アイドルは歌が下手って、呪いじゃないかなぁ

今日はアイドル関係の内容なので、さくら学院とかonefiveにご興味のない方はここでご退場いただいた方がいいかも、と思います。とはいえ、自分の推しの話をする、というよりは、日本のアイドル業界で長く言われている、「歌が下手なアイドル」についてちょっと考えてみたいな、というのが今回の文章。というのも、最近読んだ、三宅香帆さんの「推したちとどう生きるか」という本と、井出口彰典さんの「童謡の百年」という本の中に、全く違う文脈で似たような表現を見つけて、ちょっと考え込んでしまった、というのがきっかけなんですね。あんまりまとまった文章にはならないかもしれないんだけど、とりあえず、この2冊の本で、私がひっかかった、「歌が下手なこと(或いは「未熟」であること)への肯定的評価」について記述した箇所を引用してみます。

 

山口百恵やピンク・レディーをはじめとして、このころから日本のアイドルは、未熟な子どもの成長をみんなで見守るというプロデュースを採用している。つまり、子育ての疑似体験ーーとまではいわないにしても、子どもが育つのを見守るように、家族的な関係性をファンとつくりあげる存在が、日本型アイドルの原型だったのである。

(「推したちとどう生きるか」108頁)

 

「赤い鳥」唱歌会の令嬢たちは下手でも何でも、貴い純性に生きてゐる少女である。私はその下手さそのものの中に伴はれてゐる、その人々の純な生命こそ、却って、われわれの「赤い鳥」童謡を謡ってもらふについての、第一の、そして或は唯一の資格でなければならないと考へてゐる。

(文庫版「童謡の百年」68頁、鈴木三重吉の文章の引用部分)

 

前者は、日本におけるアイドル文化の隆盛において、アイドルのひたむきな成長を見守ることが、親が子供を見守るような、疑似家族の関係性を作り上げることで推し活を正当化した(倫理を与えた、と言ってもいいかも)、という文脈の中で、後者は、「童謡」というものが本来表現するべき「童心」を表わす道具として、未成熟な少年少女のたどたどしい歌唱の方が、訓練された大人の歌唱よりもふさわしい、と、(童謡運動の中心人物であった鈴木三重吉自身が)主張し、結果その担い手であった少女歌手達が、後年、童謡歌手というアイドル的人気を博した、という文脈の中で出てくる文章です。共に、歌手の未熟さこそが大きな魅力となって人々に広く受け入れられた、という流れ。文脈は違うのだけど、結論として、「下手な歌唱」というのが未熟さを裏打ちする属性として、市場価値を生んだ、とされている。

 

日本のアイドル歌手の歌唱は下手くそだ、というのは、色んな所でよく言われることで、特にKPOPアイドルとの対比においてよく言われることだと思います。完璧な歌唱とダンスを磨き上げたKPOPアイドルに比べて、日本のアイドルはパフォーマンスの完成度をアピールしているのではなく、むしろその不完全さや未熟さを愛でるのだ、という議論。割と最近でも、どこかのアイドルさんが大きな舞台で恐ろしく下手くそな歌唱を披露して、この議論がネットでも盛り上がっていた記憶がある。未熟だったり下手くそだったりするけど、でもそれを「純粋である」と肯定した昭和初期の聴き手たち。そしてそのひたむきさに感動して、僕たちがこの子達を育てるんだ、一緒に頑張ろう、と自分に引き寄せて、共に「生きる」ことを選ぶ現代のヲタたち。共通するのは、「下手な歌い手」が人気者になる、という現象。

 

日本の伝統的な「未熟なものに聖性を感じる」というメンタリティが、アイドルを評価する「カワイイ」という言葉の底流に流れている、というのも、井手口さんの本の中に、四方田犬彦の「『かわいい』論」を引用する形で触れられている。未熟だからこそよい、という日本的な評価軸が端的に表れたのが、美空ひばりという「少女なのに完璧な大人の歌唱を身に着けている」天才少女に対する評価で、彼女の歌声の完璧さに魅了される人々の対極に、「子供のくせに気持ち悪い」という嫌悪感を見せる大人たちがいたのも事実。「未熟であるからこそ聖である」べき少女が成熟してしまっていることを「不気味」と感じる感覚がその根底にあったのは確かだと思う。

 

でもねぇ、あくまで個人的な見解なんですけどね。この「未熟だからこそいい」っていう価値観って、色んな局面で、日本のアイドル市場にかけられた呪いのような気がするんだよなぁ。呪いじゃない?と私がとみに思う瞬間って大きく3つあって、1つは、本当に歌が下手くそな「アイドル」さんが、もっといい歌い手が担うべきパフォーマンスの真ん中に立って、舞台作品全体のクオリティを下げてしまう、というケースに結構出くわす、という現象。もう一つは、「日本のアイドルは歌が下手」って一緒に括るのは、一級のパフォーマンスを届けてくれるアイドルさん達に失礼じゃん、という思い。そして最後に言いたいのは、ものすごくクオリティが高い玄人受けするパフォーマンスのアイドルさんが、「KPOPっぽい」とか、「日本っぽくない」という謎の言葉でなかなか日本市場でブレイクしない謎の現象。

 

ミュージカル舞台で、主役級の歌い手さんが明らかに一番下手くそ、という舞台を見せられて、残念感抱えて帰宅したことが何度かあるんだよね。それは明らかにその人がかつて「未熟だからこそいい」という価値観に支えられたアイドルさんだったために、今でも、「彼が主役なら」と沢山チケットを買ってくれるヲタたちを抱えているから。舞台を成功させる最大のファクターは、チケット収入ですから、チケットを売ってくれるのであればどんなに歌が下手くそだろうが演技がダイコンだろうが真ん中に立てるんですよ。それはどんなパフォーマンスでも一緒だし、私が関わっているオペラ舞台でもそういう「残念な」舞台にぶつかることはしょっちゅうあります。

 

でもねぇ、真ん中に立っている下手くそなアイドルさんって、もう結構いい年齢になってたりするんだよなぁ。今更「未熟だからカワイイ」なんて言えるような歳じゃないだろう。というか、いつまで成長途上なんだよ。もういい加減成熟しろや。

 

それこそ、「歌が下手なのがいい」とファンに言われ続けている「呪い」だと思うんだよね。いつまで経っても成熟しないアホロートルみたいなお兄ちゃんが真ん中に立っているせいで、脇役の人たちがどんなに頑張っても、舞台全体が残念なクオリティになってしまうミュージカル舞台をいくつか見てきて、やっぱり「歌が下手でもいい」っていうのは呪いだよなぁって思うんです。

 

でもね、「歌が下手でいい」ってパフォーマーを甘やかすって、日本のアイドル全般に共通する現象では決してないと思うんだよ。おそらくは元ジャ●ーズ系の一部と、数字系の一部などに限った現象で、ものすごく頑張って本物のパフォーマンス見せてくれているアイドルさんだっていっぱいいると思う。それこそハロプロの色んなアイドルさんのパフォーマンスのクオリティの高さや、EXILE系の方々の洗練されたパフォーマンスとか見てみろよって思うんだよね。それを一部の人気先行型のアイドルさんと一緒にして、「日本のアイドルはパフォーマンスが下手」って一緒にまとめるのは本当に失礼だし、それこそ呪いだと思う。カワイイと高度なパフォーマンスを両立しているグループだって一杯いるぞ。いぎなり東北産の伊達花彩さんとか、素晴らしい歌唱力の持ち主だけど無茶苦茶カワイイぞ。解散しちゃったけど、AMEFURASSHIの四人とか、美人でカワイイのにパフォーマンスがエグくて、そのギャップが最高だったんだし。そういうアイドルさん達に対して、「日本のアイドルは未熟さを価値としているので歌やダンスは下手」って一括するのって、本当に失礼な「呪い」だと思うんだよねぇ。

 

ちょっと話の筋がずれるけど、自分がさくら学院というアイドルグループにはまったのも、彼女たちが成長期の小中学生という未成熟さを抱えながら、パフォーマンスは本当に一級品だったから、という点なんだよね。要するに、未成熟であり成長中だから尊い、という価値観は、「だから歌が下手でもいい」ということにすぐにつながるものじゃないんだよ。美空ひばりの魅力はその成熟した歌唱力だけではなくて、彼女の少女としての未成熟さや成長、という側面も間違いなくあった。少女である、少年である、だから歌もダンスも下手くそでいい、というのは、少年少女に対する侮蔑であり「呪い」だと思うんだよね。

 

