さくら学院祭2019~原石だから再現できる昭和歌謡バラエティの世界~

週末に開催されたさくら学院祭2019、19日(土)の公演舞台と、本日開催されたライブビューイング(20日(日)公演の収録)を見に行って、一応、二日間の公演のほぼ全容を見ることができました。学校だからこそのバラエティに富んだ舞台に、大正の浅草レビューから続く日本の舞台エンターテイメントの系譜や、懐かしの昭和歌謡バラエティ番組のワクワクを垣間見た気がしたので、そういう衒学的な感想を。例によって知ったかぶりの適当な書き飛ばし文ですので、あまり真剣に突っ込まないでくださいね。

さくら学院は「アイドルグループ」と名乗ってますが、実際には「芸能人育成機関」という側面が強い、という話はこの日記でもよく書いていて、生徒さんたちは、歌とダンスだけでなく、女優としての演技の勉強やバラエティの対応力など、芸能人として生きていくための色んなスキルを実戦的に学んでいます。毎年開催される「さくら学院祭」は、その学習成果の発表会という位置づけになるので、結果的に、寸劇やコント、「さくらデミー賞」という演技エチュードを見せるバラエティ的コーナーと、歌とダンスのパフォーマンスが混在する、という盛りだくさんの舞台になる。このおもちゃ箱的な構成を指して、「八時だよ全員集合」や、「ヤングオーオー!」のような昭和の懐かしい歌番組になぞらえる人がいて、すごく言いえて妙だな、と思った。

でも「八時だよ全員集合」の構成には元ネタがあって、もともとテレビの歌番組っていうのは、「シャボン玉ホリデー」や「夢で逢いましょう」の時代から、歌のコーナーとコントのコーナーやちょっとした小芝居のコーナーが混在して進行するものだったんですよね。そしてもっと乱暴なことを言えば、「シャボン玉ホリデー」「夢で逢いましょう」の原型は、大正時代の浅草オペラを源とする浅草レビューにまでさかのぼることができる。浅草レビューはさらに、パリのキャバレーのショウや、歌舞伎や狂言などの、「通し狂言」と「踊り=レビュー」をセットにする興行形式にもさかのぼれる。話がちょっと広がり過ぎてしまったので、ちょっと戻ろう。

「八時だよ全員集合」は、歌の間につなぎとして行われていたコントの部分を主役にして、歌をつなぎとして従属させた所が画期的で、「欽ドン」とか「俺たちひょうきん族」なども、コントを中心とする構成をそのまま引き継いだ「お笑いバラエティ番組」でした。一方で歌番組は、バラエティ要素を失って、ベストテンやミュージックステーションのようなライブだけを並べる歌専門の番組に特化していった。言ってみれば、歌とバラエティ、コントは引き裂かれてしまって、それぞれの専門番組になっていった、というのが流れだったのじゃないかなと。

でも、逆に言えば、その後に登場したニューミュージック系の歌手は、それ以前の歌手が必ずやっていた、「舞台上で演技をする」という必要性から逃れることができたんだよね。荒井由実さんや吉田拓郎さんが役者として演技する、なんてことあり得なかったわけだし。つまり、「歌手」と「役者」あるいは「コメディアン」の分業が明確になってくるわけで、芝居のできない歌手、歌の歌えない役者、というのもそれぞれの場所で活躍できるようになる。「シャボン玉ホリデー」の映像とか見ると、人気歌手と言われた方たちの達者なお芝居に驚くし、昔の歌番組の構成は、歌も歌えて芝居もできてコントもできる、ある意味万能芸能人のスキルに支えられていた。だからこそ、「SMAPSMAP」という番組が画期的だったわけで、あれはSMAPというグループが、歌も芝居もコントもバラエティもできる4人組だったからこそ成り立った、バラエティと歌のバランスのとれた番組だったんじゃないかな、と思います。そういえば初期のスマスマの木村拓哉さんのネタの一つが古畑任三郎だったな。関係あるのかな。あるわけないな。話を戻すぞ。

と、かなり回り道をしましたけど、やっとさくら学院祭に戻ってきますよ。さくら学院祭が、既に失われてしまった昭和の「歌謡バラエティ番組」の構成を再現できるのは、パフォーマーの生徒さんたちが、まだ歌手でもダンサーでも女優でもないダイヤの原石状態だからこそで、彼女たちはある意味何でもできるから。そして大手芸能事務所アミューズが全国のオーディションで選抜してきた小中学生の彼女達は、時に大人顔負けの高レベルの演技や歌やダンスを見せてくれる。昭和50年代から60年代くらいのテレビ番組にはまだ生き残っていた、次に何が出てくるんだろう、的なドキドキ感が、2000年以降に生まれた才能豊かな子供達によって、かなり高いクオリティで再現されるのが何だかすごい。他のアイドルさんの舞台を見たことがないのでなんとも言えないんですけど、芝居とレビューの二部構成のショウを見せている宝塚とか、同じようにお芝居と歌のショウの二部構成になっている一流の演歌歌手の舞台とか、歌もダンスも芝居もコントもできる方たちのライブでしか味わえないようなてんこ盛りのパフォーマンスを、商業ベースで毎年開催しているってのが本当にすごいなぁって思う。

