歌に対するコンセンサス

この三連休の間に伺った二つの演奏会の感想文を。歌に対するコンセンサス、というか、共通認識、のようなものが、演奏のクオリティや聴衆の反応を左右する、というのをちょっと感じた演奏会でした。まずは、7月13日にトッパン・ホールで開催された、「山田武彦と東京室内歌劇場 Vol.4」から。

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終演後の全員写真を、出演者の女房からもらいました。

東京室内歌劇場の実力派歌手たちが揃い、山田武彦先生の編曲とピアノに合わせて、日本歌曲やオペラ、歌謡曲を歌う、というこの企画。圧巻は第二部の、「歌謡曲でほぼ日本縦断 そして寄り道」というパート。演奏された曲を並べてみますが、これをクラシック歌手ががっつりしたベルカントで歌う様子を想像しただけでワクワクしません?

 

知床旅情

イヨマンテの夜

柿の木坂の家

青い背広で

黄昏のビギン

愛燦々

蘇州夜曲

南の花嫁さん

古城

ふたりの大阪

こいさんのラブコール

宗右衛門町ブルース

長崎の鐘

 

聴衆の皆さんの年齢層が結構高かったこともあり、演奏の途中に客席から鼻歌が聞こえてきたり、お客様の心の真ん中にしっかり直球で届いた感じ。昭和歌謡をクラシック歌手ががっつり歌う、というのは、田中知子さんの「シャンソン・フランセーズ」にもある企画なんですけど、昭和歌謡が声楽的にもしっかり作られていることが改めて分かります。さらに、それを彩る山田武彦先生の自在なピアノと華やかな編曲もあいまって、昭和歌謡の新たな魅力を再発見した気分になりました。

面白かったのは、一つの曲に対して、会場全体が一種の「コンセンサス」のようなものを共有している感じがしたこと。知床旅情、という曲に対して、お客様の一人一人がそれぞれの個人史の中で色んな印象や感想を持っているのだろうけど、森繁久彌さんのあの歌い口ととぼけたキャラクター、あるいは、加藤登紀子さんの力の抜けた歌唱を、お客様のほとんどが知っている。そういう「コンセンサス」、もっと単純に言えば、「この曲知ってるわ」という気持ちが共有されているところに、綺麗なドレスを着たソプラノ歌手がベルカントでこの曲を歌うと、「あら、こうして聞いても、やっぱりこの曲、いい曲よねぇ」という、ちょっと別のステージから生まれる感動や発見がある。ポップスの世界でも、名曲のカバー、というのがありますけど、それを一期一会のライブ会場の生演奏で聴くと、余計に心身に沁みる感覚があります。「コンセンサス」を崩すことによって生まれる化学反応、とでも言うか。

そういう意味では、若干中途半端かな、と思ったのが、第一部の後半に演奏されたオペラ・オペレッタのアリアパートで、確かに演奏会の「品格」みたいなものを保つにはこういう本格的なクラシック曲もあっていいのだけど、客席側に少し「背筋を伸ばして」聞かないといけないかな、というような、ちょっと固い空気感が流れちゃったかな、という気がしました。同じオペラでも、山田武彦さんが手がけている浅草オペラのシリーズみたいに、それこそ、オペラと言うものに対する既成概念、一種の「コンセンサス」を崩してしまうようなアプローチであれば、全体の統一感もあったのかもしれないんですが。そういう意味では、カルメンの「ハバネラ」を客席でサービス精神たっぷりに歌った田辺いづみさんや、レハールの「メリーウィドウワルツ」をちょっとした小芝居でチャーミングに演じた吉田伸昭さん、大津佐知子のコンビは、山田先生流の遊び心あるパフォーマンスで、空気を和らげてくれました。しかし、「メリーウィドウワルツ」の小芝居は、本番直前に吉田さんが思いついてその場でアドリブで作った、という話を聞いて驚くやら呆れるやら。本当に自在な方。山田先生、吉田先生初め、共演者の皆様、女房が大変お世話になりました。昭和歌謡や日本のメロディーの魅力を、色彩豊かに届ける演奏会、次回が本当に楽しみです。

 

さて、もう一つの演奏会は、15日に新宿文化センターで開催された、大久保混声合唱団の第42回定期演奏会。女房が元団員で団内指揮者だったご縁で、私も何度か舞台の裏方をお手伝いさせていただいたこともある、伝統ある合唱団。昔古巣にしていた新宿文化センターに戻ってきて、しかも、辻秀幸先生が顧問としてバッハを振るという。これは聞かねば、と女房と新宿文化センター目指して出かける。

ところが、調布まで来たところで、京王線が人身事故で止まっちゃった。調布からタクシーで三鷹まで出て、なんて大回りを強いられて、第三ステージになんとか間に合いました。今麗鳴でやってる作品を作曲した横山潤子さんの編曲作品、聞きたかったんだけどなぁ。

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プログラムはこんな感じ。来年はオリンピックの真っただ中に、紀尾井ホールなんですね!

