「密」はケガレを祓うもの

前回のこの日記で、ライブがもたらしてくれる「密」の快感が人間存在そのものに必要不可欠なものなんじゃないのか、「新しい生活様式」という議論の中で、「密」を避ける生活が、人間にとってものすごく大事なものを奪ってしまうのじゃないのか、という話を書きました。今日はその続きで、よく言われる、「ハレ」と「ケ」の話と「マツリ」と「密」の話をつなげてみたいと思います。結論は同じなんですけど、少し視点を変えて。

どなたかが新聞に寄稿されている文章の中で、今回の危機は、都市に集中(密)しすぎた現状から、地方へ人口が均等に分散していくリモート(疎)の時代へ変革していく好機である、という議論をされていて、それはその通りだな、と思った。東京及び首都圏への一極集中が生み出す様々なリスクのうちの一つが顕在化したのが今回のコロナ禍であることは確かで、その方もおっしゃっていたけど、移動手段が限定されていた昔は、多数の人が集まっている「密」の状態というのは一種異常な状況で、分断されたムラ社会がポツンポツンと点在している「疎」の状態が「日常」であり「常態」だったんだよね。

ポストコロナの時代が、密から疎へ、一極集中から分散社会へと変化していくことは、個人的には悪くない流れだと思うし、今のデジタル化技術と発達した物流インフラを組み合わせれば、経済活動をしっかり維持発展させながら人口が国土全体に均等に分散する社会をうまく作り上げることはできるんじゃないかな、とは思います。でも、そんな「昔の日本」に戻ったとしても、定期的な「密」の機会というのは必須なんじゃないかな、と思ったんですね。そして、かつての日本のような「疎」の社会において、定期的に生まれていた「密」の機会こそが、「マツリ」だったのじゃないかと。

日本文化を語る上でよく言われるのが、「ハレ」「ケ」「ケガレ」の概念で、日常生活を表すのが「ケ」。「ケ」は、「気」にも通じるのだけど、少人数の「ムラ」が点在していた「疎」の環境で、日常生活を淡々とすごしていく状態が「ケ」であったとすると、日々を重ねていくうちにだんだん気力が衰えてきたり、なんとなく鬱屈してきたりする。生活を支えるエネルギーになる「気=ケ」が失われる(涸れる)状態=「ケガレ」になる。その「ケガレ」を祓うために「ハレ」の日である「マツリ」を定期的に開催することで、日常を営む「ケ」を取り戻していた。

そして、日本全国、あるいは世界中のどの「マツリ」を見ても、密集した民衆による神輿行列や踊り、つまり「密」の状態が欠かせない。むしろ、「マツリ」における行列や踊りや様々な歌舞音曲などのエンターテイメント自体が、群衆の密集した状態、「密」を生み出すための道具として機能していると言ってもいいかもしれない。つまり、「ハレ」の空間は、ほとんど人の往来のない点在した「ムラ」の「疎」の状態と対局にある「密」の状態を作り出すことによって、はじめて「ケガレ」を祓うことができたのではないのか、と。

それは、前回の日記に書いた、「密」の中で体感できる社会的存在としての一体感であったり、自分の中の生命感の再確認であったりするのだろうし、昔の日本社会では、もっと直接的で、「マツリ」自体が男女の乱交を伴う祝祭の場であって、日ごろは離れて暮らす男女がそこで出会い性交することで近親婚による劣化を避けた、という機能もあったと思います。ポストコロナの時代になり、近現代が指向してきた「都市集中(密)社会」から、「分散(疎)社会」へ変革していこう、というのは否定する気はないのだけど、「疎」が日常化したポストコロナ社会においても、どこかで「密」(ハレ)の機会を維持することを考えないと、社会全体が「ケガレ」てしまい、活力を失ってしまうのじゃないのかなぁ、と。

そして、日本において、その「密」(ハレ)を生み出す「マツリ」の起源は、天照大神が天岩戸にこもることで失われてしまった、世界を支えるエネルギーである「光」(ケ)を、アメノウズメが踊る煽情的なダンスによって取り戻す祭事だと言われます。アメノウズメは芸能の神様。ポストコロナ社会においても、「密」を生み出し支える大切な手段である芸能を維持することは、人間社会を維持していく上で必要なことだし、むしろ、日常的に「密」の中にあった都市集中の時代よりも、その重要性は増していくのじゃないかな、と思います。

 

遊びをせむとや生まれけむ

戯(たはぶ)れせむとや生まれけむ

遊ぶ子供の声聞けば

我が身さへこそゆるがるれ

 