そういう感覚って、自分の推しに対する評価を見ていてイラっとする瞬間にもつながっていて、BABYMETALのすぅさまの歌唱に対して人形浄瑠璃って評価したBBAとかにも、少年少女は未熟で未完成なものだ、という先入観と、アイドルというのは人間として未完成なお人形さんでしょ、という侮蔑を感じて無茶苦茶イラっとする。中元すず香の歌唱は美空ひばりなみに10歳くらいに既に芸術として完成されていたのだし、彼女の歌唱が初期から世界に通用するパフォーマンスだったことは結果が示しているのに。

 

そしてやっぱり最後に言いたいのはonefiveですよ。彼女たちの歌唱が初期から完成されていた、とは言いませんけど、少なくともダンスパフォーマンスは初期から一級品で、初々しかった歌唱力もAVEXでメジャーデビューした頃には明らかに大人の表現力を身に着けていた。歌もダンスもどこに出しても恥ずかしくないこの子達のパフォーマンスが、一時期「KPOPっぽい」という一言で片づけられてしまったのには、色んな要因があると思うけど、未熟が故のひたむきさ、一生懸命さ、「下手くそ」であることを価値とする日本のアイドルの価値観が、onefiveの持つあまりにもキレッキレで完璧なダンスパフォーマンスや歌唱力との間で歪を起こしたっていうのも一因だったのじゃないかなって思ったりする。まさに、「日本のアイドルは下手くそであるべき」という先入観の呪い。

 

最近のonefiveは、そういう呪いを逆手にとって、わざと均衡を崩して各人の個性を前面に押し出すパフォーマンスを見せている印象があります。キレッキレのフォーメーションの中に突然投げ込まれるファンサや表情お化けのアピール、メンバー同士のボディタッチやアドリブのいたずら、わちゃわちゃ感。日本のアイドルは下手くそであるべき、という呪いを超えて、推したちが一級のパフォーマーとして羽ばたける日を夢見て、私もこの「呪い」の打破のために、機会があればせっせとこんな文章書き殴りたいと思います。「日本のアイドルは下手」って一括りに言うなよ。そんなのホントに一部の界隈だけなんだからよ。

やっぱりonefiveが売れてほしいんだよなぁ

タイトルとは直接関係してないんですけど、今日書くのは先日、8月9日に参戦したLucky Fesの話が中心です。onefive出てないじゃん。8月9日、onefiveは「でか美祭」に出演していて、これはこれですごく盛り上がってたみたいだけど、完全推しかぶりしてしまった自分は苦渋の選択の結果、METALVERSEとBABYMETALが出演するLucky Fesの方にひたちなか海浜公園まで行っておりました。さくら学院のOG達は36人もいるけどさ。こっちは一人しかいないんだよ。閉校後の方が推しかぶりに苦悩することが多くて本当に嬉しい悲鳴だよなぁ。さくら学院、全然終わってない。

 

遠かったけど会場が広くて海風が涼しくてすごく気持ちよかったです。

 

スタッフさんが笑顔で「ラッキー!」って言ってくれるのがなんだか青春。

 

METALVERSEのXから

METALVERSEではKOIAIさん達MVP VANDのカッコよさと3姫の圧倒的なカワイイと、MIKOちゃんのコブシの効いた演歌メタル声浴びてトランス状態になっちゃったなぁ。

トリを飾ったBABYMETALでは、広大な野外会場を完全制圧した爆音の音圧と目の前で巻き起こる命がけのサークルモッシュの砂埃浴びて、エンディングの花火まで最高に盛り上がりました。やっぱりベビメタはスタンディングがいいんだよなぁ。ジジイには命に係わるんでワンマンではシート席選んじゃうんだけどさ。

一般エリアの最前ゲット。この目の前の最前エリアで巨大なWODが巻き起こってもうアゲアゲ。

 

花火も最高にキレイだった。

 終演後、Xを見ていたら、他のアイドルさんお目当てに参戦したアイドルヲタの方々が初体験のベビメタのステージに圧倒されたっておっしゃっている声が多数あって、「ひょっとしてベビメタが今後狙うべきは欧米市場じゃなくて日本市場なんじゃない?」というポストをしたら、私のポストとしては珍しく200以上のいいねをもらって、色んなリプライもいただいたんですね。

 

https://x.com/singspieler1/status/2087365057474859085?s=20

私のポスト。

 

リプライの中には、円安なんだから海外で稼いだ方がいいじゃん、というご意見もあったのだけど、このポストをした一番の理由の一つが、海外で稼ぐのに失敗したかも、という、今年のベビメタの全米ツアーの苦境を報道する最近のニュースなんですよ。強気の会場設定したけどチケットが売れず、チケット代が暴落して投げ売り状態になっている、という・・・

 

BABYMETALの北米ツアーのチケットが投げ売りされている件について|Cohen(コーエン)

私が読んだ記事。

 

この記事でも分析されている通り、今回の苦戦の原因は複数あるとは思いますけど、過去の定番曲を聞き慣れてしまった欧米のファンに、新曲が含まれないセットリストが飽きられてしまった、というのが一因なのであれば、「ベビメタ未体験で定番曲も知らないけど名前は知っていて興味はある」という人たちが結構多い日本市場、というのはひょっとしてブルーオーシャンなんじゃないの?というのが私のポストの主旨でした。そして何より日本市場には、過去の楽曲を含めてベビメタのステージを全身で楽しむことを知ってる忠実なメイトさんたちが沢山いる。今回のLucky Fesで披露された曲は、メイトの方々からすれば耳なじみの定番曲ばかりだったんだけど、米国市場とは違って、日本にいるメイトさん達は、そういう定番曲でも、会場ごと、その時ごとの楽しみ方を知っていて、自分たちの力でベビメタのライブをその場でしか味わえない一期一会の空間にすることに長けている。ベビメタのライブに二度と同じ体験はないってことを知っているからね。だからってまさかWODでバイキングローが始まるとは思わなかったけどさ。そして個人的に悔しかったのは、すぅさまが広島弁でオーディエンスをあおったセリフがうまく聞き取れなかったことなんだよなぁ。本当に滅多にないサプライズだったのになぁ。

 

ベビメタ未体験のアイドルヲタさん達という顧客層も、ベビメタを受け入れる素地が整っている良客なんじゃないかなって気がするんですよね。リプライの中にもあったけど、ベビメタを先駆として、かなりヘビーな楽曲でパフォーマンスする「ラウド系アイドル」さん達って結構出てきている気がするし、実際、ベビメタの前に出演したCandy Tuneさんもオケじゃなくて生バンド背負って出てきたし、となりのステージのトリだったNiZiUさんも生バンド演奏だったみたい。リプライの中にあった、「口パク盆踊りでも愛想を振りまいている」みたいなアイドルさんばっかりじゃなくて、ヲタさん達の全身全霊のヲタ芸を支えられるだけの音圧とパフォーマンスの熱量持ったアイドルさん達が出てきているし、そういうヲタさん達から見て、ベビメタの「本物感」っていうのは確実に響いたんだと思うんだよね。最初はまがい物と言われ、最近でも人形浄瑠璃なんて言われるベビメタの本質を見極めてくれて、「これぞ世界」「これぞ本物」って理解してくれて、一緒にサークルモッシュで一期一会のライブを作り上げてくれる、ものすごく良質なオーディエンス市場だと思うんだけど。

 

一方で、リプライにあった、「世界征服は終わったの?」という言葉も結構響いてはいます。でも、日本だって世界の一部なわけだから、定番曲と忠実なメイトさん達っていう重火器使ってアイドルヲタさん中心に日本を完全征服してから、また新曲引っ提げて欧米市場にリベンジしてもいい気もするんだよなぁ。ひょっとしたらKobaさんはグラミー賞っていうのを一つのターゲットにしているんじゃないかな、と思ったりもして、そのためにもう少し欧米市場で色々挑戦しようと思ってるのかもなんだけど。

 

こうやってファンの目線で自分の推し達のマーケティングに一喜一憂してるとね、やっぱり行きつくのは、onefive売れてほしいなぁっていう思いなんですよ。onefiveが武道館に立つと決めた来年春まで、あと8ヶ月くらいしかない。リプライの中にも、「アミューズはアイドル売るのが下手」っていうコメントがあったけど、実際、onefiveの状況見てると、アミューズって本物志向が強すぎて、プロモーションが先行する日本のアイドル市場へのアプローチが下手なんじゃないかなぁって思っちゃう。onefiveの四人のダンスのクオリティの高さ、楽曲の先進性、そして四人の個性、どれを取っても「本物」だと思うけど、「本物」を作り上げることは上手でも、それを売り込むことが壊滅的に下手な感じがするんだよねぇ。BABYMETALもある意味搦め手の勝利だし、Perfumeもしばらく売れなかったもんなぁ。onefiveがブレイクし始めたきっかけは、ファンがSNSに投稿したSOYOちゃんの動画がバズったことであって、事務所の力ではない。そういうプロモーションの力の違いを実感したのが、Lucky fesで見かけた、とあるKPOPグループだったんですよ。デビューしてすぐにメジャーな地上波の音楽番組に次々出演して、レコード大賞も受賞してるっていうからどれほどのパフォーマーなのかな、と思えば、メンバーは全員同じような顔立ち、ダンスの動きにもメリハリが感じられず、楽曲にも変化がなくて、個性が全然感じられない。でも、会場は満杯。どうしても比べてしまうのだけど、onefiveの四人の方が全然キャラが立っているし、楽曲も先進的で、なによりどこに出しても恥ずかしくない一級のダンスパフォーマンスを持っている「本物」だと思っちゃう。この規模の野外会場でもonefiveの四人ならものすごく盛り上げてくれると思うのに、なんで劣化コピーみたいなグループの方がこんな大きな会場に出演することができて、こんなに人を集めてるんだって、ほんとに悔しかった。

