五つのクリスタルはどこから来てどこへ行くのか~METALVERSE THE END OF INNOCENCE~

昨日、今日と豊洲PIT で開催されたMETALVERSE #2 THE END OF INNOCENCEに参戦。将来性溢れるこのグループが歩み出した新たな一歩を見届けてきました。5人の美少女達の輝きいっぱい浴びた上に、1日目は関係者席のアミューズキッズ達の天使ぶり目にしてメロメロになり、2日目は退場の時に颯爽と帰路に着く野崎珠愛さんを数メートルの距離で拝見して余りのカッコ良さに呼吸困難になるという至福経験重ねたので、理性的な文章書けるかどうか分かりませんが、例によって思ったことをダラダラと。

 

最初にちょっとネガティブなことを言ってしまうけど、このグループの最大の弱点は、グループ独自の「物語」を持っていないことだと思うんだよね。「物語」という言い方が分かりにくければ、「コンセプト」と言い換えてもいい。グループの誕生自体が、姉貴分であるBABYMETALの異世界における鏡像としての誕生だったし、そしてメンバーのほとんどが、閉校してしまったさくら学院を中学3年生になる前に卒業してしまった卒業生達、ということもあり、BABYMETALの物語やさくら学院の物語への依存度が高すぎて、このグループ自体がどんなコンセプトでどんな物語を紡いでいくのか、がはっきりしない。

 

BABYMETALが持っていた、メタルとカワイイの融合、というコンセプトや、キツネ様や、巨大勢力アイドルとの戦い、METAL RESISTANCE、と言ったギミックは、それが多少カリカチュアライズされたものであったとしても、彼らのパフォーマンスに強い推進力と軸を与えていた。それに、中元すず香菊地最愛水野由結岡崎百々子、という、それぞれ強烈な個性と才能に恵まれたパフォーマー自身の人生の物語が絡み合うことで、BABYMETALという壮大な叙事詩が生み出されていったのだと思います。

 

それに対して、METALVERSEは、BABYMETALの影、あるいはさくら学院への郷愁、という以外の強い物語を持たされていない。彼らが背負っているクリスタルがどこから生まれてどこへ行くのか、ギミックとしても提示されていないし、THE END OF INNOCENCE、THE GARDEN OF EDENというタイトルは、メンバーの成長物語を見守るさくら学院的コンセプトを暗示しているようにも見えるけど、メンバーが匿名性を保っているので、個々の成長を見守ることもできない。

 

匿名性、というのはパフォーマー個人の物語を切り離す仕組みなので、逆にグループそのものが物語を持たないと、グループの行き先が見えなくなってしまう気がする。パフォーマンスも楽曲も物凄く魅力的なんだけど、他のアイドル達やガールズユニットとの差別化ポイントってどこにあるんだろうか、と。ベビメタの妹分、とか、さくらの残党、という以外に差別化要因はないのかと。1日目を終わって、Xでかなりの方々が、「これでいいの?」という感想を上げていたのが印象的で、結局「コバさんはこの子達をどうする気なのさ?」というのが私自身も感じた一番の感想。同じさくら学院の卒業生で構成された@onefiveが、ある時、明確に、さくら学院生という過去の自分達からの決別を宣言し、周囲の先入観や偏見と闘い続けるZ世代女子の代弁者として自らを規定して、4人の個性を前面に押し出している姿勢の潔さとも比べてしまう。

 

とかなりネガティブなことを先に言ってしまったけど、こういうプロデュース面での弱点をねじ伏せてしまったのが、戸高美湖さんをはじめとする5人のメンバーのキラッキラのパフォーマンスでした。このグループの強みはなんといっても戸高さんの圧倒的なボーカルと、5人の美少女達がまさにクリスタルのように輝きながら魅せる美しいフォーメーションダンスのクオリティの高さにあって、しかもそのダンスは、揃っているのに表情の豊かさとダンスの個性で各人が際立って見える。八木美樹さんの華やかな笑顔、野崎結愛さんのアイドル能力の高さ、木村咲愛さんのパワフルなのに可憐さを失わない存在感、加藤ここなさんの末恐ろしいような妖艶さ。こういう才能と個性溢れるAmuse Kids達を材料にしたカワイイMETALの実験場、というのがこのグループのコンセプトと言えるのかもしれないのだけど、実験場という自己規定では匿名性は確保できても物語は生まれないんだよなぁ。

 

戸高美湖さんはさくら学院に転入した当初から、ASH仕込みの高い歌唱技術を持っている人でした。でもASH時代には歌唱よりダンスの実力の方が評価されていたらしいから、ASHってすげぇなぁって思うんだけどね。同じASH出身でも、中元すず香先輩のように、持っている声帯を自然に伸びやかに鳴らすストレートな発声ではなく、声門への圧力を変化させたりファルセットを巧みに織り交ぜたりする、どちらかというとハロプロやスターダストのシンガーさん達や演歌歌手の方々の歌い口を感じる歌い手さん。もっと簡単に言えば「コブシ」が魅力の歌い手で、中元パイセンのようなメタルに対する貫通力よりも歌のラインを聞かせていく歌い手だなぁと思います。言ってみれば、演歌とメタルとJ-POPがこの人の中で融合しているような。この人の歌声に笠置シズ子のパワフルな歌が重なったのは決して突飛な連想ではないと思う。

 

戸高美湖をはじめとして、八木美樹、野崎結愛、木村咲愛、加藤ここな、という、才能溢れるクリスタル達が、METALVERSEという形のはっきりしない場所を与えられて、この異世界でどんな物語を紡いでいくのか。大人の半端な思惑に潰されたり、凡百のガールズグループの中で埋もれてしまうには、この子達の輝きはあまりにも強い。ライブの最後、次回の予告映像に、今までプロフィール画像を見せなかった5人が、はっきりとその美しい姿を見せてくれたのは、このグループの物語を抑制していた匿名性を捨てて、これから5人の個性を前面にアピールしていこう、という宣言だったらいいな、と思ったりします。