と歌った中世日本の人々は、歌いながら子供達と手を取り抱き合って遊んだのじゃないかと思うんだよね。「密」を捨てちゃいけない、守らなきゃって思うんだ。

「密」は人間にとって必要な「蜜」なのでは

どこまで行くのか底が見えない感じだったコロナ禍ですが、少しずつ光明が見え始めた感じがあって、そろそろ日本各地でも「出口戦略」が語られるようになってきましたね。その中で、「新しい生活様式」なんて話があって、この先2年間くらいは、「3密」を避けるように、という話が出ていて、防護マスクして飲み会やってる映像とか流れてる。それ見た誰かが、「こんなみっともない恰好で酒飲むくらいなら舌噛んで死ぬ」ってツイートしてて、気持ちわかるなぁって思っちゃった。

ベビメタ界隈では、「BABYMETALは誰でも知ってるだろ」という発言で有名なフーファイターズのデイヴ・グロールさんの投稿を紹介した記事がツイッターで流れてきて、そのあまりの熱さに思わず泣きそうになっちゃったんですけどね。

 

rockinon.com

 

この中で一番ぐっと来たのが、ライブという場がどれだけ人間の本質的な欲求に根付いているかを端的に述べているこんな文章でした。

「俺たちは人間だ。俺たちには、自分は1人じゃないんだと知り、不安をかき消す瞬間が必要だ。俺たちは理解し合えるんだと、俺たちは完璧じゃないんだと、そして最も大事なことは、俺たちはお互いを必要としているんだと知り不安をかき消す瞬間が必要なんだ。」

人間というのは社会的な動物で、人とのつながりがないと生きていけない。とはいいながら、そういう人とのつながりを維持することってそれなりにエネルギーが必要だし、本当に理解されているんだろうか、自分は人にとって価値ある存在なんだろうか、という不安から、人とのつながりを断って「引きこもり」になる人も多い。そういう不安を乗り越えて、老若男女が一つになれるのが、音楽を通したライブという空間で、そこで得られた一体感は、「俺たちは一つの場を共有できる、共感できる同じ人間なんだ」という安心感を与えてくれる。

ライブ空間っていう「密集・密閉・密接」の空間ってのは、そういう意味で、大変心地よい空間なんですよ。もっと露骨な言い方しちゃえば、性行為そのものが究極の3密なわけで、その快感は人類と言う種の存続を支えている。3密を避ける「新しい生活様式」というのは、限りなく人類という種そのものの本能に背く生き方で、そういう生活様式が定着した社会っていうのは、長期的に言えば種の存続そのものが危うくなる社会になっちゃうのじゃないのかなぁ、なんて思ったり。

もちろん、「新しい生活様式」自体、コロナ肺炎に対してそれなりに有効な治療薬ができて、インフルエンザよりもちょっと厄介な病気、程度にコントロールできるまでの一時的な生活様式、だとは分かってます。でもね、この「新しい生活様式」という言葉によって失われるものがどんなもので、それを失うリスクと、感染拡大のリスクの比較衡量、というのはちゃんとやった方がいいと思う。単純に、経済活動が再開できればいい、ということじゃなくて、もっと長期的に失われてしまう人と人との絆とか、生物としての生存本能、社会的本能のようなものへの影響とか。

もっといえば、人間って何のために経済活動やってるんだ、という話にもつながったりするんじゃないのかなぁ。仕事が趣味、という方は別として、多くの人が、文化や芸術が与えてくれる娯楽や、その「3密」の充実感を得るために日々の労働に精出してたりするんじゃないか、って思ったりするんですよ。デイヴ・グロールさんの言う、「俺たちはお互いが必要なんだ」と思える瞬間のために働いてるわけで、「新しい生活様式」ってのは、経済活動や労働の「目的」を毀損している気がするんだよね。俺たちは何のために働いているんだ、っていう。

一気に元の世界に戻すべき、と言ってるわけじゃないんですけど、「ライブハウスは3密だからダメ」とか、「合唱は飛沫感染リスク高いからダメ」とか、自分が愛する表現形態が「新しい生活様式」という旗印の下に否定されていくのがものすごく辛いんですよね。それによって失われているものがどれだけ大きいのか、っていうのは、もう少し議論されてもいいのじゃないのかな。例えば親しい人、愛する人とのハグとか、握手といった親愛の情を示す表現すら否定されてしまうと、ものすごく大事なものを失ってしまう気がする。「密」っていうのは、ひょっとしたら人類という種にとって、必要不可欠な心の栄養を与えてくれる「蜜」なのかもしれないんだから。