 

推しが初見さんに受け入れられるのって本当に嬉しいことだし、逆に苦境が伝えられると、なんとか他の販売戦略考えないとだめなんじゃないかなぁ、なんて、マネジメントとか事務所の方針に色々意見を言いたくなる。サッカーや野球の試合見ながら、監督の采配に文句言いまくってる人みたい。ファンって厄介な存在だよねぇ。

成長する推し、成長しないオレ~承認欲求から自己実現欲求へ~

またなんだか衒学的なタイトルですけど、まぁ要するに推し活の話です。最近一気に発信力増してきたonefiveの四人のことを中心に。onefiveやさくら学院、遠坂めぐさんに興味ない方はここでご退場された方がいいかも。でははじめるよー。

4月が怒涛の推し活月間だった後も、5月・6月と、onefiveを筆頭に、Wink Musicで歌手デビューした大賀咲希さんと白鳥沙南さんの共演ステージ、METALVERSE、遠坂めぐさんと、推しのライブやイベントにコンスタントに通っております。さくら学院の卒業生は36名もいるので、金銭的にも時間的にも全部のイベントに参戦するのは不可能。自分のできる限り、無理のない範囲で、細く長く続けることが第一義。とはいえ結構な数こなしていて、特典会とかでメンバーと近距離で接する機会も増えてきたので、「おまいつ」(「おまえいつもいるな」の略で、全てのイベントやライブに全通している猛者のこと)とまではいかないまでも、推しに顔を覚えられたかな、と思う瞬間も増えてきた。ほとんどは推しのファンサービスをこっちがそう思い込んでいるだけだと思うけど、遠坂めぐさんとか、ものすごく記憶力のいい人で、一度会ったファンの顔と名前をすぐ覚えちゃうんだよね。なので遠坂さんには確実に個体認識されている。遠坂さんは逆に「顔と名前を覚えた人が最近来なくなった、なんてのも分かっちゃうので辛い」ってボヤいてた。頭が良すぎるってのもちょっと困りものだねぇ。

でも、例えこちらの思い込みだったとしても、推しに認知されるっていうのはそれだけで嬉しいことなので、ファンに喜んでもらうことを一番に考えているアイドルの方々は、色んな機会とか色んなキーワードをたよりに、自分のファンの顔と名前を覚えようと努力されていると思います。遠坂さん以外の推しにとって、私は、Xで過去のさくら学院の活動をずっと振り返っている気色悪いオッサン、と認識されているみたいで、アカウント名を名乗ると、「ああ、あの一生振り返っている人ね」なんて反応してくれる。それだけでもこちらとしては自分の存在を認知してくれていると思えてすごく嬉しい。思い出したくない過去のデジタルタトゥーをずっと掘り起こしている厄介な子供部屋ジジイ、と鬱陶しがられている可能性かなり高いけど。

「あなたのことを知ってるよ」という個体認識がこんなに嬉しいファンサービスにつながるのって、要するにこちら側の承認欲求が満たされるってことなんだよな。この「承認欲求」ていうのが、最近の世の中を動かしている一つの大きなドライブ力になっているような気がして仕方ないんだよね。前置きが長くなったけど、この「承認欲求」というちょっと厄介な欲求について少し深掘りしてみる。

承認欲求って、マズローが1940年代に発表した欲求5段階説でいうところの、生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求、の上に位置するもので、Wikiさんをそのまま引用すると、

「承認欲求とは、自分が集団から価値ある存在と認められ、尊重されることを求める欲求である。
尊重のレベルには二つある。低いレベルの尊重欲求は、他者からの尊敬、地位への渇望、名声、利権、注目などを得ることによって満たすことができる。マズローは、この低い尊重のレベルにとどまり続けることは危険だとしている。高いレベルの尊重欲求は、自己尊重感、技術や能力の習得、自己信頼感、自立性などを得ることで満たされ、他人からの評価よりも、自分自身の評価が重視される。この欲求が妨害されると、劣等感や無力感などの感情が生じる。」

と記載されています。マズローさんの説には批判もあるんだよ、とWikiさんは言うけど、この文章読むと、最近の日本のあちこちで、この「承認欲求」、それもマズローさんが「危険だ」という「低いレベルの尊重欲求」を商品にしているビジネスや、それをきっかけにした色んな問題が起こっているような気がするんだよね。

一番極端な例が、ホストに入れあげちゃう女の子さん達なんじゃないかなぁ。推しのシャンパンコールに押されて天井知らずの売掛金地獄にハマっていく女の子って、その場でのホストさん達や他のお客様からの尊敬の眼差し、名声、他人からの注目を得ることで承認欲求を一時的に満たすことにハマっているのかもって思う。日常生活でそういう承認欲求が満たされていない人がホストにハマるんだよ、という話もよく聞くよねぇ。同様の構造は推し活の中にも大なり小なり埋め込まれている感じがして、トップヲタとして推しからも認知され、ヲタの間でも名前が知れることって、「低いレベルの尊重欲求」を満たすことにつながる。推し活が嵩じて生活が破綻した、なんていう話がニュースで取り上げられてたこともあったよなぁ。

「低いレベルの尊敬欲求」のダークサイドがさらにグロテスクな形で出てきている気がするのが、SNSで生じている色んな問題だったりします。SNSの匿名性とか歪んだ正義感とか、色々他の要素も絡んでいるのでちょっとややこしいのだけど、そもそもSNSって、今まで発信手段を持たなかった個人が世界に自分自身を発信することができる、という意味で、非常に簡単に承認欲求を満たせるツールとして発達してきたんじゃないかな、と思うんですよね。安易な発信がバズることで得られる快感は、マズローの言うところの、「危険な低い尊重欲求」が満たされる快感に他ならない。炎上まで行かなくても、よく言われる「映える」シーンを求めての「コト」需要の高まりっていうのも、ベースにはSNSでの発信によって承認欲求を充足したい、というニーズがあると言える気もする。

推し活に戻ると、この「承認欲求」って、ヲタ側だけのものではないかもって思う。推し側からも、承認への渇望を強く感じることがあるんだよなぁ。私の推しの子達の中にも、時々、「私みたいな何の取りえもない人間」とか、ものすごくネガティブな発言を口にする子がいる。onefiveのGUMIちゃんとか、超絶美人で歌もダンスも上手なのに、二言目には「ホントは目立ちたくない」「基本怠け者」とか、無茶苦茶低い自己評価をぼそぼそ呟くことが結構ある。私自身そういうところがあるけど、自己評価の低い人って、どこかでそれを他者に否定してほしいって願っている心理もあるから、ヲタからの無条件の愛の言葉や、自分のネガティブ発言を否定してくれる応援の言葉とかが、彼女を支えてるんじゃないかなって思う時がある。ネガティブ志向にはまりそうな自分を必死に鼓舞して、歌やダンスの技術を磨いているGUMIちゃんの姿が健気で、そりゃあ全力で応援したくなるし、何かネガティブ発言したらそういうのも全部ひっくるめて全存在全肯定してやろうとこっちが待ち構えている向きもあるんだが。

衣食住が満たされて、生理的欲求や安全欲求という低次の欲求がすっかり満たされた現代日本。最近少し変化もあるけど、基本単一民族で社会の同質性が高いから、帰属欲求は十分満たされている、となると、今の日本人の色んな志向を一番左右しているのは、「承認欲求」なのかもしれないなぁって思ったりします。推す側にとっても推される側にとっても、この「承認欲求」を満たしてくれる、という意味で、推し活って非常にWinWinな「承認欲求ビジネス」と言えるのかもしれない。

