音楽朗読劇「星の王子さま」~永遠の聖少女と永遠の少年と~

先日、推しの新谷ゆづみさんが出演された音楽朗読劇「星の王子さま」~きみとぼく~を観劇。その感想を書きます。推しの煌めきに錯乱したヲタの世迷い言から、例によって衒学的な知ったかぶり文、そして朗読劇という空間そのものへの感想など、脈絡もなく綴って参ります。さて、本当に良いところに着地するのかしらね。とりあえず、ヲタの世迷い言からスタートしますんで、気色悪いと思った方は適当に読み飛ばして途中から読んでいただいてもいいですし、最初からこんなページのことは忘れてそれぞれの日常に戻っていっていただいてもよいかと。

2人の演者が日替わりで、歌と朗読で「星の王子さま」の世界を演じていく、というこの企画。キャストの顔ぶれ見ただけでワクワク。こういう2人朗読劇、といえば、セゾン劇場でやっていた「Love Letters」のシリーズ(大好きでした!)とかを思い出しますけど、この錚々たる出演者に交じって、さくら学院の卒業生の新谷ゆづみさんが星の王子さまをやるという。これは絶対行かないと後悔する、と思ってチケットゲット。幕張メッセで開催されるBABYMETALの復活ライブ二日目と重なっていて、BABYMETALの方もすごいいい整理番号もゲットできたんですが、それでも新谷さんの星の王子さまを見られるなら後悔はしない、と、青山のBAROOMという会場に向かいました。

この企画については、演出家小宮山佳典さんとプロデューサーの小川仁美さんのインタビュー記事(後掲)があり、その中で小川さんが、「南青山のこの交差点にまさかこんな劇場があるなんて」という驚きを感じてほしい、ということをおっしゃっていましたが、まさにその通りの印象。この劇場、この空間、いいなぁ、というのが第一の感想でした。自分も、素人芸ですけど、朗読劇やサロンコンサートをやる人間なので、演者と客席の距離が近いけど、でも劇場としてのインテリアや非日常感が整っている「ハレ」の空間としての小劇場にすごく憧れるし、日々探していたりするので、この場所で演じたり歌ったりするのは楽しいだろうなぁ、とまず思わせてくれる空間でした。

星の王子さま」という題材については、昔からちょっと屈折した見方をしていて、サン・テグジュペリの婚約者だったルイーズ・ド・ヴィルモランの生涯のことを少し知っているものだから、ヴィルモランの視点から見て、「地に足のつかない」永遠の少年だったサン・テグジュペリの「困ったちゃん」の側面をちらちら感じちゃうんですよね。ヴィルモランは、「ジャン・コクトーに求婚され、オーソン・ウェルズを燃え上がらせ、アンドレ・マルローの伴侶となる…あらゆる知的男性のミューズだった伝説の女流作家」と言われる方で、そう言われれば色んな男を手玉にとるファム・ファタール的な女性で、星の王子さまを翻弄するバラのモデルにふさわしい、と思われるかもしれないんだけど、逆の見方をすると、サン・テグジュペリっていう人もかなり重度のピーターパン症候群なんですよ。星の王子さまは全編、「大人になんかなりたくない!」というテグジュペリの愚痴とも捉えられなくはない。パオバブの樹(ナチズムの象徴といわれる)とか、ビジネスマン(投資に狂うその行動は、1920年代狂騒の時代のアメリカを思わせます。そしてそのバブルは1929年の大恐慌ではじけるわけですが)など、時代風刺も取り込んだ巧みなストーリーテリングにちょっと目を眩まされたりするけれど、根底に流れているのは、自分が失ってしまった少年性への限りない憧憬と大人社会への嫌悪なんだよなぁ。そしてそのまま本当に大人にならないまま行方不明になってしまうという。

でも、今回の音楽朗読劇では、音楽を担当された滝澤みのりさんの、とても素直で優しい楽曲の力と、樋口ミユさんのシンプルな台本のおかげで、私みたいな屈折した見方をする汚れた大人も心清められるくらい、「星の王子さま」という無垢の存在が語る人生の本質が、すとん、と心の中に届けられた気がしました。そして何より、自分にとっての新たな発見、というか、あ、そうだったのか、と思ったのは、星の王子さまは自分の肉体を犠牲にすることによって、飛行士の目に映る世界そのものを変革してしまう、という、自己犠牲の物語だったのか、という発見。

王子様が毒蛇に身を任せるのは、あくまで自分の星に戻ってバラへの愛を全うしよう、とする思いからではあるのだけど、でもその肉体の死は、星に戻った王子様のことを思う飛行士の心のありようを変えてしまう。無原罪の存在の犠牲による救済、というキリスト教的哲学が背景にあるのは勿論なのだろうけど、王子様の存在が無垢で純粋であればあるほど、その犠牲による飛行士の心の救済が、見ているこちらの心まで救ってくれるような思いで胸をぐっとつかんでくる。萩尾望都の傑作「トーマの心臓」で、ユーリの心を解放させるために自分を犠牲にしたトーマのように。ラストシーンでは涙ぐむお客様が本当に多くて、星の王子さまってこんなに泣ける話だったっけ、と思いながら、私も思わずポロポロ泣いておりました。プロデューサの小川さんが、「『涙活』をしていただきたい」とおっしゃったその意図通りになってしまった。

そんな風に客席を(共演者も巻き込んで)涙に溺れさせてしまったのは、なんといっても新谷ゆづみさんの王子様の真っ白な存在感に因るところが大きかったと思います。本当に、曇り一つないクリスタルガラスのような透明感。全くの無地の状態で地上に降り立った王子さまだからこそ、その目には様々なものの真実の姿が見える。足をぶらぶらさせながら、象を飲み込んだウワバミの姿を無邪気な表情で見通してしまう新谷星の王子さまの姿は、サン・テグジュペリが夢見た永遠の少年そのもの。

こういうピュアな存在感を持っている女優さんといえば、自分的に真っ先に思い浮かぶのは原田知世さんなんです。大林宣彦監督の「時をかける少女」で衝撃的に登場した原田さんは、まさに永遠の妖精のようなピュアな存在感を保ち続けている稀有の女優さんだと思うし、こういう透明感を持った女優さんってあんまり他にいない気がする。大林映画の数あるヒロイン達の中でも、やっぱり別格の存在だと思う。

新谷さんは演技巧者であるだけではなくて、「麻希のいる世界」で塩田監督にいかに汚されようと、「異世界居酒屋のぶ」で貧しい庶民の娘を演じようと、どこかにすっと筋が通った品の良さと、自分が向き合う役や共演者を真っ直ぐに見つめているピュアな視線があって、それがこの人の透明感や、原田知世さんに共通する「聖少女」感を強めている気がするんです。そういえば、さくら学院の伝説の寸劇のタイトルは「時をかける新谷」だったなぁ。