 

一期一会の「ライブ」でないとダメなんだよ

この日記、3月初めに更新してから全く更新する気が起こらず今日まで2か月放置してしまいました。放置した理由というのはご多聞に漏れず昨今のコロナ自粛で、この日記自体がライブや舞台の感想を中心に綴っていた日記だったから、書くことがなくなっちゃった、というのと、自分自身も多少なり関わっていたこの「ライブ」という存在自体が否定されているような最近の空気感に耐えられなくて、出口が見えない絶望感に何も書く気がなくなってしまった、というのが理由かなぁ。

どなたかがツイッターで、「ジェットコースターが好きな人がジェットコースターの動画見て満足できるわけない。『ライブ』も同じで、『ライブ』は『体験』なんだ」という投稿をされていて、激しく同感。これまでのこの日記で、「一期一会」という言葉でライブ空間を表現したことが何度もあったけど、その日、その時、その場所で、同じ空気を呼吸し、同じ温度を体感し、同じ音の波動を浴びた、という「経験」、一つの「場」を共有した、という体験こそが「ライブ」の醍醐味で、それを奪われた今の状況は、表現する側としても、ファンとして客席にいた側としても、本当に辛いです。

パフォーマー達もそれぞれに苦悩しながら試行錯誤をしていて、LIVE配信は至るところで行われているし、リモートアンサンブル動画、LINELIVE、インスタライブ、YouTube配信などなど、様々なネットツールを駆使して、自分たちの表現の場を確保しようとしている。その中から、実際にビジネスモデルとして生き残っていく表現手段も生まれてくるのかもしれない、とは思います。さくら学院の卒業生の山出愛子さんとか、インターネットサイン会(決まった時間帯にネット経由でグッズを購入した人にサイン入りグッズをお送りします、そのサインしている様子をライブ配信します、という企画)をやっていて、面白い企画だなぁ、って思った。何かというと東京に集中するこの手のイベントに地方から参加できる道を開いた感じですよね。

でもねぇ、やっぱり、ライブは「一期一会」だと思うんだ。表現する側にとっても醍醐味なのは、客席にいるお客様の反応を見ながら自分の表現が変化するコミュニケーションが生み出す興奮で、お客さまの笑い声や拍手のタイミング、もっと言えばお客様の息遣い一つでセリフも曲のテンポ感も変わってくる。お客様の方も自分の掛け声や拍手で演者が乗ってくる感じを楽しんでる。複数日公演なんかだと「今日のお客様は昨日のお客様よりノリがいいなぁ」なんて会話を演者の間でしょっちゅうする。それって要するに、ライブって演者とお客様が一体になって作るエンターテイメントで、ネットや電波を経由して一方的に提供される一方向のエンターテイメントじゃないってことなんだよね。

私も自分の過去の舞台をYou Tubeで配信したりし始めましたけど、それはあくまで、近い将来再開されるであろう実際のライブ舞台へお客様を誘うためのツール、と思ってやってます。過去のライブ舞台の記憶を呼び起こしてもらって、またあの空間を一緒に楽しみたいなぁ、と思ってもらうためのもの。誰かが、色んなライブ配信が増えているのを見て、「これで実際の舞台に行かなくてもいいや、と思われると困る」と言ってたけど、ライブってそんなに簡単に他のものにとって代われるものじゃないと思うんだよなぁ。その時にしか見られない演者の瞬間を共有できる喜びと、その場を共に作っていく興奮。

自分がBABYMETALやさくら学院の沼にハマったのも、このグループが「その時にしか見せない姿」を見せてくれるグループだからなんだよね。特にさくら学院なんか、毎年中学三年生の最上級生が卒業して、転入生が入ってくることで全く異なるグループになってしまう。その時その瞬間にしか、そのグループは存在しない。そうでありながら同じ「さくら学院」というグループであり続ける、テセウスの船みたいな存在である所に、ものすごく魅力があって、この春の「さくら学院」はこの春にしか見られないんです。来年の春にはこのグループは違うグループになってしまう。BABYMETALにもそういう儚さがあって、この儚さって、日本のアイドルグループが大なり小なり共有している性格で、日本のアイドル文化がここまで大きな産業になったのも、彼ら彼女らが燃やす「今」という瞬間を共有できる喜びが大きな原動力だと思う。

だからこそ、このコロナ禍で、「ライブ」という文化そのものが失われそうになっているのが悔しくて仕方ないんだよね。アイドルグループだけじゃない、五輪や甲子園、インターハイを目指していたスポーツマンもそうだけど、この災厄は、そういう若い人たちの「今しかない」この時間を一日一日奪い続けているんだよなぁ。

