シャンソン・フランセーズ/うたは時をこえて~平和だと音楽は面白くなるんだよなぁ~

先週はうちの女房が出演する2つの演奏会に行ってきました。7日(火)の「シャンソン・フランセーズ14 夢の中に君がいる!?」と、8日(水)の「うたは時をこえて~昭和100年の記憶~」。ここでは7日のシャンソン・フランセーズの感想を中心に、少しだけ8日の演奏会にも触れようと思います。エンターテイメントとアカデミズムと、両極に振れた対照的な演奏会だったんですけど、ちょっと共通の感想持ったりしました。それがタイトルにも書いた「平和だと音楽は面白くなるんだよなぁ」という感想なんだけどさ。ホントにこの感想文はその着地点までたどり着くのだろうか。まぁとりあえず書き進めてみます。

ピアニストの田中知子さんがプロデュースしている「シャンソン・フランセーズ」も14回目。うちの女房が常連出演者の一人で、そのご縁もあって、この日記でも何度も取り上げているシリーズなんですけど、コミカルな定番曲を中心に、かなりエンターテイメントに徹した演奏会、という印象があります。実際田中さんもSNSで、「真剣にバカなことを考えました」なんてことをおっしゃってたので、まぁ今回もどれくらい笑えるかしら、と楽しみに参戦したんですよ。

もちろん、定番のコミックソング「ジャポン旅行」「Ale Ale Ale」「侯爵夫人さま、すべて順調でございます」とか、思いっきり笑わせてくれたんですけどね。特に今回初参加の赤星啓子さんの破壊力が凄まじくて、やっぱり歌の上手な人って何やっても突き抜けちゃうんだなぁと納得。

ウチの女房も頑張っておりました。振れ幅で勝負。

だけど、個人的には、かなりアカデミックに、歌そのものにしっかり聞き入ってしまった、というのが全体の印象なんですよ。その要因っていくつかあると思うんだけど、1つには、今までの「シャンソン・フランセーズ」と違って、演奏会全体を一貫した「物語」や強いメッセージで統一していない「ように思えた」のが一つの要因かな、と思った。戦争の悲惨を歌うシャンソンらしい語りの歌を物語的な意図を持って並べることで、平和へのメッセージを強くアピールする、といった構成ではなくて、単純に美しいシャンソンの名曲が沢山並んでいて、曲そのものに集中することができた、という印象だったんです。

もう一つは、今回出演された男性歌手3人が全員ミュージカル畑で活躍されている方々だ、ということもあってか、米国ミュージカルを代表するソンドハイムの曲が挿入されたり、フランス・シャンソンと異なる曲がアクセントになっていた、というのも大きな要因な気がする。過去のシャンソン・フランセーズでも昭和歌謡とかが挿入されたり、今回も美輪明宏の黒蜥蜴の唄とか、森山良子の「Ale Ale Ale」とかが選曲されているのだけど、自分的にはあまりシャンソンと対比した音楽として聴いていなかったんだよね。今回ソンドハイムが挿入されることで、アメリカ音楽の影響を間違いなく浴びながら、それでもやっぱりフランス音楽であり続けたフランス・シャンソンやフレンチポップスの「フランスらしさ」みたいなものがチラッと垣間見えた気がしたんです。

自分は音楽を聴き分けられる耳を持っている人間ではないので、どこが違うってはっきり言えないんだけど、シャンソンの和音進行とか構成に、なんか「これドビュッシーみたいだなぁ」って思う瞬間が何回かあったんだよね。そう思って聞いたからなのかもしれないんだけど、「やっぱりシャンソンってラヴェルとかドビュッシーと地続きなんだなぁ」ってちょっと思った瞬間があった。

もちろん、ドビュッシーラヴェルも、同時代に欧州に入ってきたジャズなどのアメリカ音楽の影響を受けていたわけだし、ミュージカルの原点はパリでオッフェンバックが始めたオペレッタなので、全部つながってはいるのだろうけど、三橋千鶴さんがカッコよく歌う「ホテルノルマンディー」とか聞きながら、フランスとかアメリカとかウィーンとか色んな文化がグチャグチャになっていく中で、フランス・シャンソンとかフレンチ・ポップスとかが、自分自身の「フランスらしさ」みたいなものを自覚しながら、どんどん面白くなっていったのかもしれないなぁ、って思ったんですよね。

でもねぇ、そういうクロスボーダーというか、国境を越えて色んな文化が交流し、影響し合う中で新しいものが生まれてきたり、そこで自分自身のアイデンティティを見直したりするっていう機会が持てるのって、世界が平和だからだよねぇ。自国優先主義、とか、戦争という他文化の完全否定行為が蔓延する世界では、文化自体も閉塞してしまってどんどんつまらなくなってしまう。江戸時代だって鎖国だったじゃないか、なんて言う人もいるかもしれないけどさ。江戸の浮世絵が無茶苦茶面白くなったのは、200年間の平和の中で長崎からもたらされた西洋絵画の遠近法とかを貪欲に取り入れた浮世絵師達の、異文化への渇望があったからなんだよなぁ。やっぱり音楽含めた芸術文化って、世の中が平和で、色んなアイデンティティ持った人たちが相互に相手の持っているものを面白がって取り入れていく文化衝突が起こるからこそ面白くなっていくんだよ。

そこでふと思う。ひょっとして、私は田中知子という策士の術中にハマったのではないか?

シャンソン・フランセーズ、というタイトルを持ちながら、このシリーズはシャンソンに留まらず、色んなジャンルの音楽を貪欲に取り込んで、カオスのような空間を作り上げることを信条としてきたような気がする。それって、田中知子という人が、よく言われる「音楽に国境はない」という言葉をステージ上に具現化することで、「国境のない音楽を産み出すことができる平和のパワー」を聴衆に刷り込もうという策だったのじゃないか?「私たちは平和な国に住んでるからこそ、シャンソンもミュージカルも歌謡曲も国境気にせず楽しめるんですよ~」なんて。今回の演奏会には一貫した「物語」や強いメッセージがないように思わせているけれど、実はそういう裏テーマがしっかり隠されていたのじゃないのか。

演奏会終了後に田中さんがSNSに上げたこの写真に、「わたくしは本気で音楽による世界平和を願ってるのだ」と書かれていたのを見て、ますます自分はこの策士の術中にハマったのだと確信するに至る。夢という深層心理の中に無意識に刷り込まれていた、「夢の中に田中知子がいる!?」という裏テーマ。

でも、そういう感想を持ったのは、翌日8日に女房が出演した「うたは時をこえて~昭和100年の記憶~」という演奏会が、明確に、第二次大戦で命を散らせた才能あふれる日本人音楽家たちへの鎮魂演奏会として企画構成されていたことにも影響しているのかもしれないんですよね。

企画の松井康司先生がMCで、戦場で命を散らした音楽家たちがもし生きていたら、戦後どんな素晴らしい歌曲を書いてくれただろう、と語った時、その作曲家が夢見ながら失われてしまった音楽の輝きを思ってちょっと胸が熱くなった。演奏会の最後にうちの女房が歌った木下牧子の「夢みたものは・・・」は、昭和という過酷な時代に、様々な人たちが見た夢に対する鎮魂歌として、しっかりと胸の奥に沁み入りました。