独特のウィスパーボイスで歌われるシンプルで分かりやすい楽曲。初舞台の高揚もあってか、涙の量が多すぎた、とご自身も反省するくらい、まっすぐ王子様の心のゆらぎを演じる新谷さんを、共演者の阿部よしつぐさんが見事な演技で支え、時にはその新谷さんの感情の奔流に自分の思いも乗せながら、客席を熟達の技で涙に包んでくれました。本当に見事な手綱さばき。初めて知った役者さんでしたけど、劇団四季でバリバリに活躍されていた方なんですね。また新谷さんが、素晴らしい役者さんに出会わせてくれたなぁ。

充実した思いを抱えながら猛ダッシュして、BABYMETALの幕張二日目のステージにもぎりぎり間に合い、本当に満ち足りた一日を過ごすことができました。BABYMETALの感想はちょっと気持ちが落ち着いてからゆっくり書こうと思います。素晴らしい空間で、優しい声と歌と涙で、汚れたジジイの心をザブザブ洗ってくれた、新谷さん、阿部さん、滝澤みのりさん初め、スタッフの皆さん、素晴らしい時間と空間をありがとうございました。それにしてもこの新谷さんが演じた王子様を、小倉久寛さんがどう演じたのが、すごく興味あるわぁ。

realsound.jp

何度か引用させていただいた、演出の小見山佳典さんとプロデューサの小川仁美さんのインタビュー記事。他の童話の音楽朗読劇も実現したら見に行きたいなぁ。

文学と音楽と~ドビュッシーとマスネと~

自分がやっているオペラ、歌、というのは、言語と音楽が融合した芸術なので、この「言語」と「音楽」という2つの異なる表現の間で悩む瞬間が必ず出てきます。特に自分がやっていた「日本語でオペラをやる」という活動では、訳詞、という別の問題が出てきてこれが凄く悩ましかったんですね。オペラの原詩はもともと「詩」という芸術作品なので、これを日本語にしてさらに原曲の音価に沿わせていかないといけない、というのが大変な作業で、毎回のオペラ公演で常に大問題になりました。メロディに乗せることでただでさえ何を言ってるのか分からなくなりがちなので、ある程度原詩の芸術的・文学的な言い回しを犠牲にして、身も蓋もないシンプルな言葉に置き換えたり、オペラでよくある、同じ歌詞を違う旋律で何度も繰り返す所で少し言葉を変えて、何らかの芸術性を担保しようとしたり、逆にそこを利用して状況説明の言葉を付け加えたり。

最近読み耽ってた青柳いずみこ先生の「ドビュッシー 想念のエクトプラズム」を先日読了。この「文学と音楽」という2つの異なる芸術の間で生涯苦悩したドビュッシーの姿を活写することで、より普遍的な「文学と音楽」という、歌い手にとって最もセンシティブなテーマに切り込んでいく青柳先生の文章が名文すぎて、この本自体が論文でありつつ芸術作品になっている、という二面性を持った本。二面性、というのもこの本の大きなテーマなので、もうドグラマグラのようなめくるめく知と音楽の冒険書。「犬として育てられた猫のよう」とか、「作曲家として育てられた演奏家のようにして作曲した」みたいに、分析的に無茶苦茶わかりやすいのに比喩の芸術性がすごく高い文章が、これでもかとばかりに続いていく。その文章の持つ力の根源にあるのは、青柳先生ご自身が、フランス文学者のご家庭に育ちながら、ピアニストとして一流の演奏家である、という、筆者自身のアイデンティティの二重性。それが、「ジキルとハイド」と言われたドビュッシー自身の二面性と重ねて自覚されている所から来ている。そういう自己分析ですら研究者の冷徹な視線で語られていて、最後のページを読み終えた後、久しぶりに読了後のずっしりとした恍惚感に浸りました。

当時の最先端だった世紀末フランスのデカダンスの潮流にどっぷり浸かった文学青年だったドビュッシー。オカルトにものめり込んだ彼は、終生、エドガー・アラン・ポーのゴシックホラー「アッシャー家の崩壊」のオペラ化に取り組み、そしてその文学への愛情の深さ故にそれを果たすことができなかった。それは彼が、ポーが生み出したおどろおどろしい世界を愛するがあまり、作曲家としてよりも、その文学世界を解釈する文芸評論家として、自分の解釈を音楽にしようとしてしまったこと、そしてそのための道具として彼が持っていた音楽言語が、不安や恐怖を描き出す道具としてふさわしくなかったから、という青柳先生の分析には、表現者が必ず直面する永遠の命題が提示されているようにも思います。女房に言わせると、ドビュッシーの歌曲って、言葉に寄り添い過ぎていて「全編レチタティーヴォみたい」なんだそうです。世紀末デカダンスの騎手ヴェルレーヌの「月の光」という詩に、ドビュッシーフォーレも曲を付けているそうなのだけど、カタルシスが全然違うらしい。でもそれって、詩、言葉というものと不可分なオペラや合唱曲、歌曲に向き合う時に、歌い手が必ず直面する課題だったりする。歌をやってると、歌詞の解釈や世界観に酔ってしまって、楽譜に書かれた音符やフレーズの意味、作曲者の意図をそっちのけにしてしまい、結果的に言葉が不明瞭になる、なんていう経験がいっぱいあります。言葉ってそれだけで結構強い力を持つ表現手段だから、抽象度の高い音楽という表現手段を簡単に飲み込んでしまうんだよね。

文学と音楽、という切り口でいうと、先日観劇した江東オペラの「ウェルテル」も素晴らしいパフォーマンスでした。ゲーテの傑作にしてベストセラー、当時の欧州に自殺ブームを引き起こした青春小説の傑作。だけどこれがマスネの手にかかると、堂々たる昼ドラ風メロドラマになっちゃうんだよねぇ。恐らくはドビュッシーができなかったのはこういうことで、文学作品の持つ芸術性や哲学性、世界観とかにこだわってしまうと作曲家としての仕事が出来なくなってしまう。マスネは極端としても、どこかで自分の持っている音楽技術や表現に引き寄せないとオペラも歌曲も書けないんだろうな。青柳さんの本の中で、そういう手練手管に長けた作曲家としてリヒャルト・シュトラウスが上がっていて、ドビュッシーが彼のことを「詐欺師」と呼んだという分かりやすい逸話が紹介されてました。

