削ぎ落すこと

実は先日、ウチの会社がNHKのニュースで取り上げられる機会があったんです。朝の報道番組の中の10分弱のミニ特集だったんですが、この10分間のために、記者の方は秋口くらいから取材にいらっしゃって、企画の説明に始まって色んな情報収集を重ねてきました。会社の施設に実際にカメラが入って撮影をした時には、ほとんど半日がかりでずっとカメラを回していて、施設の様々な場所や作業中の風景や、インタビュー(私ではなくウチの元社員)を撮影してました。多分映像素材としては数十時間近い素材を集めたのじゃないかなぁ。

でも、実際に放送されたのはそのうちの10分程度。カメラで執拗に撮影していた構内の作業の様子や、ウチの若手社員の様子なんかは全部カット。「映らなくて残念だったねぇ」なんて社内で慰めたりもしたんですが、なんかその、「削ぎ落されたもの」というか、「捨てられたもの」のことが結構気になっちゃったんですよね。

舞台表現でもそうですけど、色んな無駄な動作やセリフを削ぎ落してなるべくシンプルな表現を目指すのが表現の基本だと思います。先日配信されたさくら学院の公開授業で、落語の授業をやったんだけど、講師の立川志ら乃さんが、「二人の登場人物の会話を表現するのに、視線を動かす幅を左右に大きく広げすぎると、かえって誰に向かって話しているのか分かりにくくなるから、視線の幅をできるだけ狭くするんだ」という趣旨のことをおっしゃっていて、こうやって色んな伝統芸能の所作ってのは洗練されてきたんだなぁってちょっと感動した。多分最初にその演目を初演した時の所作が、100年以上の時間の中で必要最小限なところにまでそぎ落とされて、これしかない、という動きに凝縮されていったんだろうなぁって。

でも一方で、志ら乃師匠は「あまりやり過ぎず、お客様が想像できる余地を残しておくのも大事」みたいなこともおっしゃっていて、削ぎ落す、という行為は、表現する側と受け取る側との一定の信頼関係がないと成り立たないのかな、という気もしたんだよね。削ぎ落された先にあるものを想像できる想像力が受け手側にないと、少しだけ動かした視線の先にもう一人の登場人物を描き出すことができない。それを心配して「分かりやすい表現」を目指してしまうと表現は大きくなりすぎてなんとも「野暮」になってしまう。表現を洗練するのは、表現する側と受ける側の「粋」の応酬だったりするんだよな。

10分間のNHKニュースを見て、確かにウチの若手社員の雄姿はカットされてしまったのだけど、ストーリの中に必要最小限の素材を盛り込んでコンパクトに分かりやすくまとめられた編集には感心しました。一つの「テーマ」をどう視聴者に伝えるか、という所で、無駄なものを削ぎ落していく「情報の編集技術」っていうのはすごく大事なんだろうね。映画なんかでも、一番大事な作業は編集だ、と言われることが多いけど、ヒットした映画がディレクターズ・カットで再編集された結果、元の編集版が持っていた魅力を失ってしまうこともあったりするから、作り手の想いと受け手の評価、というのは必ずしも一致しないんだよなぁ。

一方で、要するにこういう「情報の編集技術」というのが、今のマスコミの胡散臭さにもつながってるんだよなぁ、とも思う。政治家のスピーチの中でちょっと脱線した部分だけを前後の脈絡抜きで取り出して、「問題発言」と騒ぎ立てるマスコミの醜態には辟易させられることが多いんだけど、逆に言えば、マスコミは、それだけ高度な編集技術を持っている、とも言える。不幸だなぁ、と思うのは、マスコミと視聴者の間で、舞台芸術表現者と受け手の間の信頼関係や共通の理解のようなコミュニケーションの基盤が最近とみに脆弱になってきているような感覚なんだよね。どうしてこうなっちゃったんだろう、なんて考え始めるとまた議論が深みにはまりそうなのでここでは深掘りしないけど、なんとなくマスコミも視聴者も「粋」じゃなくなってきたのかなぁ、なんて思ったりする。

クウガはやっぱりいいなぁ

FACEBOOKにも書いたんですが、東映特撮のOfficial YouTubeチャンネルで最近毎週2話ずつ配信されていた「仮面ライダークウガ」が本日最終回を迎えました。それで、自分がこの日記でクウガのことを書いたのっていつだったかなぁ、と思って見返してみたら、書いてました、2004年4月に。この日記を書き始めたのが2004年3月からだから、かなり初期ですね。17年前に見てハマったものにまたハマっとるんですなぁ。我々夫婦が進歩していない、というよりは、この「クウガ」という作品が時代を超えた名作なんだよね、ということで、今日は2004年4月の自分の日記と同じタイトルで、「クウガ」を見直して思ったことをまたツラツラと。作品をご覧になっていない方々にはネタバレも含みますので、まずはとにかくレンタルDVDででも、この作品を全てご覧になってからお会いしましょう、ということでここでご退場いただいた方がよいかもしれません。さて語るぞ。

クウガ」の魅力が、最後までぶれなかったテーマの深さである、とか、笑顔と優しさを究極の武器として戦い抜いた五代雄介というヒーロー像の造形である、とか、その彼の優しさに協力する警察とのチーム感であるとか、色んな評論がネットにはあふれてますし、私も今日の最終回に号泣した口なので、そういう評論には全力で頷いてしまいます。でも、複数の人も指摘している、私や女房がこの作品にハマった大きな理由の一つは、敵役として設定されたグロンギ族たちに一貫するスタイリッシュな美学なんじゃないか、と思うんですよね。