なんとか間に合った、第三ステージの「いのち」は、作曲家がピアニスト、ということもあって、ピアノ伴奏がキラキラしていて、ピアニストの村田智佳子さんの音色が本当に綺麗だった。演奏としては、少し全体の想いがまとまり切れていない、ちょっとあふれる思いが強すぎて、それこそ「コンセンサス」が得られていない感じがちょっとした。こちらの演奏会で感じたのも、「コンセンサス」という単語だったんですけど、それはどちらかというと、合唱団全体が作品に対する「コンセンサス」を共有している瞬間に、ふっと立ち昇る調和とか、会場全体を包み込む声の色のようなもので、第四ステージのバッハの演奏では、辻先生の職人芸的な指揮もあってか、がっちりした一体感を感じる瞬間が何度もありました。

一番そういう「コンセンサス」を感じたのは、アンコールで歌われたバッハのコラールと、「わたりどり」。特に「わたりどり」は、大久保混声がずっとアンコールピースとして歌い継いできた曲で、「この曲はこう歌う」という「コンセンサス」を団員全員が共有している感じがすごくしました。それを保守的、と言って嫌う人もいるかもしれないんだけど、数々の名演奏を世に送り出して、「この曲はこう歌うんだ」というスタンダードを作り続けてきた大久保混声だからこそ、確信を持って歌える歌い口のようなものがある。それが合唱団のサウンド、というか、受け継がれていく音色のようなものなんじゃないかな、と思います。メンバーはずいぶん入れ替わっても、何となく変わらない人間味あふれる声、やっぱりいい合唱団だなぁ、と思いました。大久保混声の皆様、素敵な時間をありがとうございました。

全く色合いの違う二つの演奏会を、「コンセンサス」という単語でまとめてみましたが、若干強引だったかな。でも、一つの言葉、一つの音を、複数の人たちが同じ思いを持って、「コンセンサス」を持って歌う時のパワーや魅力も捨てがたいし、一方で、ちょっとそれを崩すことで生まれる新しい魅力やというのも捨てがたいなぁ、と思った、充実の三連休でした。

パフォーマンスでコスパは大事っすよね

最近話題で、我が家でも申し込んでいた東京五輪のチケット、開会式などのプラチナチケットは当然のように全敗する中で、ご近所の味の素スタジアムで開催される「近代五種」なる競技が当選いたしました。当選するまでは全くどんな競技が知らなかったこの競技、とにかくご近所開催、というのと、チケットの安さで申し込んでみたんですが、当選してみれば俄然興味が湧く「にわかファン」。聞けば、東京五輪のプレ大会、ということで、味の素スタジアムの隣の、武蔵野の森スポーツプラザで、週末にワールドカップが開催されると言う。これは行かねば「にわかファン」の名が廃る、と言うことで行ってきました。

 

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馬術〜。さすがJRA協賛〜。

 

さて、初めて見た「近代五種」競技、これが結構面白かったんですよ。サポートしている日清食品が、「キング・オブ・マイナースポーツ」、という自虐ネタサイトを展開するくらい、なんでこの競技を組み合わせた、というスポーツなんですけどね。水泳+フェンシング+馬術+ラン+射撃。なんじゃそりゃ。

www.nissin-kingo.jp

なんじゃそりゃ、と言いつつ、面白かった、という一つの要因は、圧倒的なコストパフォーマンス。東京五輪のチケット代は一人4000円ですよ。それで5つの競技が一日で楽しめる。で意外と、それぞれの競技の魅力がダイジェストで楽しめたりするんです。今回集中的に見たのは、フェンシングと馬術だったのだけど、フェンシングも結構個々の選手の駆け引きがあって楽しかったし、極めつけは馬術。馬の能力をいかに最大限引き出すか、という騎手のテクニックもそうだけど、単純に馬が綺麗で可愛いんですよね。選手を応援しているはずなのに、いつのまにか、馬を応援している。考えてみれば、五輪で、ヒト以外の生物が競技に参加するのって、馬術しかないよな。鷹狩りとか五輪競技になったら別だが。

で、今日の日記の主題にいきなりジャンプ。先週日曜日にせんがわ劇場で開催された、うちの女房が参加している「万年筆女子会コンサート」ですよ。万年筆好きのオペラ歌手五人が集まったというこのコンサート、近代五種とどう結びつくんだ、といえば、これも圧倒的なコストパフォーマンス、というか、お得感が共通しているんだよね。

 

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なぜ木魚、と問うなかれ。

 

東京室内歌劇場の実力派歌手がそろって、それぞれに自分の個性を発揮できる滅多に聞けないソロ曲と高度なアンサンブルを聞かせてくれるこのシリーズ。今回も、ヒンデミットあり、スペイン民謡あり、メノッティあり、と、中々他では聞けない魅力的な歌曲が一杯。ドヴォルザークロッシーニ、という選曲は多少メジャーかもしれないけど、それでもチェコ語と、「ランスへの旅」だもんね。こういうマイナーな曲がいっぱい聞けるだけで、お得感半端ない。

さらにこのグループの特徴が、以前の演奏会の感想でも繰り返し言っているけど、アンサンブルの見事さなんです。「ずいずいずっころばし」「村の鍛冶屋」などの耳慣れた童謡を聞かせてくれるのだけど、どれも一筋縄ではいかないアレンジばかり。信長貴富アレンジの「一週間」などは、時空がねじれるような怪しいアレンジで、「信じてください、私たちの音はあっています(はずです)」という田辺いづみさんのコメントを受けて、耳慣れた旋律が怪しく捩れるたびに客席も思わずクスクス反応してしまう。そういう難易度の高いアンサンブルを仕上げてくる妥協のなさも、このグループの魅力。