「ウェルテル」の公演ちらしです。

マスネのメロドラマの中で軸になるウェルテルとシャルロッテの2人を、江東オペラの主宰者である土師雅人さんと竹内恵子さんが好演。竹内さんのしっとりと豊かで肉感的なメゾの声が、人妻の苦悩を歌うシャルロッテにぴったり。そして土師先生のウェルテルは出てきた時から、コイツ死ぬな〜っていう蒼白いオーラがメラメラ上がってる感じ。歌唱も、会場全体がガッツリ底鳴りする圧巻のパワーで、確かに頭撃ち抜いても20分ぐらいは平気で歌えそうな感じしました。

残念だったのは、前半のロミオとジュリエットをご覧になったお客様が、後半のウェルテルを待たずに大勢帰ってしまったこと。客席が一気に寂しくなってしまって、これが本当に残念だった。こういうチケットの売り方も感心しないし、こういう観劇の仕方ってのも感心しないなぁ。友達の出ている舞台を見に来て、ついでに見たステージや共演者の素晴らしいパフォーマンスに感激する、なんてことはよくあることで、そうやって自分の経験値や知識を増やしていくのが舞台を楽しむ醍醐味なのに、自分でその世界を身内の発表会見て満足するレベルに留めてしまうのは、歌い手にとっても観客にとっても不幸だと思います。

陰鬱な物語の中で、唯一明るい光を放っているシャルロットの妹ゾフィーを演じた我が女房どの。抜粋上演とはいえ、しっかり演出もついたオペラ舞台を演じること、そしてマスネの流麗な音楽を目一杯楽しんだようです。まだ10代の明るいお嬢さん、という設定のおかげで、やけに早口のパッセージが多かったらしく、暗譜にはかなり手こずっていたのですけど、終わってみれば「楽しかったなぁ」「またやりたいなぁ」としきり。光があるから影が際立つ、という、これも実に舞台効果を計算した、ある意味あざとい昼ドラ風の設定だけど、やっぱりこのゾフィーの明るさと、彼女の声を中心に響くクリスマスの明るい讃歌の中で死んでいくウェルテルっていう構図は胸を打ちますねぇ。愛する人に受け入れられず孤独に死ぬウェルテルと、人の原罪を背負って死ぬキリストの誕生の讃歌を重ねることで、ウェルテルをキリストと重ねたのかなぁ、と女房に言ったら、マスネはそこまで考えてないと思う、と速攻却下されました。考えすぎるとドビュッシーになっちゃうもんね。

ウェルテルの出演者と指揮者の伊藤先生。土師先生、自殺するお芝居楽しそうだったなぁ。

2022年を振り返ってみれば~また新たな「出会い」を求めて参ります~

2022年も暮れてまいります。せっかくの年末なので、毎年このブログでやっている一年の振り返りをやってみようかな、と思います。

この一年の自分のインプットやアウトプットを思い出してみれば、コロナ禍から回復してきた舞台表現の現場に合わせて、推し活動も含めて様々な演奏会やライブに参戦したり参加したりできた一年でした。中でも特に心に残っているアウトプットとインプットを2つずつ並べるなら、

アウトプットでは、6月に開催した自分のサロンコンサートと、8月に開催した久しぶりのGalleria Actors Guild(GAG)公演、

インプットでは、10月に聴きに行った女房主催の東京室内歌劇場の「アメリカン・ソング・ブック」コンサートと、11月に参戦したonefiveのSPOTLIGHTライブ、

かなぁ、って思います。総じていえば、自分自身の加齢に伴う限界が見えつつある中で、それでも前に進む勇気や、自分が見たことのない風景がまだまだあることを実感した一年だった気がします。

まずはアウトプット。6月に「道化師またはサーカスを巡って」というタイトルでサロンコンサートを開催したのですが、コンサートの途中で声帯がしっかり合わなくなって、ほぼ一曲まるまるまともに歌えなくなってしまいました。なんとかその後のMCなどで喉を復活させて、後半はそれなりに歌えたのだけど、せっかく来て下さったお客様には本当に申し訳ない時間を過ごさせてしまった。自分でも本番舞台でそんな状態になったのは初めてだったからかなりショックでした。コロナ禍でしっかり声を出す機会が減っていることも一因とは思うけど、なんといっても一番の原因はやっぱり加齢かな、と思います。そろそろ60歳近くなって、昔ならできていたこと、昔なら無理やりなんとかなっていたことがやっぱりできなくなってきているな、というのを実感した瞬間でした。

そんな経験もあって、どこかで自分で表現していくことに自信を無くしてしまったのですけど、それでも自分がこれまで続けてきたシリーズはなんとか続けたい、と開催したのが、8月のGAG公演。2007年から始めた、池澤夏樹さんのジュブナイル「南の島のティオ」の朗読シリーズは、もう残すところ2篇、「ホセさんの尋ね人」と「エミリオの出発」のみになっていました。この「ホセさんの尋ね人」にしっくりくる曲がある、と女房が持ってきたのが、アンドレ・プレヴィン作曲の「サリー・チザムによるビリー・ザ・キッド追想曲」。帰らない人を待ち続ける心、もういない人の思い出を大切に抱き続ける心、をテーマにしたこの二つの物語をつなぐテーマとして、「Long Absence」というタイトルにしたこの舞台で、自分が舞台を続けていくことの意味が少し見えた気がして、その感想を以前、このブログにも書いています。

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何かと何かが出会う所に表現が生まれる。この「南の島のティオ」の朗読シリーズも、長谷部和也さんの、南の島の色彩とファンタジーを優しさでくるんだ温かいイラストとの出会いがなければ続けてこれませんでした。長谷部和也さんとの出会い。ホセさんの尋ね人、という物語と、アンドレ・プレヴィンの音楽との出会い。素晴らしいピアノを弾いて下さった田中知子さんと女房との出会い。そして、当日の客席で久しぶりに顔を合わせたお客様たちとの出会い、その笑顔。そんな出会いが表現を支えている、僕らが舞台を続けている意味なんだ、と気づかされた瞬間でした。

長谷部くんの描くティオの島に、また一緒に行きたいなって思います。

 

インプットで言えば、娘のオーケストラの演奏会や、女房の出演するオペラ舞台、そしてさくら学院卒業生関係のライブなど、コロナ禍の中でもなんとか戻ってきたライブを沢山経験することができたんですけど、中でも自分の中で新しい発見があったのが、女房が主催した「アメリカン・ソング・ブック」でした。この感想もこのブログに書いています。

