ブルー・アイランド版「ポッペアの戴冠」~不適切だけどうらやましい~

今日は本日観劇した、青島広志先生プロデュース、ブルー・アイランド版「ポッペアの戴冠」の感想を。女房がダミジェラ役を演じた昼公演を拝見しました。例によって衒学的かつ浅薄な文章ダラダラ並べて参りますけど、いい所に着地するかどうかは保証の限りではございません。長文になりますので、お時間があれば是非。最後まで読んでいただけたら本当に幸いでございます。

毎回、元のオペラのお話を離れ、青島広志先生ならではの飛躍と諧謔に溢れた全く別物のエンターテイメントに仕上げてしまうブルーアイランド版ですが、過去拝見したブルーアイランド版「こうもり」と「蝶々夫人」が、それぞれの作品自体の物語や設定の読み替えだったのに比べて、オペラという表現が始まった最初期、ルネサンス後期バロックオペラの傑作、という作品の位置付けもあってか、オペラの歴史や時代背景を強く印象付ける読み替えだったなぁ、というのが一番の感想です。

もともと、「ポッペアの戴冠」を初めて拝見したのが、東京室内歌劇場で1997年に市川右近さんが演出した、歌舞伎版「《花盛羅馬恋達引(はなのろおまこいのたてひき)ポッペアの戴冠》」だったんですよね。ネロとポッペアの物語を、平安王朝の物語に読み替え、演出を全て歌舞伎の所作にした意欲的な演出。字幕監修を、「オペラと歌舞伎」の著者、永竹由幸先生が担当されていたのも面白かった。つまるところ、時の権力者が傾城の美女に心惑わされて世が乱れる、という基本ストーリー自体、権力と性欲がある場所ならどんな時代でもハマってしまうお話で、それがローマ帝国であろうが平安時代の王朝であろうが物語としては成立してしまうんですね。金毛九尾の狐は時間と空間を超えてあらゆる次元に遍在している。

そんな一種普遍的な物語の舞台として、今回、青島先生が選んだのは、昭和40年代、高度成長期の池袋の暗黒街。青島先生の個人的な体験をベースにした読み替えの多いブルーアイランドらしいなぁ、と思うのだけど、それ以上の意味もあるのかもな、とちょっと思ったりしました。

もともとルネサンス自体、猖獗を極めたペストと十字軍の失敗によって地に落ちた教会の権威とヨーロッパの旧秩序に対して、ギリシアローマの人間中心の世界観に回帰しようとする文化運動だったのだから、太平洋戦争の敗戦と占領統治下において、国土が焦土と化し、旧秩序が破壊された東京が、高度経済成長によって発展していく昭和40年代、という時代自体、東京のルネサンス期であったと言えなくもない。こういう秩序の崩壊と復興の時期には新勢力の権力者が勃興してくるのは時代の常で、チューザレ・ボルジアも教会権力の世俗化の波に乗ってのし上がったのだし、池袋の暗黒街のギャングだって、戦後の闇市進駐軍の払い下げ品とか怪しげな流通仕切ってのし上がってきた連中だったんだろう。

青島先生がおっしゃるように「池袋駅近辺が怖い場所だった」昭和40年代は、逆に池袋駅近辺がものすごくエネルギッシュで面白かった時代で、それってルネサンス期の文化芸術にもつながるワクワク感だったんじゃないかな。まぁきっと「不適切にもほどがある」時代だったんだろうけど、でもだからこそ面白い。

この、オペラが生まれた時代を意識させる読み替え、という点で、すでに今回の公演は、オペラという表現形態の歴史を意識させる舞台になっているんだけど、もう一つ、オペラの歴史を考えずにいられない大変「不適切」な仕掛けがあって、それが極端なまでに巨大化してカリカチュアライズされたポッペアのオッパイなんですよ。もともとポッペアという名前自体、オッパイという意味の言葉から来ているそうなのだけど、ポッペア役の板波利加さんが巨大なオッパイ(作りものですよ)をさらけ出して登場した時はかなり客席がどよめきました。

冒頭、運命の神と美徳の神(青島版では、富の神(成金富豪)と正義の神(池袋署員))の論争に対して、愛の神(アモーレ=キューピッド)が、「私の言葉で世界は変わる」と宣言するシーンから、このオペラのテーマは明確で、「必ず愛は勝つ」っていうのがテーマなんだよね。愛、というと美しく聞こえるんだけど、要するに性欲、ないし性愛。「エロ」が最高、というのがこのオペラのメインテーマ。自分が初めて東京室内歌劇場のポッペアを見た時にも、「結局エロが勝つんかーい」と思い切り突っ込みたくなった記憶があります。なんて不適切なオペラだ。

