カニバリズムについての娘との雑談まとめ

最近この日記は、舞台やコンサートを中心としたインプットに対する感想文がほとんどで、あまり自分の考えたことの発信とかしなくなっちゃったんですが、今回はちょっと久しぶりに、先日娘と雑談していてちょっと思ったことを。テーマが「カニバリズム(食人)」なので、ちょっとそういうのは弱い、という方はこの時点でご退出されることをお勧めします。

娘は大学で史学科に所属しているんですが、講義の資料として先生に配られたプリントに、18世紀欧州で流行した「旅行記文学」の最後に必ず現れた「食人族」のお話のイラストがあったんですって。本の挿絵で、人の足とかむさぼり食ってる食人族のイラストをA4に拡大したプリントで、娘は、「趣味が悪い」とおかんむりだったんだけど、その先生が言うには、このころの「旅行記文学」には、ほとんど必ずと言っていいほど「食人族」が登場して、当時の読者はそれをとても楽しんでいたそうな。

それを聞いて、それって一種の「キリスト文化の他文化に対する優位性」の表現かもね、という話をする。キリスト教に教化された西欧の人々は、神の恩寵を受けることによって、食人のような獣の風習から逃れ、「ヒト」として生きることができている、というような、ちょっと教訓も含まれた表現。そこでは、「食人」という風習が、「ヒト未満」の異人種の持つ特性として描かれることで、キリスト教世界と非キリスト教世界の間に明確なヒエラルキーを与えるための一つの記号として扱われていたのでは、と。

では日本は、と振り返ってみると、キリスト教のような明確なピラミッド構造を持たない精神世界を持つ日本において、かつて「食人」の特性を与えられたのは、山姥や鬼、といった「妖怪」たち、言い換えると、「ヒトならざるもの」だったよね、と。「ヒト」ではないものが「ヒト」を食うので、そこにあまりモラルが入り込む余地がない。もちろん、例えば上田秋成の「青頭巾」のように、もともと人であったものが人肉を知って「鬼」と化してしまう、という物語においては、「食人」が人外に堕ちるタブーとして描かれているので、多少はモラルの要素も含まれているのだけど、そこには悲劇性というより、この世界と地続きに存在していて、様々な妖しが棲む異界に対する怖れや畏敬、という、日本の「怪談」の持つ特性が現れている気がするなぁ、と。

でも、そういう日本における「食人」の物語が、人外の者の恐怖譚としてではなく、我々と同じ普通の「ヒト」が「ヒト」を食う、食わざるを得ない所に追い込まれる、という「悲劇」として描かれた時期があった気がしていて、それって私の子供の頃のような気がするんです。私の子供の頃、教科書にも載っていたような話としてよく聞かされたのが、江戸時代の天明の飢饉で東北が飢えに苦しんだ挙句に、死者の肉を食ったという話で、そこには普通のヒトがヒトを食わねばならない悲劇としての「食人」が描かれていた。そこには、そこまでヒトを追い込んだ封建主義を「悪」として描くことで、戦後の民主主義の価値観を肯定する意図が隠れていたのかもしれないんですが、「食人」が、異教徒でもなく、妖怪でもなく、ごくごく普通の市井の人々が生き延びるための最後の手段として、大きな「悲劇」として描かれていた時期だった気がする。

同じような「普通なヒトが飢餓のためやむなく人肉を口にする」という物語は、オペラ「ひかりごけ」や、バリー・コリンズの戯曲「審判」などにも現れる。ここで物語の背景になっているのは、飢餓という極限状態を生み出す「戦争」という政治状況。そう考えると、「食人」を悲劇の物語にする一つの要因として、第二次世界大戦というのが大きな役割を果たしていたのじゃないかな、という気がしてくる。普通の市井の人々が前線に兵士として駆り出され、極限の飢餓の中で人肉を口にする、そういう悲劇が第二次大戦中には実際身近なこととして結構あったわけだし、戦後も同様な飢餓に直面していた人々にとっても、「食人」はタブーではあったけれど、そのタブーを越えてしまった人々の悲劇を、自分の身に引き寄せて共感できる素地があった時代なのじゃないかな、と。

民主主義の最大の発明である「国民皆兵」の結果として生まれた大規模な殲滅戦である近代戦争が、普通の市井の人々を極限状態に追い込み、「食人」のタブーを破らせるところまで追いつめた。その民主主義を肯定するために、「食人」を封建時代の悲劇として掲載した戦後教科書って、なんだかねじれてますねぇ、とも思うけど、現在の飽食の日本における「食人」は、「東京喰種」にせよ「寄生獣」にせよ「進撃の巨人」にせよ、かつての山姥や鬼のような「ヒトならざるもの」がヒトを食う、本来の日本の物語世界が持っていた異界への畏れを表現する記号に戻ってきている気がします。その一歩前の所に、昨日までの友人が食人種と化してしまうジョージ・A・ロメロの生み出した「ゾンビ」という食人種の影響も加わって、親しい家族や友人が自分を食おうと襲ってくる、という悲劇性も加わってはいるけれど、それはあくまで食われる側の悲劇であって、食う側は「ヒト」としての属性を失っている。飢餓が「食人」の動機にならなくなった平和な飽食の日本において、「食人」は、むしろ現代社会の持つ様々な闇を表現する別の記号としての地位を持っているのかも、と思います。