 

5人の笑顔も、ステージ上で見かわす視線と微笑も、あの学校のキラキラした思い出と重なったよ。次に会う日まで、元気でいてね。

2023年の推しゴト~新しい物語の最初のページ~

2023年も暮れていきますが、今年の自分の推しゴトを振り返ってみれば、コロナ禍がひと段落して、どの推しも、それぞれの新しい物語の最初のページを開いた年だったなぁ、というのがまとめになる気がします。さくら学院の卒業生たちやこの学校に関わった人たちをまとめて推している自分ですけど、2023年に特に活発だった推し活は、BABYMETAL、遠坂めぐさん、新谷ゆづみさん、@onefive、の4つで、それぞれに強烈な印象を残した現場がありました。年末という機会に、それらを振り返ってみます。

 

(1)積み重ねてきた物語~BABYMETAL~

2023年はBABYMETALにとって、MOMOMETAL爆誕から、新生BABYMETALが世界を制覇した年として記憶されるメモリアルな年になりました。4月の横浜MMでのMOMOMETAL爆誕の瞬間は今思い出しても涙が出るんだけど、それって自分が、さくら学院岡崎百々子さんからMOMOMETALを知っている父兄メイトである、ということも大きいと思う。2023年は新たな物語の第一章ではあったけど、2010年から始まるこのグループが歩んできた道なき道と、2015年にさくら学院に加入した岡崎さんの歩んできた七転八倒の道が交わった所に生まれた物語だったからこそ、今の岡崎さんの笑顔が限りなく愛おしいし、その笑顔がすぅさまやもぁさまの支えになっているのが本当に嬉しいんだよね。3月の生誕祭が今から本当に楽しみ。そして妹分のMETALVERSEがどんな展開を見せるのか、来年もこのグループからは目が離せないなぁ。

 

(2)新章に戸惑いもあった物語~遠坂めぐ~

山出愛子さんの歌った「ピアス」以来、楽曲に魅かれてずっと推している遠坂めぐさん。2022年に「キレてるバター」でブレイク、2023年にも「もうすぐ花火はじまるよ」が再生回数45万回を超えて、すっかり世間に見つかった感じがあります。遠坂さんにとっても新しい物語が始まった年だったんだろうな、と思うけど、自分にとって、推しがこんなに急に世間に見つかるっていうのは初めての経験で、急激に変わる客層とか、配信ライブのコメントの様相とか、なんだか戸惑ったり、ちょっと心配になったりすることも結構ありました。

でもこんなジジイの浅はかな心配なんかぶっ飛ばすだけの底力のある人なんだなぁって実感した一年でもありました。「もうすぐ花火はじまるよ」が沢山のYouTuberさんに取り上げられたり、コラボ動画が作られたのは、遠坂さん自身の求心力と自己プロデュース力の賜物だと思う。歌唱力や作曲能力といったパフォーマンスの実力だけでは上がっていけない世界で、しっかり色んな方々のサポートを受けて確実に階段を上っている遠坂さんの物語、これからも見届けたいと思っています。

 

(3)現実を侵食する物語~新谷ゆづみ~

女優として活躍するさくら学院の卒業生、新谷ゆづみさんの演技には、こちらの現実を侵食するような感覚があって、ちょっと怖くなる瞬間があります。彼女のマネージャーさんが凄く優秀な方なのかな、とも思うのですけど、彼女が参加する企画自体が、日本の今の現実にスポットライトを当てるような素材だったり、もっと本質的な人間の心の底層をえぐるような、メッセージ性の強い素材が多い、というのも一因とは思います。でも、「異世界居酒屋のぶ」のようなファンタジーでさえ、同時期に猖獗を極めたコロナ禍によって、人が集い、人が癒される「場所」の大切さを訴えるその時期ならではの新たな「物語」となり、新谷エーファの笑顔は、その癒しの象徴にもなった。それは自分が与えられた場所や素材にリアリティを与えることができる、新谷ゆづみという俳優の稀有な存在感の力だと思う。

2023年の新谷さんの演技の中で、今も私の現実を侵食してしまって、どうにも消えないのが、9月に観劇した「怪獣は襲ってくれない」の「こっこ」という役。カーテンコール後の衝撃的な演技だけではなく、確かにこの新宿に「こっこ」が生きている、今もここにいる、という感覚を強烈に刷り込まれてしまって、新宿歌舞伎町を訪れるたび、あるいはトー横キッズのニュースがメディアに取り上げられるたび、「こっこは元気かなぁ」「しっかり生きてるかなぁ」って思ってしまう。「ぬいぐるみとしゃべる人は優しい」の白城ゆいちゃんにせよ、「やがて海へと届く」の三陸の少女にせよ、「あの子は今も元気にしているかな」と、ふと思ってしまう、そんな人物を演じられる女優さんは、そんなにいないと思います。

 

(4)共に歩んだ物語~@onefive~

2022年10月にドラマ「推しが武道館いってくれたら死ぬ」主題歌でメジャーデビューした@onefiveは、この2023年に大きく大きく成長したと思います。その成長を支えた活動の一つが、各地で開催されたリリースイベントと、様々なフェスへの参加だったんじゃないかなって思う。

さくら学院に在籍した時も、この4人がファンと直接コミュニケーションを取る機会は一度もなくて、ドラマ「推し武道」でフィクションとして経験した握手会に、「アイドルさんって大変なんだなぁ」という感想を口にしていたくらいだから、各地で開催されたリリースイベントでのファンとの会話は、ある意味「修行」という側面もあったんじゃないかな、という気もします。でもこのリリースイベントで、直接ファンであるFifthとの絆を確かめたことは、彼らの物語を僕らファンの物語とシンクロさせて、ワンマンライブの一体感の基礎になったと思います。

