「Carry on」という楽曲のこと~「麻希のいる世界」を見た後で~

今日はさくら学院のことしか語りませんので興味のない方はここでご退場くださいね。先週末に東京フィルメックスでプレミア公開された、さくら学院の卒業生、新谷ゆづみさんと日髙麻鈴さんがW主演された映画「麻希のいる世界」。鑑賞後に心の中がざわついて仕方ないのだけど、1月の公開まではこの映画の内容には触れられない。なので、この映画を見た衝撃のことを、今日はちょっと別の切り口で語ってみようと思います。さくら学院の数ある名曲の中でも、自分的に一番好きな曲、「Carry on」をキーとして。さて、ちゃんとどこかに着地できる文章になるのか、自分でもよく分かりませんが、まぁとにかく書き始めてみましょうか。

さくら学院の楽曲には駄曲がない、というのは、サザンオールスターズから始まったアミューズの人脈と底力のなせる技なんだろうな、と思います。そして恐らくは、インディーズ、しかも小中学生アイドルユニットというこのグループの立ち位置からくる自由度の高さと若いスタッフの冒険心が結集されて、数々の妥協のない楽曲が生み出されたのかな、と思う。そんな冒険心と遊び心溢れたキラキラした楽曲達が、10代の少女達の情熱とMIKIKOイズムと結びついたさくら学院という場所は、色んな意味で奇跡の学校だったな、と改めて思います。

そんなさくら学院の楽曲の中で、自分的に別格に好きなのが、2018年度が生み出した「Carry on」という楽曲。さくら学院の楽曲の中では異色作とも言える曲で、さくら学院らしさが凝縮された「Jump UP」や「未完成シルエット」、最終年度が生み出した名曲「The Days」のように、夢に向かって挑み続ける少女達の日常や互いの心の絆を瑞々しく描いた曲とは少し毛色が違う。むしろ2016年度の「アイデンティティ」、2017年度の「My Road」から連なる、自分探しの旅をテーマとした楽曲の終着点に位置するような内省的な楽曲。最初にこの曲を聴いた時に、アコースティックで透明感と広がりのある大人びた曲調と、私みたいな中高年の心にも響く普遍的な歌詞がすごく印象的でした。

youtu.be

 

ぎゅっと握りしめたその手

そっと空っぽにしておかなくちゃ

真新しい未来を望んでも何も掴めない

きっと真っ黒な夜の帳にも

いろんな色が溶け込んでいて

見えなくても いつでも君を包む星屑の譜(うた)

 

さくら学院に多くの楽曲を提供してきたcAnoNさんの作詞。歌詞の中にもあるプライドや、深い霧に象徴される様々な迷いに目を眩まされても、目線を上げて心の中の目を研ぎ澄まして前に進もうとする主人公の姿は、確かにさくら学院らしい、と言えなくはない。でも、サウンドホーンの切迫した響きや楽曲全体を包む研ぎ澄まされた緊張感が、なんだか妙にヒリヒリした痛みを伴う感覚があって、この楽曲はそんなに単純な曲じゃないな、と思わせるものがありました。でもそれが何かはよく分からない。この大人びた楽曲を歌いきるに足りる歌唱力や表現力を持った麻生真彩さん、日髙麻鈴さん、新谷ゆづみさん、という2018年度の3人あっての深みのある名曲、という所で自分としてはとどまっていた気がする。

その後、メンバーの美しさが凝縮されたようなMVを見たり、ラジオ番組でソロバージョンとして麻生さんが歌ったり、2019年度が引き継いでライブで歌ったりするたびに、生徒さんたちのこの楽曲への思いの強さ、真剣さも相まって、自分自身の生き方を顧みるような思いを新たにしてきました。もう一度手のひらの中に抱え込んでいる無駄なしがらみやくだらない自尊心とかを捨て去って、ピュアに世界に向き合ってみよう、と思わせてくれる、自分にとってもとても大事な曲。

先日の「麻希のいる世界」を見た後、この「Carry on」を聞き直した時、この曲の持っていた緊張感の底にあるものがふっと見えた気がして、今まで聞いていた曲とは全然別の楽曲に聞こえてきたのが、自分としては本当に衝撃だった。ネタバレしないように言葉を選ぶけど、「麻希のいる世界」に描かれた、何かを求める強烈な思い、その思いが自分自身をどれだけ傷つけようとも走り続ける衝動のヒリヒリした切迫感って、「Carry on」の中に既に描かれていたんじゃないかな、と思ったんです。

 

ぎゅっと瞑ったままの瞼

そっと目を覚ましておかなくちゃ

海に溶ける太陽の笑顔にも何にも気づけない

きっと真っさらな水の鏡にも

いろんな音を響かせていて

波紋のリズムにのせて君を誘う風の口笛

 

「Carry on」で歌われる言葉達は、あくまで美しくキラキラしているのだけど、でもひょっとしたら、握りしめた手のひらが握っているものを手放すことは耐えきれないほどの痛みを伴うことなのかもしれない。瞑ったまぶたから閉ざされた現実世界は、目を背けたくなるような醜い感情に満ちているのかもしれない。真っ黒な夜の帳や、真っさらな水の底に潜んでいるものに、この歌の主人公はボロボロに傷ついているのかもしれない。あるいは傷つくと分かっていても、でもそれでも、見えない星屑の譜、聞こえない風の口笛を求めて、傷だらけで必死に手を伸ばしているのかもしれない。

自分の中で、さくら学院、という場所を聖域として、幼い子供達がキラキラ輝きながら夢に向かってただ前を向いて進んでいる場所、という綺麗な印象に染めてきたけど、そこで彼女達がどれだけ傷ついて、どれだけ血を流してきたか、あるいは血を流す覚悟を決めてそれでも挑んできたか、そこまで具体的に想像できてなかった気がする。「麻希のいる世界」で描かれる破滅の様相は衝撃的なものだけど、さくらの子達も映画の少女達と同じくらい、自分が破滅してしまっても夢に届くなら気にしない、とまで言い切れるくらいの激しい思いで、身を切る痛みを感じながら日々夢に向かって走り続けていたんじゃないだろうか。それは実はさくらの子達に限ったことじゃない、自分が子供だと思っていた若者達の中で、何者かになりたい、何か自分の生きた証を残したいと格闘している子達は、みんなこれだけ激しい覚悟や挫折感の中で生きてるんじゃないだろうか。