なんか大学のレポートみたいになってしまいました。最近娘と大学のレポートの話結構するものだから、時々こういう話が膨らむんだよね。娘は、「会社辞めたら大学入りなおしてレポート書きまくれば」と言う。それも楽しそうだなぁ。

クレド交響楽団第3回演奏会~ベートーベンはアマチュアに限るって本当かも~

年末のライブ参戦(この単語を使うなと)感想の3つ目は、娘が参加しているクレド交響楽団の第3回演奏会。なんというか、とにかく、若いっていいよなぁ、とため息の出る演奏会でした。

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このオーケストラの演奏会は、前回の演奏会の感想をこの日記に載せています。

クレド交響楽団 第2回演奏会~伝えるって本能なんだな~ - singspieler’s diary

慶應義塾高等学校のオーケストラ部のOBたちが、カリスマ性のあった学生指揮者を中心に作り上げたこのオーケストラ、前回の演奏会で、ジェラール・プーレさんという熟達のヴァイオリニストとの共演を経験して、「進化した」と自称する若い彼らが、今回取り上げたのはベートーベン7番。のだめカンタービレで有名になった疾走感あふれる交響曲

第一回の演奏会を聞いていないので、「進化」の過程が見えているわけではないのですけど、一つ感じたのは、指揮者の豊平さんが、オケに対してしっかり自分のやりたいことを投げつけていて、それに対してオケが全力で答えていこうとする、指揮者との間の密なコミュニケーションが成立している感じ。アマチュアオケの演奏を聞いていると、時々感じることですが、指揮者がオケの実力に合わせてしまって、「できる範囲でやらせよう」と保守的になってしまう感覚。それはそれで指揮者にとって大事なスキルで、オケの実力を超えた高すぎるハードルを設定して、オケのモチベーションを下げてしまったり、演奏として破綻してしまったりすることも多いと思います。オケの実力を見極めて、もう少し上のレベルに演奏水準を設定し、だんだんクオリティを上げていく、というのが指揮者の腕前で、失敗したくない、とハードルを下げてしまうと、途端に演奏がつまらなくなる。

そういう意味で、前回の演奏会でのプーレさんは、本番に何をやらかすか分からない即興性にオケ全体を巻き込んでいく求心力のあるソリストで、そのコミュニケーションの妙味を知った豊平さんが、オケに対してどんどん挑みかかっていく、その挑戦をオケが必死に受け止める、みたいな丁々発止感が、「進化」の一つの要素だったのかもしれない。でも、プーレさんは、何をやらかすか分からないようで、しっかりオケの実力も見極めていて、絶対に越えられないハードルは設定しないんだよね。「君たち、ちょっと背伸びすればこれくらいできるでしょうが。さぼってんじゃないよ」みたいな感じで、ちょっと無理すれば打ち返せるボールをぽん、と投げていく、その感覚が絶妙で痺れたんだけど、今回の演奏会の豊平さんは相当無理なボールをバンバン投げつけていた感じがして、演奏にはかなり破綻があった気がします。

でもベートーベンというのは、特に7番や9番というのは、そういう破綻をある意味許してくれる、というか、破綻してもいいからぶっ飛ばしていく疾走感や高揚感の方が重要な演目だったりする。知り合いが、「ベートーベンの第九はアマチュアオケとアマチュア合唱団が死ぬ気でやっている演奏が一番面白くて、プロが仕事でやってる演奏なんか全然つまらん」と言ってたことがありましたけど、そういう側面ってある気がするんです。暴走機関車が屋根とか車輪とかぶっ飛ばしながら、それでも驀進していく姿にカタルシス感じてしまうような。

もちろん演奏全体が破綻してしまうと元も子もないのだけど、そこは日本随一のアマチュアオケを出身母体とするクレドのメンバー、暴走機関車をなんとかレールの上にとどめるだけの技術を持っている。中でも女房が感心していたのが、コンマスの服部さんで、時に限界を超える指揮者からの無茶ぶりに対して、弦楽器全体を知的にコントロールしながらうまく折り合いをつけていく様子が素晴らしかったそうです。

機関車を爆走させるだけのエネルギーは、やっぱり若さの賜物なんだよなぁ、とも思うし、俺達にはもっとできる、もっといける、と高い高いハードルを掲げる姿勢も若さだなぁと思う。でもその若さがそれぞれの演者の独りよがりになっているのではなく、また、お互いに距離を置いてできる範囲で収めようとする大人な対応や、最近の若者にありがちな事なかれ主義に堕ちているわけでもなく、とても高いレベルでバランスしながら全力で疾走していく姿が、とても好印象でした。終演後の拍手が鳴りやまなかったのは、今のこのオケにしか出来ないパッション溢れる演奏と、最後まで走り切ったその姿に対する感動の拍手だったと思います。なんだか高校駅伝か何かを見たような後味の残る、爽やかな演奏会でした。