そしてTIFを始めとする各種のフェスに参加する中で、メンバーを一人欠いたり、ステージの目の前でパフォーマンスを無視して寝転がっている聴衆もいるようなアウェイの環境も経験した。「育ちがいい」と言われる4人にとっては、しんどい経験でもあったんじゃないかなって思います。そんなアウェイの環境でも、めげずに会場を引っ張っていく経験は、ステージに聴衆を集中させるパワーやテクニックを身に着ける「修行」でもあったんだろうなって思います。

そんな「修行」を経て、11月・12月に開催された「NO15E MAKER」の2つのライブは、彼らがその経験を、単なる自分達の成長物語にするだけではなく、コロナ禍で失われた時間、結べなかったファンとの絆を再び結びなおすのだ、という強い意志に満ちたストーリーに構成することで、彼らと僕らが共に作り上げた物語に昇華された感があった。大阪のライブのラストで、「このままじゃ壊れちゃう」という切迫感に満ちた楽曲とともに、コロナ禍のために一度もファンの前でリアルに着用できなかった過去の楽曲の衣装たちがステージ上に取り残され、そしてその同じ衣装たちが、東京のライブの冒頭で天に向かって駆け上がっていった時、この子達と一緒にまだ見ぬ世界へ、どこからも見える場所へ行くんだ、という未来の物語が、彼らと僕らの共通の物語になった、という実感がありました。

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コロナ禍で止まっていた時計が動き出して、自分の推しがそれぞれに新しい物語を語り始めた2023年。2024年も彼女たちが笑顔でいてくれること、その笑顔が沢山の人達に見つかること、そして沢山の人達の心を癒すことを心から祈っています。皆様よいお年をお迎えください。

止まっていた時計は動き出し、そして新しい物語が始まる~2023年振り返り~

2023年も暮れていきますね。いつものように、この一年の自分のインプットやアウトプットを振り返ってみようかと思います。一言で言えば、コロナ禍の間に止まっていたような印象のある時計が動き出した2022年に、思い切って開いた扉が色んな世界につながって、そこからまた新しい物語が始まった年だったなぁ、というのが一番の感想。

まずはインプットから。今年、色んな舞台や演奏会などを拝見したんですけど、一貫していたのが、「音楽と時間」ということについて考えることが多かったなぁ、という印象。今年の2月、娘が参加したユニコーン・シンフォニー・オーケストラの演奏会の感想文で、この「音楽と時間」についてまとめているので、この文章を再掲します。

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音楽っていうのは色んな意味で時間との関係の中で語られる芸術のような気がします。特にライブ演奏が表現のメインとなっている音楽ジャンルでは、そのライブ会場の空間を共有する時間の中に満たされている音楽が、時間の経過と共に高揚していく状況自体が、その人の人生の中に忘れがたい記憶として残る。三次元の空間に「時間」という次元を加えた「四次元」の芸術である、というのが音楽の一つの特性で、「記憶」というのもそういう四次元の性質を持っている。そういう意味でも、「音楽」というのは他の芸術と比べて人間の感情に訴える力が強いんじゃないかな。

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「音楽」というのが時間芸術で、その音楽が演奏されているライブ空間という三次元の空間も含めた「四次元」の芸術である、という認識なんですけど、それを強烈に実感したのが、METのライブビューイングで見た「めぐりあう時間たち」というオペラだったんですよね。 

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違う感情や思惑を持った人々が同時に全く違う歌詞を歌っても、音楽によってそれが一つの織物として紡がれて、4重唱、5重唱、6重唱、と美しく重なっていくのがオペラの醍醐味で、特にモーツァルトのオペラとかそういうカタルシスが顕著だと思うのだけど、この「めぐりあう時間たち」は、それを、「同じ場面」ではなく、「異なる時代、異なる時間」に存在する登場人物たちが同時に同じ音楽を歌う、という、きわめて演劇的なアプローチによって、人間の魂の共感を時空を超えて紡ぎ合わせる音楽の魔法を見せてくれました。この作品に触れて以降、色んな舞台を見るときに、この「時間と音楽」というテーマがずっと自分の中で通奏低音のように鳴り響いていた一年だったなぁ、という気がします。

一つの人生という「時間」をシャンソンの名曲を綴ることで歌い上げる、田中知子さんプロデュースの「シャンソン・フランセーズ12」と、青島広志先生と萩尾望都先生のコラボで生まれた名曲「柳の木」で描かれた「時間」が解きほぐしていく血の呪縛の物語とか。

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時が過ぎても、自分の心が立ち返る場所としての「家族」という拠り所を中心に、一つの円環構造を作る物語を構成した、うちの女房プロデュースの「アメリカン・ソングブック2」とか。

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そして、消すことができない自分の過去、家、という呪縛、という裏テーマを、在阪球団の「アレ」と絡めて勝手に読み込んだ、青島広志先生のブルーアイランド版「コシ・ファン・トゥッテ」とかね。

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こうして並べてみると、今年の自分へのインプットにおいて、「時間と音楽」というのが凄く大きなテーマだったなぁ、というのが印象。

それって、自分が自分の過去や未来に向き合う、あるいは向き合わざるを得ない年齢に到達した、というのも一つの要因なのかもしれない、と思ったりします。自分も来月でとうとう59歳。いよいよ還暦、という、人生の第二ステージに向かう年齢に到達しちゃいました。そんな時にアノ球団がアレしちゃったから余計に、自分の過去と現在が色んな意味で共鳴したり、その先にある未来について考えることが多くなっているのかもしれないなぁ。

そういう観点で、自分の2023年のアウトプットを振り返ってみると、そんな年齢になっても、それでもまだ新しいことに挑戦できるのかもなぁって、これから始まる新しい物語に対するワクワク感が募る一年だった気がします。2022年の秋から、自分の本領であるオペラの舞台をやりたくて、地元の調布の調布市民オペラ合唱団に参加。1年間の練習を経て今年の10月に参加したガラ・コンサートで、「こうもり」や「カルメン」「トゥーランドット」などの合唱曲を歌いました。この合唱団に参加する、という新しい扉を開いたことで、地元に立脚したオペラ愛好家の方々とのネットワークが急につながって、一気に自分の世界が変わった気がしていて、それがなんだか嬉しいんですよね。