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これまで自分が良く知っているつもりだったフォースターの曲などが、欧州の故郷を捨てて何一つない荒野に新世界を作り出そうとしたアメリカの原風景と重なった時、アメリカ文化の持つ空虚さ、故郷を失った寂寥感のようなものがすっと腑に落ちた。60年近く生きてきたからといって、世の中はまだまだ自分が知らないことに溢れているんだなぁって実感。確かに若い頃にはできたことができなくなってくる限界もあるけれど、それでも沢山の未知との「出会い」が、きっとこれからも生まれてくるし、自分でそんな「出会い」を生み出していくことだって、まだまだできないわけじゃないかもしれない。

そんな思いに背中を押してくれたのが、11月に参戦したonefiveのライブ、SPOTLIGHTでした。さくら学院の卒業生4人で構成されたonefiveが、ドラマ「推しが武道館に行ってくれたら死ぬ」の主題歌「未来図」を引っ提げて開催したライブ。漫画やアニメの「推し武道」ファンの方々との「出会い」を通して、色んな人たちの夢や希望も背負って前に進んでいく4人の姿にものすごく勇気をもらいました。人と人との出会いと笑顔を届けることの尊さを心から実感させてくれたライブでした。

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今年は映画でも、「麻希のいる世界」や、「DEAD OR ZOMBIE」などの佳作を見ることもできたし、TikTokアワードを獲得した遠坂めぐさんのライブにも参戦できたし、結構充実した一年だったなぁって思います。まだまだ不安なニュースも聞こえてくる世界だけど、でもそんな時代だからこそ、人と人との出会いや笑顔を届けていきたいし、自分自身も知らない世界と沢山出会っていきたい。そのために、加齢での衰えをどうやってカバーしていくか、しっかり自分の身体とも向き合いながら、自分に何ができるのか考えていく一年にしなければな、と思います。2022年、皆様お疲れ様でございました。来る2023年が皆様にとって、素晴らしい出会いと笑顔に満ちた一年になりますように。

歌が物語を綴る時~遠坂めぐさんの楽曲を中心に~

今日も、遠坂めぐさんを中心とした自分の推しの話題なので、遠坂めぐさんやさくら学院、BABYMETALに興味のない人は理解できない文章も結構出てくるかもしれないですけど、なるべく芸術に普遍的な話につなげていければ、と思っています。絶対とりとめなくなると思いますので、まぁ適当に読み飛ばしてやってください。

大きな話から言うと、芸術はその作品自体に感動するのか、それとも、それを創造した人や演者の人生と結び付けた「物語」に感動するのか、みたいな話です。ちょっと大きく出過ぎたな。すみません、もう少しお付き合いくださいね。

例えば分かりやすい話で言えば、太宰治の文学作品っていうのは彼自身の破滅的な人生と切り離しては正しく評価できないし、彼自身の人生が透けて見えるからこそ感動する、という話は常に言われることじゃないかな、と思う。「故郷は遠くにありて思うもの」という詩を、都会に立った詩人の孤独、と解釈するか、故郷に帰ってむしろ募ってしまった疎外感、と解釈するかで、解釈も感動も全然変わってしまうけど、これも作品からどんな「物語」を読み手が想像するか、という話でもありますよね。

もちろん、アートはアートとして先入観なしに虚心坦懐に見るべきだ、という人もいるとは思います。でも特に西洋絵画とかは、絵画の中に込められたいろんな象徴や記号を読み解く楽しみ、というのもあるので、真っ白な心で作品に向き合うことが却って作品に込められたメッセージを見逃すことにつながってしまったりする。つまり、作品から読み手自身がどんな物語を綴るか、ということ、あるいはその作品には直接描かれていないけれど大きな影響を与えている「物語」と結び付けて作品を鑑賞することで、より感動が深まる、というアートの楽しみ方もあるよね、という話。

なんでこんなことをつらつら書いているか、というと、さくら学院の卒業生の山出愛子さんに楽曲提供した縁でどっぷりハマってしまった遠坂めぐさんのクリスマスライブに先日行って、なんだってこの人の曲がこんなに好きになったのかなぁって考えたから。そう思って改めて聞いてみれば、遠坂さんの楽曲って、ものすごく「物語性」の高い楽曲が多くて、自分もそこにハマったんだなぁ、と。

遠坂めぐさんの楽曲には、かなり私小説的に作曲家自身の思いを歌ったものもあるし、ある程度想像で書かれた短編小説風の作品もあるのだけど、共通しているのはこの「物語性」。歌に登場するカップルのささやかな幸福を祈らずにはいられなくなる「皮付きフライドポテト」「うすしお」「暮らし」。曲ができない苦悩を若干自虐的に描いた「新曲」、TikTokでバズった自分を鼓舞するような「インスタントオリジナリティ」など、どれもそれぞれにドラマを感じる楽曲で、歌で物語を語る、という意味では、さだまさしさんに共通する才能を持ったシンガーソングライターだなぁって思います。

その中でも遠坂さんご自身が自分のターニングポイントとなった作品として語っている「月にありがとう」という曲は、何度聞いても涙なしには聞けない名曲。でも、この曲の歌詞を一読しても、そこに歌われている「月」という象徴が何を意味しているのか、一瞬分からないんだよね。

 

「どうして月って、どこに行ってもついてくるの?」なんて独り言だよ

「どんなに暗くたって帰れるように照らしてるんじゃない?」答えてくれたね

「だけどね、それって鬱陶しい気もするよね」

そういうと君は少しうつむいて黙り込んだ。

 

こんな会話を主人公と交わした人の不在と、今も自分を支えてくれているその人に対する感謝の思いを歌うこの楽曲が、遠坂さんの早逝したお父様の思い出を歌った楽曲、と説明されて初めて、一気にこの楽曲の持つ意味や物語の深みが変わってくる。

 

果てしない闇でもいつか晴れる日が来るのかな

なぜだろう雲間で、月がやけに輝いている

「大丈夫だよ」なんて笑っているみたい

 

先日のクリスマスライブでも、ピアノとバイオリンで歌われたこの曲に本当に感動したのだけど、その同じ文脈の中で、先日遠坂さんがMVで発表した「365日サンタクロース」を、遠坂さんのお父様への思いを歌った曲、と解釈しているブログがあって、なるほどなぁ、と思ったんですよね。「365日サンタクロース」は、遠坂さんがさくら学院の卒業生の山出愛子さんに提供した曲で、山出さんを日々支えてくれているお母さまへの感謝の思いを歌った曲、というのが自分の中での解釈だったのだけど、日々自分の生活を支えてくれている誰かに対する感謝を歌った普遍的な曲、と思って聞いた方が感動も深まる気がする。それって結局、「月にありがとう」という曲の、遠坂さんとお父様の間の絆の物語、という極私的な物語が、身近にいてくれた、今はもういない大切な人への思いを歌った普遍的な物語として昇華されて、それが「365日サンタクロース」という楽曲の感動にまで影響を与えているってことなんだなぁって。