さくら学院☆2019 ~Happy Xmas~ライブビューイング ~歌舞伎見てる気分になる~

年末の参戦記録、二つ目は、26日に見に行った、さくら学院のクリスマスライブのライブビューイングの感想です。印象に残ったポイントが多すぎてまだ何だか整理がつかないんですけど、とりあえず思ったことをだらだら書いてみます。まとまりのない文章になりますが、その点はご容赦を。

24日に幕張のアンフィシアターで開催されたライブのディレイビューイング、ということだったんですが、LVを見に行った時には既に、24日のライブでのトラブルの情報がシェアされていたんですね。入場の際のIDチェックに手間取り、開演が45分も遅れた、というトラブル。

さくら学院は、中学生以下の生徒さん達のグループということで、どの本番舞台も20時までには終了する、という鉄の掟があります。これは中三になったら卒業する、というこのグループを縛る最強のルールと同じくらいの重さを持っているルールで、開演が45分遅れたから、といって、終演時間を遅らせればいいでしょ、ということにならない。45分の遅延はそのまま、彼女達がやりたかったプログラムを45分間短縮しなければいけない、ということにつながるんです。

毎回の卒業公演でも、生徒さん達がやりたいセットリストと、時間の制約とプログラムの完成度の間でギリギリの調整が行われ、「セトリ問題」という単語まで生むくらいにプログラムが切り詰められ吟味されていることを知っているからこそ、45分の遅延が生徒さん達をどれだけ動揺させたか、想像できる。そんな中で、というか、そんな中だからこそ、凝縮されたパフォーマンスへの生徒さんたちの集中力は半端なかった気がします。多分、あゆみの映像の上映とか、購買部のネタとか、少しメンバーが休める時間を全部削って、楽曲のパフォーマンスをノンストップでつなげることで、なんとか予定していたセットリストをこなしたのだと思うのだけど、そのノンストップ感の中で、一人一人の生徒さん達の全力のパフォーマンスが生まれたのかな、とは思います。

でもね、そういう経験を生徒さんにさせちゃダメです。自分も舞台制作に関わったり、裏方として舞台手伝った経験がありますから言いますけど、演者に極度の緊張を強いたり、「はらはらした」と言わせるのは、舞台裏スタッフとして一番やってはいけないこと。演者が最高のコンディションで舞台に臨めるように最大限配慮するのが舞台裏の仕事。お客様に謝罪するより先に、全力のパフォーマンスで舞台を救ってくれた生徒さんに、今回の舞台裏のスタッフは心から謝罪と感謝をするべきだと思う。

そんな全力の生徒さんのパフォーマンスの中では、最高学年を支える中一・中二の存在感が非常に大きかった感じがしました。正直、自分が沼にハマった2018年度は、中三の3人の存在感と一つ一つの舞台にかける3人の想いの強さ、そこから生まれるドラマに目を奪われて、当時の中一・中二のパフォーマンスや成長にあまり目がいかなかったのですけど、今年度は、中三の4人が非常に安定感があるために、逆に、中二・中一のパフォーマンスの成長やそこに生まれるドラマが際立って見える気がしました。2月からの卒業公演に向けての準備期間でもある12月のライブということもあって、余計に下級生の成長が目立ったのかもしれない。ダンスの存在感と美しさが際立ってきた田中さん、パフォーマンスの鬼気迫る全力感に凄みさえ感じた佐藤さん、安定感で全体のパフォーマンスの軸になってきた八木さん、抜群の表現力で間違いなく舞台の核を作っていた戸髙さん、中三を向こうに回してけっして引けをとらない個性と存在感を示した野中さん、白鳥さん。この人たちが、10周年のさくら学院を作っていくんだなぁ、と改めて実感させてくれるパフォーマンスだったと思います。

「マシュマロ色の君と」「未完成シルエット」「キラメキの雫」あたりを見てると、なんだか、さくら学院って歌舞伎みたいだなぁって思う。歌舞伎も、「亡くなった勘三郎の当たり役だったあの役を勘九郎がしっかり引き継いでる」みたいなのがあるじゃないですか。なんかそんな感じなんですよね。それぞれの楽曲のソロパートを先輩から引き継いで、引き継ぎながら自分なりの色や工夫を加えてその年度の楽曲として完成させていく。引き継ぐことで失われる個性もあるけど、新しく付け加えられる解釈や個性もあり、積み重ねていくから磨かれる完成度もある。「未完成シルエット」の「バイバイ」のソロを麻生さんから有友さんが引き継いでいる所とか、ソロダンスを有友さんから八木さんが引き継いでいる所とか、もう見るだけで胸がいっぱいになる。勘九郎の二人の息子が二人桃太郎やってる姿に、勘九郎七之助が同じ演目で歌舞伎デビューした姿が重なるのと同じ構図だったりするんだよなぁ。

藤平さんのKANOMETALとしてのMステデビューやonefive爆誕などもあって、さくら学院としても本当に盛りだくさんだった2019年、来年はいよいよ10周年の年。400年以上の歴史を持つ歌舞伎と比べちゃいけないかもしれないけど、10年間積み重ねてきた歴史を踏まえて、どんな伝説が生まれるのか、今から本当に楽しみです。