 

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アンコールは木魚その他の鳴り物やらオブリガード、挙句にエグザエルダンス入りのサンバ「ショジョジ」。やり切らなきゃ面白くない所をガッツリやり切ってブラボー。

 

こういう色んな曲を集めたコンサートって、普通にやると、日頃歌い慣れているレパートリーを安易に並べてしまいがちになると思うんです。ソプラノ歌手が集まって演奏会、なんてなると、誰かが必ず「私のお父さん」とか「そはかの人か」とか歌うし、メゾがいれば「ハバネラ」、男性歌手もいればアンサンブルは必ず「こうもり」か「椿姫」の乾杯の歌、なんて演奏会いっぱいある。そういう演奏会に限って、アンサンブルは当日の朝二、三回通して終わり、って感じだから、アンサンブルの質がすごく低かったりする。選曲って、演者の知性と飽くなき向上心と聴衆の側に立った想像力が如実に表れちゃうんだよね。そういう意味で、「万年筆女子会」の選曲はいつも何かしら攻めてくる挑戦があり、聴衆の目線に立ったサービス精神があって、それがこの演奏会シリーズの圧倒的な「おトク感」につながっているんだと思います。

そういう歌い手の攻めの姿勢を変幻自在の安定感で支える田中知子さんのピアノが素晴らしい。帰り道、「本当に色んな曲を弾きましたねぇ」と声をかけたら、「もうねぇ、今までの貯金で年金生活したいのに、まだ新しいことやらされるのよ」と、嬉しそうに愚痴をこぼしてらっしゃる、そのお姿が可愛いッス!

女房が歌ったメノッティの「領事」の「Papers aria」。聞いたのは二度目でしたけど、何度聞いても、終盤に世界がいきなり普遍的な祈りのステージに駆け上がる箇所で涙が出ます。こういうあまり知らない名曲の魅力に触れられるのが、このシリーズの醍醐味。紙を使った演出含め、素晴らしいパフォーマンスでしたよ。

今回、第一回演奏会に続いて、字幕スライドの製作と映写でお手伝いしましたが、字幕一つ取っても歌い手のこだわりがあって、イラストや写真選びから改ページのタイミングまで、歌の世界を壊していないかを常に気にしながらの製作でした。映写タイミング含め、大きなミスはなかったかな、と思いますが、何かやらかしてたらごめんなさいね。田辺さんのソロの蚊の羽音のくだりとか、女房の「Papers aria」の緊迫するシーンとかは、なんだか歌い手さんとの阿吽の呼吸が楽しめて面白かったです。

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憧れのせんがわ劇場の調光室に入れて感激!東京室内歌劇場のスタッフの皆様、せんがわ劇場のスタッフの皆さん、サポートありがとうございました。これを読んだ皆様、もしお時間とご興味があれば、万年筆女子会コンサートに是非足をお運びください。ホントに、得した気分になりますから。

パトロネージュを育てること

さて、今日は例によってさくら学院のことを結構書きますんで、興味のない方はここでご退場ください。でもちょっと自分のやっている音楽活動とも絡めて書きます。

さくら学院については、アイドルグループというよりも、養成機関、学校、という性格が強いんだ、という話は、この日記でも何度も書いています。学校生活をコンセプトにしたアイドルグループ、という売り込みで発足したグループではあるんですけど、グループの発足当初から、「校長先生」という役職をもっている倉本美津留さんご自身、「僕はこのグループをアイドルだと思っていない」と言い切っている。要するに、「学校生活をコンセプトにしたアイドルグループ」じゃなくて、アイドル活動という外向きの活動を通してプロのパフォーマーを育てる養成学校、というのがこのグループの本質。

養成学校なので、当然厳しいレッスンがあって、そのレッスンの様子はほとんど公開されていないんだけど、振り付けのMIKIKO先生をはじめとして、アミューズが持つ一級の講師陣がついていて、生徒たちもどんどん歌やダンスが上手になっていく。素人臭さを売りにしてほとんどレッスンを受ける機会がない、なんていうどこかのアイドルとは全然違う。そういうところも学校だな、と思うのだけど、パフォーマーを育てる上でものすごく大切な、「パトロン」としてのファン(さくら学院では「父兄」と言いますけど)を育てる、という機能も持っている所が、ただの養成学校とは違うところ。

ジャニーズがこれだけ次々と新しい男性アイドルを生み続けているのに、トップアイドルのバックダンサーなどで活動している時点から、「この子達は次のトップに出てくる」と目をつけてサポートしていくコアなサポーターの存在がある、というのは有名な話。同じ芸能人養成学校である宝塚音楽学校でも、学生時代の発表会ステージから追いかけ始めるコアなファンが、本公演のチケット売り上げの母体となっていく構造があると聞きます。その究極の形が歌舞伎だよね。4歳や5歳、という頃から初舞台を踏んで、そこからコアなファンがついてくるのだから、もともと舞台芸能、というのは、そういう「演者が幼いころからのパトロネージュ」を大事にしてきた歴史があるんだと思います。