ピアノが歌と同等あるいはそれ以上に活躍する日本歌曲たちを支えた、ピアニストの前田美恵子さん、大下沙織さんも素晴らしかったです。

7日と8日の対照的な演奏会、奇しくも「夢」という言葉が共通していたなぁ。そういえば今放送されている仮面ライダーゼッツのテーマも、「夢」なんだよね。今は平和で自由に夢を見ることができる時代だと思っているけど、「平和」も「夢」も、努力しないと実現しないものなんだよなぁ。

清濁合わせ飲むって言葉が時々イヤになるんだよなぁ〜クラシック音楽団体の悩みとか推し活とか「その着せ替え人形は恋をする」とか色々〜

今日は少し前からモヤモヤ思ってたことを文章にまとめてみます。まとまるか分からんけどね。共通してるのは、パフォーミングアートにおいてスケールアップを目指す時に必ずぶつかる課題・・・というと偉そうなんだけど、実際に取り上げるのは推し活やサブカルも絡む下世話な話ですので、まぁ気楽にお付き合いくださいませ。

自分は趣味でオペラ団体や合唱団に所属してるアマチュア楽家で、身内にオペラ歌手がいたりすることもあって、色んな演奏会に出かけたり、自分の団体にお客様を呼んだりするんですけど、時々客席の反応に首傾げることがあったりします。端的に言っちゃうと、パフォーマンスの本質とはズレたところに反応してるお客様を結構見かけるんだよね。

マニアックなクラシック愛好家みたいに、クラシック音楽やオペラを聴きにくるんだったらモンテヴェルディからフィリップグラスまで全部勉強した上で、演出の意図まで含めた舞台表現に集中せんかい、みたいな上から目線なことを言うつもりはなくて、私自身クラシック音楽の知識がそんなに豊富なわけじゃないんです。結構物知らずで、基礎をしっかり勉強している身内に「あんたそんなことも知らずにオペラやってるんか」って呆れられることもいっぱいある。でも、そういうレベル以前の問題として、明らかに舞台表現以外の所を目的として会場に来ているお客様が結構いるんだよなぁ。

出演してる友達に誘われたと思われるお客様が、その人が出てくる場面だけで反応してる、なんてのは全然カワイイ方で、お友達と思われる若手の歌い手さんの出番が終わったら途端に客席から一斉に退場する若者達(後半のベテラン歌手のパフォーマンスの方が数百倍聞き応えあったのにねぇ)とか、開演した途端に熟睡し始めて、終演後に清々しく目覚めて、客席の知り合い集めて応援してる出演者と飲みにいく相談してるおじさんとかもいる。大学オケに所属してた娘に聞いて笑っちゃったのが、学生の女性弦楽奏者に特化した追っかけさんで、都内の大学オケ演奏会を制覇してるおじさん(必ず最前列のバイオリンの目の前に座るので有名になった)なんていう極端な例もある。まぁさまざまな人達が客席を埋めるわけですよ。

元々クラシック音楽やオペラの劇場は社交場として機能していて、音楽そのものを楽しむというよりその華やかな「ハレの場」に集うこと自体を楽しむ性格を持ってるってのは理解してるんだけどね。上から目線の発言になることを恐れずに言えば、パフォーマンスの価値を評価できる目と耳を持たないお客様がなんとなく客席埋めてることって結構あるんですよ。明らかに首を傾げるようなクオリティのパフォーマンスにブラヴォー叫ぶお客様見るとむっちゃ白けるし、素晴らしいパフォーマンスをした歌手に向かって「衣装が地味でつまらなかった」とか言ってるお客様見るとかなりガッカリしたりする。逆もあって、パフォーマンスは全然褒められないのに衣装だけやたら褒められるとかね。

でもねぇ、そういうお客様でもチケット1枚分のお金払ってくれるお客様なんだよなぁ。親の七光り、なんて分かりやすい現象で、ショウビズで成功したお父様のファンだったから、娘さんの出演するオペラ舞台見に来ましたっていうお客様が500人いますって言われたら制作方としては大喜びだし、娘さんの実力にはある程度目をつぶってでもいい役当てがおうって思うよね。結局のところパフォーマンスアートって、見てくれてお金払ってくれるお客様が一定数いてくれないと継続していけない活動で、だからこそチケットをどれだけ売れるか、どれだけの規模のファンベースを持っているかっていうのがパフォーマーの大きな価値の一つになる。

合唱団やオペラ団体みたいなパフォーマンスグループの存続、という側面でも、この「音楽に興味のない人達」をどれだけ取り込むかってのが課題になることがある。お客様としてじゃなく、団員としてね。合唱団とか、やっぱり人数がある程度いないと演奏できない曲とか結構あるし、高度成長期にいっぱい生まれた合唱団とか、みんな高齢化してるから、若返りという課題も含めてどこも新人勧誘に必死。でもねぇ、アマチュア団体だもの、オーディションとか面接で人を選ぶことなんかできないから、よく分からない人が入団してきたりすることもたまにあるんですよ。音楽やパフォーマンスが「好き」という目的と違う目的で入ってきた団員さんがトラブルのもとになって苦労したアマチュア音楽団体なんて掃いて捨てるほどある。また「貴方やめて下さい」とは言えないから余計に困るんだよねぇ。

以前関わってたオペラ団体の主宰者に、「最近音楽やオペラに興味ない団員さんが結構入ってきちゃって」ってお悩み相談受けたことがあったんだよね。オペラって総合芸術だから、音楽にも演技にも興味なくても何かしら役割を受け持つことが可能だったりする。なんらかのコミニティーへの帰属意識とか、もっと下世話な、気になる異性に誘われたから、なんていう団員さんが増えてきて、「オペラの話をしても通じない人達をどこまで受け入れていいんだろうか」みたいな悩みを口にしてたんですよ。その時に私がそんなに深く考えないで、

「大きな舞台作りたいなら、『清濁合わせ飲む』覚悟で人増やしていくしかないんじゃない?」

って言った言葉が、その主宰者の琴線に触れちゃったらしいんだよね。ピュアな「オペラが好き」っていう人達ばっかりじゃなく、色んな思惑で加入してくる人達も受け入れないと、大きな舞台は作れないぞっていう覚悟が、あの時の言葉で決まったんだよって後から言われて、なんて浅はかな言葉で人の人生決めちゃったんだって頭抱えた苦い記憶。

「清濁合わせ飲む」、つまり色んな人材を受け入れるっていうのは、今流行りの、ダイバシティがイノベーションを産む、という文脈で言っても、ネガティブな効果ばかりではない。実際、その人が主宰する団体は、そこからバンバン大規模な舞台を作り上げていったし、決して悪いことばかりじゃなかったんだけど、でも、自分が本当に好きなことについて語れる人が少なくて、かつ思惑の違う人がぶつかり合うトラブルにも頭悩ませないといけなくて、主宰者のストレスは相当大きかったと思います。何かしら大きなことを実現しようと思うと、色んなノイズというか、「この人ちょっとズレてる」みたいな人達も身内に取り込んで行く覚悟がないとダメなんだよなぁ。