7月に開催した毎年恒例のソロリサイタルも、この合唱団の団員さんが沢山聴きに来てくれて、今までのお客様の反応とはかなり違う新鮮な印象がありました。新しいことに挑戦することで世界が広がった感覚ももちろん嬉しいけど、何より、自分にとって人生の目標でもある、「一人でも多くの人を笑顔にしたい」っていう目標が、地元調布のコミュニティで実現できる、というのがすごく嬉しい。

この合唱団で知ったVoci Cieliという合唱団で、久しぶりにモーツァルトのレクイエムを歌うことにして、こちらの本番は来年の5月。そして、調布市民オペラ合唱団で初めて参加するオペラ全幕舞台、「トゥーランドット」が9月にあります。自分のソロリサイタルも6月に開催することに決めています。コロナ禍がひと段落して、色んな表現手段が戻ってきたこのタイミングで、止まっていた時計が動き出した。新しく飛び込んだ場所での色んな出会いを通して、新しい物語が始まった。自分にとっての2023年はそんな一年だったなぁって思います。来年、この新しい物語が、どんな時間と空間を繋げてくれるのか、どんな音楽と出会えるのか、今から本当に楽しみです。

@onefive ーNO15E MAKER:Undergroundー彼らの物語、僕らの物語

@onefiveの大阪のライブに遠征してきました。少しでも出費押さえるための夜行バスでの往復は、もう60近いジジイには相当キツかったけどねぇ。でも、このライブには行ってよかった。本当に行ってよかった。

 

@onefiveは、先日の「バズリズム02」でも、「育ちがいい」ってバカリズムさんに言われていた通り、Amuseという大手芸能事務所のKidsの中でもエリートとして育てられた子達。でも、その中でも熾烈な競争があったり、ご家族含めた色んな苦労があるってことは想像がつくし、さくら学院というグループ自体が、ステージを作り上げていくプロセスで、メンバー同士の葛藤や挫折感なども含めて、Low Teenの子供たちがスーパーレディを目指して成長していく日々のドキュメンタリーをエンターテイメントにしたグループ、という側面があった。

 

要するに、僕らは昔から、@onefiveの四人のダークな部分をチラチラと垣間見ることがあったんだよね。挫折の涙、望む場所に立てない悔しさ、メンバーとのぶつかり合い。そんな中でも、吉田爽葉香さんが日誌でチラッと触れた、お父様の早逝のエピソードは衝撃で、この人のパフォーマンスのぶれない軸や、周囲に向ける優しさの源泉って、お父様という守護天使に天から守られている強さなのかなぁって思った。メンバーの栄養管理をしてあげられるかもって栄養士を目指すって、もう聖母じゃん。

ameblo.jp

 

この子達は決して温室育ちのヤワな子達じゃない。色んな喪失や壁や熾烈な競争を乗り越えてきた子達。それでも、さくら学院を母体に、在学中から@onefiveという4人グループとしてデビューする、という路線は、同じ年代のガールズユニットと比べればはるかに恵まれたスタートだったはず。同じさくら学院から生まれたユニットである先輩のBABYMETALが、メタルという敵だらけの戦場にカワイイという武器を引っ提げて突撃していった物語に比べれば、大事に育てられたお嬢さん達が父兄やAmuseのバックアップを受けて、順風満帆なスタートを切る未来図が描かれていたはず。

 

デビューのタイミングを襲ったコロナ禍、というのは、この「育ちのいい」「恵まれた」グループに試練の物語を与えた神様のはからいだったのかもしれない。予定されていたイベントは延期や中止を重ね、配信ライブで誰もいない客席に向かって空しくパフォーマンスをする日々の中で、10代というその時しかない輝きを直接届けられないままに時間はどんどん過ぎていく。その焦燥感がどれほどだったか、僕らには想像することしかできないけど、パフォーマーの生きがいを奪われた日々は、15歳16歳の多感な少女たちにとって、自分自身の生きる意味、人生そのものの目的まで突き付けられた試練だったのかもしれない。今回のライブで、ある意味唐突な感じでラストに披露された「誰もいませんですか(仮」という楽曲は、この頃の焦燥感、自分達の将来を塗りつぶした不安の闇と、その先にある「死」まで見据えた切迫感極まる楽曲で、過去の楽曲の衣装を舞台上に残して無言で去っていく唐突なエンディングまで、このグループの持つ苦難の「物語」を象徴するような楽曲でした。

 

そうやって自分達の辿ってきた苦難の道のりを振り返っていきながら、今回のライブでの4人の視点は、既に大人のそれに成長している印象がありました。Yogibo META VALLEYという会場は、南海電車の高架下という場所のために、屋上を走る電車の走行音が時折低く会場全体を揺らす、という、ライブハウスとしては最悪の立地環境で、逆にいえばその電車音に負けない爆音とリズムを中心とするクラブ系のノリノリの音楽がピッタリ合う会場かな、という印象。冒頭のMCで宣言されたように、この電車音というNOISEを自分達の発するNO15Eでぶっ飛ばそう、という、聴衆をあおるパワー含めて全く別レベルに進化した自信が、この会場を選んだ理由なのかな、と思ったり。地下鉄が轟音を上げて通過していく冒頭の映像も、この会場の立地と「NOISE」=発声というテーマを重ね合わせていましたね。

 