実際、私が関わっているオペラ舞台でも、チケットを売ることができる歌い手、というのはそれだけで本舞台の大きな役をもらえることが多いし、そういう歌い手をしっかり支えてくれるパトロンとしての「固定ファン」を持つことって、舞台人としてすごく大事なことなんです。舞台を見て感激してリピーターになってくれる人もそうだし、学校関係や郷里の人脈、家族の人脈などで構成された集団でもいい、相当数の数の「パトロン」が必ずチケットを買ってくれる、という見込みがなければ、興行は成り立たない。

そういう意味で、さくら学院が、パフォーマーの育成プロセスからそれぞれの「パトロン」になってくれる「父兄」と呼ばれるファン層を作り出して、その上で高校生からの本格的な芸能活動に送り出す、というのが、非常に合理的に見えるんだね。一定数のチケット購買層を確保した上で、あとは本人の運と実力で表舞台での活躍を勝ち取っていく。三吉彩花さんにせよ、松井愛莉さんにせよ、BABYMETALにせよ、佐藤日向さんにせよ、飯田來麗さんにせよ、一定数の「父兄」のパトロネージュを踏み台にして次のステージに上がっていったのは事実だと思う。

そしてまた、このさくら学院の「父兄」というのが不思議な集団で、他のアイドルさんのファンとは少し違う属性を持ってる。私も含めて年齢が若干高い、というのもそうなんだけど、要するに、推しメンに対して疑似恋愛感情を持つのではなくて、むしろ母性とか父性本能で動いている要素が大きいんだよね。なので、他のアイドルさんみたいに、交際報道で呪詛や絶望の言葉があふれる、なんてことが起こらない。

そういう「父兄」の優しさ、みたいのを実感したのが、少し前に見に行った映画「さよならくちびる」の舞台挨拶付上映会。2018年度の卒業生だった新谷ゆづみさんと日髙麻鈴さんが舞台挨拶をしたのだけど、2人が登場しても、アイドル登場の時によく出てくる黄色い声が起きない。温かい拍手だけ。MC役の方が、アイドルの舞台挨拶、ということで多少軽めの進行をしようとしたのだけど、客席の空気を察して途中から「プロの女優たち」への対応に舵を切っていて、この方もプロだなぁ、と思ったけど、それだけ客席を埋めた「父兄」さんが、アイドルではなくて、新人女優である二人のこれからを温かく見守っている空気を醸し出していることに、ちょっと感動したりしました。

こんなことを考えたのは、先日、さくら学院の転入生オリエンテーションというイベントに参戦してきたから。2019年度に転入してきた三人の「転入生」(普通のアイドルグループなら、「新たに加入した新メンバー」というところ)がどんな子か、というのを、体力測定やらゲームをやってお披露目する、という、さくら学院ならではの大変平和なイベントです。歌もダンスもないのに舞台イベントとしてこれが成り立ってしまう、というのも、将来のパフォーマーたちを興行面から支える基盤として、「父兄」というパトロネージュをしっかり形成していこう、というこのグループの本質なんだなぁ、と実感しました。

ニッセイオペラ「ヘンゼルとグレーテル」~音楽の意図を真っ直ぐ受け止めること~

6月16日の父の日、「父の日サービスだよ」と、女房が誘ってくれたのが、日生劇場で上演していたニッセイオペラ「ヘンゼルとグレーテル」。女房が以前、せんがわ劇場での「天国と地獄」で共演した小林大祐さんが出演されている、ということで、チケットを確保してくださったのだそうです。とにかく大好きなオペラなので、勇んで出かける。とりあえず、メインキャストだけご紹介しておきますと、

ヘンゼル:山下 裕賀
グレーテル:鵜木 絵里
父:小林 大祐
母:八木 寿子
魔女:伊藤 達人
眠りの精・露の精:照屋 篤紀

という布陣でした。

今回の演出舞台については、Youtubeにダイジェスト映像がアップされているので、雰囲気を知ることができます。

www.youtube.com

演出意図などについては、まだ地方公演が残っているようなので、あまり詳しくここでは書きませんが、大人と子供を全く別の生き物のようにくっきりと区別して描きながら、大人の世界が滅びゆく運命にある中で、子供の目にしか見えない様々な森の異形の生き物たちに導かれ、子供たち自身が、明るい未来の世界を自分たちの力で切り拓いていく、という、希望と夢に溢れた舞台でした。

この「ヘンゼルとグレーテル」は、ニューヨークに赴任していた頃、METの舞台でも見ているのですが、このMETの舞台は、この物語が避けがたく持っている「カニバリズム」の部分に焦点を当てて、世界を覆う富の偏在と、人が人を食う貧困の悲惨を、若干スプラッタ的に描いた舞台で、正直言って、あまり子供に見せたい舞台じゃなかった。でもね、このオペラに関して言えば、「子供に見せたいか」っていうのって結構キモだと思うんですよ。そもそもフンパーディンクは、このオペラの元になる曲を、妹さんの子供たちが歌う歌芝居の曲として書いたのですから、音楽そのものが、子供たちに何を伝えたいか、という観点で書かれている。そこをずらして大人のメッセージを加えてしまうと、音楽の意図からはずれてしまうんじゃないか、と思うんです。

