沼にはまった〜さくら学院という物語〜

久しぶりに日記を更新したと思ったら、このネタかよ、というご批判は重々承知してるんですけどね。もうね、自分を偽るのはやめようと思うんですよ。観念しようと。カミングアウトしようと。ええ、もう最近本当に、さくら学院にはまってます。BABYMETALがちょっと先が読めなくなってしまっている現在、彼らの出身母体であるさくら学院をちらちら見ているうちに、ちらちらの頻度がどんどん上がってしまい、今やさくら学院の生配信番組に登録するわ、ブルーレイは買い込むわ、インタビュー記事が出ている雑誌を買いあさるわ。さくら学院ってなんだ?と思ったひとはググってみてください。ここから先は、読む方が、さくら学院とはなんぞや、ということをある程度知っている前提で書いちゃうので、Wikiとかを読んで、「小学校五年生から中学三年生の成長期限定アイドルユニット」という単語見ただけで引いちゃった人は、この場から静かに退場されるのが多分賢明かと思います。マジすみません。

7月7日、西日本が濁流にのまれている時に、まず頭に浮かんだのが、関東エリアは天気が持ちそうなので、よみうりランドで予定されていたさくら学院の屋外イベントは無事に開催されるな、というのと、西日本出身のさくら学院の生徒さん(九州と近畿の出身者が多い)のご実家は大丈夫かな、という感想だったあたりで、もうかなり重症といえる。いや、イベントに行ったわけじゃないんです。イベントが雨だったりすると、メンバーが思ったようなパフォーマンスが出来なくて悲しむかも、と思って心配になるんです。また広島県がひどいことになっているのを見て、卒業生の中元すず香さんや杉本愛莉鈴さんのご実家は大丈夫かな、と思ってしまう自分マジ気持ち悪い。さくら学院のファンのことを「父兄」と呼ぶっていうのも、周囲の人たちが一歩引いちゃう理由の一つだったりするとは思うんだけどさ。でもファンの心理を端的に表した単語だよねぇ。卒業生も含めて、メンバーが楽しく、幸せでありますように、と常に思ってしまうという。ウチの家族は白眼視を通り越して、見て見ぬふりしてますよ。視線が痛かった時期は過ぎ去って、既に、可哀想な人、みたいな哀れみの視線。

それでも、はまってしまったものは仕方ない。そしてここまではまってしまうと、やっぱり語りたくなるんですよ。特に、さくら学院というのは、すごく色んなことを語りたくなるアイドルグループなんです。それは、さくら学院の担任(舞台や生番組のMCや台本を書いている)の森ハヤシ先生が、「こんな年下の君たちから、人生ですごく大切なことを教えてもらったりする」と言っていた、その台詞そのまま。中学三年生になったらグループを卒業しなければならない、つまり、同じメンバーでパフォーマンスできるのは1年間だけ、というルール付けの下で、一つ一つの舞台が一期一会のギリギリの舞台になっていく。そこに、沢山のステージを義務的にこなしていく商業アイドルには生み出せない完全燃焼への希求が生まれる。舞台のクオリティを上げるために、真っ直ぐな感情や生々しい言葉がぶつかり合い、人間関係や人の力ではどうにもならない時の流れや偶然が絡み合い、下手な学園ドラマが顔色を失うような、シナリオのないドラマが繰り広げられていく。その数々のドラマについて、ものすごく語りたくなるんです。2010年の結成から、いくつも生まれてきた力強い物語の数々が、幾重にも積み重なり連携していく、終わらない物語の推進力に絡め取られてしまうと、何年も続く長編連載小説を読み続けているような興奮で、どこまでもズブズブとはまり込んでいってしまう。

さくら学院の父兄さんたちには、そういう物語を楽しんだり、アミューズが本気のスタッフを注ぎ込んで作り上げる舞台(振付は、あの、リオ五輪の東京アピールを演出したMIKIKO先生)の完成度や楽曲の素晴らしさにハマる人も多いので、さくら学院の父兄さんたちは全員ロリコンだ、と思われると、それはちょっと違うと思う(そういう人も多いとは思うし、お前はどうなんだと言われると言葉を濁すけど)。実際、先日行った2018年度転入式のライブビューイングで、私の隣に座ったのは、女性の父兄さんだったし。会場には他にも、初老のご夫婦や小学生含む学生さんもいらっしゃいました。ちなみに、私の隣に座った女父兄さん、ライブビューイング上映中ずっと号泣しっぱなしだったから、この方も相当なガチ父兄だと思う。もちろん、メンバーはとにかく美少女ぞろいなんで、そういうご趣味の方から見れば花園状態だと思うんだけどさ。美少女が集まっている、というだけで好きになっているんだったら、推しメンが卒業しちゃったらそこで終わりなんだけど、さくら学院はそうならない。