そんなことを考えながら、自分の推しのさくら学院やBABYMETALの楽曲を改めて聞いていると、曲から想起される感情の高ぶりって、歌自身の持っているメッセージだけじゃなく、その歌が歌われた時のさくら学院やBABYMETALの置かれた状況、彼女たち自身の戦いの日々、仲間たちとの絆、といった、楽曲を巡る「物語」から生み出されている側面が大きいなぁ、なんて思ったりする。実際、さくら学院の「See You」なんて、2018年度の卒業式で銀テの雨の中で号泣している新谷ゆづみさんの姿思い出して何度聞いても泣けてくる。以前このブログに書いたみたいに、「Carry On」という楽曲が「麻希のいる世界」の物語と共鳴してしまった経験とか、楽曲が綴る物語と他の物語が自分の中で感動の多層化を生み出すこともある。

音楽って、本質的にはそれ自体で物語を語るものではないのかもしれないけど、いわゆる「随伴音楽」というジャンルがあるように、物語やドラマに寄り添うことで感動を倍増させる効果を持っている。それが逆に、音楽によって極私的な物語が想起されて感情を揺り動かす、という効果にもつながるんだろうな。村上春樹の「ノルウェイの森」なんてまさにそういうお話だったし。

自分が音楽の持つ、「物語」を想起させる力に惹かれてしまうのって、自分の音楽のメインフィールドがオペラであることとは切り離せないんだろうなって思います。歌で物語を語るオペラ、あるいはミュージカル、というのが自分にとって慣れ親しんだ音楽の世界だから、逆に、歌が語る物語の力に感情揺さぶられることが多いんだろうなぁ。

さらに言えば、この、「音楽」と「物語」を、体験=コト、という形でつなぐ最適な装置が、ライブ、なんだよなぁ。BABYMETALの楽曲のエモさの源泉は、その楽曲が披露された一つ一つのライブの空気感や自分のその時の感情の高ぶりを思い出させるから、というのが大きいと思うし、さくら学院は、「メンバーの成長物語」という一年間のドキュメンタリーをライブで見せる、というとんでもないコンセプトのもと、その成長物語の記録を定着させる道具として、楽曲とステージがあったようなグループだったんですよね。

やっぱり予想通り、なんだかとりとめのない文章になってしまったけど、音楽の持つ、物語を想起させる力、という側面は、掘り下げるともっといろんなネタになりそうな気がします。またいつか、別の側面から分析してみようかと思います。そして何より、こんなに心を揺さぶる数々の物語を届けてくれる遠坂めぐさんや、閉校後も終わらないさくらSAGAの物語を綴り続けているさくら学院の子達には、本当に感謝しかないです。

@onefive SPOTLIGHT~僕らの希望~

今日は恵比寿ガーデン・ホールで開催されたonefiveのライブ、「SPOTLIGHT」に行ってきました。その感想を。「推しが武道館にいってくれたら死ぬ」(以下「推し武道」)の界隈の方のお話も聞けて、色んな意味でこのグループは、コロナ禍を超えた先にある僕らの希望なんだなぁ、という思いを新たにしました。

基本的に人見知りのコミュ障ジジイなので、これまでの現場は全てぼっち参戦だったのですが、自分が並んだ物販の列で、いつもtwitterで温かいコメントを下さる方や、最近推し武道界隈でまきゆめ推しからonefive推しになって下さった方々と偶然隣り合う機会があって、思わず話しかけてしまいました。案の定安定のコミュ障発動で、しっかりお話もできず不愉快な思いをさせてしまったかな、と思うのですけど、解禁されたばかりの「未来図」のフルMVを一緒に見て感激しあったり、さくら学院の頃からの有名人父兄さんからシールをいただいたり、お手製うちわで有名な父兄さんにうちわの写真撮らせてもらったり、レアなアクリルスタンド勢揃いの写真撮らせてもらったり、さくらの結んでくれた絆を再確認することができました。お相手してくださった皆様、本当にありがとうございました。

ほんとにカワイイイラストですよねぇ。しかも吉田爽葉香さんのキャラがちゃんと表現されていて、愛情の深さ感じます。

 

これはレアだったー。

 

こちら、現場写真でございます。

 

開演待ちの時には、推し武道の眞妃ゆめ推しの方とお話することができたのですけど、その方のお話の中でも印象的だったのが、「アニメの推し武道も、コロナのせいで計画されていた色んなイベントや実写化の話が全部立ち消えになってしまっていたんです」というお話でした。コロナは僕ら父兄からデビュー直後のonefiveと直接会える機会を奪い、さくら学院という宝物を奪ったけれど、他の界隈でも様々な夢や希望が奪われていたんだなぁ。考えてみれば当たり前のことなのだけど、改めて実感した瞬間でした。

「そんな時に、突然、『推し武道』が実写化されるって聞いて、眞妃ゆめ推しの仲間と、『眞妃ゆめはどんな子が来ても絶対文句言うよねぇ』と言い合ってたんですよ」とおっしゃっていたその方は、そのお仲間と共に、いまやonefiveのKANOちゃんとSOYOちゃんを全力で推してくれている、と伺って、ちょっと不覚にも目頭が熱くなってしまった。さくら父兄にとって、この子達が他の界隈で受け入れてもらえるだろうかっていうのは本当に不安で、もちろん、原作ファンの期待を裏切らなかったonefiveの4人の努力や、原作をしっかりリスペクトしたドラマスタッフの方々の力もあるけど、何より、推し武道のファンの方々の優しさもあるなぁ、というのを身をもって感じた時間でした。

僕らの希望と期待のはるか上のパフォーマンスを見せてくれるonefive、今回も鮮やかなSPOTLIGHTの中でまさに宝石のようにキラッキラに煌めくパフォーマンスを見せてくれたのだけど、スケールが大きくなっても決して場に呑まれないのは、さくら学院から養ってきた集中力と表現力のたまものだね。それでもやはり大きな会場になると、KANOちゃんのダンスの輝きが映えるなぁ、というのも実感しました。パワフル、というのではなくて、動きのしなやかさと柔らかさで、ふっと視線がそこに引き寄せられるようなオーラを感じた。ハロプロで鞘師さんがエースと言われたのって、こういう吸引力を持ってたからかなぁ、と思ったり。

4人のパフォーマンスの成長を感じたのは、Just For Youと、缶コーヒーとチョコレートパンのアンサンブルで、柔らかで流麗なダンスを継続しながら、ハーモニーが全く乱れない。以前のパフォーマンスでは少し不安定感もあったんですけど、どんどん歌唱の安定感が増してきて、それがなめらかなダンスとシンクロして、ステージ上にすうっと心持って行かれるような感覚になりました。特にSOYOさんとGUMIさんの歌唱がパワーと安定感を増している感じがした。