考えすぎかもしれないけど、いままで何度となく聴いてきた自分の愛聴曲とも言える曲が、一つの映画で全然様相を変えてしまったことが本当に衝撃的だったんですよね。世界を見る視線を変えてしまう映画体験って本当に久しぶり。もう30年近くそんな感覚を味わったことはなかったなぁ。

「麻希のいる世界」、1月に公開されたら、もう一回(一回で済まないかもしれんが)ちゃんと鑑賞した上で、しっかり感想を書こうと思っています。一つだけ今の時点で言えるとしたら、この映画は確かに見た人の世界の見方を変えるだけの力を持っている。この駄文を読んで、もし少しでも興味を持った人は、是非映画館に足を運んでほしいと思います。

シャンソン・フランセーズ11~「田中知子劇団」100回公演目指して欲しいなぁ~

三谷幸喜さんが主宰されている東京サンシャインボーイズの舞台では、西村雅彦さんや梶原善さんのような常連役者さんがいて、三谷脚本のテレビドラマなどでも、その個性を活かした役柄を与えられて活躍されてますよね。小劇場演劇の世界では、そういう作家と役者さんの信頼関係っていうのはすごくよく見ますし、映画の世界でも、監督が信頼する常連役者さんというのは必ずいて、その作品の柱になってるのをよく見る。

急に何を言い出したの、といえば、昨日拝見した、ピアニスト田中知子さんがプロデュースするシャンソン・フランセーズ11を見ていて、このシリーズにいつも出演されている常連歌手さん達の歌や演技が、小劇場演劇劇団や映画監督さんの「常連役者」さん達に重なって見えたんだよね。もともとシャンソン・フランセーズって、単なる演奏会じゃなく、「ヤング・オー・オー」みたいな昭和歌謡バラエティ番組や宝塚のレビューを見ているような感じがあって、全体のステージの雰囲気が「劇団」っぽいんですよ。コミックソング昭和歌謡、ミュージカルや定番のシャンソンまで、「振れ幅」の大きな舞台の中で様々な人生の機微を演じている常連歌手の皆さん達を見ていると、なんか、「田中知子劇団」の舞台公演を見ているような気分になってくる。

常連役者さんが、過去の公演でも歌った「辻馬車」とか「Ale,Ale,Ale」といったコミックソングの定番曲を歌う場面とか、どこかで客席にも「待ってました!」みたいな空気が流れる瞬間もあって、なんだか吉本新喜劇の常連役者さん達が一発ギャグを決める瞬間みたいな感じもした。最後にカーテンコールで「シャンテ」が歌われると、ほぼ満席になっている客席からは、コロナ禍を経て、やっとこの曲を会場全体で楽しめる日が戻ってきた、という安堵感も漂った気がします。昔の浅草レビューに通ってたお客様とか、ひいきの劇団の公演とかをこんな感じで楽しんでたんじゃないかなって思ったり。

でも、全く同じ定番メニューを同じように並べるだけではおさまらないのが田中知子というプロデューサーの欲の深さ(失礼)で、歌い手さんにしても、今回初の参加になる加地笑子さんや中村寛子さんを加えたり、今回初披露の「ジャポン旅行」(原曲はカナダ旅行)で、ご当地の名物を織り込んだ日本旅行コミックソングを新たに作り出したり、正統派二重唱をすっかりコミックソングに変えてしまった「愛のために死す」も、以前演奏した時とはちょっとオチを変えてみたり、と細かく手を入れてくる。吉野家とかマクドナルドの定番メニューも、毎年どこかしら改善を加えているっていう話がありますけど、そういう細かい変更点も、「お、今回はこう来ましたか」みたいな新鮮さがあって、私みたいな常連客の楽しみになっていたりします。

そういう定番曲の細かい変更や新しい挑戦に対しても、しっかり応えてくる常連歌手の皆さんも、常連、といいながら以前の演奏や歌唱とは確実に進化を遂げている感じがする。中でも変化を感じたのが末吉朋子さんで、もともと持ってらっしゃる超高音のコロラトゥーラの声にパワーが増した感じがして、「ある古い歌の伝説」では軽やかな高音なのに会場全体がぐわん、と鳴るような感覚が何度もありました。

この企画の「常連歌手」の一角を担わせていただいている感じもするうちの女房は、三つ子と見まごうようなフランスの女の子達の一人、初挑戦の「辻馬車」での御者さん、「恋のロシアンカフェ」の美輪明宏節と、この企画の「振れ幅」を象徴するような変身ぶりで、どの曲もそつなく印象強く歌いきっていたと思います。「ジャポン旅行」の金髪の女の子から、「ボン・ヴォアヤージュ」のドレス姿にたった一曲で衣装替えしてきたのには感心。楽屋は戦場だっただろうねぇ。

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もう11回目となったこの企画、もっと続けて欲しいなぁ。続けているからこその安心感、続けているからこその挑戦、続けているからこその新鮮な楽しみ方があるんだもの。田中さんは以前の公演で、「そろそろネタ切れだ」とおっしゃってた記憶もあるけど、定番曲も新曲も含めてどれもこれも新鮮に聞こえたし、ネタ切れどころか、涸れない泉のようにやりたいこと湧き出してきてる感じがするけどなぁ。

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皆様、またまた女房がお世話になりました。是非またお目にかかるのを楽しみにしております。100回公演目指して欲しいっす。あと89回っすね。楽勝っすよ、田中さん。

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振れ幅写真貼っときまーす。

「チェネレントラ」~音楽が全部ぶっ飛ばしちゃうんだよなぁ~

外出に飢えていた女房が、久しぶりにオペラを見に行きたい!と叫びだして、夫婦して見に行くことにしました、新国立劇場の「チェネレントラ」。女房の師匠である高橋薫子先生も出演されるし、タイトルロールの脇園彩さんも評判がいいし、METでも楽しませてくれたコルベッリのドン・マニフィコ、すっかり中堅歌手となった上江隼人さん、と、とにかくソリストの顔ぶれが素晴らしい、ということで、期待度MAXで初台へ。その期待をはるかに超えてくる歌のパワーを全身に浴びて、引きこもり生活で体中にたまった毒が抜けるような感覚を味わえた、素晴らしい舞台でした。