グロンギ語、という未知の言語をあやつり、世界を究極の闇に葬る、という「ファイナルゲーム」(グロンギ語で、「ザギバスゲゲル」、と言う)に立つ資格を得るためのゲーム(ゲゲル)を介してクウガと対峙する戦闘民族、それが「グロンギ族」。一定のルールを自らに課してそのルールに従って人間を殺戮していく、という、人間から見れば一点の同情の余地もない最悪の存在で、特に終盤に現れた「ゴ・ジャラジ・ダ」というグロンギは、無力な高校生を苦しめるだけ苦しめて殺した挙句に、そのお葬式に姿を見せて次の犠牲者が怯えるのを楽しむ、という、最凶の極悪怪人として日本の特撮史上に名を残す非道ぶり。

でもこの極悪の連中がですね、なんだかかっこいいんですね。ファッショナブルだったり、美男美女揃いだったり。そもそもグロンギ文字の造形にせよ、彼らが入れているタトゥーにせよ、デザインが洗練されていて無茶苦茶かっこいい。制作スタッフが放送開始にあたって入念に世界観を作り上げている様子が隅々に垣間見える。

七森美江さんが妖艶かつ美しい謎めいたバラの女、「ラ・バルバ・デ」、木戸美歩さんがカッコイイ「メ・ガリマ・バ」、革命のエチュードを奏でる「ゴ・ベミウ・ギ」、無敵感半端ない「ゴ・ガドル・バ」など、どのグロンギ達もキャラクターが濃くて、そして何より、戦い方が潔い。相手の方が自分より強い、と認めたあとの散り際の見事さ。バルバ様が一条さんの放った断裂弾に倒れるシーンで、最後にうっすらと浮かべる笑みとか、痺れるものがある。

スタイリッシュな敵役の魅力が作品の人気を支える例って、昔からあって、すぐ思い浮かべるのは機動戦士ガンダムですよね。ジオン公国モビルスーツの方がガンプラの中でも圧倒的に人気があるという話を聞きますし、シャアを初めとして、ランバ・ラルやマクベなど、ジオン軍の軍人さん達には魅力的な人物が多い。銀河万丈さんの演じるギレン総統の演説に陶酔感を感じてしまった人も多いはず。ゴジラだってやっぱり悪役だから人気があるんだし、アメリカで大ヒットした「ジョーカー」のように、悪役が自分なりのロジックを貫く姿のカッコよさ、というのは、任侠映画の時代からタランティーノ作品まで続くエンターテイメントの深層流なんだと思う。

でも、やっぱりクウガの魅力は、そんなスタイリッシュな悪役たちに対峙するヒーロー側が発するメッセージが、悪役の存在感以上にリアルな重量感で、「人としていかに生きるべきか」という重たい問いかけを突き付けてくる所。悪をカッコよく描くことで、「善悪というのは相対的なものだ」というメッセージを描くのではなく、あくまで悪は絶対悪として描きながら、それに対峙する人間の強さとは何か、「善」の本質とは何なのだろう、という所を、最終回のギリギリの瞬間まで問いかけ、突き詰め続けた作品だったと思います。

人間から見れば理不尽で目的も判然とせず、そしていつどこで自分に襲い掛かってくるか分からない「グロンギ」の恐怖は、現在の「コロナ」の恐怖と理不尽さとも重なる所が多くて、そういう意味でも20年を経ても色あせない今日的な作品だなぁ、と思いました。「みんなが少しずつ、自分ができる限りの無理をしなきゃ」という五代くんの言葉とか、今の世の中でも何だかすごく沁みるんだよね。本当に、20年前にこの作品が世の中に送り出されたこと、この作品を作り上げたすべての人に、感謝しかありません。

ライブってチーム力なんだなぁ

大坂なおみさんが全豪オープンで優勝した時に、「私のチームに感謝します」とコメントしてましたね。彼女も含めたトップアスリートの高いパフォーマンスが、様々な裏方さんの努力に支えられている、というのは最近結構フォーカスされることが多い気がする。コーチは勿論、フィジカルだけじゃなくメンタル面も含めた様々なトレーナーさん達がいて、さらにそのチームを支えるスポンサーや、そのスポンサーをつなぎとめるためのマネジメントや広報、果ては栄養士さんからコピーライターさんまで。アスリートがビッグになればなるほどチームの規模も大きくなってくるし、まさかそんな人が、と思うような人までがチームの一員として汗を流していたりするんだろうなって思います。

そういう構造って、スポーツのアスリートだけじゃなく、私が多少関わっている舞台活動や音楽活動にも当然共通することで、芸能人さん達なんかは、マネージャーさんや所属事務所などの様々なスタッフさんで構成された「チーム」に支えられて輝いているわけだし、逆にそういうスタッフさんに恵まれるかどうかが成功のカギになったりする。大物芸能人さん達がそういうチームに支えられているっていうのは色んな所で実感しますよね。でも、大物芸能人さんではなくても、私みたいなアマチュア楽家であっても、スタッフやマネジメントのチーム力が活動を支えている、というのが舞台活動なんだと思う。よく言われる話だけど、アマチュア合唱団を支えているのは、有名合唱指揮者のネームバリューも大きな要素だけど、練習会場を確保したり、指揮者やピアニストや団員のスケジュールを管理したり、団費や演奏会費などを管理したり、演奏会の日程や会場を確保したりするマネジメントの力が相当大きかったりするんです。有名指揮者に率いられた素晴らしい合唱団が、支えていた団長さんが海外赴任で不在になった瞬間に解散しちゃう、なんて話も昔からしょっちゅう聞く話です。