学校の部活動をテーマにした学園ドラマを見ているような感覚、というのが一番近い気がするんですね。響けユーフォニウム、とか、結構近い感覚があるし、ラブライブはよく知らないけど、似ている、という人も多い。実際、私の娘が高校の音楽部で幹部学年だった一年間は、娘を含めた3人の「インスペクターズ」というユニットが生まれて、様々な人間関係や困難を乗り越えて、定期演奏会の舞台を作り上げていく学園ドラマそのものだったけど、多分、どんな学校の部活動も、そういうドラマに溢れていると思うんです。思春期の少女を集めたパフォーマー養成機関を舞台にした学園ドラマを、アイドル活動として見せてしまう、というのが、さくら学院の本質で、部活動の商品化、と言っていいと思う。そして、部活動というのが、日本の学校に特有な活動である、という点からも、さくら学院というユニットが、非常に日本的な土壌から生まれたグループである、とも言えると思う。

今回は、自分がなんでさくら学院にはまったのか、という言い訳と、自分はロリコンというわけじゃない、という言い訳をダラダラ書き連ねましたけど、他にも語りたいことは結構あって、時々スイッチが入ってしまったら、この日記で爆発しちゃうかも、と思います。特に語りたい、と思っているのが歴代のトーク委員長(さくら学院は学校なので、生徒会長もいれば様々な委員長がいて、トーク委員長はステージのMCやメンバーへのトーク振りをやったりする役職)のこと。そもそもが、なんで今回カミングアウトを決意してしまったか、と言えば、週末に届いたRoad To Graduation 2017 Finalのブルーレイを見て、トーク委員長の岡田愛さんの姿に気持ちをムッチャ揺さぶられてしまった、というのが一番大きいんですよね。別に彼女のファンであるわけではなくて、むしろ、芸能界エリートで周りの空気をしっかり読める山出愛子さんや岡崎百々子さんの方が推しだったりするんだけど、2017年度のさくら学院を語る上で、この岡田さんのキャラというのは本当に欠かせないピースだったと思う。まるで、太宰治の小説がドキュメンタリー映画になったような。他を圧倒できる高度なパフォーマンス力を持っているのに、自分に対するプライドが強すぎて、かえって劣等感と自信のなさが表に出てしまう。そんな自分の弱気を偽れない正直さと、それをくよくよと後悔してしまう人間的な弱さ。森ハヤシさんは脚本家としてもかなりの売れっ子なんだけど、その森ハヤシさんをして、「あのネタだけで1時間喋れる」と言い切った卒業公演のセトリを巡るドラマと言ったら、もう涙なしには見られない。ああ、止まらん。でもまた今度にしよう。他人から見たら本当に気持ち悪いだけだしねぇ。ほんとごめんなさいねぇ。

サロンコンサート「わるいやつら」終演いたしました。

6月10日に、渋谷で開催しましたSingspielersのサロン・コンサートAct.4、「わるいやつら」終演いたしました。


 
個人的には、やっぱり声が最後までもたなくて、これがアマチュアの限界だよなぁ、とかなり悔しかったんですけど、優しいお客様の温かい拍手と、共演者の頑張りで、集まった皆様はとても楽しんでくださったようで、本当にありがたい限りです。ご来場いただいた皆様、共演者とスタッフの皆様、本当にありがとうございました。

昨年の秋からずっと準備を進めてきて、通勤電車の中でもずっと頭の中で繰り返し歌ってきた歌の数々。もう終わっちゃったんですけど、今でも時々頭の中に鳴り響いていたりします。ご来場くださったお客様にもそういう方が一人でもいたらうれしいなぁ。

さて、前回のサロンコンサートもMC原稿をここに再掲したりしたんですが、今回も、「わるいやつら」というテーマに沿った文章を2つ書きました。それをこの日記に公開しておこうと思います。一つはプログラムに書いた文章、それと、MC原稿。今日はプログラムのご挨拶文を。
 