オペラにおける演出の役割、という、いつもの議論なわけですけど、そういう意味では、広崎うらんさんの演出は、このオペラを見る子供たちに何を伝えようか、という、作曲家の意図をまっすぐ受け止めた上で、今の子供たちに伝えたい現代的なメッセージを付け加えた、とてもいい演出だったと思います。日生劇場らしく舞台装置も素晴らしく、生き物のようなお菓子の家も、ダンサーたちのファンタジックな衣装も最高でした。

音楽的には非常に難しいオペラで、分厚いオーケストラが歌い手の前に壁のように立ちはだかるんですよね。そのオーケストラを、あくまで流麗に、歌い手に寄り添った自然な演奏に仕上げていたのが、まだ芸大の学生さんだった頃に少しだけお世話になったことのある角田 鋼亮さん。本当に立派になられましたねぇ。チケットを手配してくださった小林大祐さんの、大きな身体なのに軽やかでコミカルな演技と確かな歌唱もとっても素敵でした。

小林さん以外のソリストの皆さんも本当に素晴らしかったのですが、やっぱりなんといっても魔女の伊藤達人さんのぶっ飛びぶりが凄かったですね。この魔女が、怖い中にどこかでキュートさがないと、本当にグロテスクなお話になってしまうのだけど、そういう意味では、振り切った衣装と演技、そして実は高度な歌唱テクニックで、素晴らしい見せ場を作っていました。

眠りの精の撒く眠り砂で子供たちが眠りに落ち、14人の天使たちを夢に見るシーンでは、兄妹の二重唱でいつも胸が熱くなってしまう。そこにさらに畳みかけるように、天使たちの登場の素晴らしい演出と閉幕直前のサプライズ演出で、完全に涙腺ダム大決壊。号泣していたら隣の席の女房もぼろぼろ泣いておりました。果てしない多幸感。

子供に向かって書かれたオペラだけど、音楽的にものすごくしっかり作ってある、という点において、このオペラは、「子供だまし」なのではなく、本気で作り上げねばならない「子供向け」オペラなのだ、という意識を持って、子供たちに、次の世代に、何を伝えねばならないのか、という真摯な姿勢で臨まないといけないオペラだと思うんです。客席を埋めた子供たちは、魔女のド派手なステージングにゲラゲラ笑いながら、でも何かしらしっかり受け止めたものがあったと思います。出演者の皆さん、スタッフの皆さん、チケットを手配してくださった小林さん、本当に素敵な舞台と時間をありがとうございました。

最近のインプット、残り2つ、と言いながら、また今日二つ増えちゃった

最近結構インプットが続いていて、全然この日記に感想を書くのが追い付いてませーん。でもなるべく、この日記には日々のインプットを書き綴っていきたいので、なんとか書きなぐりでも記録をつけていきたいと思います。先日の日記で書ききれなかったのが、

 

・調布フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会ホルストがオシャレ

・METライブビューイング「カルメル会修道女の会話」で号泣

 

という二つのインプット。そして今日は、

 

日生劇場ヘンゼルとグレーテル」の多幸感に涙が滝状態ですよ。

さくら学院、転入生オリエンテーション三時限目に参戦

 

ということで、最後のはオタ活なので別に書き起こすとして、とにかくまずは先日書ききれなかった二つのインプットについて、書きなぐってまいりたいと思います。

まずはこれ。

  

・調布フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会ホルストがオシャレ

娘が加入している調布フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会が、6月9日に開催。今回はメインがベートーベンの7番。「のだめカンタービレ」ですっかりメジャーになったベト7ですが、何度聞いてもかっこいい曲。これは楽しみ、と夫婦で聴きに行きました。調布駅前のグリーンホール。

高校生からこのオーケストラに入ってチェロを弾いている娘は、気が付けばトップサイドを任されていて、堂々たる弾きっぷりに夫婦して感動。手前味噌になってしまいますけど、音楽のフレーズの流れを先読みしてしっかり身体全体で楽器に力を伝えていて、昔は腕だけで弾いている感じだったのに、やっぱり一生懸命楽器に向かっているとこんなに上手になるんだねぇ、と、我が娘ながら感心しちゃいました。

プログラムの中では、二曲目に演奏された、ホルストの「サマセット狂詩曲」という曲が、コンパクトながらドラマがとても明確で、しかも美しい旋律に満ちていて、初めて聞いたのですがとても印象に残りました。ホルスト、というと「惑星」しか知らないのだけど、こんな素敵な曲も書いてるんだね。イギリス民謡の豊饒な世界を美しい田園の村の悲恋物語に昇華させた見事な佳品。

メインのベト7は本当に否応でも盛り上がる曲。誰かが、「ベートーベンの第九は、アマチュアの演奏に限る」と言っていたんですけど、調布フィルのベト7を聞いて、なんとなくその言葉を思い出しました。アマチュアって、そのステージの刹那に全精力傾けるんだけど、ベートーベンにはそういう、否応でも全力疾走しないと収まらないような、履いた人が死ぬまで踊り続けてしまう赤い靴みたいな魔力がある気がするんですよね。ヘンに計算したり、上手に演奏しよう、と思っても無駄、みたいな、演者の魂と体力を吸い取る感じ。ラストに向かっていく高揚感が半端なくて、ところどころプロの演奏にはない破綻もあるんですけど、もろともせずに突き進む感じがロックでした。