 

【指 揮】城谷正博
【演 出】粟國 淳
【美術・衣裳】アレッサンドロ・チャンマルーギ
【ドン・ラミーロ】ルネ・バルベラ
ダンディーニ】上江隼人
【ドン・マニフィコ】アレッサンドロ・コルベッリ
【アンジェリーナ】脇園 彩
【アリドーロ】ガブリエーレ・サゴーナ
【クロリンダ】高橋薫
ティーズベ】齊藤純子
【合唱指揮】三澤洋史
【合 唱】新国立劇場合唱団
管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団

という布陣。

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天候にも恵まれて、ハレの雰囲気たっぷり。新国立劇場は4月の「イオランタ」以来半年ぶりだったんですけど、やっぱりこの空間っていいなぁって思います。

自分が「チェネレントラ」というオペラに初めて触れたのは、バルトリがタイトルロールをやったライブ映像でした。絵本のような色彩鮮やかな舞台と、なによりドン・マニフィコをやったエンツォ・ダーラが最高にキュートで、なんて素敵なオペラだろうって思った。今ネットで調べてみたら、その時ダンディーニをやってたのがコルベッリだったんですね。その後、フォン・シュターデがタイトルロールをやった映画版をテレビで見た時に、フォン・シュターデが美人過ぎるのに衝撃を受けたりしたんだけど、この「チェネレントラ」の意思の強さ、というか、自分で運命を勝ち取っていこうとする感じが、いわゆるよくある「シンデレラ」のイメージと随分違うなぁ、と思ったのを記憶しています。

その後、女房がマスネの「サンドリオン」のタイトルロールを歌う機会をもらって、こちらのオペラも大好きになったのですけど、こちらは妖精さんが出てきたり夢の森の中で再会したり、と、ディズニーの「シンデレラ」よりロマンティック度増し増しです。同じ「シンデレラ」という題材を扱いながら、ロッシーニの「チェネレントラ」は、そのリアリズムや強い女性像など、やはりちょっと特別な作品のような気がしていました。

今回の新国立の演出も、ロッシーニ版の持つリアルな人間ドラマの側面をしっかり表現しよう、という意図をベースに、舞台を映画産業に読み替えての新演出でした。(ここから後は未見の方にはネタバレの記述も含みますのでご注意ください)

演出の粟國さんと美術・衣装のアレッサンドロ・チャンマルーギさんがYouTubeの配信プログラムで対談されているのを拝見したのですけど、映画、というキーワードが浮かんだ時に、イタリアの映画産業の中心だったチネチッタの感じと重ねてみた、という話をされていて、なるほどなぁ、と思った。序曲のパントマイムがサイレント映画の一場面のように演出されていて、そこから冒頭のオーディションのシーンになる感じとか、まさにフェリーニの映画みたい。確かに、フェリーニの映画ってオペラへのオマージュに満ちてるし、そもそもイタリア映画の群像劇とか見ていると、ロッシーニの入り組んだ人間ドラマと共通する感覚ありますよね。というより、粟國さんとアレッサンドロさんもおっしゃってたけど、草創期の映画ってオペラなどの舞台作品から色んな表現を持ち込んだものだったんだよなぁ。

そういう意味では、オペラ演出で時折感じる無理な読み替えによる違和感は少なくて、むしろ映画スタジオの中のわちゃわちゃの中で場面がカリカチュアライズされてしまう感覚が結構面白かった。一幕のラミーロとアンジェリーナの二重唱とか、映画の大道具として現れた月のオブジェやメリーゴーラウンドの馬とかが曲のロマンティックな雰囲気を盛り上げたり、変身したアンジェリーナの登場シーンがほとんどハリウッドMGMミュージカルを思わせたり。

でもねぇ、そういう演出の小道具や様々なギミックを全部ぶっ飛ばしてしまうのが音楽の説得力と、それを完璧に客席に伝えてくる歌い手さん達の高いパフォーマンスなんだよねぇ。とにかくキャストに全く隙がない。前評判通りの素晴らしい技術とビロードのような柔らかな触感の脇園さん、ノーチェックだったのだけど安定感抜群のルネ・バルベラさん、キャラクターバリトンなのにしっかり端正に嫌味なく仕上げてくる上江さん、存在感あるガブリエーレ・サゴーナさん。そして人間の欲や嫉妬などの醜い部分を極端な笑いに昇華しながらもリアリティ持って表現できるコルベッリさん、高橋薫子先生、齊藤純子さんのトリオ。チェネレントラのラストの赦しの音楽でさえ、脇園さんの人間味溢れる柔らかな声でしみじみと歌われると、彼女が踏み越えてきた苦難の中で培われた人間に対する絶望感や諦観まで見えてくるような気がする。永竹由幸さんが、「モーツァルトというのはオペラ・ブッファで人間を描くというとんでもないことをやってのけた人」みたいなことをおっしゃってたけど、ロッシーニももうやってたんだなぁって思ったり。

オーケストラは若干安全運転だった気もするんですが、歌い手さんたちがむしろ音楽をぐいぐい前に引っ張っていく感じで、特に第二幕あたりの全体の推進力が素晴らしかったです。やっと戻ってきた舞台を楽しめる日常だけど、これもいつ雲散霧消するか分からない。シャンパンの泡みたいにキラキラと弾けるロッシーニの音楽に浸っていると、今を、人生を楽しまないと、人間またいつどうなるか分からないよねぇ、なんて気分になってきちゃう。ロッシーニが37歳という若さで筆を折ってしまって、後はひたすら美食に生きたってのも、若いうちに人間や人生の色々見過ぎちゃったってこともあったのかもしれないねぇ。

 

最近のインプット振り返り~知ってる方が見える世界は面白いと思うんだよなぁ~

自分の舞台活動は停滞中ですが、色んな所で文化活動が再開している流れの中で、最近結構濃いインプットがあったので、メモしておきます。色んな意味で知識ってやっぱり人の視界を広げるなぁっていうのが共通の感想だったりします。

 