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 突然、オペラとはまるで関係ない話から始めちゃいます。
 昔、機動戦士ガンダムっていうアニメがありまして、我々の世代の多くがこれに思いっきりハマりました。実は来年2019年は、機動戦士ガンダムの最初のTVシリーズが放送されて40年(!)という節目の年で、最近結構マスコミなどでも取り上げられていたりします。なんでこのアニメ作品がこんなに長く愛されることになったのか。色々な分析が世の中にはいっぱいありますけど、私見を言わせてもらえれば、

 「敵役がかっこよかったから」

というのが大きな一因なんじゃないかな、と思うんですね。ガンダムの世界で、主人公が戦う敵役の「ジオン軍」というのが、制服にせよ、操るメカのデザインにせよ、登場人物やそのセリフにせよ、とにかく無茶苦茶かっこいいんです。青臭い主人公より全然深みがあって、実に人間臭い悪役たちが、この作品をここまで魅力的にしたんだと思うんですね。

 さてここで、オペラの世界に立ち返ってみます。古今東西のオペラやオペレッタを眺めてみると、大体の作品の主人公達は、もうちょっと賢く立ち回ればいいのに、と思わず呟いてしまう、直情タイプのテノールとソプラノのカップルが多くて、歌はかっこよくても魅力的なキャラがあまりいない気がします。それに比べて、テノールとソプラノの恋路を邪魔する悪役のバリトンや、ムンムンの色気でテノールを破滅させていく悪女たちの、なんと魅力的なことか。

 今回は、様々なオペラの中から、そんな悪役たちの、魅力に溢れた曲の数々をセレクトしてみました。そして、休憩明けの後半では、信頼を裏切られた絶望から、盟友の暗殺という悪事に身を投じていく男の哀愁を軸に、登場人物の様々な思惑が音楽という糸で見事に一つの織物に織り上げられていく、ヴェルディの傑作「仮面舞踏会」の一場面を通しでお届けしたいと思います。お楽しみいただければ幸いです。

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オペレッタの同時代性〜「天国と地獄」から「こうもり」へ〜

先日「天国と地獄」が、単なるギリシア神話のパロディ劇ではなくて、当時の政治体制への風刺を含んだ同時代性の高い作品だった、という話を書きました。実は今、5月27日に、ヨハンシュトラウス管弦楽団ガレリア座が共演する、「こうもり」の舞台稽古をやっている最中なのだけど、この「こうもり」という作品も、濃厚に当時の時代背景を反映している。今日はその辺の話を。


5月27日の公演チラシです。お時間ありましたら是非!

オペレッタ、といえば「こうもり」というくらいに耳に馴染んだ有名曲ですけど、この作品の同時代性に気づかせてくれたのは、ガレリア座の主宰者、八木原さんが長く関わっている、新宿オペレッタ劇場でのMCでした。そこで、「アイゼンシュタインは、ドイツ語で鉄石、という意味になるけど、これは当時、オーストリアの宿敵だったプロイセンの鉄血宰相、ビスマルクを意味している」という解説があって、そうかそうだったのか、と目からウロコが落ちた気がした。

当時の複雑怪奇な欧州情勢の中で、ひたすら衰徴の一途を辿るオーストリアハプスブルク帝国が、なんとか国威を保とうと、宿敵であったロシアにすり寄ったり、ハンガリー二重帝国と言ったレトリックを弄したり、断末魔の悪あがきを繰り返していた19世紀後半、1873年に作曲された「こうもり」には、当時の政治情勢が色濃く反映している。アイゼンシュタインを罠に落とす「こうもり博士」ことファルケは、まさしく童話のこうもりのようにあっちへフラフラこっちへフラフラと自分の居場所が定まらないオーストリアを象徴しており、そのファルケが復讐のために助力を頼むのが、ロシア帝国を代表するロシア亡命貴族オルロフスキー。そして、復讐の鍵を握るロザリンデが、オーストリアが頼みとした兄弟国ハンガリーの貴婦人を名乗るに至って、当時の欧州の政治情勢のカリカチュアが舞台上に見事に完成する。

そして、19世紀から20世紀の欧州文化を語る上で欠かせないもう一つの対立軸が、衰退する貴族の栄光と、それと入れ替わって台頭してきたブルジョワたちの対立。「こうもり」において笑い者にされるアイゼンシュタインは、裕福な銀行家、つまりは典型的な成金=ブルジョワ。このアイゼンシュタインが、フランスの貴族を気取って貴族たちが集う夜会に現れ、散々に馬鹿にされる、という筋書きに、客席に集った上流階級の客たちは、二重の意味で溜飲を下げた。殖産興業と軍事力でドイツ連邦の盟主となった「成り上がりの田舎者」であるプロイセン帝国の憎たらしい宰相と、貴族の品格を野卑な行動で汚す成金ブルジョワが、舞台上で笑い者になっている姿を指差して笑った。