特にライブ活動っていうのはそういうチーム力が問われるパフォーマンスだと思うんだよね。TikTokYouTubeなどの配信動画でも、もちろん完全一人作業でコンテンツを作り上げているわけじゃないと思うんだけど、かなりの部分はグレン・グールドみたいにスタジオの中で発信する内容と一人で向き合ってる感じがする。でも「ライブ」となった瞬間に、配信ライブであったとしても、一気に「チーム」としての瞬発力が表に出てくる感じがするんだよね。それはやっぱり「ライブ」という一期一会のパフォーマンスが持つ特性のような気がする。それは例えば自宅から配信しているLine Liveのような極めてプライベートな配信コンテンツにも感じること。

コロナ禍が「ライブ」を中心とした舞台表現を瀕死の状態に追いやっている、と思うのは、「ライブ」という表現が失われることで「ライブ」を支えていた「チーム」が存続できなくなる、という危機感も大きいんですよね。パフォーマーを支えているマネジメントチームだけじゃない、単純に、舞台を裏から支えてくれていた照明スタッフ、舞台スタッフ、音響スタッフ、大道具から小道具、衣装スタッフ。練習会場を経営しているホールスタッフも加えて、氷山の頂点で輝いているパフォーマーを支えている広い裾野の「チーム」が瓦解してしまうのが一番怖いと思う。

そういう「チーム」の大切さって、色んな所で感じることで、最近それを3つの「ライブ」で実感したんです。一つ目は、スケールの大きなイベントで、例によって月イチペースで通っているBABYMETAL武道館10daysのシリーズ。SU-METAL、MOA-METALの二人の輝きはもちろんなのだけど、二人を支えるサポートダンサーの岡崎百々子さん、もう家族と言ってもいい神バンドの面々、様々なマネジメント上の課題を克服して、新しい挑戦を続けるプロデューサのKOBA-METALの奮闘、そして何よりも、武道館を光と音の異世界に仕上げたステージスタッフの技術の高さ。ツイッターでも話題になっているFrom Dusk Till Dawnのステージは、スクリーン映像と照明とパフォーマンスの作り上げた神秘的な世界観に、自分が現実世界にいるのを忘れさせるような渾身のステージで、コロナで表現の機会を奪われた照明クリエーターさん達の執念を見た思いでした。

もう一つが、今日仙川フィックスホールで開催された、末吉朋子さんと和田ひできさんのデュオリサイタル。お二人がじっくり練りこんだプログラムの充実感と、パフォーマンスの見事さ、それを支える田中知子さんのピアノと、これまた凄く濃密な「チーム」力を感じさせるライブでした。この時期なので、150名のキャパの会場に30名程度しかお客様を入れない小さなコンサートでしたが、この時間、この空間に聴衆としていられることを本当に感謝した密度の濃い時間。ラヴェルの「ドゥルシネアを思うドン・キホーテ」、素敵な曲だったなぁ。自分もちょっと歌ってみたいなぁ、なんて思ったけど、それこそ10年くらいかかりそうだ。

もう一つが、これも最近毎週のお楽しみになってしまった遠坂めぐさんのYouTubeの配信ライブ。遠坂さんがお一人で、ご自宅のスタジオからピアノに向かって歌ったり喋ったりする1時間の配信ライブで、一瞬見ればどこにも「チーム」感なんかないんだけどさ。そのスタジオの仕立てとか、ちょっとしたインテリアとか、ライティングや音響の調整、遠坂さんの衣装とかに、ご家族含めた「遠坂チーム」のサポートが見え隠れするんだよね。推しのさくら学院の子達もそうだけど、若いパフォーマーが活躍できるのは何よりも、いわゆるステージ・ママさんのサポートを中心とした「家族」という「チーム」の支えが一番必要だったりすると思います。2番目にあげた末吉さんと和田さんのご夫婦という「チーム」にせよ、「ライブ」を一番根っこで支えているのは「家族」のような極めて緊密なチームの力で、そういう密な絆が見えるからこそ、「ライブ」というパフォーマンスには人間の温もりや体温まで感じられる気がするんです。だからこそ、だからこそ何があっても、コロナがどれだけ暴れようが、絶対に「ライブ」は戻ってくるって信じてるんですけどね。

天は二物を与えずってのは嘘だよなぁ

タイトルを見るとなんか偉そうなこと書き連ねるのか、と身構える方もいらっしゃるか、と思いますが、例によってアイドル絡みのヲタ話にかなり寄った戯れ文でございます。まぁ身構えずに読み飛ばしてやってつかあさい。

 