自分はそういうストレスや、嫌な言い方をすれば「八方美人」的に振る舞う覚悟ができなくて、ある時から自分の活動を、気心知れたお客様や共演者と好きなことを楽しむサロンコンサートに限定してしまったんだよね。そりゃ楽しいんですよ。お客様は温かいし、共演者とのコミュニケーションも円滑で、純粋にモノづくりのプロセスを楽しめる。でもねぇ。スケールアップできないんだよねぇ。せいぜい30人前後の常連さんと一緒に楽しむ小さな空間に閉じてしまう。好きなことやってるから充実感はあるんだけど、これをさらに大きな会場へ、より沢山の人達に届けようって思うと、やっぱり「来るものは拒みません」の全方位でやっていかなきゃいけないんだよね。

そういう意味で言うと、ビジネスとして自分達の活動をスケールアップさせるんだっていう覚悟を決めた若いアイドルさんの人間としての器の大きさには感動するんだよなぁ。私の一番推しのさくら学院OGの@onefiveとか、4人ともまだ20歳そこそこのお嬢さんなのに、60歳の白髪のジジイにまで分け隔てない笑顔向けてくれる。同世代の女の子や若者のファンの方が嬉しいに決まってるのに、こんなニヤついた気色悪いオッサンが近づいてきても嫌な顔一つせずニコニコ対応してくれるって、「自分達がビッグになるためには、自分達を好きだって言ってくれる人達全てを愛するんだ」っていう覚悟と至高のプロ意識感じて本当に感動しちゃうんだよ。

プロでもそういう覚悟ができてない、というか、ああこの人はファンサ下手だなぁって思うパフォーマーはいて、ある歌い手さんが、なかなか再生数が伸びない配信ライブをやめるっていう最終回の最中に、「最後のライブだっていうんで久しぶりに来てみた」てコメントしてきたリスナーさんにブチギレちゃって、「あなたみたいな冷やかしのファンがいるからこのライブをやめることになったんだ!」って毒吐きまくったのを見たことがあって、まぁこれが普通の人間の感覚だよなぁって思ったんだよね。例え通りすがりでも冷やかしでも、自分のパフォーマンスを見にきた人には感謝しないとダメ。それがプロ。例えそれが自分の歌や楽曲じゃなくて、その人の性的魅力に寄ってきた望まざる客であったとしても。でもなかなかそこまでプロに徹するってできるもんじゃない。だから@onefiveの4人ってホントに天使だよなぁって思うんだよ。

自分のやりたいこととか好きなことをビジネスにするっていうのは、どうしても「好きだけでは食っていけない」という局面を生み出してしまう。少し前まで小学生の人気職業だったYouTuberが人気凋落してる、っていうネットニュースもありましたけど、「好きを発信するだけで食っていける」なんて思ったら大間違い。思わぬ人の変なストライクゾーンにブッ刺さってしまって、どう考えても「好きじゃない」人に笑顔を振りまかないといけない瞬間だって出てくる。「好き」を貫くことと、「好き」で食っていくことって根本的に違うこと。

もちろん、受け手側の問題だってあるよなぁ、とは思いますよ。先日炎上した湯川某のBABYMETALへの暴言とか見ても、いわゆる「評論家」って言われる人達が発信する情報のクオリティの低さに呆然としてしまう。耳がない音楽評論家って本来あり得ないと思うけど、耳がなくても新譜も聴いてなくても、人脈で蓄積した業界裏話垂れ流していればメシが食える「評論家」がうじゃうじゃいること自体、パフォーミングアートを受容する耳の肥えた聴衆がいない日本の「観客レベルの低さ」を露呈していて本当に気色悪い。

なんでこんな下らない長広舌だらだら書いてるかっていうと、実はきっかけは「その着せ替え人形は恋をする」っていう漫画だったりするんだよね。また漫画なんて低俗な、しかも半分エロ漫画みたいな「水商売」系のコンテンツについて語るなんて、こいつの文章はただの「まがいもの」だなって思った方はここで退場してちょ。この文章で自分は「清濁」の「濁」を受け入れる気ないので。あと、アニメで描かれてない最終話の話をするので、アニメで追いかけてる方もネタバレ回避でこの先読まない方がいいかもです。

アニメの第二期も絶好調だった「その着せ替え人形は恋をする」、原作漫画にもアニメ第一期にもズッポリハマって、以前この日記でも感想文書きました。

「その着せ替え人形は恋をする」~エロスの復権と理想の男性像、そして支える本気の技術~ - singspieler’s diary

今年の3月に大団円を迎えたこの漫画、最終話の展開で自分にとってかなり衝撃だったのが、主人公が自分の「好き」を極めた結果として、それを自分の生涯の職業とはしない、という選択をしたことだったんですよね。五条くんと海夢ちゃんが作り上げたコスプレは、世界を揺るがし、頑固な原作者の心も動かす傑作の境地にまで到達するのに、2人はそれを商品にしようとする世間の圧力に決してなびこうとしない。「自分のやりたいこととはちょっと違う」と言って、自分達の「好き」を本当に理解し共有してくれる温かいコミュニティの中での「趣味」に収めていこうとする。この「趣味」は、五条くんの雛人形の頭師という職業や海夢ちゃんのモデルという職業に間違いなくポジティブな影響与えてると思うけど、それ自体を商品として世間に売り出していこうとする動きは徹底的に遮断するのだよね。

過去のスポ根漫画の「好きを極めてプロになる」というプロトタイプのテンプレートをあっさり否定するだけじゃなく、番外編で漫画家達にマス市場に対する憎悪をこれでもかとばかり吐き出させる最終巻には、ある意味潔いまでに、「オレを理解しない奴に媚びは売らねぇ」「清濁なんて合わせ飲んでたまるか!」という、「好き」を貫く確固たる姿勢が見えて、それが衝撃的に爽快だった。今まで自分が好きで作り上げながら商業主義の圧のために世に出せなかった数々の愛するオリジナル作品世界を、「劇中劇」という形でこの漫画の中で成仏させてきた、と思われる福田晋一という漫画家の怨念さえ垣間見えたりするんだけど、そういうネガティブな側面を含みながらも、「好き」をマスに委ねることを徹底的に拒否する姿勢は恐ろしく清々しかったです。

自分の「好き」を貫く姿勢は、ダメな大人ヲタク達にも通貫しているのだけど、一つ象徴的だなぁって思ったのが、あまねくんの美少女女装が好きすぎて、どうしても課金しないと収まらなくなってしまった涼香さんが「これは お金です」っていいながら、あまねくんに直接お金を渡してしまうコマ。「好き」に対して「課金」という資本主義的な感謝の伝達手段がないとなれば、もう直接愛を伝えるしかない、という原始経済的な手段に訴えてくるヲタクの「好き」の底知れないパワーに脱帽。

マチュアであっても、お客様がいないと成り立たない音楽という「好き」を趣味にしている自分にとって、もう一度、自分の「好き」を沢山の顔の見えない人たちにまで届ける覚悟はあるのか、考え直すきっかけになった漫画でした。「好き」を仕事にして、目の前のお客様全員に幸せを届けようと努力している全てのパフォーマーさんの、「清濁合わせ飲む」覚悟に、改めて尊敬と感謝を示さねば、とも思いました。やっぱりオレにはそんな覚悟はないなぁ。

オペラ「半神」〜もっとキラキラした子供時代過ごしたかったなぁ〜

今日は青島広志先生のオペラ「半神」の感想を書くつもりです。先日開催されたブルーアイランドオペラ「うりこひめの夜」「半神」の二本立て公演、8月29日の公演を観劇。「うりこひめの夜」にも少し触れますけど、主に、今回日本初演となった、萩尾望都先生原作の「半神」について。