ただ、ここまで書いてきて、推し活ってもう少し上位レベルの欲求に昇華できる気もしてきていて、最近のonefiveの現場ってそういういい方向に成長してきている感じもするんだよね。もともと、onefiveの現場に集っているfifth(onefiveのファンネーム)の人たちって、結構年齢の高い経済的にも自立したオジサンたちが多くて、他者からの評価を求める承認欲求の過剰な人がそもそも少ない気がする。私みたいな承認欲求強い未成熟な子供部屋オジサンは例外的で、自分自身に対する評価はしっかり確立した上で、純粋にonefiveの四人のことが大好きで、大切で、この子達の夢を一緒に実現していこうっていうポジティブなエネルギーを強く感じることが多い。それって、マズローの5段階欲求のうち、承認欲求のさらに上にある、「自己実現欲求」のレベルに推し活が昇華されている感じなのかもしれないなぁって思う。ネットで見つけた「自己実現欲求」の定義をコピペすると、

「自己実現の欲求とは、他の誰にも成し遂げることができないようなことを、自分が成し遂げたいという思いや、自分らしくありのままに生きていきたいという欲求」

で、なんとなく、「武道館に立つ」っていう目標を掲げてしゃにむに進み始めた4人と、それを少しでも後押ししたいっていうfifthが、自己実現欲求のレベルに成長し始めている印象もある。

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EX Theater六本木で6月6日に開催されたonefiveのライブで、4人はそれぞれの思いをMCでとつとつと語ってくれたのだけど、今までは、他者からどう見られているかっていう「低いレベルの尊敬欲求」に縛られていた4人が、他者なんか気にしない、自分自身が自分をどう評価するのかが大事だ、という「高いレベルの尊重欲求」のレベルにグレードアップして、さらに、「武道館」という夢=自己実現欲求に向かって走り出したような印象がありました。そういう自分自身への肯定感って、先日参戦したonefiveのSOYOちゃんの生誕祭イベントでも感じることができて、「私は根っからのアイドルだから」っていう全肯定の言葉を聞けたのが、なんだか嬉しかった。自分は全く成長していない承認欲求強い子供部屋オジサンだけど、自分の推しがどんどん素敵なスーパーレディへ成長していく姿をずっと見守れる幸せ噛みしめながら、夏のイベントラッシュに向けて心と体を準備している今年の梅雨の季節でございます。少しは成長しろや。

古典の愉しみ~街から逃げて、書を読もう~

久しぶりのブログ更新、今回は推し活からもオペラの感想からも少し離れて、最近ハマっている読書経験について。実は最近、古典を読むことにかなりハマっているんです。古典、といっても、明治以降の文豪、夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介といった近代以降の作品群を最近やたらに読み漁り始めたんですよね。

というのも、スマホで登録しているKindleを見ていたら、著作権フリーになって青空文庫などでも読める明治から昭和初期の文豪の作品群が、「日本文学全集」といった形でまとめられていて、無料で読めることを最近発見したんです。読書はそれなりに好きだったから、文学史に残る名作と言われる作品は、中高時代にある程度読んでいるはずなんだけど、Kindleの「日本文学全集」には、文庫本などにはあまり採録されていない短編やエッセイなども収録されていて読みごたえがある。

よく言われる話だけど、中高生の頃に読んだ本を、60過ぎた今、もう一度読むと、確かにまるで感想が違うんだよね。年齢を重ねて知見が広がった分、新しい発見がある、というのもそうだし、感情移入する登場人物の年齢が変わってしまったり、もっと俯瞰した視点で、作品が描く人間の葛藤と現代日本に生きる我々の葛藤が重なって見えて、結局人間って明治大正時代から令和の現代までやってること変わらんなぁって思ったり、なるほど、この時代にこの作品が書かれたなら、確かに文学史が変わるなぁ、なんてことも思ったりします。そんなことをつらつら考えた「古典」をいくつか並べてみます。

まずは、夏目漱石の「吾輩は猫である」。中高生の頃に一度読んでいるはずなのだけど、今回読み返してみて、これって江戸戯作の「浮世床」とあんまり変わらんなぁって思ってしまった。多分そういう時代なんだとは思うんだよね。苦沙弥先生の狭い茶の間に集まった当時の知識人たちが、煙草の煙をもうもうと立ち昇らせながら、有り余る教養を恐ろしくくだらないやりとりで浪費し続ける会話劇。中高生の時にはあんまり気にならなかったのだけど、徹底的に世の中を斜めから見る姿勢、自分も含めた友人たちをボロクソに貶める自虐的文章がちょっとしんどくなっちゃった。またKindleって、紙の本と違って、「あとどれくらいでこの作品終わるのかな」というのがすぐ分からないんですよね。このけなしあいくさしあいがどこまで続くんだろうってちょっと我慢の時間もあった読書体験だったなぁ。中学生のオレって、この明治遊民たちの自由極まりない会話にちゃんとついていっていたのだろうか。そしてこの小説が評判になってしまって、近代文学の幕を開けた、みたいなことを言われると、夏目先生ご自身もちょっと反省したんじゃないかなぁ。小説としては「三四郎」「それから」「こころ」とかの方が間違いなく傑作だと思う。ちなみにうちの女房は、「夏目先生は日本語がおかしい」といつも怒っています。普通の日本人が書く文章と単語の使い方や送り仮名の使い方がかなり違うんだって。確かに、「出会わした」と書いて「でくわした」って読ませる、なんて他の作家で見たことないよなぁ。

日本の近代小説の祖、というだけでなくて、小説で表現できることをほぼ一通り全部やっちゃったのが、芥川龍之介なんじゃないかなぁっていう感想も持ちました。自分が中学生の頃に家にあった文学全集で、芥川の巻だけ擦り切れるほど読んだっていう経験もあるんだろうけど、読み直すとやっぱり最高の作家だなぁって思う。この方の小説はどれもものすごく映画的なんだよね。ありありと情景が目の前に浮かぶ映像的な描写。冗長さは皆無、ある意味ハードボイルドなまでに簡潔で、映画のカット割りのようなテンポ感があって、どの作品も一本の映画を見たような読後感になる。「地獄変」にせよ、「羅生門」にせよ、「藪の中」にせよ、映画化されたのが納得。それ以外にも、作品世界が恐ろしく多様で、小津安二郎の映画を思わせるセンチメンタルな「秋」、チャンバラ映画を見ているような迫力ある剣戟シーンを描く平安ものの作品群、「杜子春」のようなファンタジーから怪奇小説、太宰治の先駆とも言える私小説的作品と、なんだか、「全部芥川がやりつくしちゃってるじゃん」という気分になってしまって、後に続く小説家は本当に苦しんだんじゃないかなぁって思ったりした。

苦しんだ、といえば、やっぱり太宰治なんだけど、苦しみ過ぎてもう完全にヤケクソになっちゃって、自らの私生活の醜態を切り取って世にさらすだけじゃ足りず、世にさらす醜態を作るために実生活を自ら破壊する、現在の文春砲を自分をネタにして撃ちまくってるようなところまで追い込まれている感じで、この痛々しさがたまらない。いわゆる週刊誌の芸能ネタとか、現代よりもネタが少なかったかもしれないから、文士さんというのはそういうネタを提供してくれる格好のターゲットだったのかもしれない。ネットの炎上商法と通じる感じがあるよね。やっぱりそこまでしてでも芥川を超えたかったのかなぁ。そういう自暴自棄から少し離れて、自分を語るのではなく、第三者を主人公にした物語を語る時の方が作家として研ぎ澄まされた文章を書く印象がある。特に女性の視点で書かれた作品が好き。「女生徒」なんか冒頭の文章読んだだけで胸の奥が締め付けられるような甘酸っぱい気分になる。明治の時代に津軽の名家に生まれた人々の閉塞感を生々しく描いた「兄たち」とか、チャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」の主人公の苦悩に重なるものを感じたり、やっぱり太宰ってすげぇなぁって改めて思った。

中高生の頃からタイトルだけ知っていて、読んだことのなかった作品なんかも読めちゃうので、そういう作品に手を出してみたりもしています。田山花袋の「蒲団」って、ちゃんと読んだことなかったんだけど、今回Kindleで読んでみて、主人公のオッサンのあまりに情けない一方通行の劣情をこれでもかとばかりにギリギリ描き出していく偏執病的な筆力に驚愕してしまった。文学史に名前を残したのはこの作品が「私小説」的に書かれた、ということではなくて、この圧倒的な筆力にあったんじゃないかな、と認識を改めたし、作家自身の私生活に対する下世話な興味だけで読んでしまうのはホントにもったいないと思ったなぁ。主人公の若い女性への執着には、頂き女子りりちゃんに貢いでしまったオジサン達の思いと通じるものも感じたりした。そして女性への執着といえばなんといっても谷崎潤一郎。「卍」とか初めてしっかり読んだのだけど、この人の作品世界は関西弁のねっとり感がものすごく効果的に使われているよね。再読した「春琴抄」とかも、淀屋橋を舞台にした関西弁での会話の湿度が最高に肉感的でたまらない。