天は二物を与えず、と言う言葉は明確に嘘だよなぁって思いますよね。芸能界をちらっと眺めてみても、美人で歌がうまい人とか、美男で歌がうまい人なんてゴロゴロいる。天から美しい外見と歌唱力という二物を与えられた人ってことですよね。最近お気に入りになった遠坂めぐさんなんか、ミス慶應SFCファイナリストの美人で、歌もうまいし作る曲もキュートだしピアノも素晴らしくて英語も得意。福山雅治さんみたいに、美男子で歌うまくてギター上手で芝居もいい味出しててトークも面白い、なんていういわゆる「マルチタレント」の方々なんて、エンタメ界にはゴロゴロいる。クラシック音楽の世界でも、ピアノも最高なら文章も素晴らしい青柳いづみこさんとか、武満徹さんや團伊玖磨さんみたいに、作曲もエッセーも素晴らしい方は昔からいらっしゃる。最近は音楽家でもルックスが結構重視されるので、美人ピアニスト、美人バイオリニスト、美人チェリスト、イケメンピアニスト、イケメンチェロデュオ、その他美男美女の花盛り。

 

逆に言えば、今のエンタメ界でそれなりに売れてる人たちって、大抵が二物以上を与えられた人たちなんだよね。ただルックスがいいだけじゃ売れない。ただ素晴らしい音楽を生み出すだけじゃ売れない。それだけエンターテイメントを目指す人たちが増えている、ということもあるのだろうけど、何かしら突出した才能や美点があったとしても、それだけではスターダムにはのし上がれない状況になっている。METのスター歌手とか見ても、単に歌が素晴らしいだけじゃなくて、ルックスはもちろん、キャラクターとしての魅力や演技力がないと真ん中に立てない。オペラの興行性を重視するニューヨークのオペラ劇場だ、という側面はあるだろうけど。

もちろん、そういう競争状態の中でも、オンリーワンの突出した才能や他の追随を許さない技術を持っている人はそれだけで勝負に勝ったりするんだろうけど、そんなすごい才能を持った人が世の中にゴロゴロいるわけはない。宇多田ヒカルさんとか、不世出の天才、と言われるけれど、彼女だって美人だし、歌唱も作曲も歌詞の文学性も素晴らしくて、そういう意味でもマルチな才能だよね。天は二物を与えない、というのは、一つの才能に抜きんでた人が他の分野は全然ダメだったりする時に使うことが多いと思うけど、本当に一流の人っていうのは一芸に秀でているだけじゃなくて、その芸以外の部分でも相当な水準でこなせるマルチな人が多いと思う。

一方で、「天は二物を与えず」という言葉は、一芸に集中して自分の技術を高めようとする努力を怠ってしまう器用貧乏な人に向けての警句として語られることも多い気がする。なんでも要領よく器用にこなしてしまうから、結局どの分野でも大物になれずに埋もれてしまう才能ってのも世の中には沢山ある。

なんでこんなことをつらつら書いてるかっていうと、例によってさくら学院関連でちょっと名前を知った、「佐野杏羽」さんという方のピアノ演奏をYouTubeで見る機会があったからなんです。この方はさくら学院が所属しているアミューズ子供タレントの中でもかなり有望株らしくて、アミューズキッズで作っているYouTube動画のシリーズにも出演してるんだけど、その中で紹介されているこの人のピアノの弾きっぷりに結構感動しちゃったんだな。

 

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この人はキッズモデルとして活躍してるだけじゃなくて、他の動画ではダンスも披露していたり、本当にマルチな分野で活動している。YouTubeで見つけた他の動画では、YamahaのJunior Original Concert(JOC)のシリーズの中で「音の森」というオリジナル曲を披露していて、このクラリネットをフィーチャーした曲が、11歳の手になるとは思えない面白い和音感覚やリズム感で、この子はただものじゃないんじゃないか、と思わせてくれます。

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これだけピアノが弾けて、作曲や編曲の才能もあって、ダンスも上手でしかも美人。まさに「天から二物以上のものを与えられまくった人」なんだけど、個人的にはこの人にはピアニストとか作曲の道に進んで欲しい気がする。10代ってのは本当に可能性の塊で、そういう意味では、どんな10代にも天は二物以上のギフトを与えているのかもしれない。でも、そこから何かしら1つ、誰にも負けないものを選ばないといけない、というのが、「天は二物を与えず」っていう言葉の本当の意味なのかもしれないなぁ。一つのものを選んでそれに向かって誰にも負けないオンリーワンの才能を磨いていけば、それが開花した時に他のギフトも開花する。それが今、エンタメ界でトップを走っている人たちのマルチな才能を支えているのかもしれないね。

画材としてのアイドルと作家さん達の関係って・・・

フェルメールが理想的な青を描くためにラピスラズリを用いた、とか、葛飾北斎が印象的な青を表現するために当時最先端だった画材の「ベロ藍」と言われる青の絵の具を使った、という話がありますが、先日、遠坂(えんさか)めぐさんというシンガーソングライターの方のツイートを見て、ちょっとそんなことを思い出したので、今日はそのことを。どう関係するのかさっぱり分かりませんね。ホントにつながるのかこの話。なんか教養ネタっぽく始まりましたけど、基本的にはさくら学院関係のヲタ記事なので、その方面にご興味のない方はここでご退出くださいね。

遠坂さんの曲は、「新曲」というMVがYouTubeで上がっていますけど、私小説的な等身大の世界を歌いながら、耳に残るメロディと、思わず「そうそう、あるある」と思わせてしまうようなテーマの普遍化やユーモアを交えて、最後にちょっと胸にグッとくるメッセージを投げかけてくる本当に素敵な曲です。