1. 9月19日 江東オペラ ガラコンサート

女房が2019年春の「ドン・カルロ」公演でお世話になってからご縁ができたこのオペラ団体。ティアラこうとうで開催された「ドン・カルロ」や「トゥーランドット」、江東文化センターで開催された「ラ・ボエーム」を拝見したことがあります。がっつり声量があって安心して聴ける合唱団の方々と、安定感のあるオーケストラ、そしてベテランから若手まで粒ぞろいのソリストさん達をそろえて、毎回満足度の高いパフォーマンスを楽しめるオペラ団体。二日間開催されたガラ・コンサートの二日目に伺いました。

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自分もアマチュアオペラ団体で活動してましたから、こういう市民オペラ団体の活動を継続する大変さはある程度想像がつくんですけど、この江東オペラの活動ってなんだか好感度が高いんですよね。代表の土師雅人さんのお人柄なのかもしれないんだけど、活動の柱になる合唱団の方々やオーケストラのコアメンバーの方々のオペラへの情熱や愛着が、活動の推進力になっている感じが凄くする。市民オペラ団体の中には、二期会や藤原といった全国区で活動しているオペラ団体に対する敵愾心や、地元自治体から資金を引っ張ってくる政治への色気みたいな、パフォーマンスそのものとは別のベクトルを感じる団体もないわけじゃない。でもこの団体は、地元の江東文化センターやティアラこうとうのような、お客様と緊密な空気感を共有できる場所で、文字通り「地に足ついた」オペラ愛好活動を続けている感じがするんだよね。そういう熱意ってパフォーマンスに対する姿勢に真っ直ぐ現れていて、出演した女房も感心していたのだけど、二日間のガラ・コンサートで、オーケストラの方々は、前日含め、当日の早朝まで、一体いつ休んでるのかと思うほど返し練習を重ねていたそうです。

そういうオペラへの愛情や熱意って、確実にパフォーマンスに現れるんだけど、特に合唱団の方々のパフォーマンスに感心しました。「カヴァレリア・ルスティカーナ」や「トゥーランドット」の合唱を聴くと、単純にこの合唱団は、このオペラを通しで演奏したことがあるんだなぁ、オペラのことをよく知ってるんだなあってなんとなく分かるんだよね。ソリストなんかにもよくあることだけど、オペラの有名なアリアや合唱を単独で歌ったことはあっても、そのオペラを通しで演奏したことがない人って結構いるもの。そうすると、その歌そのものは上手に歌えても、その歌を演じている感じがしない演奏って結構ある気がする。江東オペラって、オーケストラのメンバー含めて、演奏するオペラ全体に対する知識や愛情が凄く深い感じがして、そういう上滑りな感じがしない。

本当は、この日程で江東オペラは「カルメン」を演奏する計画で、女房はその舞台で、以前から歌いたがっていたフラスキータを歌うはずでした。コロナの影響で、江東文化センターでは十分なソーシャルディスタンスが取れず、急遽ガラ・コンサートに変更。結構がっかりしていた女房でしたけど、自分のキャラにぴったりの「パパパの二重唱」や「ムゼッタのワルツ」をオーケストラ伴奏で歌う、という滅多にない機会を与えてもらえて、それぞれの役柄を楽しそうに演じておりました。音楽への愛情を何よりのエネルギーとして皆さんが集っているこのカンパニーにご縁が出来たことに、ただただ感謝です。関係者の皆さん、女房がお世話になりました。改めて、音楽が結びつける人の絆と、その温かさや居心地の良さを再確認した時間でした。

 

2. 9月20日 三鷹市美術ギャラリーへ、諸星大二郎展を見に行く

諸星大二郎さんがデビュー50周年を迎えられた、ということで開催されている諸星大二郎展に行って参りました。「暗黒神話」でひっくり返り、「マッドメンシリーズ」で地底に引きずり込まれ、「妖怪ハンターシリーズ」で世界を見る目が歪み、「栞と紙魚子シリーズ」でムルムルの佃煮と化した自分としては、これはやはり見に行かねば、と。「不安の立像」のあの黒ベタとスクリーントーンをほとんど使ってない執念感じる網掛けだらけの原画を間近で見られた時にはホントに鳥肌立ちました。

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展覧会の公式図録。生原稿のホワイトとか修正まで忠実に印刷した図版に感動。

 

今回の展覧会でいいなぁって思ったのは、作品のアイデアの源泉になっていると思われる縄文土器とか、ニューギニアの仮面とか、ダリやマグリットやボスの絵画なども併せて展示することで、諸星世界の重層性をしっかり見せていること。諸星さんの作品って、その作品世界そのものが既に多層的な意味世界を持っているんだけど、その構造の背景にある歴史・民俗・文化的な背景まで知ってから見ると、その世界の中にさらに複雑な入れ子構造が内包されているのが垣間見られて、あまりの沼の深さにおののいてしまう感じがたまらない。そういう予備知識を知らなくても十分面白いんだけど、知ってると全然違うものが見えてくるのが諸星世界の迷宮なんだよなぁ。

諸星さんご自身は、非常に普通の感覚を持った常識人だという話を色んな所で伺うのだけど、そういう常識人の視点を持っているからこそ、膨大な知識と興味から生まれるアイデアと日常世界の間の違和感や距離感を見事に描き出すことができるんだろうなって思います。今度、青島広志先生が、諸星作品を原作にしたオペラ「瓜子姫の夜」を書き下ろされる、という話もあり、自分の中でにわかに諸星ブームが再燃し始めちゃって、まだ入手してなかった作品などをネットでぼちぼち買いあさり始めてしまいました。枕元に置いてると家族が気持ち悪いって言うんだけど、マジ面白いんだぞぉ。

 

3. 9月23日 こまつ座公演「雨」

以前ガレリア座でご一緒したことがある元田牧子さんが出演される、ということでお誘いを受けて、久しぶりにしっかりした商業演劇を見てみたいなぁ、と思い、行ってきました、初めての世田谷パブリックシアターでの初めてのこまつ座公演。これまた暗喩に満ちた迷宮的な物語で、考えれば考えるほど多層的な意味の深みにはまるお芝居で、心底興奮しました。

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以下の記述にはお話のネタバレも含みますので、未見の方はご注意ください。