シャンソン・フランセーズ9「ジュテーム!」~変化するからレパートリーになるんだよね~

年末のこの一週間、3つのライブ現場(一つはライブビューイング)に参戦するという充実の一週間でございました。今日はその感想を一気に書こうと思います。しかし「参戦」という単語を使うあたりがドルオタっぽくて非常に嫌な感じですね。他にいい単語が浮かばないんだよなぁ。困ったもんだなぁ。

ということで、まずは、12月26日に浜離宮朝日ホールで開催された、東京室内歌劇場創立50周年記念FESTIVALの感想。お目当てだったシャンソン・フランセーズ9「ジュテーム!」の感想を書きます。

今年で創立50周年を迎えた東京室内歌劇場。女房が編集を務めた50周年記念誌の発行を含め、先日めでたく完結した青島広志先生監修の「東京室内歌劇場の歩み」などのイベントが企画され、上演されてきました。今回のフェスティバルはその締めくくりということで、東京室内歌劇場が取り組んできた様々な企画の中から、6つの企画を選び出し、浜離宮ホールを一日借り切って次々に上演していく、という、なんとも盛りだくさんな催し。私は、日本歌曲、シャンソンオペレッタ、という3つのコンサートが行われた昼の部に参戦してきました。(だからその単語を使うなと)

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シャンソン・フランセーズは、ピアニストの田中知子さんがプロデュースしている東京室内歌劇場の人気企画なんですが、ももクロの大ファンである田中さんらしいエンターテイメント性あふれた舞台が特色で、お笑いあり涙あり、派手な照明演出あり着ぐるみあり、という、何でもありの昭和歌謡ショウのような構成が毎回楽しみなんです。なんですが・・・今回は40分の短縮版。しかも会場は浜離宮ホール、ということで、いつもの渋谷伝承ホールのような仕掛けが組めない。字幕が準備できないし、照明はシンプルな明暗だけで、伝承ホールで必ず使っていたミラーボールもない、挙句に「特別清掃が必要になるので、ラメ・スパンコール入りの衣装はご遠慮ください」とまで言われたそうで、この制約の中で、どう客席を楽しませてくれるのか、ある意味楽しみでもあり、ちょっと不安でもあり、という思いで開演を待ちました。

まぁでも、ふたを開けてみれば、字幕のない所は日本語訳詞で補い、短い時間の中で衣装をくるくる変えて(もちろん着ぐるみもあり)華やかさを生み出し、定番のお笑いナンバー、富永美樹さんのアイドルコロラトゥーラ、シリアス曲、橋本美香さんの演歌、昭和歌謡曲とジェットコースターのような振れ幅の大きさで、全然飽きの来ない40分。終わってしまえば、充実感もあり、あれ、もう終わっちゃったの、という次への期待感もある、さすがの舞台に仕上がっていました。

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居並ぶだけでケレン味たっぷりでしょ。

今回は、関定子さんが歌った「夜明けの歌」(圧巻!)以外は、全て過去のシャンソン・フランセーズで取り上げたレパートリーで、そういう意味でも、鉄板のレパートリーを持っているってのは強いんだなぁ、と思いました。その曲をどう歌えばお客様に受けるか、しっかり分かっている曲を持っている、というのはこのシリーズの強みで、だからある程度場所を選ばずプログラムが組めるんだよね。

でももちろん、同じレパートリーを続けてやっていると、お客様の方にも演じる側にも一種マンネリ感が出てくる。そういう意味では、以前、伝承ホールでやった時には全編フランス語で演じられた、田辺いづみさんの「アコーディオン弾き」や、大津佐知子の「私の神様」を、今回、全部ないし一部日本語訳詞で歌った、というのは、字幕がないという制約を逆手に取って、曲の新しい生々しい魅力を客席に届けることができた新しい試みだったような気がします。笑いと涙を織り交ぜるこの企画の中では、どちらもシリアス部分、というか、「涙」の部分を担当する曲なんですけど、日本語訳詞で歌われることで、シャンソンというジャンルの持っている「市井の人々の人生を歌う」という性格、地に足着いた生活感というか、生々しさが結構しっかり出た気がする。若干手前味噌になりますけど、「私の神様」では、日本語の部分でもフランス語の部分でも涙が出ました。

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「私の神様」の衣装。すっかり自分のレパートリーになりましたね。

笑い、というのは人の心の防御壁を下げるので、「辻馬車」のようなコミックソングで無防備になった所に、ずどん、と泣ける曲を持ってこられると、本当に心の一番深い所にまでぐさっと突き刺さってきてしまう。田中さんの構成はいつもそういうメリハリが効いていて、すごく上質の人情喜劇を見た時みたいな充実感があるんです。でもそういうメリハリをしっかりつけるには、それぞれの舞台の条件や演じる側の変化に合わせた色んな工夫の積み重ねが必要で、定番のレパートリーを少しずつ変化させていくことで、一番お客様の心に届く表現を模索し続けていく努力が不可欠なんだよね。レパートリーを持っていることの強みと、そのレパートリーを磨いていくための努力の大切さ、みたいなことをちょっと思った舞台でした。