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そしてこの人を知ったのは、例によってさくら学院つながりなのだね。さくら学院の卒業生のシンガーソングライター、山出愛子さんに楽曲を提供したり共作をしたりしているのが遠坂さんで、このコンビの作品群がまたどれもいいんだ。「ピアス」「3月なんて」「365日サンタクロース」、どれも山出さんの伸びやかで瑞々しい声と、彼女自身の等身大の想いにシンクロした歌詞とメロディで泣かせる。

で、遠坂さんのツイートもフォローし始めていたら、「人に曲を提供する」、という行為自体に、作家としての遠坂さんが少しジレンマを感じてらっしゃるようなツイートがあったんですよね。「いい曲」を書こうとして出来上がった作品が、歌い手の「いい声」のおかげで評価される、という結果に対して、でも「いい声」を「いい声」として聞かせるための作曲上の様々な技術もあるわけで、それって要するに「いい曲」ということなんじゃないかな、みたいな文章。正確に遠坂さんの想いを汲み取れているとは思えないので、以下は遠坂さんとは全く無関係に勝手に話を広げていきます。

昭和の歌謡曲のことを思い出してみると、ヒット曲は「誰の作曲か」という点より、「誰が歌っているか」に重点が置かれてた気がするんですよね。筒美京平とか都倉俊一とかヒットメーカーと言われる作曲家はいたけど、その曲がヒットする理由の大きな要因は、それを歌っているのがいしだあゆみであるかピンクレディーであるか、という点が大きかった気がする。もちろんそういう歌い手さんの魅力を最大限に発揮するために、当時の作曲家は色々試行錯誤したとは思うのだけど。ちなみに先日知ったのだけど、渡哲也さんの大ヒット曲の「くちなしの花」ってのは、歌手じゃない渡哲也さんのために、作曲家の遠藤実さんが、できるだけシンプルに曲を作るように心掛けたそうで、そういう、歌い手と作曲家の綱引き、というか、コラボレーションというのは当時からあったんだと思う。でも、どちらかといえば、歌手の個性に引っ張られる力学の方が強く働いていたんじゃないかなぁ。

そのあたりの、作曲家と歌手の力関係、みたいなものが少し変化してくるのが、いわゆるニューミュージック界のシンガーソングライターさん達が、歌い手さんに楽曲を提供し始めた頃で、個人的には、薬師丸ひろ子さんや原田知世さんがそういう流れに先鞭をつけていた気がするんですよ。薬師丸ひろ子さんの「セーラー服と機関銃」がヒットした時に、「え、作曲来生たかおさんなんだ」ってちょっと驚いたし、原田知世さんの1stアルバムに坂本龍一大貫妙子がガチ参加してて驚愕したり。そのあたりから、作曲家・シンガーソングライターとして既にビッグネームになっている方々が、売れっ子のアイドルさんに楽曲を提供する、というのが普通になってきた。そもそも「楽曲を提供する」という表現自体、昔の昭和歌謡では存在しなかった気がするもんね。その楽曲が、「そもそも自分のもの」であって、それを他の人に「提供する」ということですもんね。

その頂点にあったのが、松田聖子さんだった気がします。財津和夫大瀧詠一松任谷由実、といった作家性の強い作曲家の楽曲でヒットを連発した松田聖子さん。このあたりから、「この人があの作曲家の曲を歌うんだ」という感覚が受け手側にも一般化したんじゃないかなぁ。そしてこの、松田聖子さんと言う方が、どんな楽曲も全て自分のものにしてしまう素晴らしい声と歌唱技術を持った歌い手だったから、「いい曲」と「いい声」のコラボレーションがものすごくうまく行ったのかなって思う。

想像ですけど、こういう「いい声」に対して曲を書くのってすごく楽しかっただろうなって思うんですよ。この人が持っているこの声の魅力を活かそう、とか、この人はまだ自分自身気づいていないけど、こんな声の色合いもきっと出せるはずだって、ちょっとチャレンジングな曲を提供してみる、とか。そして松田聖子という稀代の歌い手は、そういう作曲家の挑戦に対してしっかり応えられる努力と能力を備えていた人だったんだろうなって思う。

ここで、冒頭の文章に戻ってくるんだけどね。要するに、松田聖子さんっていうのは、一種の「万能の絵の具」みたいなものだったのかもなって思うんです。その作曲家が本当に表現したいもの、挑戦したいものがあって、でも、それを実現できる声を持っている歌い手さんはなかなかいない。そう思った時に、松田聖子さんという「声」=「絵具」に出会えた作曲家さんって、すごく世界が広がった感覚がしたんじゃないかな。ラピスラズリや「ベロ藍」の青を見たフェルメール北斎が、「この青で描きたいものがあるんだ!」と心ワクワクしたみたいに。

最近になって、音楽業界も層が厚くなり、様々なジャンルへの細分化や、インディーズみたいな一部の熱狂的なファンを持つ作家さんが増えていて、歌い手と作曲家の力関係というのが微妙に変化しているのかもって気もします。坂グループみたいにプロデューサーのコンセプト色が強すぎるグループは別として、ある意味、色の個性がまだくっきりと出ていない若いアイドル達に楽曲を提供する、作家性の極めて高い職業作曲家のような人たちが結構いるのかもしれない。その最大の成功例の一つが、BABYMETALだと思うんだよね。若い、まだ色がついていない、でも間違いなく何十年に一度の逸材である中元すず香、という「画材」を使って、カワイイとメタルの融合というコンセプトを表現してみようって集った作家さん達は、本当に楽しかったんだろうな。