圧巻だったのは「未来図」のパフォーマンス。どちらかというと今までの他の楽曲は、渋谷クワトロのような少し小さなハコに似合う感じもしたのですけど、「未来図」はフォーメーションダンスのパワーも音圧も段違いで、これは武道館クラスの空間でも十分勝負できるんじゃないかなぁ、と思った。

相変わらずトークで場を引っ張るMOMOさんのMC、今回はどれも胸つかまれる感動的なMCだったのだけど、中でも、武道館を目指す自分たちについてきて、と言われた時には本当にぐっときたなぁ。推し武道のファンの方も、「Cham Jamのメンバーが武道館に立つのは推し武道ファンの夢でもあるんです」とおっしゃっていたけど、BABYMETALの次に武道館でライブをするグループが、さくらのOG達の中から生まれる、というのも、さくら父兄にとっての夢で、onefiveはそんな二つの世界からの夢を託されたグループになったんだなぁって思った。人の夢や希望を背負うことは本人達にとって大きなプレッシャーだと思うし、僕らは彼女達に自分たちの夢を担わせちゃいけないとは思う。でももし、4人が同じ夢を持って自分たちの未来図を描いているのなら、僕らも4人の夢を実現させるためにできるだけのことをしてあげたいって改めて思いました。色んな世界の人たちが貴女たちを応援してるんだから。貴女たちは僕らの希望なんだ。コロナで破壊されたこの世界にもたらされた4つの希望の宝石たちの輝く軌跡を、どこまでも追い続けていけたら。onefiveの皆さん、素晴らしい時間と、夢と希望をありがとう。何があっても、僕らは貴女たちの味方だよ。

アメリカン ソング ブック 〜アメリカの哀愁〜


10月3日の夜、東京室内歌劇場のコンサート「アメリカン・ソング・ブック」を聴きに、渋谷の伝承ホールに行ってきました。ウチの女房が企画、構成、演出を務めた演奏会。ピアニストも歌い手さん達も、アメリカ歌曲という豊穣な歌世界を旅しながら、パフォーマンスのクオリティを上げていく努力や色んなチャレンジ自体も楽しんでいる雰囲気が伝わってきて、客席までいい気分にさせてくれる演奏会でした。

 

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演奏会チラシ。先日我々のGAG公演で、南の島の素敵なイラストを描いてくれた、長谷川和也さん作です。


第一部、冒頭から、おなじみのフォースターの歌曲メドレー。古き良きアメリカの家族を想起させる懐かしいメロディが続きます。スライドの画像も、歌い手の衣装も、クッションやラグなどの小道具も、開拓時代のアメリカの家庭の空気感を感じさせ、暮らしの中で歌われた名曲達の時代背景や当時の雰囲気を彷彿とさせる。この冒頭でいきなり、「そうか、だから寂しいんだ」って、急に得心してしまったんだね。


アメリカ歌曲、というのは女房の得意にしているジャンルの一つで、今回歌われた曲のいくつかは、女房が以前歌った演奏を聞いたことのある曲でしたし、つい先日このブログに書いたGAG公演でも、女房が歌ったのはアメリカ歌曲の佳品たちでした。そういう意味でも私にとっては馴染みの曲が多い演奏会だったのだけど、以前から触れてきたアメリカ歌曲には、どこかしらぬぐいがたい悲哀というか、哀愁のようなものを感じることがあって、それはガーシュインバーンスタインなどを聞いていてもそう思う。下手すればスザンヌヴェガのTom’s Dinerとか、かなり新しいアメリカンポップスにも、そういう喪失感のようなものを感じる瞬間があって、あの陽気なアメリカ人の作る音楽に時々垣間見えるこの哀愁ってなんなのかなぁって、以前からちょっと思ってました。


でも、フォースターの「家庭内曲集」という小さな冊子を抱えて新大陸に暮らしていた人達って、要するにみんな何かを捨ててきた人達だったんだよなぁ、と急に納得。ヨーロッパの故国を捨て、過去の自分を捨て、過酷な自然や危険に囲まれた新世界の中で、ただ家族だけを拠り所にして歌われた歌の数々。どれだけ陽気なメロディであったとしても、そこには「何かを失った」悲哀が根底に染み付いているのかもしれない。


アメリカの精神文化の大きな柱になっているユダヤ人の世界観とか、黒人文化の根底にも、必ず「祖国を奪われた」という根無草の感覚が伴っている。ユダヤ人のルーツや歴史への執着は、スピルバーグの映画の中にも色濃く出てくるし(「シンドラーのリスト」はもとより、「インディージョーンズ」の三部作はユダヤ教の聖櫃の探索から始まっている)、バーンスタインの「ウェストサイドストーリー」も「キャンディード」も、共通している大きなテーマは、「ここではないどこかへ」という、理想郷を求めて何かを捨てて旅立とうとする魂の物語でした。(だからスピルバーグがウェストサイドストーリーをリメイクするのは必然だったのだよね。)奴隷として故郷を奪われた黒人が生み出したジャズの世界も当然、そういう喪失感を故郷のリズムで埋めようとする試みから生まれている。


三橋千鶴さんが歌われた「思い出のグリーングラス」は、その喪失感を非常にわかりやすい物語で示してくれた名演だったのだけど、アメリカという精神文化の根底に流れる「喪失感」と、そこからくる哀愁が、フォースターの時代から既に潜在していたのかもしれないなぁ、というのが前半の感想でした。


後半は1920年代、Roaring Era(狂騒の時代)と言われた空前の好景気、世界中の富を独占したアメリカの当時の写真のスライドが映し出され、ガーシュインバーリン、ポーターなどの名曲が次々と歌われる。日本のバブル期を数倍したようなこの時代、なんでこんなにトチ狂っちゃったのかなぁって思ってたんですけど、これも何となく今回得心がいきました。第二部の冒頭、ピアニストの田中知子さんが、赤いミニスカートのショウガール衣装でいきなりピアノと反対側の上手から登場して、壇上でシルエットポーズを決めた瞬間に得心した。というわけでもないが。


単純に言えば、何もないところにいきなり400メートル近い高層ビルがドッカンドッカン立っちゃったアメリ1920年代と、もともとある程度、高度経済成長の蓄積があった果てに急に弾けた日本のバブルとでは、変化のスケールが違うってことなんだな。ゼロから400、というのと、140から240、なんてのじゃインパクトが違いすぎる。第二次産業革命とも言われる産業構造の大規模な変化と、その産物としての急激な都市化と、空前の好景気が全部まとまってやってきて、勢い余ってキングコングまでエンパイアステートビルのてっぺんに登っちゃう時代だったんですもんねぇ。そりゃピアニストもミニスカでサイリウム持って登場するわけだよ。違う、そこじゃない。