 

伝えたい気持ちがどれだけ真剣か

先日、埼玉スーパーアリーナ(SSA)で開催された、BABYMETALの、METAL GALAXY WORLD TOUR IN JAPANの二日目に参戦。BABYMETALの現場からはYUI-METALの卒業と共に卒業したつもりだったんですが、鞘師里保岡崎百々子藤平華乃という、BABYMETALの伝説を作り上げたピースの中から選ばれたAvengersの参入と、最新アルバムMETAL GALAXYの余りのエモさに完全にノックアウトされてしまって、たまらず現場復帰してしまいました。そりゃあ無茶苦茶ぶち上がったんですけど、今日はあまりそのステージの感想を書くつもりはなくて、自分の身近にあるオペラ舞台表現とかも含めて、ちょっと雑感を書きたいと思っています。

BABYMETALは、アイドルとメタルの融合という新しいコンセプトのもと、あんなのメタルじゃない等の様々なバッシングを受けながら、過去の常識への挑戦を続けている自分たちの闘いを、「METAL RESISTANCE」として物語化してきました。周囲の無理解との闘いやくじけそうな自分、共に闘う仲間との絆、という物語を熱く歌う、というのが前作までのコンセプトで、それはそれである意味、彼ら自身のリアル世界での挑戦や成果とシンクロして、非常にエモーショナルな物語世界を作り上げていた。

でも、新作のMETAL GALAXYでは、はっきり明示されているわけではないものの、志半ばにして、新しい道、別の夢へ舵を切ったかつての仲間への応援歌に聞こえる曲が沢山あって、それがこのアルバムのエモさを増幅している。「Brand New Day」「Distortion」「Shine」「Arkadia」あたりの曲がどうしてもそう聞こえてしまうファンは私だけじゃない。それらの曲は間違いなく、グループを卒業したYUI-METALへの応援歌であったり、「星を見に行く」と言って事故死した早逝の天才ギタリスト、小神こと藤岡幹大さんへの追悼歌として聞こえてしまう。Arkadiaの一部の英語歌詞が、「YUI-CHAN BE AMBITIOUS!」と聞こえる、というツイートが流れるなど、過去のBABYMETALを知る人には、BABYMETALを続けていくんだという二人の強い決意と、新しい道を歩み出したYUI-METALに対して、その挑戦を見守る優しさを見て涙してしまう人がたくさんいる。

多分、表現しているSU-METALやMOA-METALも、そういう物語を意識せざるを得ないと思うんだね。そして逆に、伝えたいメッセージが抽象的概念的なのではなくて、「かつての仲間」という具体的な「伝えたい相手」を得たことによって、間違いなく彼らの表現自体が説得力や凄みを増している感覚がある。METAL GALAXYというアルバムの持っている圧倒的な説得力が、SU-METALやMOA-METALのYUI-METALへの強い思いに支えられている、というのは多分間違ってないと思うんです。

自分も舞台をやるので何となく分かるんだけど、舞台上で表現する時に、きちんと客席のお客様一人一人に何かを伝えよう、と思って表現するのと、自分の中だけで表現が閉じてしまう時とでは、説得力が全然変わってくるんですよね。伝えるメッセージによって、相手の心に何かを与えよう、何かしら、相手の気持ちや行動に変化を与えたいと思いながら伝える表現は、やっぱりパワーが違うし、その相手が具体的な「誰か」である場合の説得力は全然違う。客席に何も届けるものがなく、ただ楽譜をなぞって、楽譜通りに歌えるスゴイ私を見てちょうだい、という自己顕示欲で完結している歌い手なんかいっぱいいるし、そういう表現は確実に客席を冷めさせるんです。

そしてそのメッセージの力は物語を別のステージへと高めていく。METAL GALAXYというアルバムに込められた、ある意味「極私的」「個人的」な思いに支えられた変革や前進へのメッセージが、突然普遍的な意味を持った瞬間。それが、BABYMETALが香港の野外音楽フェス、Clockenflapに参加する、というニュースだったんです。このニュースが公表された時、既に香港は大規模な抗議活動の只中にあって、その中でフェスへの参加を決めたBABYMETALには結構驚きの声も上がった。でも、抗議活動が激化し、学生達の行動がどんどん命がけのそれへと変化していくにつれて、BABYMETALの歌のメッセージが香港の人たちに与える影響を危惧する声がどんどん増えていった。だってねぇ、BABYMETALの代表曲なんて、タイトルが「Road of Resistance」ですよ。最新アルバムの終曲「Arkadia」の以下のような歌詞が、今の香港の空に響いたら、本当に何が起こるか予想もつかない。

 

光より速く 鋼より強く
使命の道に怖れなく
どれほどの闇が覆い尽くそうと
信じたこの道を歩こう

For your dream, for your faith, for your life
動き始めた時代の歌は夢に響き合う
今 no more tears, no more pain, no more cry
あの誓いの大地へ 遥か遠くへ
輝き放つアルカディア