「ライブ」という表現が、かつてのような熱気と汗と呼吸を共有する熱い場に戻るまで、多分数年の時間を必要とするかもしれません。でも、少ない観客でもいい、その場、その空気をお客様と共にできる時間が戻ってくることを信じて、ライブを続けてきた人間として、今できる発信を続けていくしかないし、若い表現者のために、できるだけの応援をしてあげないと、って思います。諦めてたまるか。

ショウビジネスの歴史とカールマン作品

先日ガレリア座で上演したカールマンのオペレッタ「サーカスの女王」、すごくよく似た彼の代表作「チャルダッシュの女王」と同様、テーマになっているのが、いわゆる「芸人」と貴族の身分違いの恋。そこでふっと思ったんですが、「身分違いの恋」というのをテーマにしたオペラって、あの「椿姫」とかそれなりにあるけど、「芸人」という職業にスポットを当てた作品ってあんまり聞かないなぁ、と思ったんですね。「芸人」=身分が低い卑しい職業、というレッテルを越えて、真実の愛を貫こうする物語。さて、ここからは、例によって暴走気味の浅薄な衒学的文章が続きます。最初にお断りしておきますが、平に平にご容赦のほどを。

エメリッヒ・カールマン(1882年~1953年)は、その生没年を見ても、19世紀末から20世紀末の時代の混沌を、ハンガリー生まれのユダヤ人というマージナルな立場で生き抜いた方。それもあってか、彼の音楽は、故郷のハンガリーの民族色を色濃く残しながらも、作品によってウィーンやパリ、ロシアやアメリカの色を加える、という多国籍音楽の様相を呈していて、そういうグローバリズム、とりわけアメリカ音楽への傾倒、そしてユダヤ人という出自から、ナチスドイツ時代に「退廃音楽」のレッテルを貼られたりもした音楽家です。

逆に言えば、彼の音楽には、どこかしら「根無し草」のような無国籍感があって、それが彼を、故郷を持たず世界中を流浪する「旅芸人」という存在に結び付けたのかもな、なんて思ったりする。「チャールダッシュの女王」のヒロイン、シルヴァ、「サーカスの女王」の主人公、ミスターXことフェージャは、共にショウビジネスの世界に身を置いて世界を流浪する故郷を持たない(あるいは故郷を捨てた)存在で、そんな彼らへのシンパシーが、カールマン自身の「ハンガリー出身でウィーンで活躍するユダヤ人」という国境を越えたアイデンティティから生まれていたとしても不思議ではないと思います。

でもここでちょっと面白いなぁ、と思うのは、シルヴァにせよミスターXにせよ、「キャバレーの歌姫」「サーカス」というショウビジネスの世界に身を置いていて、これが当時の貴族社会から見ると、非常に「卑しい」職業として規定されていることなんだよね。「サーカスの女王」では明確に、元貴族だったフェージャが、貴族の地位を自ら捨てて「身を落とす」先として、「サーカス」が位置付けられている。カールマンの数々のオペレッタに共通する大きなテーマが、身分や国境、文化といった境界が時代と共に混然としていく中で、唯一信じられる人と人との真情、なのだけど、時代と共に破壊される「貴族」という旧来の価値に対比する「卑しい立場」の職業として、「歌姫」「サーカス芸人」というショウビジネスが対比されるところが面白いな、と。

ショウビジネスを「卑しい職業」として蔑視する見方というのは日本でもかつて存在していて、「河原乞食」という言葉が私の子供の頃まではまだ生きていた。土地に定住して一定の収入を得る百姓や武士の生き方を最も「真っ当な」生き方として定める士農工商の封建時代的職業道徳感は、「会社」という疑似的な「土地」から一定の収穫(給与)を得るサラリーマンの生き方を社会的に高い位置に押し上げ、そういった組織から収入を得ないショウビジネスを一段低い地位に置いたし、その感覚って、今でも多少なり現代日本の職業価値観に繋がっている気はする。ショウビジネス含めたソフト産業に社会の富が移行すると共に、ショウビジネスに関わる人たちの社会的地位が上昇してきて現在に至るわけだけど、カールマンの時代というのはそういう「ショウビジネスの地位向上」の端緒にあたっていた時代だったのかもなぁ、と。