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舞台写真は公演公式カメラマンの佐藤桂さんの撮影のものをいただきました。

 

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「書くつもりです」なんて変な書き方したんですけどね。正直自分の中で沸き起こった感情の衝撃波がまだ収まってなくて、あんまり冷静に語れる気がしないんですよ。タイトル自体意味不明なこと書いてるしねぇ。時々「こいつなんか暴走し始めたぞ」みたいな文章になると思うけどどうかご容赦ください。なんとか自分の中のこの波立ちを整理していきますけどね。そもそもこの公演があった8月29日ってのが、自分の永遠の推しであるさくら学院が2021年に中野サンプラザで閉校式という名のラストライブをやった、忘れられない涙の日だったってのもめっちゃ影響してるんだよなぁ。

いかん、異世界にスリップしてしまった。ちゃんとヲタ以外の人にも通じる文章を書かねば。ちょっとテーマを整理しよう。

私にとっての「半神」

ユーシーの笑顔の衝撃

「原罪」=神殺し=知恵の実を食うこと

そもそも神を持たなかった自分

天使を知ったからこそ気づくこと

…書き切れるかどうか、不安は募るけどまずは最初のテーマから行きますよ。

萩尾望都の「半神」といえば、16ページの短編ながら萩尾先生の数ある名作の中でも屈指の傑作の評判が高かったし、「トーマの心臓」で人生狂わせたヲタの自分も当然発表直後から読んでました。でも正直、あんまりピンときてなかったんですよ。何かしらとてつもなく深いものを提示された、というぼんやりした印象はあったのだけど、人生がひっくり返るような衝撃作、という感じは受けなかった。野田秀樹の舞台化でも話題になったし、青島先生がトークで仰っていたけど、「きたがわ翔さんはこの作品を読んで『もう漫画家やめようか』と思うほど衝撃を受けた」そうなのだよね。でもそこまででの衝撃は感じなかったんだよなぁ。

萩尾先生がデビューからずっと取り上げてきた「双子」というテーマに新味を感じなかった、というのもあるし、ル・グウィンの「闇の左手」にも通じる光と影の二元論とか、自分殺しのテーマとか、萩尾作品としての分析には頭が回っても、この「半神」という作品自体が提示している「神話」にまで目が届かなかった。それは何より、ユーシーというキャラクターを充分理解できなかったせいだと思う。というか、ユーシーに自分の人生を奪われて彼女を憎み拒絶するユージーの心情にシンパシーを感じてしまったのが一番の要因だと思うんです。

自分の人生と命を削っている美しい妹に対する絶望と憎しみ、その美しい妹への周囲の賞賛への妬み。自分と血を分けた肉親が神に愛されることへの反逆、という意味で、カインとアベル的な物語としてこの「半神」を捉えていたのだと思うし、そういう見方もあるとは思う。でもそれだけだと、作品のラストのユージーの喪失感や深い哀しみが説明できないんだよね。

神に愛されなかった劣等感と嫉妬、妹を殺すことでそれを乗り越えながら、どこかに後ろめたさを背負っていくユージーの物語、という一面的な見方しかできていなかった自分が、オペラ「半神」で横っ面を殴られるような衝撃を食らったのが、ユーシーの笑顔だったんです。自分の身内が演じた役、ということもあって身内びいきの文章みたいになるかもしれんけど、大津佐知子という歌い手がこのユーシーというキャラに与えた神性が、萩尾望都の原作に対する見方を根本的に変えてしまった。

大津が演じるユーシーは、原作通りの無垢な天使としてのユーシーを、ただ美しい人形として描くのではなく、きちんと主体的な感情を持って生きている人間として舞台上に存在させていました。何も感じていない痴呆の笑顔ではなく、とにかく世界の全てが楽しくて仕方ない、という満面の笑顔でずっとニコニコしているユーシー。朝が来ること、パパやママ、なんだかトンチンカンなおばさまたちも含めて、世の中が楽しくてたまらない。みんなのことが大好きで、世界の全てが輝いて見えて、思わず笑顔になってしまう。そんなユーシーは、空っぽのきれいなお人形さんではなく、人間離れした天使でもなく、その笑顔で精一杯世界への愛を表現している一人の無邪気な人間の少女でした。

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そんな大津のユーシー造形のヒントになったのが、冒頭でユーシーが歌う5分にもわたる長大なヴォカリーズだったそうです。「ここまで書き込まないとユーシーは捕まえられない」と青島先生がおっしゃったという、イッツアスモールワールドのメロディも織り交ぜた明るく屈託のない美しいヴォカリーズ。稽古を重ねるうち、ユーシーから見えている世界の姿は、こんなに明るくて光に満ちた美しい世界なんだ、と、腑に落ちたのだそうな。

そして何より、ユーシーが世界で一番大好きなのが、お姉ちゃんのユージーなんだ、というのが、彼女がユージーに見せる笑顔から見えた時に、なんだか涙が溢れてきてしまった。このキラキラした女の子が死んでしまう、失われてしまう、という物語の結末が、自分の大事なものがなくなってしまう、という恐怖感に変わってしまって、なんかねぇ、「ユーシー、死なないで!」って思っちゃったんだよねぇ。ユージーが何を失おうとしているのか、彼女が失ってしまうものの大きさが、急に激しく胸を突いたんです。

ユーシーは天使じゃない、一人の人間なのだけど、彼女が無償の愛という神性を身につけることができたのは、彼女が知恵の実を食べなかったから。世界の全てを受け入れて、自分を切り捨て死に追いやるユージーすらも受け入れて死に向かうユーシーには、自分に向かう悪意や世界の残酷を理解することができない。そんな無償の愛を示してくれる「神」を殺してしまった、というユージーが背負った罪の意識は、同じ人間である自分の中にもあったはずの無垢な神性を失ってしまった喪失感として、キリスト教の原罪のように彼女の魂に深く癒えない傷を残す。カインはアベルを殺すことで神に呪われるけど、それは何より、カインがアベルを愛していたからだという気付き。

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でもねぇ、誰にだってユーシーのような無邪気な時期があったと思うんだよ。「あの頃は何もかもが輝いて見えたなぁ」っていう時期。周りのみんながカワイイカワイイって褒めてくれて、世界の色んなことが全部新鮮でワクワクする子供時代。宮崎駿が「崖の上のポニョ」で描いたのは子供の純真さと大人の醜さだ、と言った人がいたけど、そういう神性を帯びた子供時代から、成長して「知恵の実」の味を知った大人になることの喪失感、というのを抱えている人は多いと思うし、それが昂じるとピーターパン症候群みたいなことにもなっちゃうんだけどね。ユーシーを自分自身の失われた半身=半神と受け止めるユージーには、「大人になること」で失ってしまった、自分の中にあったはずの無垢な子供時代への哀切が、ユーシーの輝く笑顔という具体的な形で迫ってくるんだなぁ。

そう考えると、私自身に、そういう無垢な子供時代の記憶が全然ないことにちょっとショック受けたりする。本当にクソみたいに大人びたひねた子供だったんだよなぁ。早いうちから妙に大人の知恵をかじってしまったのかもしれないけど、自分の子供時代とか振り返ってみてもどこにも無垢なユーシーの笑顔なんてない。人間が最も神に近づける子供時代に、神から見放されてしまった自分。もっとキラキラした子供時代過ごしたかったなぁ。そうしたらユージーの喪失感にもっと早く気づけたかもしれないのに。