 

・METライブビューイング「カルメル会修道女の会話」で号泣

後で書きますけど、今日見た日生劇場の「ヘンゼルとグレーテル」で流した涙が、あまりにも幸福感が極まった果ての涙だったのに比べて、この「カルメル会」で流した涙は、「死」という、万人が逃れることのできない運命に向き合った時の、人間の苦悩と苦痛、そしてそれを乗り越える理性の尊厳と崇高に触れた、重たい重たい涙でした。

プーランクのこの作品のことは、プーランク狂(教)徒のうちの女房に教わっていて、トラウマになりそうなラストシーンも、色んな舞台のダイジェスト映像で見たことがあるんです。なのだけど、冒頭からきちんと全編を見たのは今回が初めて。それで逆にすごく印象深かったのは、前半の修道院長の苦痛と神への呪詛に満ちた悲惨な死なんですね。

キリスト教ラジオ講座か何かを偶然聞いていた時に、人を救う神とは別に、人を試す神、という議論がある、という話を聞いたことがあって、その時論じられていたのが、「ヨブ記」なんですね。心正しい人の信仰を試すように、次々と苦痛を与える神。そのヨブの如くに死病の苦痛にのたうち回る修道院長は、神を呪い、自分自身の信仰すら呪う言葉を口にしながら死んでいく。

その院長の死に際に対して、コンスタンスが言う、「あの方の悲惨な死は、他の人の死を軽くするための犠牲だったのだ」という解釈や、後半でも新院長が口にする、イエス磔刑の前に呟いた「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(神よ、なぜ私を見捨てたのか)という言葉もあって、後半、従容として自ら死へ歩んでいく修道女たちの姿を際立たせるために、この修道院長の悲惨な死が置かれている、というのがすごく分かる。プーランクの意図もそこにあったのだと思う。分かるんですよ。分かるんだけど、じゃあ自分の身になってみれば、やっぱりオレは修道院長みたいに苦痛と恐怖でのたうち回りながら死んでいくんだろうなぁ、って思っちゃうんだよね。人間なんて、そんなに強いものじゃない。もちろん、だからこそ、後半の修道女たちの行為が人智を超えた超人的な行動として聖性を帯びるのだけど、自分にはできないなぁ、と思ってしまうし、そういう、あまりにも人間的な死、というものも容赦なく描いてしまうプーランクの音楽の力に、なんだかぞっとしてしまう。

ラストシーン、分かっているのに、「サルヴェ・レジーナ」の合唱と共に不気味に鳴り響くギロチンの音に背筋が凍る。その恐ろしい音に向かって、しずしずと歩んでいく修道女たちの最後に、コンスタンスとブランシュが、あまりにも邪気のない綺麗な笑顔で続いていく。その姿はもうすっかりこの世のものではなくなっていて、我々は二人の天使が天界に旅立っていくのを、ただ涙で見送っていくしかない。

以前のMETライブビューイングで、あまりの美しさにモデルさんかと思ったイザベル・レナードは、ちょっと美人過ぎてブランシュの腺病質的なところが前半あまり感じられなかったのだけど、逆にそういうちょっと生命感あふれるところが、後半、奴隷のような境遇になっても生きようとする場面になると活きてくる。そんなブランシュが、最後に自ら死に向かう天使に変貌する所が涙腺決壊ポイント。

そのブランシュに対比して、最初から最後まで、この子は天使の魂を持ってるんだなぁ、と思わせたのが、エリン・モーリーのコンスタンスでした。このコンスタンスの無垢な強さが、ブランシュがあれだけ恐れていた死に対して、真っ直ぐ向き合う勇気をくれるんだよね。

「対話」というタイトル通り、重唱はほとんどなく、モノローグとそれに対する簡単な応答、そして重厚な合唱で構成されたこのオペラ。「死」という運命に対して、音楽でガチンコ勝負を挑んだような、胸の奥にざっくりギロチンの刃がたたきつけられたような、強烈な作品でした。プーランクってやっぱりすごいんだなぁ。

最近のインプット、四連発でいきますが、とりあえず二つ。

 例によって更新が滞っておりまして、申し訳ございません。さぼっている間にそれなりにインプットはあったので、ここでまとめて。ということで、四連発です。

 

北とぴあ合唱フェスティバルで、清泉女学院のユニゾンに圧倒される

・映画「さよならくちびる」、セリフに頼らない文法が心地よいのよ

・調布フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会ホルストがオシャレ

・METライブビューイング「カルメル会修道女の会話」で号泣

と四本でーす(サザエさん風)。書ききれるのかなぁ、と思って書きだしたらやっぱり書ききれそうにないので、まずは前半二つのみ。

 

北とぴあ合唱フェスティバルで、清泉女学院のユニゾンに圧倒される

所属している合唱団「麗鳴」で参加した北とぴあ合唱フェスティバルクロージングコンサート、テーマは信長貴富作品、ということで、信長先生ご自身に指揮していただいたり、その他の合唱団の素晴らしいパフォーマンスに触れたり、実に稀有の体験をさせていただきました。