デビュー曲のPinky Promiseを始めとする初期の曲も、リズムを強調したクラブ系の大人のアレンジでガッツリ乗れる曲に変身していて、聴衆を煽る声かけも、フェスやリリイベで客席との距離を詰めてきたこの半年の経験が血肉になっている感覚があって、6月のワンマンライブの時よりも、4人が一回りも二回りも大きく見える。そんなメンバーの声に応じて思う存分声を出せる幸せを、fifth(ファンネーム)の全員も共有している空間。fifthにとっても、この4人と思う存分盛り上がりたかった、声を出したかった、という思いが満たされた時間。「NO15E MAKER」というタイトルが、千葉のリリイベ会場でfifthが「SAWAGE」コールで思う存分弾け過ぎて、会場のショッピングモールから苦情が来た、という挿話から発想された、という裏話がMCで紹介されていたけど、fifthも閉塞感と開放感を4人と共有してきたんだよね。

 

彼らの苦難の「物語」は、苦しむ彼らを見守ってきた僕らfifthの「物語」でもある。グループとファンが同じ「物語」を共有しているグループは強いと思う。BABYMETALが、YUIMETALの卒業や藤岡幹大さんの昇天、その不在からの恢復、という物語を、メイト達と共有して走り続けた姿が、METAL GALAXYやOTHER ONEの神話的パフォーマンスに昇華していったように、@onefiveが自分達の「物語」を一つのLEGENDに昇華させようとしている、そして僕らfifthも、間違いなくこのLEGENDを共有しているんだと、そんな一体感で心震えたライブでした。電車音が混じるこの会場のライブは恐らく映像化されないのじゃないかな、と思うし、実際カメラもほとんど入っていなかった。この一期一会の空間と、この場所で紡がれた物語を4人と共有できたことを天に感謝しながら、深夜バスの狭い座席に老体縮めて東京に戻ってまいりました。そんなしんどさぶっ飛ぶライブだったよ。一杯レスくれた4人、そして、直前まで舞台袖から客席をうろうろしながら会場の様子を見ていた佐竹義康さんはじめスタッフの皆さんも、お疲れさまでした。最高の時間をありがとう。六本木ではまたまるで違う進化を遂げた姿見せてくれるだろうね。今から本当に楽しみです。

終演後、舞台に残された初期の楽曲の衣装たち。直接会うのは初めてだったね。僕らとの時間楽しんでくれたかな。あの子達のしんどい時間を彩ってくれて、本当にありがとう。

アメリカン・ソングブック2 Fancy Parade ~「アットホーム」って和製英語なんだけどね~

今日は昨日、11月22日に開催された、うちの女房プロデュースのコンサート「アメリカン・ソングブック2~Fancy Parade~」の感想を書きます。アメリカが音楽に求めていた温かさ、人との絆がそのまま会場を包み込んだような、本当に「アットホーム」な空気感の中で、多様で芳醇な米国歌曲の世界を堪能した演奏会でした。以下、掲載している写真は、女房のFACEBOOKからの転載となります。


誰もが聴いたことがあるような有名な曲から、知られざる名曲まで、アメリカ歌曲というジャンルを掘り下げるこの演奏会、昨年10月の第一回目(感想文はこちら)から、ほぼ1年を経ての第二回目。今回は、初期のアメリカ歌曲がジャズに出会うまでの流れを紹介する第一部と、ミュージカルの名曲を紹介する第二部、という構成でした。

 

ヨーロッパの各地から大西洋を渡った移民たちが、故郷から持ち込んだ欧州の音楽が、本場欧州の最新の音楽潮流にも影響されながらも、黒人音楽のリズムを取り入れて独自の世界を生み出していく。そのダイナミズムは音楽が生まれた時代背景をダイレクトに反映しているが故に、アメリカ歌曲を語ることは、その時代そのものを語ること。19世紀から20世紀に向かう激動の時代の最先端にあった国ならではの激しさと先取の精神に満ちている魅力あふれる名曲の数々。第一部で紹介された、作曲家として成功した初の女性であったエイミー・ビーチの作品や、現代音楽の手法を貪欲に取り入れたチャールズ・アイヴズの曲などは、そういう時代性を感じる作品群でした。

 

そんなアメリカ歌曲の先進性を追求していくだけだと、演奏会自体のアカデミズムは高まるかもしれないけど、エンターテイメントとしての楽しさはちょっと後退してしまうと思うんですが、今回のプログラムはそのあたりのバランスがよかった。冒頭の「ラブミーテンダー」は、プレスリーの歌唱で耳なじみの曲で、自然に舞台に引き込まれるのだけど、家族が寄り添いながら素朴なリコーダーが奏でるメロディに耳を傾ける演出の中で、何もかも捨てて大陸に渡り、家族の絆だけを頼りに生きた移民たちの姿が浮き上がる。言葉遊びが楽しいコープランドの「チンガリングチャウ」、今を生きる幸福を輝くように歌うエイミー・ビーチの「牧場のヒバリ」など、ワクワクする曲が各所に散りばめられて、飽きが来ないように考えられてるなぁ、と思いました。

「ラブミーテンダー」のリコーダーのデュエット、なんとなく胸に沁みたなぁ。

 

後半のミュージカルパートでは、オペラ歌手がマイクなしで歌うミュージカルナンバーが、歌の持っている音楽性を際立たせる感じがして、そういう感覚って、シャンソンの定番をオペラ歌手が歌うピアニスト田中知子さんプロデュースの「シャンソン・フランセーズ」にも通じる感覚だなぁって思った。でも、人生の始まりと終わりを描く「シャンソン」に比べて、「アメリカン」では、終曲の「屋根の上のヴァイオリン弾き」の名曲「サンライズ・サンセット」で、冒頭の「ラブミーテンダー」に耳を傾けていた同じ家族が戻ってくる、という円環構成を取っていて、これが、第一回でも感じた、「家族」という絆がアメリカ音楽のベースにある、という印象を強く浮かび上がらせる演出になっていました。

 