他にも、森鴎外の「山椒大夫」とか、坂口安吾の「桜の森の満開の下」とか日本の近代小説の古典名作を色々乱読していくうちに、猛烈に再読したくなって、先日図書館から借りだして一気読みしてしまったのが、アイザック・アシモフの傑作「銀河帝国の興亡」第一シリーズ3部作。古典SFの金字塔。配信サービスでの映像化が決まって、出版社が慌てて新訳出版を間に合わせた、という感じの新訳版で読んだので、びっくりするくらい初歩的な誤植や脱字が多くてちょっと閉口したのだけど、スター・ウォーズにも通じる壮大な宇宙叙事詩とアシモフらしいSFミステリの世界にどっぷりハマる。オチも結末もしっかり覚えているのに面白い。なんでか、といえば、描かれている未来世界の状況がものすごく現代社会に重なって見えたんだよね。一部の知識層に継承された優れた技術が他国を支配するカギになる、という基本設定は、「技術」を「希少金属」に読み替えれば、グローバルにつながった今の世界が一つの技術や一つの材料の欠損でたちまち機能不全になる、という姿と重なって見える。世界を深層心理から操る第二ファウンデーションの暗躍は、現代世界をさいなむ陰謀論のイメージそのものなのだけど、そもそもこの小説こそが、現代の陰謀論の基本的なイメージを作り上げるプロセスに一役買ったのじゃないか、なんてことも考える。1940年代というこの作品の発表時期を考えると、あながち的外れでもない気もするんだよね。

古典を読む楽しみの一つは、昔の作家の眼差しや予測を通して、現代、あるいは未来の日本や世界を見ることで、アメリカの超富豪と言われる人たちを理解したかったらSFを読め、と言われることもあるよね。実際、今では当たり前になっているVR技術とかが出てきた時、J.P.ホーガンが「巨人たちの星」で描いた「知覚伝送装置パーセプトロン」とか、同じホーガンの「ミクロ・パーク」とかでもっと先進的なVR技術が描かれていたことを思い出して、あれにやっと現実が少し近づいたか、って思ったんだよなぁ。アルテミス計画の先にあるのは、ハインラインの「月は無慈悲な夜の女王」(あるいはこれを元ネタにした機動戦士ガンダム)の世界かもしれないし、様々なSFは20年30年先の未来を、どんな学術論文よりリアルに、僕らの身近に見せてくれるツールだと思う。

日本の古典文学を読むことも、現代社会に疲れた心には癒しになると思っていて、それって単純に言えば、自分の個人的な悩みの相対化ができるってことだと思う。太宰治の自暴自棄が現代日本人の心にも刺さるのは、高すぎる理想と戦いながら破滅していく姿に、「夢を持て」と言われ続けて迷い続ける現代人の「生きづらさ」が共鳴する、という側面があると思うんだよね。以前この日記でも感想を書いた、METの新作オペラ「めぐりあう時間たち」の主題もそうだったのだけど、人間の苦悩や葛藤って、時代を超えても普遍的で共通のものだったりする。「めぐりあう時間たち」では、1923年のロンドンに生きるヴァージニア・ウルフと、1951年のロサンジェルス、2001年のニューヨークを生きる女性、3人の心が共鳴する。そこで共有されるのは、「私たちはひとりじゃない」という感覚。様々な「生きづらさ」を抱えている現代の若者たちの心と、「将来に対する唯ぼんやりとした不安」を抱える芥川龍之介の魂は共鳴するかもしれないし、執着や煩悩を捨てられないオッサンの心に、「蒲団」の時雄の妄執や「春琴抄」の佐助の執着が共鳴するかもしれない。明治や大正、昭和初期の人々も、今の僕らと同じように悩み、身もだえしながら必死に生きていたんだ、という事実に、救われる令和の魂もあるんじゃないかな。寺山修司は、書を捨てよ、街に出よう、と言ったけど、ひょっとしたら現代は、「街から逃げて、書を読む」べき時代なのかもしれないって思ったりしながら、今朝も通勤電車の中で、スマホ画面経由でのタイムトリップを楽しんでおります。

推しが推し自身のために笑える場所を守りたい

なんかまた訳の分からないタイトルで始めちゃったんですけど、基本的には最近の推し活について書こうと思っているので、遠坂めぐさんとかさくら学院に興味のない人はここでご退場くださいね。

この4月はホントに推し活充実の一か月になって、ざっと並べると、

・4月4日、遠坂めぐさんのオールリクエストコンサートに参戦
・4月10日、onefiveのKANOさん出演の舞台「逆転満塁サヨナラ、またね」観劇
・4月11日、大賀咲希さんBirthdayイベントに参戦
・4月12日、飯田らうらさんBirthdayイベントに参戦

というスケジュールをこなしました。特に4月10日から12日は、個人的に、2026年春のさくら学院祭と言っていいくらい、さくら学院OGの笑顔が輝くイベントが続いて、どの現場も最高に盛り上がったんですけど、どこかでずっとモヤモヤが残っている。どの現場も満足度が高かったからこそ、ふわふわした多幸感だけじゃない、伝えられたメッセージ、投げかけられた想いが、こちらの心の水面にずっと波紋を残しているような感覚が消えないんだよなぁ。その波立ちをうまくまとめられるかどうかよく分からないのですけど、とりあえず書き進めてみますね。

多分、自分の心に投げ込まれた一番大きな塊は、遠坂めぐさんのオールリクエストコンサートの最後に演奏された、「死んだほうがましだと言いながら」という楽曲だったと思うんですよ。このところ「頑張れ」とか「ど根性ビリーバー」とか、Z世代に対する昭和歌謡風の応援歌が続いた遠坂さんなのだけど、2025年は相当精神的に追い込まれていた、という背景も告白しながら、切々と歌ってくれたこの歌が、Z世代の苦悩、というか、今の20代・30代が抱えている不安感、絶望感、だからこそ輝いていた青春時代への思い、みたいな通奏低音になって、今もずっと自分の心の底で響いている。最近の「頑張れ」「ど根性ビリーバー」も、ひょっとしたら遠坂さんが自分自身を鼓舞するために書いた曲かもしれないなぁ、なんて思ったり。

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春らしいジャケットもお似合いでした。

中でもすごく腹落ちしたのが、遠坂さんがおっしゃった、「2025年は色んな数字目標が達成できなくて」という趣旨の言葉だったんだよね。YouTubeなどのネット上のプラットフォームで勝負しているクリエイターって、一日、あるいは一時間単位で表示される数字に一喜一憂しているような日常なんじゃないかなって想像するし、よく言われる話だけど、数字に追われる生活って幸福感や自己肯定感がどんどん削られていくと思うんですよ。もちろん、音楽家が生活に追われて苦労するっていうのはモーツァルトの時代から変わらない人気商売の宿命ではあるんだけど、目の前のモニターの上でカタカタ動く数字やグラフに分刻みで鞭打たれるって、ダンテも想像できなかった本物の地獄のような気がするんだよなぁ。

ネットに表示される数字が思うように伸びない原因を分析しようとすると、真面目なクリエイターは、ネット上のアンチコメントを分析したりし始めたりするんじゃないかなぁって思うんだよね。企業経営でも、顧客クレームはビジネスの改善のネタの宝庫だ、なんて言ったりするけどさ。でも企業の顧客クレームと、ネット上のアンチコメントって根本的に異質なものだと思うんだよなぁ。その企業の製品を購入した当事者からのクレームと、ネット上をふわふわ動いている傍観者からの無責任なアンチコメントを同列に扱うべきじゃないと思うんだよ。最近多いカスハラと同じレベルで、単なるストレス発散のためだけのアンチコメントの方がよっぽど多いだろうに、そういう真面目な分析もきっとクリエイターの心を削るんだろうなって思う。

遠坂さんには、「さとり世代」っていう、バブル後に生まれたZ世代の心情を歌った名曲もあるんだけど、ウチの娘も含まれている今の20代には、コロナ禍という災厄も暗い影を落としているんだよなぁ。それを実感したのが、onefiveのKANOさんが出演した舞台、「逆転満塁サヨナラ、またね」。

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KANOさんも他の出演者さん達もみんな青春謳歌してる感じだったなぁ。

青春時代、輝いていた。やれるだけのことはやった、でも、自分たちの力の及ばない理由で、燃え尽きるまでやりきれなかった。そんな後悔が、失われてしまった命への鎮魂歌として燃え上がるお話。お芝居の中では、「コロナ」という単語は一度も出てこないけれど、それは恐らくこの物語をコロナ時代に特化した作品じゃなく、もっと普遍的な青春の蹉跌の物語にしたい、という意図だったんじゃないかなって思います。