今回「こうもり」の合唱の一員として舞台に乗るんですが、こういう時代背景を知った上で舞台に立つと、自分たちが貴族然としていないと、アイゼンシュタインの成金の浅薄ぶりが際立たないな、と思って、そこを一番意識しています。仮装パーティという設定の演出なので、結構とんでもないコスプレをして舞台に乗っているんですが(どんな格好かは当日本番会場で是非確かめていただきたいんですが)、それでも佇まいや所作はあくまで品良く、というのを心がけようと思っています。上手くいくといいんですけどね。

1873年当時、舞台上で弄ばれるアイゼンシュタインを嘲笑った貴族階級とその文化は、この後の第一次大戦を経て急激に滅び去っていく。その没落の姿を限りない哀惜と郷愁を込めて描いたのが、イタリアの映画監督ビスコンティで、その愛弟子だったゼフィレッリが、欧州オペラ演出の巨人として未だに影響力を持っていることを考えると、時代を超え、音楽を通して、未だに当時の貴族の想いが現代に響いているような感覚がします。

今日は短くBABYMETALの今後の展開について

BABYMETALの米国公演にYUI-METALが参加していないことで大騒ぎになっていて(「ゆいちゃん」、がネットのトレンドで6位に入ったとか)、私も昼休みの会社でツイッターのリアルタイム検索見ながら呆然としていた口ですけど、今日は、今後の展開について、私なりの予想を。こういう予想をしている人は、ネット上で私の見た限り一人もいないので、この予想が当たったら自慢できるぞ、ということで、ここに書き留めておきます。この後は、BABYMETALのことを知らない人にとっては完全にちんぷんかんぷんの記述なので、そういう方はスルーしてください。

・THE CHOSEN SEVENというコンセプトが示されているが、舞台上にはまだ、SUとMOAと、2人のMustle Sistersしか現れていない。神バンドは4人なので、神バンドの4人+3姫=Chosen Sevenという話もあったけど、「Chosen Sevenの誰がどこに現れるかはFox Godのみぞ知る」というコピーを考えると、むしろ、3姫+ダンサー4人のユニットを「Chosen Seven」として設定した可能性の方が高いのじゃないか。とすると、今の時点では、「2人足りない」。

・つまり、Dark Sideの物語を描く、2人のMustle SistersとSuとMoaの4人に対して、Light Sideの物語を描く、「Mustle Sistersとは別の2人のダンサー」と3姫のうちの2人の4人が、どこかに現れる、と考えるべきなんじゃないのかな?

・Suのボーカルは外せないとなれば、それは、Su+Yui+ダンサー二人の4人になる可能性が高くないか?多分Dark Sideと対比させるために、衣装やステージコンセプトも大幅に異なるはず。

Yuiの戦線離脱が、体調不良による可能性も高いとは思うけど、上記のようなコンセプトで、「Chosen Seven」という物語を組み上げて、World Tour全体をその物語に沿って進めようとしているとするなら、Yuiが確実に戦線復帰する目途があり、物語をきちんと完結させることができる見込みが立っていると思いたい。

・個人的には、水野さんは大学に進学したんじゃないかな、と想像していて、まず大学の授業を優先しているんじゃないかな、と。そうすると、水野さんがYUI-METALとして本格的に復帰してくるのは、夏以降?5月6月のツアーと欧州フェス参加は、今のSU+MOAによるDark Sideの四人で構成される可能性が高い?もちろん、「どこにだれが現れるかはFOX GODのみぞ知る」なので、欧州フェスあたりから参加してくる可能性も否定できないけど。

この予想が当たるかどうか、まさにFox Godのみぞ知るですけど、なんのかんの言って最近頭の中にずっと鳴っているのはDistortion。楽曲のクオリティ相変わらずむっちゃ高いです。