でも、BABYMETALの母体の「さくら学院」という場所自体が、そういう、作家が自分の表現を実験する場所、まだ個性が出ていない表現者の卵たちという「画材」に、自分の作品を提供する場として機能していたんだと思うんです。さくら学院に楽曲を提供した作家さんたちが、学院の閉校を惜しんでいる声を寄せているのを見ると、こういう真っ白な「画材」で自分の思う絵を描いていく楽しさを作家さん達自身も感じていたのかなって思う。だから余計に、閉校が残念でならないんだけどね。才能ある作家さん達の表現の場が失われてしまう、という寂しさ。

さくら学院の卒業生で構成されたガールズユニット@onefiveも、作家さんの表現手段、「画材」としての可能性の高いグループで、先日のクリスマスライブ配信でも、このグループとELEVENPLAYの丸山未那子さん(MARUさん)が作り上げたダンス作品のクオリティの高さにあっけに取られました。さくら学院にハマってしまったのは、まだまだ素材感の強い生徒さん達が表現者として成長していく過程と物語の深さが大きな理由なのだけど、遠坂めぐさんやMARUさんのような作家さんが、素材としての生徒さんや卒業生の能力や伸びしろを見極めながら生み出していく作品群が、制作過程のそういうせめぎ合いや葛藤を内在していて、その葛藤自体が作品のパワーを高めていることも一因なのかなって思います。これからもこの才能あふれる学院の卒業生たちが、素晴らしい作家さんの「画材」として素敵な作品群を生み出していくのを見守っていけたらって思います。

ネット配信さまざま

コロナ君はまだまだ暴れてはいますけど、感染症対策をしっかり取った舞台活動もかなり再開されてきましたね。もう、「ここまでやったんだから感染者が出てしまったら不運としかいえないよねぇ」という感じなんだけどさ。

とはいえ、やはり現時点での有料パフォーマンスの中心はネット配信。ということで、今日は、推しのアイドルのネット配信から、女房がやっているオペラ活動関連のネット配信の話、面白いなぁ、と思った配信コンテンツその他、色んなネット配信に触れた雑感をつらつらと。

観客入り上演が急遽無観客になってしまった代替手段、としてネット配信が使われた初期の頃は、例のびわ湖のワーグナー上演みたいに、記録映像としては貴重かもしれないけど映像コンテンツとしての完成度は度外視されたものが多かったと思います。その後、これだけネット配信が一般的になってくると、画面に視聴者をしっかり引き留めておくにはカメラワークや字幕、その他の各種映像上のギミックが必要、という認識が一般的になってきている感じもする。でも、自分も含めて、普段舞台をやっている人って、そういう「映像編集」というノウハウを持ってないんだよね。一期一会のライブ空間を共有することで自己表現する人たちなので、舞台を映像に残すのって、あくまで「記録」としての意識が強い。オペラ歌手とか、普段映像を通じて表現していない人たちが、配信コンテンツ制作に四苦八苦している話を結構聞きます。

そういう意味で、色んな音楽家さん達の試行錯誤が見えるのが、東京都のやっている「アートにエールを」という配信プログラム。助成金も出る、ということで、YouTubeで様々な方々が参加して思い思いのコンテンツをアップされているんですが、これがまさに玉石混交。一番多かったのが、自宅でイヤホンつけて歌った映像を貼り付けているバーチャル合奏やバーチャル合唱で、これは新日本フィルがテレワークで作り上げた「パプリカ」で有名になった手法ですよね。でも、これがとにかく次から次へと出てくる。残念だけど、スマホで撮影したただの映像なので、なかなか集中して最後まで見るのは厳しいものが多い。そりゃ、小曽根真さんみたいな一流の方が演奏してれば、ただのスマホ動画でも見入っちゃうのかもしれないけど、それでもそれなりの音響設備も必要になるしねぇ。やっぱり、思わず見入っちゃうコンテンツって、洒落た映像編集とか面白い合成とかを使っている作品になっちゃう。もちろん、どこかの河原で4人並んでひたすらホルン吹いてる、なんていう映像が逆に映像ギミックとして楽しめたりもして、この「アートにエールを」という企画は凄く面白かったです。ちなみに最近は、観客数を制限したライブの収録動画を上げている方も多いようですね。

クラシックの世界から離れて、私の推しのアイドル系の話。アイドルさんが所属している大手芸能プロダクションとかは、当然だけどTVという媒体での映像コンテンツ制作に慣れているので、アイドルグループの配信ライブとかは映像コンテンツとしても完成されたものになっているのが多いですよね。でもそうすると、収録したライブ映像を編集したコンテンツが配信されるものも多くて、どうやってそこに、一期一会感、ライブ感、といったプレミア価値を付加していくか、というのが結構課題になるのかなぁ、って思います。

山出愛子さん、という、さくら学院の卒業生のシンガーソングライターが先日配信したLINE LIVEとかは、そういう「ライブ感」が色んな意味で満載で、それが凄く面白かったんですよね。アミューズの歌い手さんなので、カメラワークやステージ照明といった作りこみはプロ仕様なんだけど、いきなり冒頭で、伴奏のピアノのPAから音が出なくて、一曲目を二回演奏するトラブル発生。途中のトークコーナーのアドリブ感も素敵だったし、一発撮りの「ライブ」という環境の中で、声や指が震えてしまう演者の緊張感が伝わってきたり、なんか、昭和の生放送の歌番組ってこうだったのかもなぁっていう、まさに一期一会の体験をさせてもらえました。