でもねぇ、そういうユーシーの神性と、それを失うことの喪失感に気がついたってのは、大津の演技も大きな要因だけど、絶対に失いたくない「神性を帯びた存在」を持つこととか、それを失ってしまった喪失感を経験したってことも大きいと思うんだよね。それって自分が親になったってこととすごく大きく関わってると思う。自分の娘の子供時代とか振り返ってみれば、本当に神に近い存在だったなぁって思うし、親としての娘への愛って信仰に近いものなんだよなぁ。無邪気な少女のひたむきなキラキラを届けてくれるアイドル推し活も影響してると思うんだよ。先述したさくら学院が閉校した時とか、関係する全ての人達に愛された奇跡の学校が失われる喪失感にしばらく立ち直れなかったりしたしねぇ。

話を戻すぞ。子供の頃に持っていた神性を失う物語、という意味で言えば、今回「半神」とカップリング上演された、諸星大二郎原作「うりこひめの夜」というのも同じテーマを内包している。「うりこひめの夜」にも、うりこひめとあまんじゃく、という、生命の樹を巡る善悪2つの神性の葛藤、という二元論が底通しているのだけど、登場人物が少なく閉じた世界で物語が凝縮されている「半神」の方が、より抽象度が高く思弁性が強い。日本のオッフェンバックである青島広志先生が、古今東西の音楽のパロディも駆使してカリカチュアライズする脇役たちが、よりユージーとユーシーの関係性の普遍性を際立たせる。「うりこひめ」では、一途な少年の純情を切なく見せた赤星啓子先生、女に変化する直前の少女の色気を嫌味なく見せた横山美奈先生の歌唱と演技に魅せられました。「半神」のドラマを真ん中で牽引した三橋千鶴先生の練達の歌唱にも脱帽。

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木原敏江先生やたちいりハルコ先生とのショット

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そして、この「半神」という現代の神話に新たな視点を与えてくれた我が女房どの。神を失ったことへの哀切をキリキリと紡ぎ出すキリエの合唱の中で、ユージーへ向けた慈愛の視線、胸に沁みました。貴女が作り上げたユーシーが、天界でずっとあの笑顔でいてくれることを、心から願っています。ユーシー、神様にいっぱい可愛がってもらうんだよ。

 

TIF2025&DASHBASH~アイドルってやっぱり物語を楽しむエンタメなんだなぁ~

8月1日はTIF2025に、そして8月2日は@onefive主催のDASHBASH(ゲストはAMEFURASSHIさん)に参戦。もちろんお目当ては最推しのonefiveなんですけど、TIFではonefiveをきっかけに知ったアイドルさんのステージも見られて、なんかやっぱり、アイドル業界自体が、推しのアイドルさんの成長を中心とする色んな物語を楽しむエンタメなんだなぁ、というのを再認識した二日間でした。

 

TIFでその認識を深めたのは、なんといってもAMEFURASSHIさんでした。HEAT GARAGEでonefiveの直前にパフォーマンスされたAMEFURASSHIさんのステージは、そこまでのアイドルさん達の元気とカワイイに振り切ったパフォーマンスと一線を画していて、なにより桁違いにパワフルな4人の歌唱力(小島はなさんの高音、愛来さんの太い柱になるパワー、鈴木萌花さんのキュートな高音、市川優月さんの迫力あるラップ)が圧倒的でした。そこに筋肉質で無駄のないダンス(パワフルなのに力が抜けている感じがあって武道家みたいなんだよなぁ)、カッコいい楽曲が加わって、ステージへの牽引力が半端なかった。しかも4人とも超美人。ステージのラスト、楽曲のアウトロと合わせて言葉もなく笑顔で退場していく姿が、剣豪が相手を一瞬で一刀両断して結果も見ずに立ち去っていくみたいでビビりまくりました。

 

この後にonefiveが続くのは正直プレッシャーも感じたんだけど、ローティーンから大舞台を経験してきたonefiveの四人はそんな杞憂を吹き飛ばすパワフルなステージを見せてくれました。パフォーマンスのクオリティの高さに加えて、客席のサイズに関係なく会場全体を一体化させる心理的な距離感の近さ、それを作り上げる4人のわちゃわちゃ感、親密感がこのグループの強みなんだなぁ。

 

そんな大人のパフォーマーのAMEFURASSHIさんが、急に少女のような姿を見せてくれたのが、TEAM SHACHIリスペクトステージ。今年12月に解散を決めているTEAM SHACHIの最後のTIFを祝して、スターダストのアイドルさんが一堂に会した豪華なステージの中で、あの男前の小島はなさんが、すっかり小学生のような顔で先輩アイドルさんに接しているのを見て、この人たちがそれぞれにアイドルとして歩んできた歴史や物語を垣間見た気がしました。

 

日本のアイドルという存在自体が、KPOPアイドルのように最初から完成形を作り上げるものではなくて、ローティーンの子供たちが様々な経験を経て大人のパフォーマーに成長していく物語を見守るエンタメなんだなぁ、というのは、「成長」をテーマにしたさくら学院の父兄になった時から感じてはいたのだけど、他のアイドルさんにもそういう物語が隠されていることを再認識。そもそも、日本の伝統芸能自体がそういう「成長」を見守る伝統を持っていて、歌舞伎なんか典型ですよね。先日の六代目尾上菊之助君とか、まだ12歳だけど堂々たる弁慶小僧だったしなぁ。

 

自分がそういう「推しの成長」の物語を見守っている今のメインは、もちろんさくら学院からずっと見守っているonefiveの四人なんですけど、一つのアイドルを追いかけ始めると他のアイドルさんと絆ができたり、新たに知ったアイドルさんの中にある成長物語に心惹かれたり、と、物語が広がっていく。自分の中に色んなアイドルさんの物語が「外伝」みたいな感じで膨らんでいくんですよね。そもそもAMEFURASSHIさんを知ったのも、onefiveが出演したドラマ「推しが武道館に行ってくれたら死ぬ」で知り合った推し武道ヲタの方が、ガチのColors(AMEFURASSHIのファンネーム)で、どんなグループなんだろう、とフェスで拝見したパフォーマンスのカッコよさに一刀両断されてからなんだよ。

 

そういう「外伝」として気になっている他のグループが、ukkaさんといぎなり東北産。ukkaさんは、2022年にonefiveが初めて参加したやついフェスで、onefiveの直前にパフォーマンスされているのを見て、王道アイドルのキラキラの中でひときわ輝いて見えた結城りなさんの笑顔にズキュンされてしまったんだな。今回のTIFでは、TEAM SHACHIリスペクトステージ以外に、HOT STAGEとSKY STAGEのパフォーマンスを見たんですけど、3年前に拝見した時より結城りなさんのパフォーマンスがスケールアップしていて、まさにその「成長」に胸熱くなりました。

 

ちょっと失礼な言い方になってしまうかもだけど、結城りなさんってアイドルとしていくつかハンデを持っている気がするんですよね。少し小柄で体形が華奢で、お姫様というよりは庶民的な顔立ち。でもこの人のパフォーマンスがいいんだよなぁ。歌声のパワーは確実にグループの声の柱になっているし、ダンスも、小柄な自分の体形をカバーするために、指先までしっかり見せ方を考えた腕の伸ばし方、ビートに対するキメの作り方、ものすごく考えて努力しているのが分かるダンス。この人は無茶苦茶負けん気が強いんだろうなぁ、って思うんだけど、そういう気の強さと裏腹の全開の笑顔がとにかくキュートで、今回のステージでもほとんど結城さんだけを目で追ってました。