東京室内歌劇場「天国と地獄」その2〜同時代性が時代を超える〜

昨日書いた通り、東京室内歌劇場の「天国と地獄」の感想文、今日はその2です。今回は、「天国と地獄」という作品そのものと、今回の演出についての感想を。
 

女房が出演したB組のキャスト集合写真。皆様お疲れさまでした。
 
オッフェンバック、という作曲家は、私が所属しているガレリア座が十八番にしている作曲家の一人で、私自身、今までに、「ホフマン物語」「天国と地獄」「美しきエレーヌ」の舞台にソリストとして参加させてもらっていますし、オッフェンバックの小さな二重唱やアリアなんかもいくつか歌っています。中でも、「天国と地獄」は、オッフェンバックの中でも最もメジャーな作品の一つ。オッフェンバックが大嫌いだったグルックの「オルフェオとエウリディーチェ」をパロディにしたこの作品は、運動会でおなじみのギャロップなど、楽しい楽曲にあふれ、おなじみのギリシア神話のエピソードが面白おかしくちりばめられた、笑いにあふれた喜歌劇、ととらえられていますが、実は猛毒を含んだ強烈な風刺劇。

体裁ばかり取り繕って周囲の信望を失う神々の王、ジュピターは、当時のフランス第二帝政の主役、ナポレオン三世そのもの。美女を追いかけて浮気を重ね、嫉妬深い奥さんの尻に敷かれている、というのも、皇后ウジェニーの目を盗んでは街の女を追いかけ、しょっちゅう怒られていたナポレオン三世の鏡像だったりします。そんな王様が治める天国より、みんなが楽しくわいわいやっている地獄の方がよっぽど楽しいじゃん、という皮肉など、これでもかとばかり詰め込まれた風刺と嘲笑が頂点に達するのが、ジュピターがエウリディーチェを獲得するために変身する「ハエ」(ちなみに、「蠅の王」というのは、聖書に登場する悪魔ベルゼブブの別名ですから、王様にむかって、「お前は悪魔だ」と言ってるに等しい)。この猛毒を含んだオペレッタを、ナポレオン三世は大いに気に入って、見ながら腹を抱えて笑っていたというから、いったいどういう神経をしていたんだか。

逆に言えば、この作品にはオッフェンバックの生きた1858年のパリの世相が強烈に映し出されている。そういうことを全然理解していなくても、ギリシア神話さえ知っていればそのパロディ劇として楽しめるんで、作品自体の同時代性を捨象してしまって、単純なエンターテイメントに仕立てる料理の仕方だってあったと思いますし、そういう演出はいっぱいある。でも、今回、飯塚励生さんの演出は、そういう方向性ではなくて、この作品を、現代アメリカの鏡像として、同時代性の高い舞台作品として再構築した。19世紀末の堕落したパリは、女好きの映画プロデューサが君臨する腐敗したハリウッドに、悪と享楽の渦巻く地獄はギャングが跋扈するラスベガスに、そして倦怠感に満ちた日常はカンザスあたりの田舎町に。この読み替えがものすごくしっくりハマるあたりが、オッフェンバック作品の恐ろしいところで、同時代性を突き詰めた結果、作品自体が時代を超えてしまうんだね。

時の政権を風刺する、というのは、オッフェンバックの時代には、為政者の機嫌一つで簡単に命を失うような、まさに命がけの表現だったんじゃないかと思います。現代でも、だんだんそういう風刺の精神に対する色んな圧力が強くなってきている息苦しさがある。オッフェンバックがそんな閉塞感に対して挑むために手に取った武器は音楽と「笑い」だったわけだけど、飯塚励生さんの今回の演出には、どこかにオッフェンバックに通じるような反骨精神が垣間見える気がする。今回の演出にインパクトがあるのは、この映画プロデューサの向こうに、現在アメリカの頂点に立っているあのツイッター大統領の姿が見え隠れするからだし。前回のせんがわ劇場での「魔笛」の演出も、当時アメリカを分断しつつあった対立と宥和をテーマにしていたし。そう思うと、当時のパリと飯塚励生さんの精神風土であるニューヨークって、体制に対する反骨精神、という意味では共通しているところがある気がするよね。

今回の舞台では、その舞台装置の構造も面白かった。舞台の四方を20センチほどの高さの通路で囲んで、舞台センターを窪地のようにすることで、客席の目の前を横切る通路を作る。そこが、宝塚の銀橋みたいな感じになって舞台全体に立体感が生まれる。小劇場の舞台装置をどう作るか、という引き出しの多い人なんだなぁ、と思いました。毎回、本当に勉強させてもらっています。

