけど。

なんかね、さくら学院って、こういう物語が無数に絡まって、巨大で立体的なタペストリーを作っているから、本当にはまっちゃうんですよね。今日は、さくら学院を知らない人には全く理解できない内容になっちゃった。ごめんなさい。でも書きたかったんだよ〜。

オペレッタの典型的人物から、紀元前まで時間を遡っちゃったぞ

今、ガレリア座で、9月30日のオペレッタ公演、カール・ツェラーの「小鳥売り」を絶賛練習中。GAGブログでも宣伝してるんですが、チラシの画像をここにも貼っておこう。でも、この日記では、宣伝というより、この演目を練習しながら色々考えていることを、例によって衒学的にダラダラ書き連ねようかと思います。
 

公演チラシでっす。
 
私はこの日記で、「Singspieler」という名前を名乗っているんですが、これは、ドイツの大衆的な演劇形態だった、「Singspiel」(歌芝居)から取ったもの。ネット上の解説などを読むと、「ジングシュピール」というのは、ドイツの民謡などをベースとした有節歌曲(同じメロディーで違う歌詞を、1番、2番、3番、という感じで歌い継いでいく歌曲)をセリフでつなぎ、おとぎ話や喜劇的な物語を演じていく、ドイツで18世紀に一般的だった大衆娯楽、とのことで、今回の「小鳥売り」は、まさに典型的な「Singspiel」の傑作のひとつ、と言われています。最も有名な「Singspiel」が、モーツァルトの「魔笛」で、パパゲーノの歌なんてのは典型的な有節歌曲ですよね。さらにこれが発展し洗練されたのが、ウェーバーの「魔弾の射手」。このドイツの有節歌曲の伝統は、シューベルトの「冬の旅」や「野ばら」のような有名な有節歌曲にも結実している。

そんな話を、演出家の八木原さんと色々話していた時に、「Singさんが今回演じるヴェプス男爵というのもね、オペレッタに出てくる典型的な人物像だよね」という話になる。

「ウィーンフォルクスオーパなんかではね、『小鳥売り』のヴェプス男爵、『乞食学生』のオルレンドルフ、『ヴェニスの一夜』のデラックアとか、どれも同じバリトン歌手が演じるんだよ。オペレッタに出てくる一つの典型的なキャラクターなんだよね。Singさんのやったことのある役ばっかりでしょ」

実際、今回、ヴェプス男爵、という役をもらって、以前やったことのあるオルレンドルフにすごく似ているなぁ、と思ったりしたんです。でも、「小鳥売り」の登場人物には、他にも、色んな他のオペラの登場人物を彷彿とさせるキャラクターがいる。タイトルロールの「小鳥売り」アーダムのキャラクター造形には、間違いなく魔笛のパパゲーノが影響しているし、何より全体の物語の設定が、「フィガロの結婚」によく似ている。そう考えると、「フィガロの結婚」がさらに成熟と退廃の色を濃くした姿である、リヒャルトシュトラウスの「ばらの騎士」の世界も見え隠れする。「フィガロ」と「ばら」を結ぶ中間的な舞台作品、と言えなくもない。

さらに時を遡ってみたら、欧州の舞台作品の源流に、何かしら「典型的人物像」のようなものがあって、ヴェプス男爵、というのもそのうちの一つなのじゃないかな、なんて考えたりして、このあたりを深く追究してみるのも面白そうだな、と思ったんですね。よく言われる話で、世界の伝説や昔話が、どこかで同じ源流を持っている、という話がある。「三枚のお札」のように、追いかけてくる邪悪なものに3つの呪物を投げることによって逃亡を成功させる物語は世界中に分布していて、「呪的逃走」の物語、と言われる。日本神話とギリシア神話が酷似している、とか、石とバナナのどちらを選ぶ、と言われて、バナナを選んでしまったために、石のような永遠の命を失ってしまう「バナナタイプ」という伝説が世界中に流布していたり。

つまり、欧州の色んな舞台芸術、特に大衆演劇の中で、昔から広く大衆の人気を得ていた「典型的演目」というものがあって、ヴェプスやオルレンドルフというキャラクターは、そういう典型的な演目に登場する人物類型の一つだったんじゃないかな、と想像してみたんです。シェイクスピアの「ファルスタッフ」とか、ひょっとしたら同じ人物類型の中に含まれるのかもしれない。

そう思って色々ネットサーフしてみたら、イタリアの「コメディア・デラルテ」の中に、おなじみのコロンビーナとアルレッキーノアルルカン)のような「ストック・キャラクター」と呼ばれる典型的人物像がいる、という記事を見つけた。その中に、パンタローネ(老商人)という典型がいるんですね。ウィキさんによれば、

「金持ちで、欲深で、色欲旺盛な老商人。男らしさと精力の象徴として大きな股袋(コドピース)を股間に付けている。役柄として、インナモラータの親とされたり、イル・カピターノやイル・ドットーレの友人や商売仲間とされたりすることがある。パンタローネによる商売の計画が召使いザンニによって妨害されるのがお決まりのパターン。」

とのこと。これって結構ヴェプスっぽい気がするなぁ。同じくウィキさんによれば、「コメディア・デラルテ」は古代ローマの「アテルラナ」と呼ばれる大衆喜劇にまで起源が遡れるそうで、この「アテルラナ」は、紀元前390年くらいまでさかのぼれるんだって。21世紀の僕らが演じているキャラクターの後ろに、膨大な時の流れを垣間見る気がして、なんだかワクワクしますよね。

といいつつ、「小鳥売り」は、ドイツっぽいがっちりした構造の難曲が多いんで、紀元前のヨーロッパに想いを馳せる前に、目の前の楽譜を何とかこなすので精いっぱい。一生懸命頑張りますんで、お時間とご興味のある方は、9月30日、練馬文化センターへ是非足をお運びくださいまし!