第一回目の感想の中で、アメリカ歌曲の持っている哀愁が、何もかも捨てて新天地にやってきたアメリカ移民たちの喪失感から来ているのかな、という文章を書いたし、その喪失感は、世界中を放浪し続けるユダヤ人の心情と響き合い、アメリカとイスラエルの同族感につながっているのかもな、とも思います。ラストの「屋根の上のヴァイオリン弾き」が、ウクライナで迫害に会うユダヤ人の家族を描き、新天地へと嫁いでいく娘たちと両親の絆を歌う「サンライズ・サンセット」の中で、冒頭の移民の家族達の姿が再度戻ってくると、自分達を支える唯一の絆であり、帰る場所としての「家族」が強く浮かび上がってくる。そう思って振り返ってみれば、第二部で紹介された「マイ・フェア・レディ」「キャメロット」や「ザ・ミュージックマン」、「ファニー・ガール」などのミュージカルも、音楽でつながる人の絆、新しく生まれる家族の物語にも見えてくる。

 

歌い手さん達はそれぞれの個性が際立ちながら一つの「家族」像をくっきり浮かび上がらせて、どの方も印象的だったのですけど、個人的には、今回が初参加になった神田宇士さんと渡辺将大さんの二人の男性陣が、がっしりした存在感とほどよいキュートさがあってしっかり軸になっている感じがありました。

女性陣は、圧倒的なオーラの三橋さん、北澤さん、声の色の魅力を存分に聴かせてくれた海野さん、丹藤さん、そして相変わらずキュートな富永さんと、皆さんそれぞれに存在感があったのだけど、個人的には田中紗綾子さんの透明感と安定感のある歌唱が好きだったな。

「アットホーム」=at home、というのは、日本では「家の中にいるみたいに居心地がよい」というニュアンスで使われることが多いけど、もともとの英米ではあまりそんなニュアンスでは使われず、単に「家にいる」という事実を表現することが多い言葉なんだそうです。内向きな日本の精神文化を表した和製英語って感じもしますけど、でも、やっぱり唯一の絆としての「家族」を大事にする心って、アメリカ歌曲の底流に強く流れているような気がしますし、そんなアメリカ歌曲の数々を浴びた客席も含めて、すっかり温かい「アットホーム」な空気感に包まれた演奏会でした。

 

今回、演出・制作をやりながらソロ曲とアンサンブル曲をしっかりこなした我が女房どの、お疲れさまでした。新しいメンバーも加わって、この「アメリカン・ソングブック」が、お客様も含めて一つの「チーム」=家族を作り上げていくような、そんな企画に育っていけるといいね。

 

そして僕らは誰と戦えばいいのか~「怪獣は襲ってくれない」の余韻~

ここ数か月、さくら学院の卒業生の舞台を見ることが多くて、倉島颯良さんと黒澤美澪奈さんが共演した「じゃ歌うね、誕生日だしウチら」、新谷ゆづみさん出演の「怪獣は襲ってくれない」、そして今日は、飯田らうらさん出演の「消された声」を観劇。さくら学院の2人の関係性をベースに作られた音楽劇、ともいえる「じゃウチ」、新谷さんの鬼気迫る演技が評判になった「怪獣」、そして、重厚で暗い物語の中で未来につながる希望の光を見せてくれた「消さ声」の飯田さん、それぞれの舞台で輝く卒業生を見ることができました。でもやっぱりその中で、一番モヤモヤしている、というか、ずっと心の中に淀んでいるのが、新谷さんが出演された「怪獣は襲ってくれない」なんだよなぁ。そしてそのモヤモヤが、逆の意味でクリアになった気がしたのが、今日拝見した「消された声」なんです。

「消された声」は真っすぐ正統派のサスペンスドラマで、国家権力と裏社会の権力が手を結んだ巨悪に対して個人が戦いを挑む、というのが基本構造になっている。その巨悪に結びついた真犯人が絞られていくプロセスもスリリングで、若い役者さんの熱演や回り舞台の舞台道具そのものが演技をしているようなダイナミックな演出でグイグイ魅せていく、パワフルなお芝居でした。

でもねぇ、この「巨悪に挑む個人」っていう構図自体が、今の時代の混迷感としっくりこない感じもするんだよね。巨悪を暴こうとするのがフリーランスルポライター、というのも、最近とみに鼻につく社会正義を振りかざすメディアの胡散臭さもダブってしまって素直に見られない。もちろん、この舞台で描かれた「消された声」が現代には存在しない、とは決して言わない。確かに、何かしら大きな力によって踏みにじられ、圧殺された声は今の時代も沢山あるだろうと思う。でも、そういう消された声、という単語を見ても思い浮かぶのは「怪獣は襲ってくれない」のラストシーンのこっこの叫び声なんだよなぁ。「私が悪いの?!」「あんたたちは幸せなの?!」と叫びながら、舞台裏へ大人たちに抱えられて消えていった、まさに「消された」こっこの叫び声なんだよ。新谷さんに憑依したトー横キッズの声の方が、新宿の街角の吐瀉物をそのままこちらの顔面に投げつけられたみたいな強烈な印象で、今の時代の困惑と怒りをガツンとぶつけられたような気がするんだ。

「怪獣は襲ってくれない」を見てからもう1か月以上経つのに、このお芝居が与えた感情の波立ち、というか、混乱、困惑がずっと続いている感じがする。そして先月末に、ネットで流れたこの記事。

news.yahoo.co.jp

舞台で描かれた物語そのままじゃないか、と見まがうような現実を報道する記事。脚本・演出の岡本昌也さんがアフタートークでも何度もおっしゃっていた、「これはほぼ脚色していない、リアルな歌舞伎町の現実です」という言葉が、何一つ誇張ではなかったことを実感して、困惑はさらに増幅する。そして、今日、「消された声」を観劇して、自分の中の困惑が一つの文章になって浮かび上がってきた気がしていて、それは、「僕らは誰と戦えばいいんだ?」という問いかけなんだ。

舞台の上でも、悲惨な家庭状況を語るメロに向かって、ゼウスが、「戦えよ!」と叫ぶシーンがある。でも、メロは自分を虐待する母親の交際相手と戦うことはできない。なぜなら、それは自分の最愛の母親の愛する人だから。