 

この歌が今の香港で歌われたなら、極私的なメッセージはいきなり普遍的なメッセージになる。そして多分BABYMETALの二人は、今の香港だからこそ、自分たちが行ってこの歌を歌わねば、と思ったかもしれないって想像するんです。あの子たちは、音楽の持つ力、自分たちの歌の持つ力を信じているから。例えそれがどれだけ危険なことであっても。アンチファンが、ステージを無茶苦茶にしてやるとツイッターに投稿していたソニスフィアの舞台に立ったあの二人だから。

Clockenflapはあまりの抗議活動の激しさに結局フェス自体が開催中止となり、BABYMETALの二人やAvengersが危険な目に会うことが避けられて、ファンの一人としては本当に胸をなでおろしたのだけど、でも、二人の思いや、何より二人の歌を心待ちにしていた香港のファンのことを思うと、なんともやるせない気持ちもある。SSAでのパフォーマンスが最高に盛り上がったのには、香港の人たちに届けようというメンバーの思いもあったのかも、とも思ったりします。

音楽含めて、芸術表現には、人の心を変える、動かす力がある。そういう表現は時に、命がけの真剣勝負になる。BABYMETALの歌には、聞く人、見る人に思いを届けよう、というそういう真剣さがみなぎっていて、同じ舞台表現に少しだけ関わっている者として、なんだか背筋が伸びるような思いがするんです。全然違う話だけど、愛知トリエンナーレの騒動がものすごく浅薄に見えてしまうのは、企画者の側に、自分の命が危険にさらされようと、この表現によってこの世界を変えねばならない、という真剣さではなくて、単なる売名目的の覚悟の無さが透けて見えるからなんだよね。表現者として立つからには、人に伝えるのだ、人を変えるのだ、人を動かすのだ、その結果を全て、自分の身体で受け止めるのだ、という覚悟を持たねば。

シャンソン・フランセーズ8~バランス感覚なんだなぁ~

昨日、渋谷の伝承ホールで開催された、東京室内歌劇場コンサート、シャンソン・フランセーズ8、「イストワール」を見てきました。今日はその感想を。とにかくバランスがものすごくよくて、過去のシャンソン・フランセーズの中でも出色の舞台だったのでは、と思います。

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第八回目の今回は、「イストワール」(歴史)というタイトルのもとで、パリの歴史をたどりつつ、そのパリが経てきた時間を象徴するノートルダム寺院の火災からの復興を祈る第一部と、最近鬼籍に入ったフランスシャンソン界の巨匠たちを偲ぶ第二部、という構成。どちらもテーマ的には、ちょっと重たい感じ。冒頭、シンセサイザーで重厚に演奏されたフォーレのレクイエムから始まって、田辺いづみさんが歌われた「ミゼリコルド」が、重苦しい鐘の音と共に、歴史に翻弄される人生の悲惨とつかの間の光を歌い始めた時から、今回はこういう空気感で行くのかなぁ、とちょっと身構える。

でも、テーマが重くても、耳になじみのある曲を入れたり、シャンソン・フランセーズ定番のコミックソングで客席を爆笑させたり、という変化に富んだプログラムで、客席までどんよりと沈んでいく感覚がしない。「ミゼリコルド」が重厚で宗教的な曲調の中に突然小唄風の軽い調べが現れるように、ユダヤの迫害が重く歌われたあとに、リベルタンゴが自由を歌い、辻馬車がフランス流の諧謔を歌ったりする。このプログラムの自在な感じ、バランス感覚が本当に素晴らしい。特に、フランシス・レイミシェル・ルグランなどの耳になじみのある有名曲と、プロデューサーの田中知子さんが傾倒している昭和歌謡の名曲やコミックソングで構成された第二部は、次に何が出てくるんだろう、という高揚感で、最後まで本当にワクワクしっぱなしでした。そういう楽しみ方がしたくて、今回あえて、パンフレットに書かれたプログラムを見ずに舞台を見ていたのもよかったのかもしれませんが。

第一部のラストの三橋千鶴さんの「愛の讃歌」と、第二部のラストの和田ひできさんの「愛の閃く時」、そしてフィナーレの「生きる時代」が、テーマに沿ったメッセージ性の強い歌で、客席で涙するお客様がすごく多かったのだけど、でも多分、テーマに沿った曲だけを並べて、これでもか、と歌い連ねても、お客様の心に届いてこないんだよね。押すばっかりじゃなくて、ちょっとすっと引いたところから、急にバズン、と直球を投げ込まれると、笑いで無防備になった心の真ん中に、どすん、と響いてくる、そんな感じ。ちょっと昔の中島みゆきさんのオールナイトニッポンの、散々笑わせた後で、番組の最後に、ずしん、と重たいメッセージをぶつけてくる感じを思い出したりして。