もう一つ、今回、「そうか、そうだった!」という発見があったのが、今回の訳詞を手掛けた和田ひできさんが、プログラムに書いていた文章。「ユリディスがバッカスの巫女になるという筋書きは、オルフェウスの死の挿話を知る者にはかなりショックな展開です。」という文章があって、そうか、オルフェウスって、バッカスの巫女たちになぶり殺しにされるんだった、と思い出した。今更の気づきだけど、確かになんという猛毒を仕込んでいることか。そう思うと、「美しきエレーヌ」も、ワイワイ大騒ぎの挙句に楽しくパリスとエレーヌが逃げ出したあと、悲惨なトロイ戦争が起きる。オッフェンバックオペレッタを、本当に「喜歌劇」と言ってしまっていいのか、ちょっと疑ってかかった方がいいですねぇ。

色んな美術作品に描かれた歴史や背景を「知ること」の楽しみを最近教えてくれたのが、中野京子さんの「怖い絵」シリーズでしたけど、色んなオペラ作品やオペレッタ作品の背景や歴史を知ることで、色々見えてくる作曲家の想いも沢山ある。そういう意味で、「こうもり」の背景や同時代性についても書きたかったんだけど、紙幅が全然足りなくなっちゃった。これはまた別の機会に。お楽しみに(ってホントに書けるのかな)。

東京室内歌劇場「天国と地獄」その1〜浅草からパリ、そして仙川〜

GWに入って、5月・6月に予定している舞台の練習を結構休みなしに入れて、さぁ、追い込むぞ〜なんて思っていたら、扁桃腺炎を起こして発熱、寝込んでしまいました・・・なんてこった。解熱剤を服用して熱は下がったんですが、数日安静にしていなさい、ということで、色んな練習に不義理して、家でできること(パソコン仕事やら、衣装の加工やら)をへこへこやっております。ご迷惑おかけして本当に申し訳ございません。へこむ〜。

ということで、ぽっかり空いた時間を使って、最近停滞しているこの日記の更新を。まだ元気だったGWの前半に見に行った、東京室内歌劇場inせんがわ劇場オペレッタ公演「天国と地獄」の感想文を書こうと思います・・・

・・・ということでちょっと書き始めたらなんか止まらなくなってしまいました汗。ということで、投稿を2回に分けます。まず今日は、作品そのものの話、というより、舞台や出演者の感想から。次回は作品そのものや、今練習しているヨハンシュトラウスの「こうもり」の話など。ううむ、2回で本当に終わるだろうか。

で、まずは今回の東京室内歌劇場の公演に特化して。私は、4月29日(日)のAキャスト公演と、30日のBキャストの公演を拝見しました。 
 
指揮:新井義輝
 
演出:飯塚励生
 
出演:
ピアノ:松本康子(A) 頼田恵(B)
クラリネット:守屋和佳子(全日)
ヴァイオリン:澤野慶子(全日)
チェロ:三間早苗(全日)
 
キャスト:
オルフェウス:谷川佳幸(A) 相山潤平(B)
ユリディス:加藤千春(A) 大津佐知子(B)
世論:三橋千鶴(A) 中村裕美(B)
ジュピター:和田ひでき(A) 小林大祐(B)
ジュノー:田辺いづみ(A) 田代香澄(B)
ダイアナ:原 千裕(A) 花岡 薫(B)
ミネルヴァ:横内尚子(A) 伯田桂子(B)
ヴィーナス:上田桂子(A) 田村きの(B)
キューピット:植木稚花(A) 生駒侑子(B)
マーキュリー:吉川響一(A) 碓氷昂之朗(B)
マルス:酒井 崇(A) 佐藤 哲朗(B)
プルート:吉田伸昭(A) 中村祐哉(B)
ジョン・スティックス:三村卓也(A) 大岩篤郎(B)
 
という布陣でした。

天国をハリウッド、地獄をラスベガス、人間界をカンザスあたりの田舎町に設定した舞台設定については、すごく納得感があった、とだけ触れておいて、次回の投稿に譲ります。今日はとにかく、出演者のパフォーマンスについて感じたことを。

まず一番強く思ったのは、先日東京室内歌劇場が浅草東洋館で敢行した、「わが夢の街浅草」のロングラン公演が、出演者のパフォーマンスにプラスの影響を与えている感覚でした。出演者の方々にそれを言うと、「そんなことないよ」とおっしゃるかもしれないんですが・・・

今までのせんがわ劇場の公演では、皆さんが普段慣れている公演会場よりもはるかに狭く、客席の距離が極めて近いことに、少し演者が戸惑っているような感覚が時々あって、ありていにいえば、「演者が素になる」瞬間が結構あった気がするんです。例えば、客席と舞台が一体になって作り上げる作品だった「小さな煙突そうじ」でも、客席との距離感をつかみかねている感覚が時々あったんですが、今回は、演者の方々が、客席の反応やお客様の表情をしっかりとらえながら、自分が演じるキャラクターから逸脱することもなく、きちんと「天国と地獄」の世界観を演じ切っている感がありました。