コンテンツ配信からどうやって収入を得るか、という有料配信の問題も色々とハードルが高いみたいですね。特に著作権の問題が結構大変みたいで、ライブ舞台で演奏するだけなら、集客数やチケット代などで計算される著作権料を支払えば済む話なんだけど、有料配信、となった瞬間に、別の著作権の問題が出てくる、というトラブルもあるようです。知り合いがライブ舞台の動画を有料配信サービスに乗せようとしたら、この著作権料の壁にぶち当たってしまい、結局有料配信を断念した、という話を聞いたことがありますし、推しのさくら学院が毎年やっていた、「歌の考古学」というライブパフォーマンスが、昔の歌謡曲などを題材として取り上げるために、著作権の壁を越えられなくて、ライブ配信を断念している、という話を聞いたりしました。著作権だけじゃなく、興行としてネット配信を成り立たせるために、チケット代としてお金を回収したり、グッズを購入してもらうついでにURLやパスワードを配ったり、いわゆる「投げ銭」システムを活用したり、様々な方法でなんとか採算を取ろうと頑張っている話もよく聞きます。

一方で、ネット配信って面白いなぁって思うことも多々あって、前述の「アートにエールを」とか見ていると、今まで知らなかった演奏家の方々の素敵なパフォーマンスに出会えることもあったりする。ネットが出会いの場を拡張している、という効果も確かにある。それを先日実感したのが、アメリカ在住の知り合いがシェアしてきた、Tacoma Little Theatreという小劇場がやったZOOMによる朗読パフォーマンス映像。下記のYouTubeチャンネルで見ることができます。

youtu.be

普通の市民ボランティアも含めた役者さん達が、第二次世界大戦下の在米日系人差別と虐待の記録(当時の日誌など)をZOOMで次々と朗読する、という、大変シンプルなパフォーマンスなんですけど、これがライブパフォーマンスとしてすごく面白かったんです。少し前に三谷幸喜さんたちが仕掛けた、「十二人の優しい日本人」のZOOMによる読み合わせとかもそうでしたけど、朗読パフォーマンスとかって、ネット配信に向いているのかもなって思います。動きや演技を封じられた、制約された表現の中だからこそ、逆にメッセージや役者の内面がクリアに見えてくる、というか。でも単純に、普段だったらシアトルの小さな劇場で上演されるパフォーマンスを日本で見ることなんてありえないけど、このコロナのおかげでそういう劇場の存在やパフォーマンスを知ることができたわけで、コロナが世界を一つにつないだっていう側面もあるんだなって思います。

ネット配信がつなぐ新しい出会いもあるし、ネット配信による制約が生み出す新しい表現や研ぎ澄まされてくる映像表現もあるだろうし、ライブ感覚がより高い付加価値になっている側面もある。このコロナの時代に発達したネット配信という表現ツールは、これからも一つの表現スタイルとして定着発展していくんでしょうね。

「シャンソン・フランセーズ10~ようこそ劇場へ」~歌い手の矜持、歌の回帰、物語の森~

昨日、渋谷区総合文化センター大和田の伝承ホールで開催された、「シャンソン・フランセーズ10~ようこそ劇場へ」に伺いました。今では本当に貴重になってしまった「劇場」=「ライブ」という場に戻ってきた作り手達が、この時間に込めた想いや矜持を、生演奏ならではの豊かな音とともに全身で浴びた濃厚な時間でした。

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アンコール、SNSで拡散するのじゃ、とのお告げが金髪ミニスカピアニストから下ったので慌てて撮った一枚。

 

女房がお世話になっていることもあり、毎回のシリーズを欠かさず見てきたこの企画。今までも時々感じましたけど、今回は特に、歌い手の矜持、というか、こだわりを強く感じた気がします。プロデューサ田中知子の「自分のやりたいことをやるんだ!」という強烈なこだわりは、この企画の最大の通奏低音なんだけど、今回はむしろ、歌い手側のこだわりや、何かもっと面白くできないか、とか、もっとこうしたい、という思いの強さを感じた気がした。

実際、女房に聞くと、田中さんが用意した楽曲や構成に対して、歌い手のアイデアや思い入れが舞台の上に結構反映されていたそうです。オープニングの登場の仕方や、演出のちょっとした工夫。衣装の選び方一つにしても、演出や曲の解釈に合わせて帽子から脚の見せ方までこだわる。「振れ幅」を自分のウリにしているうちの女房に至っては、ソロ曲ごとに全部衣装を変えて、おかげで一人だけ舞台に一番近い楽屋(いわゆる早替え部屋)をあてがわれたそうな。

そういう歌い手なりのこだわりや表現への意欲、一言でいうと「矜持」というのが、このシャンソン・フランセーズを支える一つの柱になっているんだなぁ、っていうのを、今回の演奏会で改めて感じた気がしたのだけど、それって、「シャンソンの名曲や昭和歌謡をクラシック歌手が歌う」というこの企画自体が歌い手にとって一つの挑戦に他ならないからなんだよね。簡単に言えば、オリジナルの曲をオリジナルの通りにカラオケみたいに歌っても意味がない、ということ。クラシック歌手が違うジャンルの歌に挑戦する以上、そこに何かしらオリジナルとは違う意味や解釈、別の物語を生み出さないと意味がない。