過去のシャンソン・フランセーズからずっと続いている気がするんですけど、すごく真面目に言いたいことがあるんだけど、ちょっと照れ臭くって笑いにごまかしてしまう、みたいな、なんとも人間臭い感じがこのシリーズにはあって、そこがもの凄く好きなんですよね。今回のプログラムで、そういうちょっと「すかした感じ」みたいな感覚が、個人的にクリーンヒットしたのが「甘いささやき」。オリジナルは、女性歌手が一人で歌う曲に、アランドロンがたまらなく甘いセリフをささやき続ける、という曲なのだけど、今回の舞台では、この女性歌手のパートを二人の女性で歌い分ける、という構成になっていて、愛の誓いの言葉をつぶやく男の甘いセリフが、さっきまでこの人に言ってたのと同じセリフを別の人に言う、という形になって、一気にうさん臭くなっちゃって大笑い。元の歌詞も、「むなしい言葉ばっかり並べるんじゃないわよ」という歌なので、そのメッセージが笑いと共に強調された感じ。

メッセージをしっかり客席に届ける上で、笑いってのが大事、としても、なかなか本当に笑えるようにパフォーマンスを「やり切る」のって大変なんだけど、その点でも今回の歌い手たちは素晴らしかったです。コミックソングからぱっと華やかなヒットソング、昭和歌謡からがっつり本気のシャンソンまで、バラエティに富んだプログラムを、どの曲も一つも手を抜かずに、見せ方まで含めてがっつり「やり切っている」感じがすごくよかった。オペラ歌手と言われる人たちには、自分に言い訳しながら歌ってるのがはっきり見えて客席が白けてしまう歌い手も結構いるんだけど、今回そういう歌い手は一人もいなくて、どの曲にも全力投球。だから、余計にプログラムのバランスの良さやメッセージがしっかりこっちに伝わってくる。

あとは、アンサンブルのバランスがとてもよかったです。こういう演奏会だと、歌い手の皆さんが忙しい中で練習時間を調整して本番を迎えるので、全員でのアンサンブルがかなり悲惨な出来になることが結構あるのだけど、今回は全員合唱のアンサンブルのハーモニーががっつり決まっていてそこも素晴らしかった。

前回この日記で、舞台表現に対して愚直に真摯に取り組むことの大切さ、みたいなことを書きましたけど、今回の舞台では、自分がやりたいこと、伝えたいことをお客様に伝えるために、どこかで自分のやっていることを客観的に分析する冷静さと、何よりバランス感覚が大事なんだなぁ、というのをすごく感じました。

二番目に言いたいことしか言えないから、歌を歌ったり絵を描いたりするんだ、という星野富弘さんの詩がありましたけど、実は逆で、一番目に言いたいことをはっきりそのまま言っちゃったら、意外と人にはちゃんと伝わらないのかもしれない。だから僕らは歌を歌うのかもしれないね。その方が、一番言いたいことがしっかり伝わるのかも。そんなことをちょっと考えたりしました。

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出演者全員集合写真。田中知子さんのFACEBOOKから、ご本人のご了解をいただいて転載。皆様お疲れさまでした。女房がまたまたお世話になりました。時間を忘れて、時間についてしっかり考えることのできた素敵な時間を、ありがとうございました。

ああ夢の街浅草!~舞台表現者として愚直であること~

今日は先日、10月23日に、浅草東洋館で初日を迎えた、東京室内歌劇場ロングラン公演、「浅草オペラ102年記念、歌と活弁士で誘う ああ夢の街 浅草!」の感想を書きます。でも、最初にお断りしておきますが、感想というより、ほぼ100パーセント身内のことしか書きません。身内ってのは、うちの女房なんですがね。ノロケじゃなくって、至極真面目に、舞台に対する態度とか気構えとか、物凄く試行錯誤しながらモノを作っていく覚悟とか、やっぱりこうじゃなきゃホンモノ感って生まれないんだよなぁってのを客席にいてもシミジミ感じちゃったので、そのあたりをつらつらと。まぁノロケと思って読んでいただいてもいいんですけど、私もアマチュアとはいえ、やはり舞台に立つ機会のある人間として、凄く教えられた部分が多かったんです。なので今日は、オペラ歌手、大津佐知子という人のパフォーマンスへの感想を中心に書いていこうと思います。

この企画、2017年に浅草オペラ100周年を記念して企画されたロングラン公演の再演となります。102年前の浅草を熱狂させた浅草オペラの、大衆的でありながら真摯に聴衆のニーズと芸術の高みの融合点を目指した革新性と、そこから生み出された、今聴いても新鮮な名曲の数々を、活弁士のガイドで辿っていく企画。そして、今回の再演の一つの目玉になっているのが、公演のラストに演じられる「浅草オペラ版 椿姫」。これが本家本元の「椿姫」とは似ても似つかぬ、浅草のカオスな空気をダシ汁に、都都逸デカンショ節、ラップ、謎のコントからタンゴ、そして本家「椿姫」の本格的アリアまでぶっ込んでぐたぐたに煮込んだ天才山田武彦先生の問題作。大津はこれのプリマ、花魁小町を演じました。