生者の世界を見守り、生者を守護したり、背中を押してくれる死者、という構造や演劇的な仕掛けが、KANOさんが昨年参加していた「蜉蝣一期」と共通しているのも偶然ではない気がしていて、亡くしてしまったもの、失われてしまったものが、今もどこかで自分たちの周りに存在しているのじゃないかっていう、多元世界的な感覚っていうのを今の若者たちはずっと抱えているのかもって思う。「もしコロナなかりせば」とか、「もし東日本震災なかりせば」なんてパラレルワールドを想像したことがない人って、少ないんじゃないかなぁ。

もう戻らない失われた時間、人生で一番輝ける時間を奪われた感覚。盤石だったはずの世界秩序は綻び、いつ起こるかしれない巨大災害に備えなさいとメディアは叫ぶ。けれど、そこから逃れきれなかった運命も僕らは数多く見てきた。未来に夢を見ようと設定した数字は日々自分を追い立てる焼けた鉄の鞭と化して心を引き裂く。そんな若者達の絶望の深さに対して、僕らジジイは何ができるんだろうなぁ。世界がこんなになるまで何もできなかった自分を責めるしかないのかなぁ。

そんなモヤモヤを少し晴らしてくれたのが、2日続けての開催になった、さくら学院のOGの大賀咲希さんと飯田らうらさんのBirthdayイベントだったりしたんですよ。この二つのイベントが本当に気持ちよかったのは、やっぱり「さくら学院」というグループがちょっと変わったアイドルグループだった、というのが一番の要因のような気がする。アイドルグループでありながらアイドルを育てるのではなくて、「スーパーレディ」を育てる、というこのグループの基本姿勢は、卒業生が何者になろうとどこにいようと、その場所で精一杯輝いている姿を称賛することをよしとする。

大賀さんのイベントでは、TikTokのインフルエンサーという「肩書」をぶっ飛ばして、「シンガー」大賀咲希としての魅力と実力を十二分に見せてもらいました。一年前のイベントでは、歌唱の途中で声が一瞬出なくなって、ご本人はひどくショックを受けたみたいで、終演後に、「歌は絶対続けてください」と言ったらちょっと首を傾げていたんですけどね。一年間で安定感もパワーも段違いに増していて、この日を迎えるまでにこの人が重ねた努力が見えた気がした。

最後に歌われた、さくら学院の卒業ソング「未知標」のラストで、芸能界を引退した同級生の磯野莉音さん、白井沙樹さんが登場、会場を埋めた父兄(さくら学院のファンネーム)が狂喜したんだけど、何より清々しかったのが、大賀さんの現在と同じだけ、あるいはそれ以上に、磯野さんの現在と白井さんの現在を、客席の父兄が全肯定している姿勢だったんだよね。「明日から社会人として仕事がんばります」という磯野さんと白井さんが、それぞれの場所で大賀さんと同じくらい努力していることを理解して、だからこそ輝いている二人の笑顔を寿ぐ空気感。アイドルである必要もない、芸能人である必要もない、ただ笑顔でいてくれることがスーパーレディの定義で、3人ともそれぞれの場所でスーパーレディとして頑張ってるねっていうエールの拍手。

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3人のスーパーレディに幸あれ

同じような清々しさは、翌日の飯田さんのイベントでも感じることができて、芸能界を引退してOLさんとして頑張っている野津友那乃さんと岡田愛さんに注がれた拍手は、彼女たちの今の笑顔に対する全肯定の拍手だったし、お二人も、さくら学院在学中と変わらない、あるいはもっと洗練された美しい佇まいと知性で応えてくれました。野津さんが最後に、「こんなに何もできない私をずっと覚えていてくれて」って涙ながらに仰っていたのを聞きながら、多分客席の父兄さん達全員が、「こんなに素敵な女性になってくれてありがとう」って思いながら拍手してたと思うんだよなぁ。最後に武藤彩未さんがおっしゃっていた、「思い出すだけで幸せになれる、元気になれる思い出があって、それをこんなに沢山の人たちと共有できる幸せ」っていう言葉が、さくら学院という奇跡の場所の本質を語っている言葉のような気がした。

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最高の時間をありがとうございました。

パフォーマーを職業とすることって本当に大変だと思うし、芸能界に身を置いている遠坂めぐさん、森ハヤシさん、KANOさん、大賀さん、武藤さん、飯田さんは、もっと先へ、もっとビッグになるためにって、日々の努力を重ねているんだろうな、とは思うんだけどね。1000人、3000人、そしていつか武道館を埋めて、その先は東京ドームで、世界で、ってどんどん数字を追いかけていくのもいいんだけどさ。どこかで、自分が笑顔になれる場所、自分を全肯定してくれる場所、自分が自分らしく自分のために歌える場所っていうのをしっかり確保しておくことって大事なんじゃないかなって思う。自分が好きで始めたはずの歌やパフォーマンスが、数字を稼ぐための道具でしかない状態になるのは、ちょっと悲しいよねぇ。そういう意味でも、遠坂めぐさんが、自分のファンクラブを作って、ファンクラブのためのコンテンツを発信し始めたのって、遠坂さん自身の心の健康のためにもいいことじゃないかなって思ったりする。

そしてそういう、推しが自分のために歌える場所、推しと幸せを共有できる場所、推しが笑顔になれる場所を、推しのために守り続けることが、自分のようなジジイヲタができる唯一のことなのかもしれないなって思ったりしました。貴女たちは沢山のものを失ったかもしれないし、あの頃見た夢は実現できなかったかもしれない。これからも数字は貴女たちを責め続けるかもしれないし、世界の綻びは大きくなり、また巨大な災厄が沢山の夢を一瞬で焼き尽くしてしまうかもしれない。でもそれでも、僕らはあの時貴女たちがくれた幸せを忘れないし、その幸せを共有できる場所を守り続けていきたい。貴女たちが笑顔になれる場所を守り続けていきたい。そして今の貴女がどこにいようと、何をしていようと、今の貴女の笑顔を全肯定して、ピンクのフラッグを振り続ける。多分、自分が残り少ない人生で貴女達にしてあげられることは、それだけなんじゃないかなって、改めて思った春の推し活でした。

ブルーアイランド版「ザ・芸者」〜無邪気さの先にあるもの〜

昔所属していたアマチュアオペラ団「ガレリア座」で、オッフェンバックの「美しきエレーヌ」を上演したことがありました。日本ではあまり上演機会のないオペレッタですけど、ギリシア神話の「パリスの審判」のエピソードを、オッフェンバックらしく徹底的に笑い飛ばした毒の効いた傑作です。女房はエレーヌ、自分はカルカスという預言者役で出演したのだけど、演出のY氏が、当時まだ小学生だったウチの娘に、一瞬登場して欲しい、と言い出す。何の役?と聞くと、最後の最後の幕切れの一瞬に、木馬のおもちゃを引っ張って舞台のセンターにテクテク出てくる少女の役で、それは幼い頃のエレーヌの姿なんだ、という。当然元のオペレッタには影も形もない役。なんじゃそれ、と聞くと、解説してくれました。

「エレーヌはパリスの策略でトロイヤに連れ去られる、というのが物語の結末でしょ。オッフェンバックらしく、エレーヌは倦怠期に陥ってるメネラウスの元から脱出できて大喜びっていうお茶らけた大団円なんだけどさ。実際の神話では、この後、このエレーヌを取り返すためにギリシアとトロイヤの間で大戦争が起こる。登場人物も次々死んで、トロイヤは城壁内に引き込まれた木馬の計略で悲惨な敗戦を迎える。そういう悲劇を、無邪気なエレーヌが引き起こしたんだってことを幕切れに見せたいんだよ。」

その少女の姿を、未来を予言できるカルカスだけが見るっていう演出にしたいんだ、と言われて、そりゃ面白いねぇ、と言いながら、聞いてみました。幕切れの一瞬のシーンになるけど、お客さんには分かるかな?