井上ひさしさんのお芝居をしっかり見るのは初めてで、「父と暮らせば」の台本を読んだことがあるくらいでしたから、色んな意味で真っ白な状態で見たお話だったのですけど、それでも色んな読み解きができる物語。山形をモデルにした舞台設定とこだわり抜いた方言の生活臭のリアルさ、紅花という地域の特産品、生命力溢れる合唱や群舞と、土の匂いがむせかえるような日本的な土俗の物語なのだけど、自我の喪失というテーマや階級を含めた「上」と「下」の垂直構造など、非常に知的に構成された物語世界で、どこか西洋的な演劇文法も感じさせる。徳の喜左衛門殺しのシーンとか、垂直の線と光と闇のコントラストを強調する栗山民也演出も相まって、どこか「マクベス」の暗殺シーンを思わせたりもした。

パンフレットの栗山先生の文章では、これが一種の天皇制批判の物語なのだ、というような解釈が述べられていて、演出の現場でもそういう言葉があったらしいのだけど、個人的にはもう少し普遍的な話のようにも思ったんだよね。それこそ諸星大二郎の作品にはよく出てくる「人身御供」の話として見た方が面白い気がした。犠牲になる人間が、自分を捨てた別人となるために目を潰されたり神様としてあがめられたりする、という「人身御供」の伝統が、犠牲となる徳が自分を捨てて喜左衛門になりきって歓待を受けている様子と重なったりするし、さらに言えば、彼が犠牲になって守る「イエ」というのが、母系の家系だっていうのも神話的だなぁって思うんですよね。「イエ」という日本的な価値(その頂点にあるのが天皇制なわけだけど)によって圧殺される個の悲劇、という近代的な価値観でこの物語を見てしまうだけだと、物語の土俗性、神話性が少しそがれてしまうような感じがしてしまう。

ラストシーン、舞台後方を埋める血の色のような明るい紅花畑に突き立つように、舞台装置の中央の巨大な歪んだ柱が浮かび上がると、それは徳の心臓を貫いた五寸釘のようにも見えるし、真っ逆さまに転落した徳の運命を示す巨大な矢印のようにも、あるいは落ちていく雨の水滴の軌跡のようにも見える。さらに物語の神話性を思えば、人間の原罪を示す十字架や世界樹のような運命そのものの象徴のようにも見えてくる。一本の柱がそれだけの重層的な意味を感じさせるのが、この台本の魅力でもあり、それを引き出した栗山演出の妙だなぁ、と思いながら、黒々と浮かび上がる柱を、肌に粟立つような思いで眺めていました。

若干手前味噌になるかもしれないけど、柱の形にそういう象徴的な意味を読み取るのっていうのは、舞台の演出の裏側を経験したり聞きかじったりしたことがあるおかげなのかもって思うんですよね。ラストシーンで柱をわざわざ照明で浮かび上がらせたり、普通の真っ直ぐな柱じゃなくて、少し曲がったような歪んだ柱の形にしている、ということを見て、「この形には何かしら意味があるな」と思えるかどうか。栗山先生の意図は全然違う所にあったかもしれなくて、ひょっとしたら私の勝手な深読みに過ぎないのかもしれないけど、少なくともあの柱の形にそういう重層的な意味を感じられた方が、間違いなく舞台は楽しいと思うんだよね。やっぱり知らないよりは知っている方が、世界って絶対広くなると思うし、すごく豊穣なものに見えてくると思うんだよなぁ。

自分が知らないことだらけだっていう謙虚さって全ての基礎じゃないかと

舞台パフォーマンスにしてもそうだし、仕事にしてもそうですけど、時々、オレは何でも知ってる、ここにいる誰よりもオレは全部が見えている、だからオレの言うことを聞け、みたいな上から目線でその場を仕切ろうとする人っていますよね。もちろんそれだけのことを言える人なんで、発言にはある程度の根拠や知識の集積があったりするんだけど、舞台パフォーマンスみたいに色んな総合的な視点が必要な創作物だと、本当に全部が見える、なんて正直無理な話で、「誰よりオレが上」って言った瞬間に胡散臭くなっちゃうし、実際、ある面では非常に卓見だなぁ、と思っても、別の面から見れば非常に浅はかな発言だったりして、一瞬で底が割れちゃう、なんてこともよくあります。

ものすごく該博な知識や経験を持っている人ほど、「オレは誰よりも物を分かってる」「だからオレの言うことを聞け」とは言わないですよね。自分の主張を通す時に、自分の知識の優越を根拠にする人ってのは、それだけで既に自分の底の浅さを露呈している気がする。ソクラテスが、「自分は自分が無知であるということを知っている」と言ったように、知識を追究すればするほど分からないことが増えてくる、というのがこの世の常で、一流の人ほど、「いや、ボクが知っていることなんてまだまだです」という謙虚さと、自分が知らないことに対する貪欲さを持ち続けているもの。

そういう謙虚な人は必ず周囲の人の発言に耳を傾けるし、その発言の中から何かしら自分の知らない知識や持っていなかった視点を見つけようとする。自分の周りに壁を立てずに、アンテナを広く張って、色んな知見の中から自分が選択するべき選択肢を選びだすことができる。「オレは誰より物が見えている」と言った瞬間に、自分の知見以外のものに対して壁が立ってしまって、そこから何も発展がなくなってしまう。

なんでこんなことを今書いているかっていうとね、舞台パフォーマンスの世界でもしょっちゅう耳にするこの「オレは知ってる」「おれが正しい」式の傲慢さっていうのが、色んな場面で垣間見えてきて、なんか世の中がどんどん狭量になってきている気がしていやーな感じがするんですよ。独裁者が「オレが正しい」って国全体を一色に染めようとする国とかはちょっと別にして、最近よく聞くいわゆる陰謀論とか、色んなデマが流れる背景に、どこかで「オレはあんたの知らないことを知っている」っていう優越感を根拠にして、「だからオレの言うことを聞け」「オレの言うことを聞かないあんたは物知らずのバカだ」みたいなマウンティング志向がある気がして仕方ない。