でもやっぱりこの時代の楽曲にも、どこか哀愁が消えないのがアメリカ歌曲の面白い所だよねぇ。フランスのエスプリでもない、イタリアの陽光の下の明暗くっきりしたコントラストでもない、ドイツの教条的な感じでもない。陽気で享楽的なのだけどどこかで破滅の予感や喪失への恐怖を抱えている感じ。まさにフィツジラルドのギャツビーの世界なんだよな。お金を散々費やしているけど、それは恐ろしく空虚なものに流し込まれているだけ、というような虚しさ。What’ll I doの迷い、When I grow too old to dreamの喪失感、The physicianの即物主義、Alabama songの強欲、そしてSpeak lowの渇望。共通するのはどこかで満たされない想い。


アメリカ人は陽気でポジティブな国民、と日本人は思いがちですけど、意外とこういう闇を内面に抱えている感じがあって、それがアメリカ歌曲の魅力を増している。そんな味わい深いアメリカ歌曲の世界を安定した歌唱力で表現しきった出演者の皆さん方に、まずは感謝です。どの方も素晴らしかったけど、あえてお二方。中西勝之さん、以前歌声を聴いてから多分10年以上経ってると思うけど、変わらぬ艶々した歌声、堪能しました。そして何より、三橋千鶴さん。どの曲のどのパフォーマンスも圧巻としか言えない。宝塚の男役のような発声から、会場の奥までキラキラと飛んでいくようなソットボーチェ。引き出しの多様さに驚嘆しました。凄い。


そして、企画構成、演出をこなした我が女房どの、お疲れ様でした。アメリカ歌曲を一つの鍵として、世界中から何かを捨てて集った人種のるつぼの中で「ここではないどこか」を夢見る彼の国の心情の底流まで感じさせる選曲と構成、見事でした。ソロで歌ったWhen I grow too old to dreamとPhysician のコントラストも、引き出しの多さで勝負する本領発揮だったね。我が家にあったクッションが全部無くなっちゃったり、いきなりキンブレが大量にリビングのテーブルに並んでたり、色々驚かされることもありましたが、全てこの日のためだったんですね。


客席のお客さまの拍手や手拍子もとても温かく、客席中央に座ってらした監修の藤井多惠子先生も、周囲がパッと明るくなる素敵なオーラの方で、舞台上の家族的な雰囲気がそのまま客席にも和やかな空気を生み出しているような、本当にいい時間と空間だったと思います。まだまだ名曲が沢山埋もれているアメリカ。新たな鉱脈を探すソングブックの旅は、今始まったばかり。次の舞台に期待したいと思います。

 

 

 

「DEAD OR ZOMBIE」〜僕らの隣にいるゾンビ〜

ジョージ・A・ロメロ、という名前は僕ら世代の映画ファンにとってカリスマの一つだったと思います。ジョージ・ルーカススピルバーグと並べても遜色ない、と言い切る人だっているかもしれない。なにせ「ゾンビ」というフィクションを僕らの日常の中に当たり前に存在するリアルとして創造してしまったんだから。そういう意味では、同じく僕らの日常に潜んでいそうな吸血鬼を生み出したブラム・ストーカー辺りと並べるのが正しいのかもしれないけど。彼のゾンビ三部作は何度も繰り返し見ましたけど、ショック演出や特殊メイクだけではなく、三部作に共通して流れる終末観や死生観、社会風刺の毒と、人間存在自体の罪深さと悪魔性に対する絶望、それでも明日にむかって生きようとする希望のメッセージが、何度見ても強烈に胸に迫ってくる。ゾンビがその後、映画だけでなく我々の日常の中に定着したのも、この三部作が極めて優れた寓話だったからだと思います。

 

佐藤智也監督の短編映画「DEAD OR ZOMBIE」を知ったのは、さくら学院の卒業生、倉島颯良さんの初主演映画、という情報からだったんですが、夕張国際ファンタスティック映画祭で上映された際の映画評に、「42分という時間の中にゾンビ映画の全てが詰まっていた」(佐藤佐吉さん)という言葉を見て、これは見なきゃ、と思って行ってきました、新宿のK's Cinema。佐藤佐吉さんの言葉通り、あるいはそれを超えるほどに、ゾンビという寓話的存在に僕らの日常の隠喩をこれでもかとばかりに詰め込んだ、恐ろしく高密度の42分間でした。

 

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https://www.deadorzombie.com

 

以下の感想は若干ネタバレを含む可能性があるので未見の方はご注意下さい。また例によって異様に衒学的な知ったかぶり考察の嵐なので何卒広い心で読んでいただければ。

 

ロメロのゾンビ三部作において、ゾンビという存在は様々な概念のメタファーとして描かれていました。ざっと思いつくものをリスト化してみれば、

 

⑴大量消費と大衆社会の果てに、互いを貪る低知能な獣と化した末期的な人類(地獄が満杯になった、という登場人物のセリフには、人類の所業に対する神の怒り、という倫理観と終末世界観が見える)

⑵生存者という少数派人類を圧殺しようとするマスの暴力(生き残る側に黒人などのマイノリティが多いのは偶然ではない)

⑶生存者の友人や家族がゾンビ化する事で突きつけられる自分達自身の過去(その過去からどう決別して未来に向かうか)

⑷ペストが流行した欧州で人気となった「死の舞踏」モチーフへのオマージュ(花嫁姿やピエロ、アメフト選手といった様々なゾンビが行列している姿は、まさに「死の舞踏」)

⑸旺盛な食欲や首だけになっても生きている姿に、死んでいるのに感じてしまうシンプルで貪欲な生命力の象徴(マッドサイエンティストがゾンビを飼い慣らそうとする姿にはその生命力への憧憬すら感じられる)

 

このロメロ作品におけるゾンビに仮託された意味を踏まえた上で、「DEAD OR ZOMBIE」を見返してみれば、上記のような意味がしっかり引き継がれた上で、さらに新たな現代的な意味を加えたメタファーとして、極めてリアルにゾンビという現象が描写されていることに気づく。対応して書いてみます。

 

⑴終末世界の象徴としてのゾンビ:

引きこもりという状態で現代社会の歪みを背負っていた早希にとって、ゾンビが現れる前に、既にこの世自体が終わった状態だったという気がします。ゾンビが蔓延する世界は彼女にとっては既に終末を迎えたディストピアの先に立ち現れたものであって、ゾンビ自体が持っている終末世界観、というのはある意味引き継がれているとも言える。ただ、その意味は、後述する、よりリアリティを持った他の意味の背後に若干隠れている感じはする。