一方で、サーカス芸人などの漂泊の民を、土地という束縛から逃れた自由な民として一種神聖化するような視点もある気がする。欧州の様々な芸術作品に現れる、ジプシーを聖的な存在として見る視点に共通する、漂泊民への畏怖のような視点。そういう視点って、例えばレイ・ブラッドベリが自らの作品の重要な道具立ての一つとして「サーカス」に執着したこととか、フェデリコ・フェリーニが「サーカス」というモチーフを生涯通して愛したことともつながる気がするんですよね。割と最近の映画である「Big」で、少年が大人になる謎の機械に出会う遊園地にも、現実世界と異なる「サーカス」に共通する存在感がある気がするし、「サーカス」の大人気キャラであるピエロが恐怖をあおるスティーブン・キングの「IT」や、最近大ヒットした映画「ジョーカー」も、「サーカス」というショウ自体の持つ非現実感とファンタジーが源泉になっている気はする。

こういう漂泊の民を、既定の制度の枠に囚われない自由な民として位置付けて日本史に別の視点を提供したのが網野義彦先生で、彼の歴史観に大きく影響されたのが、「花の慶次」の原作者の隆慶一郎さん、というのは割と知られた話なんだけど、さまざまな束縛から自由な漂泊の民を一種の聖なる民として畏敬の念を持って見る、というのは東西共通なのかもしれないですね。そう思って見ると、「サーカスの女王」という作品は、貴族であったフェージャがサーカスの芸人に「身を落とす」物語、というより、そこでいったん既定の価値観から自由になり、ただの「ヒト」として一人の女性を愛するようになる物語、とも言えて、ある意味一種の「貴種流離譚」とも言えるかもしれない。

もう一つ、「サーカス」の歴史とかを調べていて、これは面白いなぁ、と思ったのは、現在に続くいわゆる「近代サーカス」の原点って意外と最近で、1768年に英国で退役軍人のフィリップ・アストリーというひとが始めた円形劇場での曲馬ショウだったんですって。「サーカスの女王」の主人公のミスターXは、「ロンドンから来た」という触れ込みで、だから彼は「ミスターX」という英語の芸名を持っているのだけど、これってサーカスの本場である英国から来ました、という意味だったんだね。他の主要人物も、ウィーン娘なのに「イギリス人」と名乗っていたりする理由がやっと分かりました。

おお、やはり想像通り、全くオチのない思いつきだらだら並べただけの文章になってしまった。「サーカス」もそうですけど、ショウビジネスの歴史っていうのも掘り下げるとすごく面白いなぁ、と思うんですよね。私の関わっているオペレッタというのは、19世紀半ばにパリでオッフェンバックが始めたものですけど、その源流にはやはりパリで生まれたヴォードビルとかバーレスクがあるし、バーレスクは米国に渡ってストリップ入りのショウになり、またショウビジネスが一種の「猥雑さ」を身にまとう要因になったりする。こういうショウビジネスの進化樹をたどっていくのって面白いなぁって思うんです。

ありともりを尊ぶ

今回はさくら学院ネタです。興味のない方はここでご退出下さいませ。ヲタネタ多くてすみませんねぇ。

さくら学院の歴代のトーク委員長が本当に好きで、リアルタイムで見てなかったはずの初代杉崎寧々さんから、野津友那乃さん、白井沙樹さん、黒澤美澪奈さん(MC委員長)、岡田愛さん、麻生真彩さん、と、どの方をとってもいいなぁって思ってしまう。何がいいんだろうなって思うと、それぞれが抱えているコンプレックスや挫折感を乗り越えていこうとする姿にドラマ感じちゃう部分なんだよね。そういうドラマがある意味頂点に達したのが2018年度の麻生さんで、夢見ていた生徒会長になれなかった挫折感を抱えて、でもこの年度のエースとしてパフォーマンスを引っ張って数々の伝説を残したその姿に、これからも麻生さん推し父兄として生きていくことを誓ったのは私だけじゃなかったと思う。

そういう意味で言うと、2019年度のトーク委員長森萌々穂さん、という人には、当初、挫折感やコンプレックス、それを乗り越える葛藤、といったドラマを感じる余地が余りない第一印象があった。頭もよくて社交性もあり、パフォーマンスのレベルも高くて、リーダーシップもあるお姫様。確かに就任の時に、「森の乱」というドラマはあったんだけど、その後はある意味、敏腕トーク委員長として、2019年度の裏番として、今年度のさくら学院を引っ張る安定感のある存在だったのは確か。