中でも圧倒されたのが、清泉女学院の演奏で、リハーサルの最中とか、舞台裏でスタンバイしている時には本当に普通のわちゃわちゃした感じのお嬢さんたちなのに、いったん演奏が始まった途端に会場全体が底鳴りするような凄い音が鳴るんです。同じような圧倒的な響きを持っていたお江戸コラリアーずに比べて、全体の声量が勝っているわけではないのに、本当に会場全体がぐわんぐわん鳴るんですよ。この圧倒的なパワーはなんだろう、と思ったら、本番を指揮してくれたTさんが、

「ユニゾンの力ですね」

とぼそっと呟いていて、そういうことか、と思った。複数の人の声が完ぺきにシンクロした時に生まれる倍音の層の厚さが、会場全体を共鳴させるんですね。パワーじゃなくて、ピッチの正確さとシンクロ率の高さなんです。清泉女学院は「新入団員を中心としたまだ若いメンバーで臨みました」というコメントがあって、それでこのシンクロ率っていったいなんなの、と口あんぐり。日本のトップレベルの部活って、本当に世界レベルなんだなぁ、と改めて思いました。

 

・映画「さよならくちびる」、セリフに頼らない文法が心地よいのよ

この映画のことを知ったのは、さくら学院卒業生の新谷ゆづみさんと日髙麻鈴さんの映画デビュー作、ということがきっかけだったので、まぁ裏口から入ったようなものなんですが、聞けば、以前見て号泣した「黄泉がえり」の塩田明彦監督の作品だという。これは見なければ、と思っていたところに、日比谷で新谷さんと日髙さんの舞台挨拶付きの上映回がある、というので、申し込んだら当選。喜び勇んで見てきました。

映画というのは表現のためのツールなので、これをどう使って何を語るか、という語り口に、監督の作家性が出るわけですけど、「黄泉がえり」で感じた塩田監督の語り口は、役者の口から発せられる言葉だけに頼らずに、どれだけ物語を語れるか、ということを突き詰めるタイプの監督さんだ、という印象でした。特に、伊東美咲さんが演じる聾学校の教師が、よみがえった聾者だった母親と手話を交えて会話するシーンについて、その感動を以前のこの日記にも書いています。

塩田監督の代表作とも言われる「月光の囁き」を見ていないので、実に浅薄な感想になってしまうのだけど、「さよならくちびる」も、言葉にならない互いへの想いを伝える術を知らなくて、音楽という儚い絆にすがる3人の男女を描いていて、本当に切ないいい映画でした。音楽は時間芸術なので、その時間をライブ会場で共有した高揚感は、その時間が過ぎれば消えてしまう。そんな儚い絆が、三人だけではなくて、その音楽に触れた人々をつないでいく。でもそれはあまりに儚くて、だからこそリアルな人間同士のぶつかり合いを支えきれずに、三人は互いに傷つき、別れを決意するところまでこじれてしまう。

主役の二人の演じるギターデュオ「ハルレオ」のファン、という役柄だった日髙さんが、自分を周囲の人々、あるいは世界そのものとつなぎとめてくれた「ハルレオ」の音楽をくちずさみながら、感極まって泣き出し、それを優しい笑顔で新谷さんが受け止める、というシーンは、音楽が人と人をつなぐ力を持っているのだ、ここにも、音楽の絆で結ばれた人たちがいるんだ、ということを象徴する名シーンでした。(ちなみにこの日髙さんが歌いだした、というのは日髙さんのアドリブだった、というのも、さくら学院のファンの間では大変話題になっていたんですが)

言葉に頼らずにドラマを描こう、とする塩田監督の指向は、主役三人が頻繁に口にする煙草にも表現されていて、要するに言葉に詰まった時に胸にたまった想いを煙にして吐き出すための道具なんだよね。最近、映画で喫煙シーンが多いと文句を言われる、なんていう風潮に対する、塩田監督の反骨精神も現れているようで面白かった。

ロードムービー、というのは、旅の初めと旅の終わりで、主人公たちがいかに変化するか、というのが物語のキモで、あのラストシーンには賛否あるかもしれないけど、あの三人の関係性がこの旅を経て確実に変化した、という納得感があって、私的には嬉しいラストシーンでしたね。

人が口にする言葉にあまり信頼を置いていない塩田監督なのだけど、逆に信頼しているのが、音楽の力と、詩の力。すごく印象的に現れるのが、ところどころに挿入されるハルの書いた詩で、美しい風景を背景に白抜きの飾らない文字で画面に現れる詩が、言葉にならない、音楽に乗せた歌詞としてしか表出できないハルの想いを綴っていて胸に迫る。映画の宣伝にも使われていたレオがハルに強引にキスをするシーンで、すっかり「百合映画」という印象を持たれている人も多いかもしれないけど、ハルはレオのことが好きなのに、その想いに答えようとするハルを拒絶するので、百合の関係すらこの二人の間には成立しない。この三人の関係の中で一番複雑なのはハルの気持ちで、多分ハルの気持ちはどこにも行き場がなくて、ただひたすらに音楽に向かっていく。そうやって空に放たれたハルの音楽や歌詞の力が、レオやシマをハルにどうしようもなく惹きつけてしまう、そのゴールのない関係性が切なくて愛しくて。