またちょっと手前味噌になりますけど、今回、女房が歌った「美しい9月」は、シャンソンの女王ともいわれるバルバラの歌った名曲です。でも、バルバラのいかにもシャンソンっぽい低い地声で歌われるこの曲を、ソプラノの女房が歌うとなれば、甘いも酸いも噛み分けたフランスのイイ女が、ちょっと昔の恋を回想しながら歌っている歌にはできない。1オクターブ上の音程で歌われた女房の「美しい9月」は、まさに美しい9月の恋の只中に生きる若い女性のその刹那を歌った悲恋の歌に変貌する。

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この帽子も相当こだわって密林から購入したもの。

 

それ以外にも歌い手に何かしらの「挑戦」やこだわりを求める曲は一杯あって、橋本美香さんが歌った「帰り来ぬ青春」も、ボーイッシュな衣装も相まって、オリジナルにはないどこかユニセックスな端正さを感じたし、つい先ごろ亡くなった弘田三枝子さんの「人形の家」をわざわざバリトン歌手の和田ひできさんに歌わせる、というあたりも、オリジナルとは違うアプローチによって歌の魅力を再発見しよう、という意図を感じる。歌い手は一曲一曲に自分なりの「挑戦」や「新しい解釈」をこめなければならない。それはこの企画の中の「定番曲」(=スタンダード)である「侯爵夫人さま、全て順調でございます」に対しても例外ではなくて、今までの演奏とは違う何かを付け加えようとする。最近の風潮を取り入れたビデオ電話ネタだけじゃなく、アダムス・ファミリーねたを盛りこんでみよう、となれば、歌い手一人一人がそのキャラにどうなり切るかそれぞれに工夫を重ねる。橋本さんはナゾのウサギぬいぐるみを抱え、田辺さんはどこから調達したのか分からない長ギセルをくわえ、和田さんは付け髭を用意する。個人的には、三橋先生が手にしたオタマで魔女鍋をかき混ぜてる演技でww。

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この馬になりたいとずっと憧れていたんだそうです。いいのか。それで本当にいいのか。

 

そういうアプローチを別の言葉で言うと、「リバイバル」ということなんだよね。過去の名曲やスタンダードに違う意味や解釈を付け加えて現代に甦らせる。そう考えると、今回の演奏会全体に流れる一つのテーマが、「リバイバル=回帰」ということだった気がするんです。ようこそ劇場へ、というタイトル自体も、「おかえり劇場へ」と読み替えることもできるし、上述した歌い手の一曲一曲へのこだわりが、コロナ禍という舞台表現に襲い掛かった災厄を越えて舞台に「戻ってきた」という強い思いに支えられていた要素もきっとあると思う。

コロナ禍を越えて「帰ってきた」のは、客席にいた我々聴衆もそう。相山潤平さんのコミカルな演技付きの「ジジ・ラモローゾ~みんなのジジ」が、村のハンサムな歌い手が去ってしまった不幸な村の物語を語り、高橋淳さんが熱く「歌ある限り」を歌い上げると、聞いていた私としては、そこに、「歌=ライブ」を失った現代の自分たちの喪失感と、歌を渇望する思いを重ね合わさずにはいられませんでした。だからこそ、そのあと、同じ「ジジ・ラモローゾ」がリフレインされ、「ジジ」の帰還が告げられると共にメドレーの歌の饗宴へとなだれ込んでいく後半には、「歌が戻ってきた」という感慨と、この場に「帰ってきた」幸福感が重複してしまってなんだか胸が熱くなってしまった。

女房に聞けば、プロデューサの田中さんは、「ジジ・ラモローゾ」のリフレインにそんな「回帰」の意味を込めたつもりはなかった、というのだけど、客席にいて同じ思いを抱いたのは私だけじゃなかったんじゃないかなぁ。田辺さんの「想いの届く日」を、コロナの終息と、再びライブがもっと熱く再開する日を夢見ながら聞いたのは、私だけではなかったと思う。

フィナーレの「生きる時代」、シャンソン・フランセーズでは前回でも演奏された曲だったけど、コロナ禍で歌の意味がすっかり変化してしまった。自分を縛る鎖を解いて自由に生きる、という歌のメッセージは、もともと、人が生み出した様々な制約からの解放を歌っていたのだけど、今この歌が届けるのは、コロナという目に見えない災厄に対して人の心の自由をどう確保するのか、その自由を感じることができる「ライブ=音楽」の場をどうやって守るのか、というメッセージ。客席で思わず涙してしまった私を含めた沢山のお客様の中には、そんなメッセージや物語を心に描いた方が沢山いらっしゃったんじゃないかな、と思います。

作り手のこだわりや強い思いが、名曲たちを現代にリバイバルさせ、そしてそこに、新たな物語が生み出されていく。その物語は、作り手達が想像していなかった新しい種をまき、種は客席のお客様の心でまた新しい物語の枝を広げていく。枯れた大地に歌という水と種が撒かれて、豊饒な物語の森が再生(=リバイバル)していく、そんなイメージを膨らませた、みっしりと濃厚で豊かな時間でした。

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出演者の方からいただいた、夜終演後の出演者の皆さんの集合写真。女房が大変お世話になりました。素敵な時間を本当にありがとうございました!