陰謀論やデマを支持してしまう心理には、現状への不満や不安があるし、謙虚さを持っている人は、そういう自分の不満や不安に対しても心を開いて受け入れた上で真実を見極めようとする。でも思考パターンの中に「オレは他の人より物を知っている」という優位性を保ちたい傲慢さがある人ほど、自分の持っている不満や不安ではなくて、「世の中の主流の人はみんなバカで物が見えていない」「私は世間が知らないこんなことを知っている」というポジションに飛びついてしまうのじゃないかなぁ。

イヤだなぁ、と思うのは、ナチスドイツだって、そういう陰謀論を国民に植え付けて民族としての優位性を実感させることで成立した政権だったし、あのオウム真理教だって様々な陰謀論を積み重ねて自分の正当性を維持しようとしたっていう歴史が想起されるからなんだよね。オウムの信者達はいまだに、地下鉄サリン事件はオウムを潰そうとした国家的陰謀だった、と信じているっていうし、トランプ大統領の支持者が「ディープステート」という陰謀論を強く信じている、なんていう話を聞くと、オウムの記憶が生々しい自分なんかは本当に背筋が寒くなるんですよ。

世の中の大きな流れに対して反論することを否定するのはそれこそ傲慢だし、陰謀論とかデマを信じてしまう人の意見を頭から否定するのじゃなくて、それを生み出す背景や時代も含めて冷静に謙虚に分析することこそ大事とは思うのだけど、時々ぞっとするのは、そういう陰謀論やデマを信じている人が口にする、「あなたは何も分かってない」という言葉なんだよなぁ。そういう主張が国の半数近くを占めてしまうアメリカの状況なんかを見ると、謙虚さを失ってしまった民主主義っていうのは政体としていかがなものなのだろう、と思ってしまう。

アフガニスタンタリバンが政権を取った背景にあるのが、「何が正しいか正しくないかを決めるのは神であって人ではない」というタリバンの姿勢が、人が政治を左右する民主主義を否定しながらも、汚職にまみれた現政権に比べてタリバン政権の「清廉さ」をアピールできたのだ、という話を聞いて、なるほどなぁって思ってしまった。タリバンは根拠にしているイスラム教の解釈においてそれこそ謙虚さと寛容さを欠いているように思うので、これもある意味論外な存在なのだけど、寛容さと謙虚さを失った民主主義に対する一つのアンチテーゼとしてしっかり向き合った方がいいのじゃないかな、という気もする。

自分の中にも、どこかで周囲の色んな意見や視点に対して、謙虚に学ぼうとするのではなくて、なんとか自分の優位を保とうとする傲慢さがあることは否定できないと思います。でもそういう傲慢さって、いつか人類そのものの存続すら脅かすくらいの人の中にある脅威なのかもしれないなって思ったりする。少なくとも、「政府の言うことを信じるあんたは頭がおかしい」みたいな、相手の意見や発言に対して最初から壁を立てるような発言はしたくないなぁ。

さくら学院の閉校に寄せて~みんなが他の誰かの笑顔を祈っていた世界~

さくら学院が8月31日に閉校。29日に開催された中野サンプラザでのラストライブと、31日に開催されたそのライブビューイングに参戦。この奇跡のような学校が眠りにつく瞬間をしっかり見届けることができました。

このグループのことはこのブログに何度も取り上げてきたし、色んな視点から論じてきたけど、ツイッターに溢れた惜しむ声の数々や、父兄さん達の涙ながらのコメントや、卒業生たちの感想なんかを見て、この学校がどれだけ奇跡的な存在だったのか、というのを改めて実感させられました。関わった人たちの全てがひたすらに感謝を捧げるグループなんて他にある?

中でも、閉校の日の翌日に放送された、2018年度卒業生の新谷ゆづみさんのラジオ番組「新谷ゆづみのひとりゴト。」では、涙ながらに父兄(さくら学院のファンのこと)への感謝を語る新谷さんにこっちも思わずもらい泣き。その中で新谷さんが、父兄の方々がどれだけ優しい人たちだったか、というエピソードとして、コンサート会場の外で急な雨に降られた新谷さんのご家族の方に、傘を差しだして立ち去っていった父兄さんの話を紹介していて、父兄さん達を含めてこのグループを中心にした世界って、本当に優しい世界だったんだなって改めて思いました。

でもねぇ、関わった人たち皆が優しい気持ちになる原動力は、やっぱりさくら学院の生徒さん達のピュアなひたむきさだったと思うんです。プロのパフォーマーを目指す小中学生が、賢い子供なりに計算したプロのあざとさを演じていたとしても、どこかで素の性格が見えてしまうもの。生徒さんのそんな素の魅力を嫌味なく引き出す担任の森ハヤシ先生の鋭い人間観察眼も手伝って、レギュラー番組のfreshマンデーでは何度も生徒さんのピュアな感情があふれ出す瞬間を見ることが出来ました。課題をクリアできなくて思わず流す涙や、ライバルでもあり、支え合う仲間でもある生徒さん達の激しい感情のぶつかり合い。でもそんな素の感情は、パフォーマンスの質を上げていく、という明確な目標に向かっていてぶれることがない。目標に向かって真っ直ぐにぶつかっていく10代の少女たちのピュアな素の想いを浴びてしまえば、浮世の塵芥に汚れきったこちらの心も洗われて、色んな人に優しくしなけりゃって襟を正す気持ちになっちゃうんだよねぇ。

そういう生徒さんの素の思いに対して、アミューズのスタッフ陣である職員室の先生方は決して妥協をせず、プロのクオリティを求め続ける。ここでゴールを下げて妥協することだって出来ると思うのに、それをしてしまうと生徒さん達の未来の可能性を損なってしまう、というぶれない想いの強さ。駄作が一切ない楽曲のクオリティ、魅力的な楽曲の世界観と生徒さんのキュートさを最大限に引き出すMIKIKO先生の振り付け、毎年最高クオリティを更新する生徒さん達に、さらに「前の年度を超える」という目標を掲げ続ける和音先生の指導。プロのパフォーマーになること、ではなく、日本最高峰のスタッフが作りあげ、歴代の卒業生が磨き上げてきた歌やダンス、という高い壁への挑戦を通して、スーパーレディという理想の人間像に至るための「努力する姿勢」をたたき込む教育方針。