でも、さくら学院という「ショウビジネスを目指す少女たちの成長を見せる」場所は、色んな機会をとらえて、一人一人のメンバーが抱えている葛藤や一筋縄ではいかない揺れ動く感情の裏面をちらちらと見せてくれる。freshの仕切りがうまくできなくて森さんが号泣した回が象徴的だったりしたのだけど、森さんのそつのなさとか、当意即妙の対応、ぶりっ子キャラといった彼女の持つスキルが、自分自身の中の弱さとか自信のなさを覆い隠して、外界と戦うための武器として機能しているように見える瞬間が結構あって、そういう瞬間を見るたびに、この人の魅力がどんどん増していった。森さんの一年間の、自分自身との闘いと、自分に向けられる外からの視線との闘い、という物語が、2019年度のさくらの中に沢山あった物語の中でも、一つの大きな魅力的なStoryだった気がするんです。

生放送やライブ舞台しか見ていないで、あまりメンバーの個人的な心理や性格を想像するのはよくないとは思うのだけど、森さんという人は意外と、表に見えているほど社交的な性格じゃなくて、実は人見知りで警戒心の強い所がある気がするんだよね。自分の心を開くのが苦手なんだけど、そういう心を鎧うためのそつのなさと社交性を演じる頭の良さも持っている、でも本当は凄く繊細で、傷つきやすい小動物のような本音がちらっと見える瞬間がある気がするんですよ。

そういうツンデレ感が見えてくると、もう森さんの姿から目が離せなくなってくる。外界との折り合いを必死につけているような緊張感が、外に向かって激しい攻撃的なパフォーマンスになって表れた時の、硬質で研ぎ澄まされた印象に心ぎゅっとつかまれる気がする。アオハル白書やLet's Danceの森さんのパフォーマンスには、なんだか痛々しさすら感じるくらいのヒリヒリする切迫感があって、この人の持つそういう緊張感が、2019年度のさくらのパフォーマンスを一つ違う次元に高めている気がするんです。

そんな森さんが、外界との戦いのパートナーに選んだのが、やっぱり同じように人見知りで引っ込み思案な有友さんだ、という所が、ありともりのコンビを神聖化する要因だったりするんだな。超絶美人で万能型のパフォーマーなのに、内向的で他人への気配りが強すぎて今一つ一歩前に出られない有友さん。そんな有友さんが前に出ていくための勇気を与えている森さんのパッションと、森さんの心の支えになっている有友さんの優しさが、この二人の人見知りさん達を他のコンビとは違うもっと深い絆で結んでいるように見えちゃうんだよね。

繰り返しになりますけど、ここに書いたことは、彼女達が我々父兄に見せる本当にわずかな表情や言葉だけで広げた妄想に過ぎません。ご本人たちが見たら、キモいドルヲタの戯言にしか見えないかもしれないんだけど、こういう妄想や勝手な物語がどんどん膨らんでしまうのが、このさくら学院というグループの魅力、というか魔力なんですよね・・・

Wagner Society Orchestra福岡公演に遠征してきました

世の中がコロナ騒動でカオスと化す前に、娘が所属している慶應ワグネル・ソサイエティ・オーケストラの演奏旅行が開始するという。京都、福岡、とめぐって、演奏旅行の締めくくりが、2月29日のサントリーホールでの演奏になる、というのだけど、

「その日はパパは無理だなぁ。翌日、合唱団のアンサンブルコンテストがあって、29日はその直前練習なんだよ」

「えー、せっかくメインに乗ることになったのにー。マーラー10番、聞いてほしい」

というやりとりの果てに、「じゃあ演奏旅行先の福岡に来なさい!」と言われて、お、それもいいな、と思い立ってしまいました。会社に有給を願い出て、1日半の福岡弾丸旅行。考えてみれば、こういう遠征旅行は、BABYMETALで大阪とか神戸に行った以来。推しゴトと一緒にするな、と言われそうだけど、まぁ娘ってのは父親にとってアイドルみたいなもんですからね。ということで行ってまいりました、2月19日のWagner Society Orchestra福岡公演の推しゴト。

でもその後のコロナ騒動で、2月29日のサントリーホールの演奏会は延期になり、私の合唱団のアンサンブルコンテストも出場辞退となって、この週末に至ります。そう考えると、この福岡でのマーラーを聴けたのはまずはラッキーでした。

行くのを決めたのが1か月ほど前だったんですが、最近って国内の飛行機チケット安いんですねぇ。1か月前くらいに予約すると、往復でも3万円台で福岡まで行けちゃう。そして中洲のカプセルホテルを予約したんだけど、これが3000円くらいで泊まれて、大浴場とか充実していてすごく快適。今後の推しゴトの参考になるなぁ、と思いながら予約。