それって、あの浅草東洋館で、お客様からのおひねりの雨を浴びながら何公演もこなした経験が、いい影響を与えているんじゃないかなぁ、と思う。お客様との距離感の取り方をつかんでいる、というか。もちろん、吉田信昭さんとか、加藤千春さんとか、谷川佳幸さんとか、ベテランの方のパフォーマンスはどんな舞台に行っても安定のクオリティなんだけど、「天国と地獄」のような群集劇では、脇役の一人一人にもしっかり見せ場と濃いキャラクターが与えられているので、そういう人たちが一瞬でも素になってしまう瞬間があると、全体のアンサンブルが崩れちゃう。今回はそういう瞬間が本当に少なかった。

AキャストとBキャストの公演をそれぞれ見比べることができたのも、演者の個性が見えて面白かったです。あまり個々の方々の感想を並べると色々支障が出たりするので、ざっくりいうと、Aキャストの方々はやはりキャリアの長い方が多い分、安定感とキャラクターの作りこみの深さが面白かった。オペレッタは大人の演者がやらないと面白くない、という人がいますが、確かにそういう重層的な感覚を感じさせる舞台でした。それぞれのキャラクターの癖の強さが半端ない感じなんですね。それぞれのキャラクターがそこに至った個人史まで感じさせるような。ジュピターの和田さんも、この地位に上り詰めるまでに何人か暗殺してそうな感じがするし(ん?)、ジュノーの田辺さんも、どことなく極妻の裏の顔が見えたり(え?)、ヴィーナス・ダイアナ・ミネルヴァの美女トリオにも、破滅させられた男たちの屍をベッドにしているような悪女感が漂う(ううむ)。無邪気な毒、ともいえる植木さんのキューピッドも、その毒矢で何人殺したんですかね、って疑っちゃう(また植木稚花さんが可愛いもんだから余計に・・・)。中でもすごかったのが、三橋千鶴さんの「世論」。もう出てきた瞬間から、一挙手一投足が「世論」というキャラクターそのもの。

Bキャストは、そういうキャラクターの作りこみの深さよりも、むしろ演者の若さとパワーと、自分のキャラクターそのもので勝負している感じがあって、これはこれで面白かった。舞台に満ちる空気感は、Bキャストの方がエネルギッシュだった気がします。その分破綻する瞬間もあったりするんだけど、それすらぶっ飛ばしていくような疾走感。個人的には、その中でも、ジュピターの小林大祐さんの美声と、意外と(失礼)軽やかな所作に感動。自分もバリトンなので・・・あとは、プルートの中村祐哉さんのぶち切れイケメンぶりと、生駒侑子さんの天使ぶり。生駒侑子さんって、普段から背中に羽生えてるんじゃないかと思ったり。

そんなエネルギッシュな舞台を真ん中でがっつり引っ張っていたのが、うちの女房の大津佐知子演じるユリディス。この役は下手に演じるとお客様の反感を買ってしまう役柄。キュートでパワフルで、でも人間臭くて、世の中の奥様方が共感するように作らないといけない。踊りと演技だけじゃなく、超難度の高音パッセージもあり、技術的にもハードルの高い役。例によって手前味噌になってしまいますが、技術的な部分もしっかりクリアしつつ、ワガママで悪女なのにキュートで憎めない、魅力的なユリディスに仕上がっていたと思います。ガレリア座で沢山のオッフェンバック作品に触れてきた女房にとっては、まさに憧れの役。今回、この役をもらってから、毎回の練習が本当に楽しかったみたいで、重量級の相手役の皆様にしっかり支えてもらいながら、4公演駆け抜けることができたようです。お疲れさまでした。

オッフェンバックはドイツ人なので、ものすごくきっちりしたアンサンブル音楽を書きます。今回、合唱がいなくて、熟練のソリストたちだけで作り上げられたアンサンブルが実に見事で、この距離感でオッフェンバックのアンサンブルを聞ける幸せをすごく感じました。特にそれが強烈だったのが、二幕の地獄の幕、冒頭の合唱。パロディと皮肉と嘲笑で作り上げられたエログロ世界の中に、突然悪魔的な陶酔と美が煌く、疾走感と重量感が半端ないアンサンブルに、思わず興奮で鳥肌が立ちました。そんな疾走感を供給し続けた安定のオーケストラにもブラボー。出演者の皆様、スタッフの皆様、本当にお疲れさまでした&女房がお世話になりました。仙川が見事に19世紀末のパリになりましたね〜。