さくら学院は最後までその軸を曲げなかったと思います。閉校が決まってからも1年間、コロナ禍の中でできる限りのパフォーマンスを様々な試行錯誤を重ねながら実施していった誠実さは、父兄さん達に対するよりも、生徒さん達の未来に対する職員室の誠意だったと想う。10周年、しかもラストイヤーというずっしりと重い一年を担うことになった8人の生徒さんに、慰めの言葉ではなく、「この最後の年を自分たち8人が任されたのだという自覚を持て」と言い切れる指導者の誠意と、生徒さん達への信頼と愛の深さ。そしてそれに全力で応える生徒さん達の覚悟。

そして何より、この学校に関わった人たちの優しさの源泉は、この学校が生徒さん達の「今」のために存在するのではなくて、「未来」のために存在している、という立ち位置だったんじゃないかなって思います。プロのパフォーマーの育成学校、という初期の設定をゼロクリアした杉崎寧々さんの存在が、スーパーレディとは「笑顔で幸せになること」(by森先生)なのだ、というパラダイムシフトを起こして以降、学院に関わる人たち全てが、生徒さん達が笑顔で幸せになれる未来を願うようになった。さくら学院に関わった人たちの優しさは、皆が、自分の幸せや欲望の充足ではなく、生徒さんのパフォーマーとしての成功という商業上の成果でもなく、ひたすらに生徒さんの幸せや笑顔を祈る所から生まれてきたのじゃないかな。生徒さん達の未来の笑顔を祈る思いは、生徒さん達のご家族の笑顔を祈る思いへ広がり、さらに生徒さん達が卒業後に関わった素敵なパフォーマーさん達の笑顔を祈る思いや、同じように生徒さんの笑顔を祈る父兄さん仲間の幸せを祈る想いへとどんどん増幅していく。そんな気持ちで生徒さん達や父兄さん仲間に接している人たちが、優しくならないわけがない。

さらに、そんな父兄の思いを本当にピュアに返してくれる生徒さん達の誠実さ。冒頭の新谷さん初め、プロのパフォーマーとして活躍している方々は勿論、目標にしていた看護師になったことを報告してくれた杉崎さん、夢見ていた職員室の先生になれた磯野莉音さんは、「夢は叶う」とか、「想いは届く」なんていう夢物語を現実のものにしてくれた。そしてラストライブで、田中美空さんが、「父兄さんの笑顔が見たくて、それが楽しくてさくら学院をずっとやってきた」と言ってくれた時、誰かの笑顔を、幸せを祈る思いって、何倍もの自分自身の幸福感になって返ってくるんだなぁって、またものすごく大切なことを10代の女の子に教えられた気持ちになりました。

多分、一度生まれたこの「誰かの笑顔を祈る気持ちの連鎖」っていうのは、さくら学院が閉校してしまった後も簡単に失われることはないんだろうなって思います。父兄さんは皆、36人の卒業生達一人一人の笑顔をこれからも祈り続けると思う。自分の欲望を満たすためなら、人が泣いても不幸になっても気にしない、なんていうのが当たり前の時代に、他の誰かの笑顔を祈り続けることができるっていうのは、本当に幸福なことだと思うんだよね。そしていつか、眠りについたさくら学院が、また再び目を覚ます日がくることを信じていたいと思います。誰かの笑顔を祈り続けることの幸せを、幼い真っ直ぐなひたむきさで沢山の人たちに教えてくれる新しい天使達が降臨するその日まで。

「夏のばけもの」~稽古場ってすごく楽しいんだよなぁ~

場所を選ばずお芝居をする、というコンセプトのプロジェクト、♭FLATTO。渋谷のバーで上演された第一回公演の「春はのけもの」で胸つかまれてしまって、このブログにもずいぶん暑苦しい感想文を書いたりしました。このプロジェクトが、今度は「赤坂のAIサービスロボットのいるオフィス」で第二回公演をやるという。そしてこのプロジェクトを教えてくれた、さくら学院卒業生の黒澤美澪奈さんがまたご出演される、という。これは見に行かなきゃ、と、行ってきました、赤坂のAIサービスロボットのいるオフィス。

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本当におしゃれなオフィスのカフェテリアスペース、という感じの場所で、この写真のようなカウンターや、テーブル、ソファなどが客席を囲むような形で配置されている。第一回公演は、どちらかというと客席の正面で物語が展開する、より演劇的な感じだったのですが、今回は、客席の周囲の色んな場所で異なるドラマが進行し、そして時には客席も含めた会場全体がドラマの舞台に広がったりする。観客は自分の正面や左右、あるいは後方で繰り広げられる様々なドラマを、自分の身体の向きを変えて注目する感じ。

結果的に、前回よりも、演劇というより、テレビドラマ感が強まった感じがしました。テレビカメラのカット割りやシーンチェンジが、観客が視点を変えることで実現されているみたいな。会場の家具も豪華だから、ちょっとトレンディドラマっぽい空気感もあったり。テレビ局の中のシーンとかがあるので余計にそんな感覚が強くなる。

シーンの切り替えはテレビドラマっぽいのだけど、このプロジェクトの特徴である演者さん達との距離の近さ、というのは相変わらず。手を伸ばせば触れることができるくらいの距離で、黒澤さんと秦健豪さんが路上で酔っ払い芝居とかやってるの見てるうちに、なんか「稽古場」にいるみたいだなぁって感じが強くなってくる。芝居の稽古場で若い役者さん達がエチュードをやっているのを見ているような感覚。距離感といい、一つ一つのシーンの濃密さといい、感情の起伏の大きさといい。

自分もアマチュア舞台作ったりしたことがあるんですけど、稽古場って楽しいんですよね。下手すれば本番舞台より楽しかったりする。特に我々みたいなアマチュア舞台では、プロの演劇集団みたいに本番会場と同じサイズの巨大な稽古用のセットをくみ上げて練習する、なんてことができないから、狭い公共施設の会議室とか借りて、床にビニールテープで場ミリしまくって、「ここ階段ね」とか「ここに山台あるから」とかいいながら、色んなものを本番の大道具に「見立て」てお芝居をやるんです。ただのパイプ椅子が玉座になったり、掃除道具のモップが賢者の杖になったりする。でもそういう「見立て」が無茶苦茶楽しいんだなぁ。