実を言えば、福岡空港には仕事で結構立ち寄ることが多いんですが、福岡空港を経由して博多に出てしまうことがほとんどで、福岡市内を歩いたのはこれが初めて。コンサートのあるアクロス福岡 シンフォニーホールは、天神駅と直結している商業施設の中にあるホール。内装がとにかく美しくて、特にシャンデリアが、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場シャンパンシャンデリアそっくりのきらびやかさ。

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素敵なホールでした。

オーケストラの門外漢である自分が演奏について色々感想をいうのはおこがましいとは思うんですが、ウェーバー「魔弾の射手」序曲という鉄板の前奏から、リムスキー・コルサコフの「スペイン奇想曲」という前プログラムの2曲はとても気持ちよく聞けてよかったです。メインがなにせマーラーなので、初心者でも楽しめるものを、という選択だったのかもしれませんが、個人的にも、以前ガレリア座で全幕演奏をしたことのある「魔弾の射手」はなじみがありましたし、リムスキー・コルサコフも、一部「シェーラザード」そっくりの旋律が出てきたりして、軽やかでメロディックな素敵な曲だなぁ、と思いました。

ワグネルは日本のアマチュアオーケストラのトップクラスに入るオケなので、そういう曲の魅力や感動をしっかり伝えることができる技量のあるオケ、だと思います。演奏技術にムラがないわけではないけど、それでも楽曲の本質とか全体の流れをきちんと押さえた演奏を聞かせてくれる。

メインで演奏されたマーラーの10番は、ほとんど狂気と紙一重のような躁鬱状態マーラーが、自分の頭の中に鳴り響く音楽をスケッチに書きなぐっているような、混沌とした印象が強くて、「ちゃんと予習しておいてね!」と言われて事前に色んな録音聞いたり、解説読んだりしたんですけど、なんかピンとこなかった。でも、このワグネルの福岡の演奏では、特に第五楽章でなんか泣けてきちゃった。殉職消防士の葬送の太鼓の音、と言われる大太鼓の音が鳴り響いた後、長いフルートのソロ(絶品でした)にわし掴みにされた心の琴線を、これでもか、とばかりに何度もなぞっていく弦のさざ波のような響きが続く。安らかで平穏な境地を描いているようにも聞こえる甘美な響きなのだけど、いつまでも静かな安寧の境地にたどり着けない者の、平穏への希求の叫びや嘆きのようにも聞こえてくる。

コロナ騒動で色んなところでパニックになっていて、各種イベントや演奏会が次々中止になってます。まさに混沌と混乱。こんな状況下では、音楽には何の力もない、と言った人がいて、確かにその通りかも、とは思うんですけど、この演奏会のマーラー10番を聞いたことって、どこかで私の心の栄養になっている気がするんですよね。音楽って、危機を変える力は持たないかもしれないけど、でも、危機の中を生きようとする人の力や支えにはなるんじゃないのかなぁ。

演奏を聴いたあと、中洲の居酒屋で長浜ラーメンをいただきました。本場の長浜ラーメンって全然しつこくなくってあっさりしてるんですね。翌朝少し時間があったので、一度行ってみたかったガメラとギャオスの初戦場になった福岡ドームにも足を延ばしてみる。海辺にある地方都市って、やっぱり楽しいなぁ。

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美味しかった!

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一度来たかったんです。新しいビルが建っていて、ガメラの場所がなくなってた泣

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また行きます!

 

パフォーマンスにおける「笑い」あるいは「諧謔」のパワー

最近あんまりBABYMETALやさくら学院のことをこの日記に書いてなかったんですが、久しぶりに。最近の彼らのパフォーマンスを見てちょっと思ったことを。

先日のBABYMETAL幕張2Daysで、初めてライブ披露された「Oh! MAJINAI」と「BxMxC」が、欧米も巻き込んで無茶苦茶盛り上がっているみたいですね。前者はSABATONのボーカリスト Joakim Brodénが増殖してコサックダンスを踊るインパクトMAXの映像、後者は巨大なフォントの漢字がスクリーンに踊る映像をバックにすぅさんが聞かせるラップの完成度の高さが話題なんだけど、両者に共通するのは、なんだか笑えるユーモアあふれるパフォーマンスになっている所のような気がしています。