恐ろしいことに、この「椿姫」のプリマは、都都逸をうなるだけじゃなく、元祖椿姫のアリア、「乾杯の歌」「そはかの人か」も歌い、タンゴを踊り、手紙を読みながら泣き崩れ、コスプレ看護婦さんにお尻に注射された上に、最後には有名なアリア「花から花へ」の最高音(ハイEs・・・五線譜の中の一番上のミの音の2オクターブ上のミのフラット)を決めないといけない。それも公演の前半にはアンサンブルとして歌ったり踊ったりした後に。いくらなんでも盛り過ぎだろ、と思うかもしれないけど、先日、さくら学院の舞台の感想にも書いた通りで、浅草レビューを支えたパフォーマーは、歌も芝居もコントもなんでもできたんですよね。そういう人達が支えた浅草オペラを再現するには、演じる側も何でもできなきゃいけない。

元々大津という歌い手は、学生時代に世阿弥を研究したこともあって、歌舞伎や能などの日本古典芸能には造詣が深いんですが、それでも、知識として知っているのとそれを舞台上で演じるのは全く別の話。山田先生に教えてもらった、古賀政男の三味線を伴奏に美空ひばりが歌う都都逸の動画を聞きこんだり(この古賀政男さんの三味線も、美空ひばりさんの都都逸も絶品!)、毎日のように家の中で、「あたしゃ白身で、君を抱く~」などとずっと鼻歌で歌ってました。でもその都都逸の発声ポジションにこだわってしまうと、オペラのアリアが歌えなくなるリスクもある。共通する共鳴場所をうまく探りながら、都都逸も十二分にそれっぽく、そして、ラストのハイEsも見事に決めていました。

もう一つ、大津のパフォーマンスで感心したのが、舞台の立ち姿。アンサンブルで出てきた時にも、なぜか立ち姿が決まっている感じがあって、何が違うのかな、と思ったら、肩から二の腕の位置関係が他の歌い手さんと違うんです。基本的に肘が肩の位置よりも少し後ろにあって、脇腹にべったりついていなくて適度に間隔をあけている。少し翼を広げた鳥のようなフォーム。なので上体が広く見えて、立ち姿のバランスがいい。

本人に聞けば、「それは舞台上での立ち姿の基本でしょう」と言うのだけど、その基本ができていない歌い手なんかいっぱいいますからね。今回の舞台では、専属のヘアメイクもメイク担当の方もいらっしゃらないし、衣装担当もいないから、全部自前。ショートヘアにつけ毛で大正モダンガールっぽい髪形を作ったり、前半のアールデコアールヌーボーっぽいドレスや花魁小町の和装っぽい衣装まで全部自前で、ああでもないこうでもないと試行錯誤を重ねていました。そのかいもあって、決して身びいきではなく、本家「椿姫」でもない、歌舞伎の花魁でもない、浅草大衆芸能のカオスの生んだ歌姫、としかいいようがないような、怪しい椿姫が見事に表現されていたと思います。

でもね、多分102年前の浅草オペラってのも、まさにそういう「なんでも自分1人でこなしちゃう」プリマたちが競演していたんじゃないかなって思うんです。どうやれば西洋のオペラの興奮が日本人に受け入れられるか、色んな実験の中で化学反応のように生まれてきた浅草オペラが、関東大震災を経て衰退した後も、浅草レビューから戦後のテレビバラエティ番組にまで強烈な影響を与え続けたのは、当時の作り手が、どうやったらお客様が楽しんでくれるか、舞台上で自分を美しく、面白く、そして芸術的に見せられるか、というのを必死に自己プロデュースしていった熱意があったからじゃないのかと。普通の「オペラ歌手」なら尻込みしそうなてんこ盛りの作品に、愚直に真摯に向き合っている大津のパフォーマンスを見ていると、いわゆるオペラ歌手って言われてる人って、なんだか舞台に対して甘えていませんか?って言いたくなったりもする。高尚な芸術を学んで、色んな外国語を操って、色んな場所で「先生」と呼ばれているうちに、舞台上でどう自分を見せるか、お客様をどう楽しませるか、という、パフォーマーとして一番大事なことをおざなりにしちゃいませんかって。

まだ小中学生なのに、厳しい競争の中でプロ意識を持って、一つ一つのパフォーマンスに全身全霊でぶつかっているさくら学院の舞台を見た直後だったので余計に、今回の浅草オペラの舞台では、舞台に対してどれだけ真摯に愚直に向き合っているか、パフォーマーの本気度が如実に見えた気がしました。正直、かなり甘いんじゃないの、と思えるパフォーマンスに対しても、「先生、素敵だったわぁ」と声をかけている年齢の高いおじさんおばさん達も結構多くて、客もよくないのかもなぁ、とも思うけどね。でも、大津の真摯なパフォーマンスは、しっかり客席に届いたみたいで、終演後、全然知らないお客様たちから、沢山お褒めの言葉をいただいたそうです。舞台に立つ表現者である以上、自分の学歴だの、教育者としての副業だのそんなことは一切捨象して、もっと愚直に、真摯に、舞台上の自分の姿を見直した方がいい「オペラ歌手」はいっぱいいます。お客様の方もそこはシビアに見た方がいいと思うんだよね。

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