 

⑵マイノリティとしての生存者とマスとしてのゾンビ:

ロメロのゾンビ作品の生存者に政治的弱者やマイノリティが多い、というのは、ある意味究極の社会的弱者である「引きこもり」の早希のキャラクターに引き継がれている気がします。でも面白いなぁ、と思うのは、「個性」であるとか、「生きる目的」みたいな大義名分を求めてくるマスの暴力に対して引きこもるしかなかった早希だったのに、食人という欲求だけに単純化して無個性化したゾンビと相対していると、早希の気持ちが居心地よくなって、むしろ能動的に行動できる、という逆説なんだよね。結局生きるってことって色んな大義名分やお題目じゃなくて、もっとシンプルなものなんだよ、というのを、ゾンビと相対している間に早希自身が気づいていくような。

 

⑶自分自身の過去を映す鏡としてのゾンビ:

DEAD OR ZOMBIEで最も現代的だなぁ、と思ったのがこのテーマで、あんまり言うとネタバレになってしまうけど、早希自身がゾンビ化した家族と向き合っているうちに、その家族の中に自分自身の過去を再発見して、その過去を踏み台にして外界へ飛び出していく、というのが物語の大きな軸になっている。ゾンビ家族ドラマ、というこの映画のメイン設定が、このゾンビの基本設定をベースにしているのは確か。

でも佐藤監督は、物語の中にもうひとひねりを加えていて、それが早希のお母さんのドラマなんだよね。早希に対して何度も、「目的をもって生きなさい」と言い続けるお母さんが、人間だった頃の回想で、カウンセラーに対して、「私自身も目的なんか持ってなかった」と自省するシーンは、ゾンビ化したお母さんが「娘を救う」という極めてシンプルな目的だけに向かって行動するクライマックスの姿と対比されていて、ゾンビ化することによって衝動がシンプル化し、逆に強まる「生きる」目的、あるいは、ゾンビ化することで崩壊した家族が逆に理想の家族に再生してしまう、みたいな逆説の意味付けが無茶苦茶面白い。

 

感染症との関連:

佐藤監督も色んな所で、コロナとゾンビを並べて語っているけど、ゾンビという感染症に向かって相対する早希や、描かれる行政の対応なんかも、明らかにコロナによるロックダウンを連想させます。もともとペストが生み出した「死の舞踏」というモチーフへのオマージュを強く持っていたゾンビという題材が、感染症パンデミックという共通項で再びこのコロナの日本のゾンビ映画となって結実するっていうのが本当に面白いなぁって思います。

 

⑸生命力の象徴としてのゾンビ:

(3)でも書いたように、ゾンビの欲求はシンプルなだけに、逆に人間の持っている様々な雑念をきれいに取り払ってくれるような爽快感もある。ラストシーン、早希を「命がけ」で外界へ送り出した家族達がどうなるか、というオチにも、「ゾンビをなめちゃいけないぜ」みたいなリスペクトすら感じたりして。

 

上記のように、ロメロゾンビの意味世界をしっかり踏まえた上で、それに現代日本ならではの社会問題をダブらせたのがこの作品なのだけど、それがしっくり馴染んでしまうのは、ゾンビという題材の持っている許容力なのかもしれないですね。ゾンビ化した家族を「介護」する早希の姿には、ヤングケアラーの苦労も重なったりするし、それは早希のお祖母ちゃんが認知症の要介護老人である、という設定からも確信的に意識されている。そしてさらにこの映画のディストピア観にリアリティを与えているのが、311で僕らの目の前にまで迫った、リアルな「世界の終わり」の姿なんだよね。隔離されたゴーストタウンで孤立しながら生き抜く早希の姿にも、そこに現れる米兵の姿にも、311の福島や東北の状況がはっきりとダブって見える。そういう意味で、この映画は現代日本でしか作れないゾンビ映画、ともいえるかもしれない。311を知る日本だからこそ付け加えることができた、ゾンビに対する新たな意味。

さらにもう一つ、佐藤監督がゾンビに対して新たに加えた意味が、「俺たちだってゾンビみたいに、生きてるか死んでるか分からないような生き方してない?」という問いかけ。死と生のはざまにあって、ただ人を食うことしか考えられないゾンビは、早希にとって以前から人間よりも近しい存在だった。最初にこの映画のタイトルを見た時、「DEAD OR ALIVE」のパロディかな、と思ったんですけど、パロディどころじゃない、真正面に、「DEADも分かる、ZOMBIEの方が今の自分に近いから分かるさ、じゃあ、ALIVEってなんだよ?」という問いかけがこのタイトルそのものに内在しているんですよね。それが明確に示されるのがラストのクレジットロールで、このクレジットロールと、米兵を前にした早希の強い視線が重なった時、描かれなかった早希の力強い声がはっきりと聞こえた気がして、思わず目頭が熱くなりました。

この映画を、低予算映画にありがちな薄っぺらいドラマにしなかったのは、佐藤監督の作劇の見事さや、江川悦子さんによる迫真のゾンビ造形も大きな要因だと思うけど、何より、倉島颯良さんの存在感による所が大きいと思います。同じくゾンビをテーマにして話題になった「カメラを止めるな」が、凄く面白かったんだけど、どこかで物足りなさが残ってしまったのは、倉島さんのように、存在するだけで画面に説得力を与えてくれる役者さんがいなかったせいもあると思う。ほぼ一人で物語を進めていく倉島さんには、感情を顔の表情や動作といった形で作っていこうとするあざとさを感じない。もちろんそれも役者として重要なメソッドではあると思うし、さくら学院のダンスレッスンで美しい身体の所作を叩き込まれている倉島さんには、計算された動作をしろ、と言われればできる能力もあると思います。でも、早希の動きにはそんな衒いや力みがまるでない。本当に淡々とした無駄のない身体表現の中で、倉島さんの感情は、ただその強い瞳の輝きの奥から迸ってくる。外からではなく内側から湧き上がってくる感情。だからこそラストシーン、しっかりと前を見据えた早希が、はっきりと力強く叫ぶ声が聞こえる気がしたんだと思います。「I’m ALIVE!」と。

 

DEADからZOMBIEへ、そして、ALIVEへ。これもまた、ロメロ監督のゾンビ三部作が持っていた「死に満たされた世界での生きる希望」というテーマでもありました。佐藤智也監督、江川悦子さんはじめ、胸に残るゾンビ作品を生み出してくださった皆様に感謝です。そして何より、昔の映画少年だったオッサンの心をこんなに熱くする作品に出会わせてくれた倉島颯良さんと、さくら学院に感謝したいなって思います。