でも、禁欲的なキリスト教秩序が凋落した先に生まれたルネサンスが、人間讃歌として「性」を謳歌するのは自然な流れで、ルネッサンスを代表する文学作品である「デカメロン」がエロ話に溢れているのは有名な話。そもそもヨーロッパにルネサンスをもたらしたアラビア世界には「アラビアンナイト」というエロ文学の金字塔がある。そういう意味でも、オペラの草創期の傑作である「ポッペアの戴冠」が、既存秩序を破壊する稀代の悪女のピカレスクロマンであると同時に、性愛(エロ)こそが、人間を、時代を動かす、というテーマを持っているのは、まさにルネサンスという時代のなせる技と言っていい。

そう考えると、昭和40年代っていうのも今の時代と比べれば「性愛」に対する表現はよほど自由だったんじゃないかと思いますけどね。戦前に巻き起こったエロ・グロ・ナンセンスのブームは、戦中の思想統制・検閲によって一旦滅びたけど、戦後の混乱期から再び、「表現の自由」の旗印のもとになんでもありの時代を迎える。まさに昭和40年代を活動の中心とした日本ヌーベルバーグの映画人たちが盛んに取り上げたのも、社会からはじき出されたアウトローたちの反社会的行動と奔放な性衝動でした。

「エロ」がオペラという表現の初期段階の大きな主題であった、ということを、巨大なオッパイゆさゆさ揺らしたポッペアが強調するのを見ていると、自分としては、なんとなく2つのオペラを連想しちゃったんですね。一つが、ワーグナーの「タンホイザー」。そしてもう一つが、プーランクの「ティレジアスの乳房」。

愛欲の女神ヴェーヌスの官能の愛に溺れ、教会から破門される、という騎士タンホイザーの物語自体、キリスト教の持っている禁欲的倫理観と、「エロ=性愛」の対立と葛藤がテーマになっている。煩悩からの脱却や絶対的愛を掲げる宗教が洋の東西を問わず必ずぶつかるテーマなんですかねぇ。親鸞聖人の「女犯の夢告」、雨月物語の「青頭巾」から、ブライアン・デ・パルマの「キャリー」に至るまで、宗教の持つ性的潔癖の要請と性愛の間の葛藤をテーマにした芸術作品は一杯ある。権力志向強くて現世的欲求の塊だったワーグナーの作品がちょっと胡散臭く聞こえちゃうのに比べると、「エロ無敵~!!」とハートマーク作ってしまうモンテヴェルディ先生の方が個人的にはなんか共感できるんですけどね。

「エロ」と禁欲的倫理観の葛藤、という切り口ではなく、「乳房」=「女性なるもの」というジェンダー的な社会規範を諧謔で笑い飛ばしたのがプーランクの「ティレジアスの乳房」で、ここで乳房は、女性の社会的地位を抑圧する器官として否定され、風船のように空に飛び去ってしまう。乳房=「エロ」ないし育児のための器官が、逆に女性の行動を規制してしまう、というのが産業革命以降の工業社会が進めた男女の分業体制の歪みで、そういう観点でも、乳房=「エロ」で権力者を翻弄したポッペアのシンプルな悪女ぶりがちょっとうらやましくなったりもしますね。

キリスト教的因習から人間を開放するはずだった「性」が、ジェンダーによる社会の分業体制とその強要、という別の抑圧システムへと変貌してしまった20世紀初頭。そして今や、その抑圧システム自体を弾劾する「社会正義」が、表現の自由に対する別の抑圧システムとして機能し始めている感じもします。色んな意味で「不適切」な表現も多いブルーアイランド版「ポッペアの戴冠」を見ながら、なんだかモンテヴェルディが自由で楽しそうでうらやましく感じちゃったのはオレだけかなぁ。現代のモンテヴェルディともプーランクとも見える青島先生が、今後も色んなオペラを、リスペクトしつつ自由に楽しく笑い飛ばす活動を続けられることをお祈りしつつ、あうるすぽっとを後にいたしました。

練達の歌い手さん達の中で、デパートガールとしてしっかり存在感示していた女房どの、お疲れさまでした。

 

日本最高のスープレットの一人、赤星啓子さんと。歌だけでなく、バレエシーンも素晴らしく魅せる赤星さん。女房ともども永遠の憧れです。ブルーアイランド版は音楽に妥協しないから、赤星さんのような一流の歌い手さんのパフォーマンスに触れられるのが醍醐味ですね。女房がお世話になりました。今後もご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。