稽古場の中に、巨大な城とか教会のステンドガラスとかを想像しながら芝居をする。そして、自分の目の前、本当に手が届くくらいの距離から、同じ芝居仲間達や演出家が見守っている濃密さ。そこで本番会場の広さや何百人という観客まで想像しながら演技をしていると、自分の中の演技空間がどんどん広がっていく。結果として、本物の大道具や立派な照明効果で彩られた本番舞台よりも、「あの稽古の時の方がいい芝居だったなぁ」なんて思うことが結構あったりするんです。

♭FLATTOの会場の濃密さ、場の一体感、色んなものをカフェや登場人物の自宅、車の運転席、路上、などに見立てることで、観客の想像力を刺激する感じ、それが凄く「稽古場」の雰囲気に似てる気がしたんだよね。稽古場のリハーサル場面をそのまま本番舞台にする、という演出の、東京グローブ座の「ヴェニスの商人」の舞台を見たことがあったけど、それをさらに観客のすぐ目の前に引き下ろしてきたような感じ。

こういう場で、自分自身の想像力を駆使しながら、観客の視線を間近に受け止めながら、しっかり演技や自分の見せ方を鍛えられるのは、若い役者さん達にとって本当にいい機会だと思う。このプロジェクトが若い売り出し中の役者さん達を使っているのは、ある程度商業的な理由もあるのだろうけど、これから大きな舞台に出ていくにせよ、テレビみたいな濃密な場で演技するにせよ、この場での経験ってのはどちらにも応用できる凄く貴重なものなんじゃないかなって思います。撮り直しがきかない一発勝負の場で起きるハプニングに対応するアドリブ力も鍛えられる。私が拝見した回では、AIロボットのLankyくんがストライキをするというアドリブをかましてきて、それに必死に対応している秦健豪さんとか、きっと忘れられない経験になったんだろうなって思った。 

このプロジェクトの持っている「稽古場でご一緒している」みたいな濃密な感じ、お客様も含めた一体感、というのは、演者の方々のチーム感の強さにもつながっているのかなぁって思う。私が拝見した回には、前回公演にご出演されていた田中日奈子さんと清水ららさんが見に来られていて(マスクしててもカワイイキレイオーラ半端なくて眼福)、終演後の黒澤さんとのやりとりとか、プロデューサの横大路伸さんとお話されている様子とか見ると、このプロジェクトの演者さん達の絆の強さみたいなものをちょっと感じたりしました。

ちょうど五輪やパラリンピックが開催されているこの時期、才能でも熱意でも努力でも実力でも、どうしても届かない夢ってあるんだよなぁってことを、普段より強く感じる日々だったりします。でもそのすぐそばで、それほど強い夢への思いを持っているわけでもない人が、するするっと自分の理想の姿へと駆け上がってしまうこともある。そういう人達を心から祝福なんてできるわけない。そこで生まれてくる妬みや憎しみ、なんとか足元を掬ってやろう、って言う浅ましい破壊欲求や、なんで私だけがっていう被害妄想とかっていう真っ黒なばけものは、誰の心の中にも巣くっているものだけど、ひょっとしたら人類を滅亡に導くような大きな争いの原動力にもなりうるのかもしれない。

人の心を蝕むネガティブな感情、SNSみたいなゴミだめの中に吐き出されてのたうち回って色んな人達を傷つけたりするばけものみたいな感情を、未解決のままに、主人公の2人の間に投げ出して、二人の和解も決裂も描かぬままに物語は終わります。この後、この負の感情達をこの子達がどう鎮めるのか、その調伏のプロセスは描かれない。2人はこれからもずっとこのばけものを心の中に抱えて生きるのかもしれない。

でも、私は甘い人間だからさ。雨音さんが心の底から、自分の中にいた真っ黒い感情を声にして吐き出したってこと、ばけものを必死に「言葉」にして、直接玲花さんにぶつけたってこと自体が、二人の関係に救済をもたらして欲しいなって思う。人の心を救うのは、やっぱり言葉の力しかないのじゃないかなって。もちろん、言葉ほど人の心を傷つけるものもないし、一番大事な言葉ほど、喉でつかえてしまって大事な時に出てきてくれない、本当にもどかしいものなのだけど。

舞台初挑戦という坂ノ上茜さんはじめ、楠木拓朗さん、秦健豪さん、仲美海さん、それぞれに、自分の口にする言葉をとても大切に扱っている感じがしました。楠木さんの悪気のない罪作りイケメンの感じ、秦さんの暖かい関西弁、仲さんの陰影のあるお芝居、皆さん素敵だったなぁ。

そしてお目当ての黒澤さん。今回は登場人物達の間をつなぐ役回りだったけど、相変わらず身体全体を弾ませるみたいなパワフルなお芝居、くるくる変化する豊かでキュートな表情、間近で楽しませていただきました。「真夏の夜の夢」のパックみたいな役回りだったけど、黒澤さんってきっとパックとか演じたら上手だろうなぁ。間近で見ると改めてホントに半端なくカワイイ方。舞台表現が色んな意味で難しいこの時期に、これだけ濃密な空間を作り上げるのは大変だと思いますけど、スタッフの方々も含めて、無事に千秋楽まで駆け抜けられることを祈っています。素敵な時間と空間をご一緒できて、本当に嬉しかったです。ありがとうございました。

「春はのけもの」の時もそうだったけど、神様のいたずらで残酷な運命を背負わされてしまった少女が、必死に周囲との間の絆をつないでいこうとする、横大路伸さんが描き出すなんとももどかしい物語、個人的にすごく好みです。ある意味大変尖ったコンセプトを持ったプロジェクトだと思うのだけど、配信メニューを組み合わせたり、安定した顧客を確保できるアイドルさんを演者に、物販も充実させてチケット収入を確保したり、こんな冒険性の高い企画を、エンターテイメントとしても、商業プロジェクトとしても成立させているプロデュース力にも感心します。終演後、田中さんや森さんと談笑されているお姿を見ても、とても優しそうなお兄さん、という感じの方で、そういう優しさと、こんな残酷な物語をエンターテイメントにしてしまう透徹した感性が、このプロジェクトの柱になってるのかもなって思った。このプロジェクト、これからも思わぬ場所で、その場所ならではの表現世界に僕らを巻き込んでいって欲しいなって思います。