こっこは実父から恒常的な家庭内暴力を受けているけれど戦う術を持たない。ただそこから逃げ出すことしかできない。逃げた先のトー横は居心地はいいかもしれないけどやっぱり地獄だ。そしていつまで待っても怪獣は襲ってくれない。突然出現した巨大な怪獣が放射能ビームで街を焼き尽くすこともなければ、そんな怪獣と戦ってくれる銀色の巨人もいない。愛する家族を理不尽に殺戮する国家権力の暴力という巨悪もない。それと戦ってくれる正義のマスメディアなんてのは幻想だ。そして、自分を傷つける家族と正面から戦うことは、自分の血、すなわち自分自身と戦うことだ。

そうして戦う相手を見失ってしまった、こっこやメロやにゃんぎまりの戦いは、結局自分を敵として、自分自身を破壊する方向に向かってしまう。絶え間ないリストカットオーバードーズ、飛び降り自殺。自分と戦っちゃだめだ、と言ってあげたいけど、その一方で、自分に負けるな、と言う大人だって多いよね。自分の弱さに向き合え、だの、指を自分に向けろ、だの。

さくら学院の楽曲が、2016年度の「アイデンティティ」以降、自分探しの内省的な楽曲に変化していったことも思い出したりする。2017年度の「My Road」も自分自身の進む道を探す七転八倒を描いていたし、そういう内省や自分の弱さとの闘いを歌った楽曲の一つの頂点が、2018年度の「Carry On」だった。でも2019年度の「アオハル白書」になって、さくらの子達は戦う先を自分達の外に見つけようとした。自分らしさを圧殺しようとする大人の常識や世間の無言の圧力に対する抗議のようなこの曲は、今の@onefiveの持っている外向きのエネルギーの源泉のような気もする。

東日本大震災のような自然災害、あるいは「怪獣」のような外からの破壊に対しても、人は一つになれるかもしれない。生きること自体が戦いになる日々の中で、シンプルな助け合いや自己肯定も生まれるかもしれない。でも「怪獣は襲ってくれない」。戦うべき敵はどこにもいない。

「消された声」の主人公たちもまた、家族から捨てられた施設出身の子供たちだった、というのも象徴的な気もする。最愛の人や仲間の無念を晴らすために戦う、という戦いの目的も、戦う相手も持つことができた「消された声」の主人公たちは、こっこたちに比べればまだ幸運だったのかもしれないよね。

でもね、大好きな新谷さんが演じていたってことを差し引いてもさ。こっこには生きてほしいんだ。生き延びてほしいんだ。戦うべき敵もいない、周りは全て自分の存在を否定する、それでも、自分自身を敵にしないで欲しい。自分を滅ぼしてほしくない。若い子が自ら命を断つのを見るのはつらい。それは、自分の身近で、一日でも長く、もっと長く生きていたいって思いながら、たった5歳で難病で亡くなった小さな子供がいるからかなぁって思うんだけどね。あなたの敵はあなたじゃない。あなたが戦う相手はあなたじゃない。じゃあ誰と戦えばいいんだよって言われて答えを出せない自分が不甲斐なくてしょうがないけどさ。生きてくれって、死ぬためじゃない、生きるために戦ってくれって、おじさんはただ思うんだ。

「シャンソン・フランセーズ」と「柳の木」~時を語り、時を超える~

今日は、9月29日に、千代田区立内幸町ホールで開催された、ピアニスト田中知子さんプロデュースの「シャンソン・フランセーズ」を拝見して思ったことをつらつらと。演奏会の感想、というより、かなり寄り道の多い雑談になっちゃいそうですが、ご容赦くださいまし。

うちの女房が長らくお世話になっているこのシリーズも12回目。サブタイトルは「ふたたび」。ちらしの主催団体を見ても分かる通り、後援団体を持たず、完全に自主公演として開催される最初の回だったのですけど、過去11回重ねてきたこのシリーズのエッセンスを濃縮したような回だったなぁって思います。特に濃厚に感じたのが、「時を語る」というテーマなんだよね。

以前のシャンソン・フランセーズでも、プログラム全体が一つの人生、あるいは時間の経過を表現している、というコンセプトを持っていたことは何度かあったと思うのだけど、今回はそれが非常に明確に提示されていた気がする。特にその主題を分かりやすく示していたのが、3回に分かれて演奏された「谷間に三つの鐘が鳴る」という曲。もともと3番から構成されているこの曲は、1番が、人の誕生を、2番が、若者の幸福の絶頂を、3番が、人の死を歌っていて、その人生の節目節目に、谷間の村に鳴り響く教会の鐘の音を歌っている。この1番がコンサートの冒頭に歌われ、2番が前半のラストに、そして3番が演奏会の終盤に歌われることで、プログラムが人の人生を綴っている、ということが明確に示される。

この3つの人生の節目の間に散りばめられるシャンソン昭和歌謡の曲も、全体的に若年層のキラキラした感じの曲から、次第に陰影を深めていくように構成されていて、だからこそ、最後に佐橋美起さんがしみじみと、でもとてもクリアに歌う「老夫婦」が胸に沁みる。そしてもう一つ、今回のサブタイトルにもある「ふたたび」という曲をプロローグ・エピローグに提示することで、単なる人生の始まりと終わりではなく、「転生」ないし「輪廻」という円環の構造を閉じる、とても知的に構成されたプログラムだなぁ、と思って聞いていました。

ここでちょっと話が飛ぶのだけど、ちょうどこの演奏会の直前、9月23日に、神奈川県民ホールで開催された、青島広志先生の「少女マンガ音楽史」を聞きに行っていたのです。その時に聴いた、「柳の木」という作品を思い出したんですよ。

漫画家を目指していた青島先生の萩尾望都先生への愛とリスペクトに溢れた演奏会でした。

「柳の木」は、「イグアナの娘」や「訪問者」「メッシュ」など、複数の萩尾作品の主題となっている「親と子」の関係性を、マンガならではの手法で詩的に描き切った傑作短編で、演奏会では、この漫画をスライドで映写しながら、青島先生の器楽曲が流れる、という構成でした。でもこの作品が、まさに「時を語る」という、シャンソン・フランセーズと共通するテーマを持った作品だったんだよね。