ということで次回に続く〜(ほんとかよ)

高畑勲さんと音楽のこと

先日投稿した日記で高畑勲さんのことを書いたけど、ひとつ書ききれなかったのが、音楽のこと。ということで、FACEBOOKにちょっとだけ、と思って書き始めたら、思ったより長文になってしまって、これはFACEBOOKというより、日記向きの投稿だなぁ、と思い、こちらに転載することにしました。FACEBOOK投稿時に少し間違えた記述もあったので、その辺は改訂しつつ。

クラシック音楽その他、音楽全般に造詣が深かった高畑勲さんの作品には、印象に残る劇伴が数えきれないくらいあって、それについても沢山の人がネット評論を書いているから、私が書けることはあんまりないんですが、とりあえず、高畑作品に出てくる音楽についての感想をいくつか。

おもひでぽろぽろ」が個人的に一番好き、と書いたんだけど、その一番の理由は、音楽で泣かされた、というところにあるかもしれない。ドラマに大きく関わってくる「ひょっこりひょうたん島」を始めとする、昭和40年代のヒット曲の使い方はもちろんだけど、ハンガリー民族音楽集団ムジカーシュの曲の素晴らしさ、そしてなんといっても、ラストで流れる「The Rose」の都はるみの歌声(訳詞は高畑さんご自身)。ここで完全に涙腺決壊。

そして、合唱人としてちょっと恥ずかしいんだけど、間宮芳生さんの名前を知ったのは「太陽の王子ホルス」の方が先でした。大学に入って、間宮さんってこんなすごい作曲家だったのか、と知った時に、そんな人に、はじめての劇場長編作品の劇伴を頼んだのか、と逆に驚愕。間宮さんはあまり映画音楽を書かない人だけど、高畑さんとは「火垂るの墓」でも組んでるし、「柳河掘割物語」の主題歌も書いてる。音楽が主役の一人とも言える「セロ弾きのゴーシュ」で、「インドの虎狩り」と「愉快な馬車屋」を作曲したのも間宮さんで、高畑さんに対して、音楽を理解している映画作家、という信頼関係があったんだろうな、と思います。

例の「魔女の宅急便」で、高畑さんが、音楽演出、というクレジットで参加しているのも、久石譲さんが多忙であまり現場に参加できなかった、という製作上の背景はあるとしても、高畑さんが劇伴音楽に対して一流の仕事ができる人だった、という一つの証明。あの映画で荒井由実を主題歌に使える発想力ってのは、絶対他人には真似できないセンスだと思う。後になって、典型的なコバンザメプロデューサの鈴木敏夫が、ユーミンを使ったのは自分の手柄、みたいな発言をしていて、ほんとにこいつは宮崎・高畑の寄生虫だな、とすごく腹立ったことがある。

そして、高畑さんと音楽、といえば、絶対に欠かせないのが、テレビシリーズでの主題曲の充実度。

アルプスの少女ハイジ」で、前代未聞の海外録音までやってホンモノのアルペンホルンとヨーデルを取り込んだことに、高畑さんの音楽へのこだわりが反映されていないはずはないと思うし、宮崎駿の最初で最後の長編テレビアニメ演出作品だった「未来少年コナン」で、池辺晋一郎さんが主題歌を担当したのも、高畑さんが作った日本アニメーション時代の人脈が関係してるんじゃないかな、と密かに思ってたりします。

でも、その主題歌へのこだわりが凝縮したのが、アニメ主題歌史上最高難度のピアノ伴奏と歌唱技術が求められる名曲、「赤毛のアン」のOP/ED曲、「きこえるかしら」「さめないゆめ」。

私は「赤毛のアン」はリアルタイムでは見ていなくて、逆に合唱人になって三善晃さんの名前を知ってから、「三善晃さんが作曲したアニメ主題歌があるんだよね」と聞かされて初めて聞いたんです。三善晃にアニメ主題歌頼むって、一体誰だよ、と思ったら、高畑さん、ということで、すごく納得。「きこえるかしら」の間奏部分のオケの響きの豊饒さ、「さめないゆめ」のキラキラ輝くピアノ伴奏の美しさ。うちの女房は今でも時々、「さめないゆめ」を突然歌いだしたりします。近所迷惑だからやめておくれ。