 

そしていぎなり東北産。このグループはなんといっても、さくら学院の卒業生の山出愛子さんきっかけで推しになった遠坂めぐさんが楽曲提供している、というのが認知した理由で、これがどれも名曲なんだよねぇ。「コンビニエントエゴ」も「恋愛フィルター」もカッコいいんだけど、なにより伊達花彩さんが歌った「気楽にいこうよ」が最高に好き。そしてまたこの伊達花彩さんがオレのストライクゾーンど真ん中なんだよなぁ。ちょっと小柄だけどダンスがパワフルで、そして何よりそのガッツリした歌声。TIFのステージでも本当に輝いてた。しかしこう見るとオレってスターダスト系アイドルに惹かれる傾向強いんだな。

 

こうやって広がる「外伝」が、自分の追いかけている物語の本編にガッツリ絡んできたのが、8月2日に参戦した、AMEFURASSHIさんとonefiveの対バンイベントDASHBASH。このイベントの実現に、前述した推し武道ヲタのColorsの方の強烈なラブコールが影響していたのはたぶん間違いないと思う。そういう意味では、ヲタの願望が運営を動かして実現した、という本当に夢のコラボ。

 

Zepp Shinjukuの距離感で浴びるAMEFURASSHIさんのパフォーマンスは、カッコいいとキレイとカワイイが最高レベルで融合した超生命体のステージで、onefiveの目指しているクールなパフォーマンスの一つの到達点を見た印象もありました。そしてonefiveが持っている強みとして、高いレベルのパフォーマンスと合わせて、観客を煽って会場全体を一体化させる客席との距離感の近さ、というのも、TIFに引き続き再認識した気がします。

 

その2つのグループの強みが、コラボステージになったAMEFURASSHIさんの名曲「DRAMA」と、onefiveのカワイイが詰まっている「KAWAII KAIWAI」で融合した気がしていて、クールでカッコいいのにカワイイステージに客席も一緒に盛り上がって、この2つのグループが本当に姉妹のように相性がいいなぁって思ったんだよなぁ。AMEFIVEのコラボステージ、ホントにまた見たいです。

 

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撮影許可の出たコラボステージ、「DRAMA」。スマホ画質ですけど、AMEFURASSHIさんのパワフルな歌声と8人の楽しそうな姿は感じられるかな。

 

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もう一つのコラボステージ「KAWAII KAIWAI」。なかなか見られないカワイイAMEFURASSHIさんと、一体化した客席の盛り上がりも伝わるといいな。

 

さくらの卒業生や、onefiveの成長を見守っている中で、数々の「外伝」や、物語の進む先にある理想形に出会う。そういう出会いやグループ間の絆の物語の中に、またそれぞれのアイドルさんの成長の物語がある。今年15周年を迎えたTIFというイベントの歴史も含めて、アイドルってやっぱりそういう歴史や物語を楽しむエンタメなんだなぁ、というのを再認識した二日間の推し活でした。

青島広志「サド侯爵夫人」〜正義は容易に逆転する〜

今日は、東京室内歌劇場せんがわウィークで上演された、青島広志作曲「サド侯爵夫人」を観劇。その感想を書きます。やっぱり青島先生って日本のオッフェンバックなんだよなぁ。

女房が家政婦シャルロット役で出演する、ということで見にきたんですが、なんか、青島広志先生がこの作品に曲を付けるってのがすごく腹落ちしてしまった。価値の逆転、あるいは混乱。正義と言われたもの、常識と言われたもの、正統といわれたものへの反逆。青島先生がブルーアイランドでオペラの名作を解体再構築してしまう行動と共通して見えるんだよなぁ。

その反逆は非常に革命的にアナーキーに、世界や物語の秩序をひっくり返してしまうのだけど、でもその異議申し立ての核心にあるパッションはものすごくピュアな所から発している。だってその方が美しいよね、面白いよね、心地よいよね?と言う、子供のような純粋な疑問。

サド侯爵の悪行は非常に生々しく描かれるのだけど、それでもルネを虜にしてしまう甘美な誘惑に満ちている。悪とは何か、正義とは何か。様々なものがさかしまに逆転していく世界。そんな耽美で退廃的な三島文学を忠実に写しながら、青島先生の音楽はどこまでも端正で、日本語の語りと西欧音楽の古典的な旋律が見事に融合されていて違和感がない。第三幕の6人の女性アンサンブルは本当に美しかった。青島先生ってやっぱり日本のオッフェンバックなんだよなぁ。オッフェンバックオペレッタさながらに、普段キューピーとかおっぱいとか投げ込んでくるから目がくらんじゃうけど、しっかりホフマン物語みたいなど真ん中のグランドオペラを作り上げてしまう人。

革命の勝利を歌う「ラ・マルセイエーズ」が、貴族の血を求める血生臭い煽情的な歌詞で歌われる時、フランス革命自体が、貴族制度という旧来の価値観を逆転させた世界史上最大のメルクマールの一つだったことに思い至る。三島由紀夫は、戦前と戦後の天皇制の転換を受け入れられない自分と、落魄のサド侯爵を拒絶するルネの心情を重ねたのだ、みたいなことがwikiに書かれていたけれど、太平洋戦争による価値観の逆転っていうのは、今回の朝ドラの「あんぱん」の主要テーマでもあるよね。「正義は容易に逆転する、それならば変わらない正義とは、砂漠で飢えた旅人に、自分は傷ついてもあんぱんのかけらを手渡す愛と勇気じゃないのか」というアンパンマンのテーマ。そういう意味で、アメリカやウクライナイスラエルで起こっていることに対して、「サド侯爵夫人」という作品が投げかけているものって結構重いのかもしれない。

美しくも悪魔的な物語の中で、貴族に対する愛情と憎しみを一身に閉じ込めた家政婦シャルロットを演じたうちの女房どの、さすがの安定感でした。貴族を吊るせ、と叫びながら、足元に横たわるかつて愛した高貴な女性の死に向き合って、喪服でその死を悼む二重性。結局人間って、そんなに簡単に価値の転換についていけるわけじゃないんだよなぁって実感できる要の役。

価値の逆転、あるいは転換、というテーマで共通している萩尾望都先生の「半神」を青島先生がオペラ化し、近々発表される、というのもなんだかタイムリーだなぁって思いました。やっぱりこの東京室内歌劇場のせんがわシリーズはいいよねぇ。こういう佳品との出会いをくれる、とてもいいシリーズだと思う。

そつのないシンプルな演出でテーマを明確にした演出の太田麻衣子さん、素晴らしい伴奏の小林滉三さん、共演者の皆さま、女房がお世話になりました。青島広志先生の典雅だけれど悪魔的な魅力溢れる作品を、ありがとうございました。

推しが武道館に行ってくれたら~LIT MOON二周年ライブ・遠坂めぐホールワンマンライブ・onefive東名阪ツアー~

最近このブログで自分の推し活の話をあんまりしてなかったんですが、今回ちょっとまとめて書きます。最近自分が参戦した3つのライブが、共通して、「動員」という点を課題にしていたので、ちょっとそういう切り口で。