「実際のエレーヌ役の役者の娘さんを使えば、分かる人には分かるかもって思うんだけどさ」と言いながら、Y氏は言いました。「千人いるお客様の中で、2人くらい分かってくれたら充分だと思うんだよね。」

実際の舞台で、幕切れに現れた謎の少女の姿の意味を理解してくれたお客様がどれくらいいたかは分かりませんけど、奇しくも家族3人揃って出演した舞台になったこの演出は、自分の中で忘れがたい思い出になっています。演出って、舞台を分かりやすくするためだけじゃない。逆に何かしらの「謎」を投げかけて、観客の心に「?」マークを浮かばせるのも演出。理解させる必要はなくて、あれは何だったんだろう?、と考えさせることが大事。

なんで急にこんな思い出話を始めたの、といえば、昨日観劇したブルーアイランド版「ザ・芸者」の幕切れが、まさに観客に対して「?」を投げかける演出になっていたから。底抜けに明るいお祭り騒ぎのフィナーレの先に、登場人物達が直面する悲劇の日々を予感させて、少し胸が苦しくなるような幕切れになっていて、一瞬客席が「?」となったのだけど、19世紀末の欧州が辿った道のりを考えると、結構納得感のある幕切れなんだよなぁ。

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4月5日16時からの回に伺いました。

 

欧州列強が覇権をアジアに伸ばしてきた帝国主義の時代、アジアからの富はヨーロッパを豊かにすると同時に、見たことのないアジアへの無邪気な憧れをかきたて、シノワズリやジャポニズムの流行を産む。日本が植民地化を逃れたのは江戸時代に既に初期資本主義の段階を踏んでいたから、という経済学的分析があるけれど、私個人としては、幕末の日本が欧州に輸出した数々の成熟した文化が、欧州諸国に日本への尊敬と憧れをかき立てた、というのも大きな要因だった気がするのだね。先日完結したNHKの朝ドラの「ばけばけ」でも、ヘブン先生が感動していた神話の国日本への憧憬は、欧州音楽にも大きな影響を与え、1885年(明治18年)にギルバート&サリヴァンの「ミカド」を産み、1904年にプッチーニの「蝶々夫人」を産む。その丁度真ん中頃、1896年に初演されたのが、今回上演されたシドニー・ジョーンズの「ザ・芸者」。ほぼ10年ずつ離れている三作品だけど、恐らく現代まで残っていない埋もれた作品も含めたら、日本を題材にしたオペラやオペレッタはもっと大量に製作されたんじゃないかって思います。

面白いなぁって思うのは、「ザ・芸者」の10年前にヒットした「ミカド」が、ほぼ空想上のおとぎの国である日本の「ティティプ」における、あり得ない法律が生み出す単純な恋愛ドタバタ劇で、悪い言い方をすれば「未開の国」としての日本への蔑視も感じられるのに対して、「ザ・芸者」においては、日本人の道徳と知恵がハッピーエンドを導くストーリーになっているんだね。どこか、欧州的価値観に対して日本的価値感が対等に扱われている印象がある。10年の時を経て、日本含めたアジアに対する理解が深まり、それとともにその豊かな精神性や独自の倫理観に対するリスペクトも深まったのかもって思うと、さらに10年後の「蝶々夫人」が、欧州のエゴに踏みにじられる日本女性の道徳観を描いたっていうのも、欧州的価値観の相対化のプロセスとして見ると面白い気がします。

そうは言っても、「ザ・芸者」は、日本に仮託して権力への反骨を歌った「ミカド」よりもより無邪気なファンタジーなのだけど、この無邪気さは、欧州の帝国主義的傲慢と搾取と覇権争いという血にまみれた暴力と表裏一体になっているんだよなぁ。欧州の富と傲慢は、民主主義が生み出した最悪の災厄である国家総力戦へとエスカレートしていき、人が己の力でこの世に地獄を生み出す第二の原罪にまで人類を導いていく。19世紀末という欧州の黄昏の時代は、崩壊していく既存の秩序に対するノスタルジーをはらみながらも、科学技術の発展と欧州の経済的成長への無邪気な信頼が勝っていた時代で、それがもたらす血塗られた悲劇と地獄を予感していない。ガレリア座のY氏が、「美しきエレーヌ」終幕の祝祭的なフィナーレに仕込んだ毒は、欧州が向かった悲劇の歴史を知っている現代日本人ならではの、オッフェンバックの時代に対する未来からの警鐘という意味も持っていた。

「ザ・芸者」の原作の設定は、長崎の茶屋でイギリス水兵が繰り広げる恋愛ドタバタ劇なのだけど、青島広志先生は、太平洋戦争開戦直前のハワイ日本人街でアメリカ水兵が芸者さんに恋する、という設定に変更しました。19世紀末よりも更に時計の針を進め、現代史最大の悲劇が開幕するまさにその場所に舞台を移すことで、欧州の無邪気さがたどるその先の悲劇を分かりやすく見せる。真珠湾攻撃を告げるのが、ハワイの自然の精霊である人魚と、西欧に滅ぼされた原住民の女王の亡霊である、というのも、20世紀の地獄への扉を西欧の傲慢が開いたのだ,ということを明確に暗示しているように思いました。

そして、今のこの時期にこの設定でこの演目を上演することの意味っていうのも、考えざるを得ないよねぇ。この演目が企画された時には、まだイスラエルとアメリカはイランに攻め込んでなかったんですけどね。僕らは無邪気に今の豊かな日常を享受しているけれど、それは現代の飽食の傲慢が蓄積していくプロセスで、時代を変えるマグマはすぐそこまで上昇してきているのかもしれない。青島先生が終演後におっしゃった、「こういう作品がどんどん上演できなくなっていることに危機感を感じるんです」っていう嘆きは、現在の自分達を映す鏡として、過去の芸術作品やその登場人物達の心情に触れる機会がどんどん失われていくことへの警告としても受け止められるかもしれない。過去に学ぶ姿勢を失ったら人は前に進めないと思うんだよなぁ。

でもねぇ、そんな難しいこと考えなくても、19世紀末のこの無邪気さってのは、なんだか羨ましいし、何より楽しいんですよ。バブルの頃の日本がすごく楽しかったのと同様に、世界中からの富を集めて、アジアの珍しい文物に触れてびっくりしたりはしゃいでたりしていた欧州人の高揚感と、そこから生み出された底抜けに楽しい楽曲って、やっぱり今聴いてもワクワクするんだよなぁ。「ザ・芸者」のオリジナル楽曲の馬鹿馬鹿しくも胸躍る親しみやすいメロディ。一度聞いただけで客席がすぐ覚えて一緒に合唱できるって、やっぱり名曲の証だと思うし、だからこそ初演時に760回公演を重ねる大ヒット作になったんだな、と納得。ナーガサキヨコハマハコダテほい。

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おミモザさんを演じた女房とジュリエットを演じた赤星啓子さん。ジュリエットの弾けっぷり最高でした。

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終演後の小道具オークションで私が競り落としたミモザを持って。物語の柱になる役をしっかりやり切ったね。

 

真珠湾攻撃を扱った映画「トラ・トラ・トラ!」の終盤、壊滅した基地の側の郵便局でぐったりとうなだれる米兵達の元に、日系人の少年配達員が郵便を届ける。その時、米兵達が少年に向ける憎悪の視線が非常に印象的に描かれていたのをよく覚えています。太平洋戦争開戦後、敵性国民というレッテルを貼られて、根こそぎ強制収容所に送られた米国西海岸の日系人と異なり、ハワイの日系人は、現地の米国社会の信頼を獲得し、強制収容による日常の破壊を一部の不運な日系人の悲劇に留めることに成功します。賢くて強いおミモザさん達芸者のみんなや、したたかなイマリさんとかが、その知恵とバイタリティを駆使してハワイ社会での信頼を勝ち取り、戦争中の太平洋を逞しく生き延びたんじゃないかなぁって、そんなことも考えた幕切れでした。青島先生、素敵な作品を紹介くださってありがとうございました。これからもブルーアイランドの活動が長く続きますように。

生きづらいかもしれないけどやっぱり生きた方が楽しいと思うんだよねぇ~倉島颯良さんの映画と黒澤美澪奈さんの舞台~

3連休の最終日の23日、新宿K's Cinemaに、倉島颯良さん主演の「DEAD OR ZOMBIE」を見に行く。今日はその感想を中心に、1月末に見に行った、倉島さんのSoulMate黒澤美澪奈さん主演の舞台「SHOUT A BIG BIRTH CRY BABY!」の感想も交えて。

 

「DEAD OR ZOMBIE」については、2022年に公開されたepisode1「ゾンビが発生しようとも、ボクたちは自己評価を変えない」を見て、かつてジョージ・A・ロメロのゾンビ三部作にのめりこんだ昭和ジジイの心の琴線ジャカジャカかき鳴らされて、分かったような偉そうな感想文を書き殴りました。

「DEAD OR ZOMBIE」〜僕らの隣にいるゾンビ〜 - singspieler’s diary

その公開の時にも、佐藤智也監督から、「これは3つのエピソードからなる長編映画の一篇」との言葉があり、その後、長編化するにあたってのクラウドファンディングがスタート。私も寸志を送り、長編の公開を心待ちにしておりました。まさに満を持しての公開。

 