自分的には、以前のBABYMETALのパフォーマンスですごく好きだったのが、そこかしこに溢れるユーモアだったんですよ。TOKYO DOMEの冒頭に流れたシンゴジラのパロディ映像もそうだし、「ド・キ・ド・キ☆モーニング」「いいね!」「おねだり大作戦」みたいなユーモアとキュートさが前面に押し出された楽曲はもとより、代表曲の「イジメ、ダメ、ゼッタイ」や「ギミチョコ!」にしても、ゆいもあのスクリームパートに現れるちょっと笑えるフレーズが曲にキュートさを加えていて、それが逆に、曲の持っている真っ直ぐなメッセージを胸にじわっと届けてくれるような感覚があって、この人たちは確信的にこういうことをやってるな、と思ってたんです。

「笑い」あるいは「諧謔」というのは、既成概念や時代の束縛を破壊するパワーを持っていて、それは世紀末パリを席巻したオッフェンバックが自作のオペレッタで、当時の最高権力者であるナポレオン三世を徹底的に戯画化して笑い飛ばした頃から変わらない。既存勢力が目くじら立ててくれば、「だんな、洒落ですよ洒落。洒落が分からないとはだんなも無粋だねぇ」なんて笑いに紛らせてごまかしてしまう。でも、その笑いの裏にあるメッセージ性の強さや、音楽に対する真摯な姿勢や課題認識は、確実に既成概念を破壊し、次の時代を開く力になっていく。

BABYMETALがMETALの既成概念を突破した要因は沢山あると思うんですけど、その中の一つに、この「諧謔性」「ユーモア」、という要因もあったんじゃないかな、と思うんです。本気のMETALサウンドと、三姫のアイドル性をつなぐ接着剤としても、この「ユーモア」という要素はすごく重要な役割を果たしていた気がする。その「ユーモア」がちょっと後退してしまって、もっとシリアスな、未来へ前進する強い意思のようなものが前面に出てきていたのがDARK SIDE時代で、あの頃のパフォーマンスにはどこか、ユーモアや笑いが入り込む余裕がなくて、もっと切羽詰まった緊張感と、それが生み出すパワーに満ちていた気がします。「Elevater Girl」には若干そういう諧謔性が現れているんだけど、DARK SIDE時代にはこの楽曲も非常にパワフルな楽曲としてパフォーマンスされていた気がします。

METAL GALAXYが投下されて以降、その代表作になる「PA PA YA!!」あたりから、ちょっと以前のユーモアが垣間見えるようになってきて、それがある意味爆発したのが「Oh! MAJINAI」だった気がするんですよね。METAL GALAXY発表後のインタビューで、すぅさんが、「一番好きな曲は?」と聞かれていて「Oh! MAJINAI」と答えていて、この人はこの曲の破壊力と、この曲が持っているMETALとIDOLとユーモアのバランスの良さが分かってたのかなぁ、と思う。

そういう意味でも、Avengersシステムを取り入れた最近のBABYMETALのパフォーマンスには好感度が高いんですが、一方で、彼らの出身母体のさくら学院が、非常にロック色の強いカッコイイ楽曲に傾斜しつつあるのが面白いなぁって思って見ています。昔のさくら学院には、「賢くなれるシリーズ」という、中学校の授業内容を楽曲に仕立てたアイドルらしいキュートでユーモアあふれる楽曲があったのだけど、2016年度の「メロディック ソルフェージュ」を最後に、作られなくなってしまった。以降、2016年度の「アイデンティティ」、2017年度の「My Road」、2018年度の「Carry On」、そして2019年度の「アオハル白書」と、さくら学院の新曲は急速に彼女たちの世代の葛藤や時代を反映したメッセージ性の強いロックチューンが中心になってきている。2018年の「Fairy Tale」や、2019年の「Merry Xmas to You」のようなキュートな楽曲やラブソングもあるけれど、ユーモアやパロディ感覚のようなものはかなり後退してしまっている。特に2019年のさくら学院は、KANO-METALでもある藤平華乃さんのパワーあふれるキャラと、裏番ともいえるオピニョンリーダの森萌々穂さんのパッションに牽引されて、ライブのパフォーマンスも無茶苦茶カッコいいロックなパワーが溢れているんだよね。

ただ、個人的には、BABYMETALが「笑い」「諧謔」を取り戻してステージの魅力が多層化したみたいに、さくら学院にも、かつてのユーモアの要素も少し残しておいてほしい気はするんですけどね。「賢くなれるシリーズ」はどれも名曲が多かったし。2019年度のさくら学院のカッコよさには心底シビれるんだけど、「Wonderful Journey」や「ご機嫌!Mr.トロピカロリー」を復活させてくれたり、一種の「賢くなれるシリーズ」ともいえる美術部の「C'est la vie」が発表されたりした2018年度のテイストも、どこかで残しておいてほしいなぁ、なんて思います。