1つ目が、3月18日に開催された、さくら学院の卒業生の白鳥沙南さんが参加しているLIT MOONの二周年ライブ。ZEP SHINJUKUで開催されたこのライブは、「当日動員数が1000人を超えないと、LIT MOONは解散」という崖っぷちの課題が設定されていて、白鳥さんのSNSにも危機感がひしひしと伝わってきた。LIT MOONのステージは、1周年ステージと、TIF、という二回しか参戦してなかったんだけど、白鳥さんの活躍の場を守るためには行かねば、と参戦。

メンバーの気迫と成長を感じる熱量の高いステージで、LIT MOONというグループのバランスの良さやパワーを全身で感じられた素晴らしいライブ体験だったし、動員数も1004人、とギリギリ目標を達成してほっとしたんだけど、SNS上では、「メンバーを人質にとるような集客ってのはいかがなものなの?」という声もあったんだよね。やっぱりこういうショウビズの世界って、動員数が全てだし、動員ができないグループは生き残っていけない、という厳しい事実を分かりやすく見せてくれたステージだったなぁ、と思います。

 

2つ目が、3月30日に参戦した、遠坂めぐさんの初のホールワンマンライブ「陽が沈むまでキレハシズム」。

遠坂めぐさんのXから転載。時にしっとり、時に客席と一緒にノリノリで、老若男女問わず盛り上がったライブでした。(Photo by @kiba_pic )

ちょうど5年前の今頃に、さくら学院の卒業生の山出愛子さんに遠坂さんが提供した「ピアス」という素晴らしい楽曲に出会って、それで追いかけるようになった遠坂めぐさん。TikTokで「切れてるバターにキレてます」動画が大バズりして、その直後のライブハウスコンサートがsold outにならなかったのがトラウマだった、という遠坂さんが、浅草花劇場というホールを満席にしたいんだ、と毎週の配信ライブでも熱く語っていたんだよね。本番3週間前時点でまだsold outにならない、という状況に、配信ライブでも相当落ち込んでいて、これはなんとかしてあげたいってめぐ民さん達が頑張った結果、チケットはsold out。楽しそうな遠坂さんの歌声が、熟練のバンドメンバーの奏でる音圧に乗ってガツンと満員の客席に届いて、そりゃあ熱い本番になりました。

遠坂さんは以前から、「目標は武道館、そして紅白出場」と言い続けていて、今回のホールライブはその一里塚、と位置付けています。浅草花劇場は300席ちょっとのキャパなので、14000人を超える武道館までの道のりははるかに遠いのだけど、300席のホールを満席にして、そこに集ったお客様全員を満足させて帰すことができる人なら、14000人を満足させることだってできるんじゃないかなぁ、なんて思いました。

 

3つ目が、さくら学院時代からずっと推し続けている4人組ガールズグループ@onefive東名阪ツアーの東京公演。

BARKSさんのWEB記事から。会場一体になって大盛り上がり。

 

4月6日、渋谷Club Quattroで開催されたこの公演も、チケットsold outに持っていくために、これまで4人がやったことのない新しい試みとして、メンバーの一日店長、という企画を取り入れていました。各メンバーが色んなお店で一日店長をやって、そのお店のオリジナル商品とチケット引換券をセットで販売する、という企画。いわゆる握手会とかチェキ撮影会みたいな特典会をやってこなかったこのグループとしては、異例ともいえるくらい、メンバーとfifith(onefiveのファンネーム)との距離を詰めてくる企画で、店頭でメンバーと直接言葉を交わせる機会のために、何枚も引換券を購入したfifthも沢山いました。渋谷の会場前ではそんな引換券を新規のお客様に配るfifthの姿もあった。

この公演でも、メンバーから、「2年後、2027年春までに、武道館に行く」という目標が宣言されていて、ドラマ「推しが武道館にいってくれたら死ぬ」に出演した4人のリアル「推し武道」物語が正式にスタートしたなぁ、と思ったんだけど、これもやっぱり大変に遠い道のりなんだよねぇ。渋谷club quattroは収容人数750人。武道館の20分の1だもんなぁ。

遠坂さんとonefiveが同じ「武道館」という目標を掲げたのだけど、やっぱり1万人を超える動員っていうのは何かしら次元が違うアプローチが必要になってきますよねぇ。TikTokで2億回以上再生回数がある遠坂さんでさえ、ライブハウスを埋められなかったってことは、SNSってリアルの集客にそのまま結びつかないのかもしれないなぁ、なんて思ったりもする。SNSって無料だし、家で気軽に楽しめるから、有料のチケットを購入して、しかも外出して会場に足を運ぶ、というライブに送客するには何か別のアプローチが必要になる。遠坂さんの場合、最近全国で展開しているフリーライブの地道な活動が実を結んだのが、今回のホールワンマンライブsoldoutにつながったのかな、という気もするけど、武道館にまで行くにはやっぱり別のブーストが必要。

onefiveはドラマ「推しが武道館にいってくれたら死ぬ」出演が一つのブーストになったけど、こちらも、武道館にまで行くとなると、なにかもう一つ欲しいんだよなぁ。今回の一日店長っていう企画は面白かったけど、ある意味一定のコアなファンの犠牲に成り立っている企画で、あんまりやるとコアなファンが燃え尽きてしまっちゃうリスクもあるんじゃないか、と思うんですよね。LIT MOONの、グループの存続を人質にする企画ってのも何度も使える技じゃないですしねぇ。

自分もアマチュア楽家なので、自分が参加している舞台のチケット販売とか、自分が企画する演奏会の集客とか、結構頭抱えることが多いです。自分の実力に見合った小さな会場であっても、大きな団体が主催する大ホールであっても、その会場を満席にするっていうのはすごく大変なこと。でも、やっぱり会場を満席にすることには意味がある。もちろん採算がとれるっていう経済的な意味もあるけど、一番大きな意味って、その空間に集った人たちの満足感が変わるってことじゃないかなって思う。空席が目立つ公演って、いくら舞台上がすごく高水準の演奏をやっていたとしても、どこか空虚な感覚がしてしまって、客席の熱量が上がらない。その時間体験の密度が上がらないと、「もう一度この空間・時間に浸りたい」っていう気分にならない。

結局はそういう、「この空間・時間をもう一度」っていう体験を提供し続けて、そこにハマってしまう人たちを地道に増やしていくしかないのかもなぁ、とは思います。LIT MOONの子達なんか、労働基準法上大丈夫なのかよ、と思うくらいのライブ数をこなしているし、onefiveも、一つ一つのライブのクオリティの高さ、fifthとの一体感の熱さは半端ない。遠坂さんのフリーライブの親密さも本当に心地よいから、そういう体験をとにかく積み上げていくことは必須なんだろうねぇ。

正統派アイドル、シンガーソングライター、ガールズグループ、と、それぞれのアーティストのタイプは違うんですけど、3つの推しさん達が偶然、「動員」という課題に取り組む姿を見て、しかもそのうちの2つのアーティストさんが、「武道館」という共通の目標を掲げたものだから、色々考えてしまいました。地道な活動を積み上げていくとしても、どこかでそのアーティストの楽曲がガツンと売れることが一番なんだよなぁ。アニメやドラマの主題歌とか、いいブーストがないかなぁ。推しが武道館に行くまでは死ねないもんなぁ。