こういう「音楽映画」で、挿入される音楽がショボいと、なんとも残念な結果になるんですけど、主題歌の「さよならくちびる」にせよ、挿入歌の「誰にだって訳がある」「たちまち嵐」も、どちらもとてもいい曲だった。楽曲の完成度の高さが、この映画をさらに佳作に仕上げていたと思います。考えてみたら、「黄泉がえり」もクライマックスはライブシーンだったなぁ。

 

さて、今日のところはこんなところで。またすぐ、残りの二つのインプットについても書きますね。来週も、見てくださいね~(サザエさん風)

ジュゴンとツチノコ Vol.3 Made in Japan! ~日本歌曲の奥深さ~

25日(土)、女房が参加している音楽ユニット「ジュゴンツチノコ」の三回目の演奏会、「Made In Japan!」を聞きに行ってきました。今回はその感想を。

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会場になった赤坂のカーサ・クラシカ、私は初めて伺ったのですが、クラシック演奏家の間ではかなり名の売れた会場のようですね。お料理も美味しいし、お店の雰囲気もとても素敵で、何より、スタッフがこういった音楽イベントに慣れている感じがあり、お客様の誘導もスムーズで、とても心地よかったです。

会場の心地よさに加えて、今回のテーマは日本歌曲。フランス歌曲や英米歌曲を中心にした前回までのプログラムと比べて、邦人曲である、というのがまた聴き手にとって大変心地よい。若干身びいきになるかもしれませんが、大津佐知子という歌い手は、児童合唱時代から邦人曲に親しんでいて、日本語歌唱についてスキルを磨いていた人なので、日本語の歌詞が聞き取れない、というストレスが殆どない。そういうハードルの低さと、客席の雰囲気、二人のフレンドリーなMCなどもあって、過去の2回の公演と比べても、とてもアットホームで温かい空気に満ちた演奏会になりました。

と言いながら、実は、邦人曲、というのは、演奏家にとって別のハードルがそびえていたりするんですよね。今回取り上げた、徳山美奈子・湯山昭・伊藤康英・木下牧子、という作曲家たちは、現在も一線で活躍している作曲家の方たち。ということは、どの楽曲も、いわゆるクラシック音楽の歴史を一通り消化しきった先に生まれた「現代音楽」ばかりなわけで。もちろん、MCの中で、貝賀さんが何度も、「皆さんが聴いてもなんだかチンプンカンプンになるような曲はなるべく避けました」とおっしゃっていたように、選曲された曲はどれも耳に心地よい分かりやすい楽曲ばかりなんですが、それでもどこかに一筋縄ではいかない様々な「現代音楽」っぽい仕掛けが隠れている。単純な音の組み合わせや流れの中にも隠れた様々な技巧を、何事もなかったかのようにお客様に届けるのは、意外と難しかったりするんじゃないかな、と思います。

そういう現代音楽の文法をある意味カリカチュア的にぶち込んだコミックソングが、伊藤康英先生の「あんこまパン」で、大変バカバカしい歌詞(というか、林望先生のエッセイ)を、大変難易度の高いピアノ伴奏と大変高等な歌唱技術で客席に届けないといけない。二人とも相当苦労したようですが、苦労の甲斐あって、客席は演奏中ずっとムフフ笑いに包まれておりました。(爆笑、という感じではないところがこの曲のなんとも衒学的なところなんだよね)

貝賀さんの演奏されたピアノ曲もどれもとても魅力的な作品ばかりで、門外漢の私も、いい曲だなぁ、と思いながら聞いていました。徳山美奈子先生の「巣立つ鳥達へ」など、貝賀さんのご家族への想いも込められた曲も多く、そういう選曲も、温かな空気を醸し出す要因だったと思います。

大津が歌った歌曲の中では、前述の「あんこまパン」も楽しかったのだけど、湯山昭先生の「ロマンチストの豚」「くじらの子守唄」のどちらもとてもキュートで、しかも一度聞くと忘れられない平明な曲で、とてもよかった。いい曲って決して古くならないんですね。同じようにこれは今後もずっと歌い継がれていくんだろうな、と思った木下牧子の歌曲もとても素敵で、歌が終わってしまうのがもったいないような、もっとこの歌を聞いていたいなぁ、というような、そんな不思議な思いがしました。

本編の最後に歌った「竹とんぼに」は、以前から大津が何度か演奏会で取り上げている曲ですが、何度聞いてもなんだか目頭が熱くなる。でも今回は特別胸に来ましたねぇ。最近、娘が大学に進学して、運転免許取ったり、大学のサークルでとても大きな会場で演奏会をやったり、どんどん広い世界で経験を積んでいる姿が、空高く舞い上がっていく竹とんぼの姿に重なっちゃったんだと思います。人の親になるって、こういう歌がどんどん沁みてくるってことなんだなぁ。

マチュアピアニスト、と言いながら、音楽に対する真摯な姿勢と高い技術を持つ貝賀さんと、ひょんな縁でご一緒させていただくことになり、このユニットだから挑戦できる楽曲を積み重ねて、また新しいレパートリーを増やすことができました。こういう場は本当に大事だね。これからも二人で、また新しい世界を見せてもらえると嬉しいです。温かい時間をありがとうございました。お疲れさまでした。