「柳の木」の原作漫画は、川の対岸から、河原にぽつんと立っている柳の木を映し出す固定カメラの映像のような、まったく同じ構図のコマを重ねていく手法を取っています。

冒頭からラスト近くまで、この同じ構図が続く。しかし同じ構図の中で時はどんどん流れており、柳の木の周辺を駆け回っていた小さな男の子は、成長し、恋をし、家庭を作り、年齢を重ねていく。しかし、彼の成長を見守る柳の木の下の女性は、いつまでたっても年を取らない。この女性は、柳の木と一体化した、男の子の母親の魂で、ずっと彼の成長を見守っている、という親子の絆の物語。

萩尾先生がこの「柳の木」で試みた、同じアングルのコマで違う時間を切り取ることによって時間経過を表現するという手法は、手塚治虫が既に何かの作品で試みていた記憶もあって、マンガ、という表現手段が時間経過を表現する時にかなり一般的に使われている表現だと思う。それをここまで突き詰めた作品はあまりないかもしれないけど、さらにいえば、漫画の原型ともいえる「絵巻物」の中でも、時間経過を静止した画像で表現する試みは沢山あって、一つのグロテスクな典型例が、「九相図」という、小野小町のような絶世の美女が、死んで死体が腐乱し骨になっていく様を描いた絵画かな、と思います。もともと平安時代から、絵巻物は、「巻き取り、広げる」という行為を進めることで、同じ平面上で時間経過を表現する絵画表現でした。ずっと長く広げると、同じ画面に違う時間軸が描かれていたりする。西洋絵画でも、同じ画面上で違う時間軸が描かれる、というのはよくある手法で、同じ人物が3人描かれている、なんてこともよくあるよね。そう考えると、ミケランジェロのシスティナ礼拝堂の大天井画、なんてのも、コマ割りされた壮大なマンガとして聖書の物語を語っている、と言えなくもない。

かなり話がそれたけど、「静止した絵によって切り取られた人生の一瞬」を積み重ねていくことによって、一つの人生、時の流れを語る、という「柳の木」の構成と、「歌によって語られる人生の瞬間」を積み重ねていく「シャンソン・フランセーズ」の構成に、なんとなく共通するものを感じたんです。同じ「時を語る」というテーマに対する違うアプローチ、というか。

そこで逆に自分的に印象強かったのが、「絵画」、あるいは「漫画」という芸術表現が静止しているのに対して、「歌」も「音楽」も静止していない時間芸術である、という相違なんだよね。萩尾先生がその繊細なタッチで切り取った登場人物たちの人生の一瞬一瞬は、その線によって固定されている。でも、「歌」は流れ、そして消える。そしてもう一つ大きな要素は、「歌い手」自身が時を重ね成長していく、ということ。

シャンソン・フランセーズ」も12回という回数を重ねる中で、常連の歌い手さんもその歌唱技術を変化させていくし、新しい歌い手さんを迎えたり、シリーズの中の定番曲を歌う歌い手も毎回変わっていったりします。それがこのシリーズの新鮮さ、常に変化していく移ろい、すなわち「時の流れ」を感じさせたりもするのだけど、例え変化したとしても、それでも明確に、「シャンソン・フランセーズ」であり続ける変わらないテイストがある。それは田中知子というプロデューサーの軸が変わらずぶれない、というのが最も大きな要因かな、とも思うけれど、何か他の要因も含まれている気もするんですよ。

何か結論があるわけではない漫然とした文章になってしまって申し訳ないのですけど、ここでもう一つ跳躍をします。こういう色んな新しい要素や、常に変化していきながら変わらない、「テセウスの船」的な存在って、音楽の世界では結構あるんじゃないかな、という気がします。ウィーン・フィルベルリン・フィルといった一流オーケストラの変わらない音色とかは言うまでもなく、身近な所では、合唱コンクール吹奏楽コンクールの常連校などが、「山西サウンド」「安積黎明サウンド」「淀工サウンド」といった変わらない音色を持っていたりする。それは同じ指導者がずっと指導している、という要素も大きいと思うけど、3年経てばメンバーが完全に入れ替わる学校部活において、同じサウンドや音色を保ち続けている、というのは指導者だけの意志ではなく、表現者自身、あるいはそれ以外の何かの意志が働いているような気もする。その意志が、一つの人生の終わりを告げる鐘の音が鳴り終わるとともに、「ふたたび」その鐘の音を鳴り響かせているような。

自分がどっぷりハマっている「さくら学院」というアイドルグループもそういう存在でしたけど、どれだけ歌い手が変わっても、表現しているメンバーが入れ替わっても、変わらないそのグループの軸、テイスト、というものがある気がしていて、「シャンソン・フランセーズ」というシリーズも、田中知子というプロデューサーの美意識を軸にして、その周辺の表現者達を巻き込んで、変化しつつも同じテイストを保ち続ける「テセウスの船」になりつつある気がします。ひょっとしたらこの原動力、変わらない意志そのものが、人生を鮮やかに切り取る「シャンソン」という音楽自体が持っているパワーというか、魔力なのかもしれないけどね。田中さん、今回も女房がお世話になりました。女房がこのシリーズに参加するきっかけにもなった、「キャラメル・ムー」、2度目のムーは、田中さんのぶれない軸に沿いつつも、しっかり成長を感じさせる出来でございましたでしょうか。

どうして風船なのだろう。

 

時を語りながら時を超えていくこのシリーズの行く末をこれからも、柳の木の下にひっそり立って見守りたいと思います。

共演者の方々も、お疲れさまでした。田中さん、メンバーが4人になろうが結婚しようがアイドルであり続けるももいろクローバーZに負けず、100回公演まで走り続けてくださいね。あと88回!