教養って遊べるんだよねぇ~ブルーアイランド版「ナクソス島のアリアドネ」~

最近ツイッターでちょっと話題になったのですけど、NHKで再放送していた「坂の上の雲」で、旅順港閉塞作戦に従事した広瀬少佐が、沈みゆく船の中に残った部下を探して「杉野はいるか!」と叫びながら船内を駆け回る、というシーンを見て、

 

「この話、ゆうきまさみの『超人あーる』でギャグになってた」

「『マカロニほうれん荘』でもネタにされてたぞ」

 

という話が盛り上がってたんですよね。子供の頃に読んだ漫画の元ネタを大人になって知って、「これが元ネタだったのか」と驚いたという話。当時の漫画家の方々の教養の深さを示している話でもあるのだけど、そのツイッターの中で、

 

タモリさんが『教養って、持っているとね、遊べるんだよ』とおっしゃってたのを思い出した」

 

というつぶやきがあって、確かになぁ、と思った。元ネタを知っているからそれをパロディにしたりオマージュにしたりして色々と「遊べる」。でもそれって、受け取り手もその元ネタを知っていないと「楽しくない」。教養のある人同士だとそういう豊富な元ネタを使ってすごく高度な遊びを無限に続けることができる。大好きでよく見ている山田五郎さんの「大人の教養講座」でも、絵画を見る上で知っておいた方がいい基礎教養がたっぷり盛り込まれていて、これだけのことを知っていると「楽しいだろうなぁ」と思うんだよね。知らないより知っている方が世界は間違いなく面白く見える。

1か月半もブログを放置しておいていきなり何を言い出したのさ、と思われるかもだけど、また例によって、先日観劇した、女房が出演したブルーアイランド版「ナクソス島のアリアドネ」の感想です。

公演チラシ。28日(金)夜の部を観劇しました。

 

リヒャルト・シュトラウスホフマンスタールのオペラの中でも色んな意味で「異色」の作品だと思うのだけど、オペラという表現自体をちょっと斜めに見た一種の「パロディ」作品であるこのオペラを、さらに青島広志先生がパロディにする、という構造自体がもう面白い。そしてリヒャルト・シュトラウス青島広志に共通しているのが、その尋常ではない教養の深さなんだよね。

青島広志先生プロデュースのブルーアイランド版オペラに共通するのは、ある意味徹底的にエンターテイメントに徹するというか、客席をいかに飽きさせないか、という点に一種偏執狂的にこだわる姿勢。今回も、「ナクソス島のアリアドネ」という素材をどうやってお客様が寝ないで最後まで見る演目にするか、ということに徹底して拘って、様々なパロディや情報をこれでもかとばかりに盛り込み、「次に一体何が出てくるか分からない」というワクワク感を最後まで継続する。「そろそろお客様が飽きてくるかも」と思うタイミングで突然「巨人の星」とかぶち込んできたりする。

そもそも、「ナクソス島のアリアドネ」という素材がパロディにしているギリシア神話という代物自体が、青島先生もおっしゃるように、日本人になじみがない。元ネタが分からないから飽きてしまう、ということで、途中で古今東西の名曲を繋ぎ合わせてアリアドネの物語を解説する「ギリシア神話講座」が差し込まれるのだけど、このパートはまさに「浅草オペラ」ばりのガラ・コミック・オペレッタ

でもここで、オペラの定番曲をよく知らない人には分からない「元ネタ」が出てきたりする。受け手である聴衆に分かりやすいように、と言いながら、青島先生ご自身の教養の深さが暴走して、青島先生の持ち込んだパロディに聴衆がついていけない、という状況も生まれてきたりする。客席とのコミュニケーションを深めようとして逆にディスコミュニケーションが発生してしまうあたりが、伝えることって難しいんだなぁ、と改めて思ったりしました。

冒頭でスポンサー役が口にする「アリアドネ姐ちゃん」というセリフの元ネタは、浅草オペラを沸かせたエノケンの「ベアトリ姐ちゃん」だよなぁ、と思ったり、2幕の聞かせどころになっていた「夜明けのスキャット」のコーラスは明らかに宗教曲のフーガのパロディ。バッカスがなぜ尻尾をつけて徳利酒を持っているのか、というのは、女房によれば「バッカス=化かす、で、狸だったんじゃないか」とのことなんだけど合ってるかな。他にも、私が理解できなかったパロディやネタが一杯盛り込まれていたんだろうなぁって思うんだよね。教養のなさが悔しい。

リヒャルト・シュトラウスが「ナクソス島のアリアドネ」に盛り込んだ、オペラを斜めに見る諧謔性は、一幕の音楽家を「モーツァルトなんです」と青島先生が明言することで理解しやすくなったと思います。そうすると後半のオペラのシーンでアリアドネの周囲で歌う三人の精霊が、「魔笛」の三人の女官に重なって見えるものね。モーツァルトを敬愛してやまなかったリヒャルト・シュトラウスが、ある意味モーツァルトのオペラセリアへのオマージュ(パロディというにはいい曲過ぎる)を詰め込んだオペラシーンで、三人の精霊の皆さんが見事なアンサンブルを聞かせてくれる。音楽に妥協しないブルーアイランド版の真骨頂。

そして何より、アリアドネ役の板波利加さん、バッカス役の中島康晴さんが素晴らしかった。途中で色んな雑音とか音楽以外の情報が盛り込まれてくるブルーアイランド版で、リヒャルト流の一筋縄ではいかない成熟した美しい旋律を、パロディとしての雑味もしっかり盛り込みながら歌い上げてしまう歌唱技術。オペラのメインキャストであるこの二人が太い柱をドーン、と立ててくれると、舞台の軸がぶれないんだよなぁ。

歌唱と演技のバランスが素晴らしかったです。

そして、ソプラノ歌手にとって超難曲と言われるツェルビネッタを見事に歌い上げた我が女房どの、本当にブラーヴァでした。一癖も二癖もあるリヒャルトの音階や高音域をしっかりクリアしていくだけじゃなく、一つ一つの言葉がきちんと聞こえる日本語訳詞のさばき方、四人の道化師たちを手玉に取っていく演技の計算された動作。客席のスタンディングオベーションは、青島先生が煽ったからだけではなかったと思うよ。

15分近い超高難度のアリア、お疲れさまでした。

ギリシア神話の真面目な物語を大道芸人たちがコケにする、という基本プロットに、ギリシア神話を笑い飛ばしてパリを笑いの渦に巻き込んだオッフェンバックオペレッタが影響していたのは間違いないんじゃないかな、と思います。オッフェンバックのパロディに当時の人々が腹を抱えて笑ったのは、受け取る聴衆側が元ネタのギリシャ神話を熟知しているだけではなく、パロディとして作られたオッフェンバックの曲が音楽的に極めて高度な名曲ばかりだった、ということも要因だったのじゃないかな、と思う。ギリシア神話講座のパートを見事に支えた小林滉三さんのピアノ、恐ろしく上手な男声合唱で大真面目に歌われる「巨人の星」や、大宗教曲と聞き間違うばかりに素晴らしい「夜明けのスキャット」の大フーガを聞きながら、青島先生って日本のオッフェンバックなのかもしれないなぁ、なんて思いました。青島先生、共演者の皆様、スタッフの皆様、女房が大変お世話になりました。これからも楽しい舞台を沢山届けてくださいね。

皆様お疲れさまでした!