そして完成した「DEAD OR ZOMBIE」は、当初構想されていなかった4つめのエピソード「episode3 生きる意味」も加えて、人間の進化の先をゾンビが指し示していくという、ほとんど「ゾンビ版 2001年宇宙の旅」か「ゾンビ版 地球の長い午後」のような本格SF映画に仕上がっていてのけぞってしまった。そして相変わらず、ロメロゾンビ映画へのリスペクト一杯。やっぱりゾンビはエレベーターから急に出てきて兵隊さんを襲わないといかんよなぁ(願わくは3人だけじゃなくて10人くらいいてくれた方がよかったし、兵隊さんの上半身と下半身引き裂いて欲しかったけど)、とか、マッドサイエンティストの白衣は血で汚れてないとなぁ、とか、ゾンビ映画はモノクロシーンないとなぁ、とか、マッチョ軍人と女性が対決しないとなぁ、とか、生首ぽんっていうシーンも必須だよなぁ(動いたらもっと良かった)とか、端々のディテールでもワクワクドキドキしっぱなし。半端ない満足感で劇場を後にしました。

 

劇場のロビーで撮ったパンフレットの画像。K's Cinemaっていいよなぁ。ちょうど「どうしようもない10人」の舞台挨拶上映のあとで、ロビーで出演者の皆さんがサイン会とかやっていて、観客と出演者の距離が近いのもインディーズ映画らしくて素敵でした。

 

さて、ここからは、例によってかなり衒学的な自己満足感想並べます。何言ってるのか分からん、という人も結構いらっしゃるかもと思いますけど、ブログなんて暴走する自我の垂れ流し場所さ、と割り切って。多少ネタバレの記述も含むと思うので、未見の方はご注意ください。

 

この映画は、現代社会にある様々な「生きづらさ」から、生と死の中間的存在である「ゾンビ」に一つの救済を見出す、という非常に現代的なテーマを持っているのだけど、そのテーマと「攻殻機動隊」の押井さんが昔おっしゃっていた、「最近人間がどんどん人形化していってる気がするんですよね」という言葉がちょっと重なったりする。個性や意思、自我を持つからこそ、それを圧迫する現代社会のストレスに耐えかねた人類が、生物としての本能を失って、無個性な人形か欲望だけのゾンビと化していく、あるいはそれに憧れてしまう。「仮面ライダークウガ」で、人間に絶望して、グロンギに憧れる青年、なんてのもいたなぁ。最近中国で「寝そべり族」という言葉が流行っている、とか、米国で薬物で現実逃避するゾンビタウンが広がり、「絶望死」という現象が社会問題化するなど、「生きづらさ」は現代人類を世界的に蝕んでいる病で、「ゾンビ」や「人形」になれるとなったらそれは人類にとって一つの救済になりえるのかもしれないよねぇ。M1で話題になったドンデコルテさんのネタじゃないけど、「目覚めるな!」っていう救済。

 

人類が絶望という進化の果てに身体性を失って電脳世界でデジタル化する未来が「攻殻機動隊」であるとすれば、より静的な植物へと進んでいく、という発想が「DEAD OR ZOMBIE」の新鮮なところで、「地球の長い午後」を連想させるところだったりする。実際、植物というのは人類には聞こえないコミュニケーション能力でつながりあっている、という話もあるし、全地球的な植物のネットワークの中に人類も組み込まれていく未来、というのは電脳世界と共通するイメージだったりするよね。あるいは諸星大二郎の「生物都市」的なイメージか。早希の前に人間としての姿を見せる母親のシーンは明らかに「2001年宇宙の旅」あるいは「2010年宇宙の旅」のボーマン船長を意識していると思うので、宇宙的な進化、というテーマがこの映画のテーマになっているのは確かなのだけど、「進化」という言葉を鍵として、低予算のインディーズ映画で「ゾンビ」というレジェンド的存在の謎に一つの答えを与えてしまう佐藤智也監督って、穏やかそうな外見の方なのに意外と剛腕なんだなぁって改めて思いました。

 

もう一つ、細かい話なのだけど、この映画の中で印象に残ったのが、役者さん達の「目」なんだよね。ゾンビ化すると人間の瞳が変化する、というディテールだけではなくて、防毒マスクごしの兵士のぎらついた目、ゾンビ同士の戦いで一度死んだ家族が次の段階に進む前に、ギロリ、と動く目。マスクで覆われた顔で唯一輝く早希の目、そして異形の物体に変形したゾンビが持つ巨大な目。より高次な存在に変化し、肉体を超越したとしても、目だけは巨大化するっていうあたりが、やっぱりモノを見ることが仕事の映画監督らしい発想なのかな、と思ったりしました。そして、倉島さんというヒロインが選ばれた理由も、彼女の持つ目の真っすぐな力なのかもしれないな、とも思いました。

この目は何を見ているんだろうねぇ。

「生きづらさ」というテーマでもう一つ連想したのが、1月末に見た黒澤美澪奈さん主演の「SHOUT A BIG BIRTH CRY BABY!」だったりするんだよね。倉島さんとさくら学院で盟友だった黒澤さんのお芝居。このお芝居の中でも、現代社会の抱える様々な社会的問題がマシンガンのようなセリフで並べ立てられて、そのストレスに追い込まれた精神がポジとネガに引き裂かれていく様子がむちゃくちゃ生々しくて、見ていてかなり辛かったんだよなぁ。結果的にそういうがんじがらめの状況を黒澤さんの爆発力が一刀両断に切り裂いてくれるのが爽快だったのだけど、今の若者たち、とくに自分の推しのさくら学院の子達や私の娘の世代って、こんなに「生きづらさ」抱えてるんだなぁって改めて考えてしまう。結局自分たちの世代が現役時代にもっとこの世界をいい世界にできなかったツケが若い世代に回ってるんだよなぁ。本当に申し訳ないとしかいえない。

 

でもねぇ、「生きづらい」と思う世界でも、生きていくと楽しいことも結構あると思うんだ。その「楽しいこと」の一番大きなものが「出会い」だと思うんだよ。人見知りさんが多い若者たちは、そういう出会いそのものにストレスを感じてしまうのかもしれないんだけどねぇ。出会いは自我と他者の衝突を産むし、それによって自我は否応なく変形する。その変形は確かにストレスだし、抑圧になり、時に耐えがたい破壊的な状況に至ったりする。他者との比較で否定される自我。子供は愛の対象だけれど自分の時間を無慈悲に奪い、国家は個人を圧迫し、毒を含んだ家族が個を破壊する。映画に描かれる様々な「生きづらさ」は、確かに現代社会の至る所に存在している。

 

でもねぇ、「出会い」があるところに物語はあって、その物語を紐解く楽しさっていうのも捨てがたいと思うんだよ。今回、倉島さんの「DEAD OR ZOMBIE」を見て、黒澤さんのお芝居と共通する「生きづらさ」というテーマを見つけて、同じテーマに倉島さんと黒澤さんが向き合っていることに、さくら学院父兄の自分としてはなんか感動しちゃったりしたんだよなぁ。倉島さんが輝く瞳で見せてくれた、ヒトとしての生を全うする強さ。黒澤さんが磨きぬいた剣技で見せてくれた、ヒトとして生まれいづる命の強さ。さくら学院という場所で出会った二人の才能が、それぞれの場所でそれぞれのやり方で「生きづらさ」という共通の敵と戦っている姿に、二人を包み込む大きな物語絵巻の姿を垣間見たような感動。さくら学院で二人がSoul Mateとして出会っていたからこそ、私の中で生まれた化学変化。

 

実を言うと、今回この二つのコンテンツを調べていたら、自分にとってもう一つの懐かしい人との出会いがあって、これも感動だったんですよ。黒澤さんの「SHOUT A BIG BIRTH CRY BABY!」に出演されていた竹内晶子さん。舞台上での菩薩のような存在感が本当に素敵な役者さんだなぁ、と思って、バイオグラフィを拝見したら、「ネヴァーランド・ミュージカル・コミュニティ」という堤泰之さん主宰の劇団に所属されていた、と知って驚愕。自分が大学生の時に同級生が参加していた熱いお芝居やる劇団で、駒場小劇場に何度も見に行ったんだよね。そう思うと、あの女優さんだったんじゃないかな、と思いあたって、懐かしさに胸熱くなりました。

 

「出会い」による自己変革は、破壊的な様相だけではなくて、未知の領域への扉を開いてくれるカギになったりもするし、長く生きていれば、扉の果てに色んな物語が突然つながったりする不思議があって、人生はそういう不思議や感動に充ちていると思うんだ。だからやっぱり、早希ちゃん、ヒトとして長く生きた方が絶対いいと思うよ。お母さんもお父さんもお兄さんも、そして多分愛生ちゃんも、きっと貴女を見ていてくれるし、貴女の笑顔をずっと祈ってくれている。TOEIC高得点取れるといいね。