もう一つ、さくら学院祭が昔のテレビ番組のワクワクを思い出させてくれるのが、これがライブだっていうことなんだよね。「八時だよ全員集合」も、生放送だからこそあのワクワク感が生まれていたと思うし。色々偉そうなこと並べた挙句に、結論は結局、さくら学院すげえ、ということだけかよ、と言われそうですけど、やっぱ色んな意味で、このシステムを作り上げ、それを支えているスタッフと生徒さん達って、凄いんじゃないかなぁって思うんですよ。

里見八犬伝~色々繋がって色々見れて~

今日は、中野ZEROで上演された舞台版「里見八犬伝」の感想を。以下、ネタバレ含みますので、未見の方はご注意ください。

例によって、さくら学院を昨年卒業した日髙麻鈴さんが出演する、ということで見に行ったんですが、意外に色んな気づきがあって面白かったです。実は今日は、お昼にこの「里見八犬伝」を見て、その足で神奈川芸術劇場さくら学院学院祭の一日目に行く、という推し事連チャン日だったんですが、学院祭の方はまだ二日目があるので、感想は後日アップしますね。

さて、「里見八犬伝」。さくら学院の卒業生の舞台を全部見に行っている猛者父兄ではないのですけど、日髙さんが「ぬい」を演じると聞いて、これは見に行かねば、と思ってしまったんですね。原作の「ぬい」は、自らの身を犠牲にして犬士の命を救い、産み落とした子が最強の犬士、犬江親兵衛になる、という、母性と慈悲のキャラクター。これを憑依型女優の日髙さんがどう演じるのか、というのがとても興味があったんです。

拝見した舞台は、原作を大きく改変していて、「ぬい」も原作の母性ではなく、兄の小文吾の戦う動機付けとなる可憐さと幼さと悲劇性が前面に出ていて、期待とは違ったのだけど、別の意味で日髙さんの魅力が十分発揮できるいい役だったと思いました。壮絶な殺陣が繰り広げられる殺伐とした舞台の上の、まさに一服の清涼剤。しかもラストに物語全体の救済者として登場する。登場場面は少ないけれど、とても印象的な役。

この舞台版「里見八犬伝」、東日本震災からの復興の祈りも込めて2012年に初演されてから、なんども再演されているそうで、実はうちの娘も見に行ったことがあるそうです。今回も客席はほとんど若い女性で占められていたのだけど、その大きな理由が、八犬士を演じるイケメン男優さんなのだね。ドラマや映画で活躍する若手のイケメン男優さん達が多いのだけど、2.5次元ミュージカルと特撮ヒーローの経験者が多いのもなるほどなぁ、と思う。さて、ここからかなり知ったかぶりの衒学的な文章が続きますよ。浅はかな知識で書き飛ばしてますから、あんまり厳しく突っ込まないでくださいね~。

2.5次元ミュージカルも、特撮ヒーローも、ものすごく肉体を酷使するアクション芝居が求められると思うんです。そして思い出してみれば、かつて特撮アクション番組に人材を供給していたのは、千葉真一の率いるJAC(ジャパン・アクション・クラブ)。そのJACと深いつながりを持っていたのがアクション映画の神様、深作欣二監督で、今回の里見八犬伝の舞台演出は・・・なんとそのご子息の深作健太さん。なんだか全部繋がっているよねぇ。

舞台版「里見八犬伝」も、深作欣二監督の映画版「里見八犬伝」と展開が似ていて、犬士たちの犠牲の上に生き残った薬師丸ひろ子真田広之が悪を倒す、という展開が、犬塚志乃だけが残る舞台版の展開と重なる。映画版ではあまりきちんと描かれていなかったそれぞれの犬士の葛藤が、舞台版ではしっかり描かれていて、深作欣二監督はこういう物語を描きたかったのかもなぁ、と思ったり。

さらに、死者の無念を呼び覚ますことで死者を蘇らせる、というあたりは、まさに同じ深作欣二監督の代表作の一つ「魔界転生」。ラスト、切っても切っても切り足りない、という感じで延々と続く殺陣のシーンは、どこか工藤栄一監督の映画を思わせて、昔の東映チャンバラ映画ってこうだったよなぁ、って思ってしまう。そして現代のチャンバラ役者の第一人者、山口馬木也さんが見事な演技と殺陣を見せるに至って、日本の時代劇がこういう形で若い役者さんたちに引き継がれていくんだなぁ、と、別の感慨も沸いてきました。

今回、私はさくら学院からこの舞台を知ったのですけど、同じように、2.5次元ミュージカルや特撮ヒーロー番組から、この舞台を知った人も多いと思うんですね。色んな入り口から、日本のエンターテイメント界が積み上げてきた、そして継承してきた伝統的な舞台表現に触れる人が増えるって、なんだか素敵なことだなぁって思う。さくら学院というのは、卒業生が様々なエンターテイメントの現場で活躍することで、色んな舞台表現の現場へと父兄さん達を連れて行ってくれる、一種のエントリーシステムとしても機能している。さくら学院が繋いでくれた新しい世界の先に、思ってもいなかった懐かしいチャンバラ映画の世界があって、なんだか嬉しくなってしまいました。日髙さん、素敵な出会いをありがとう。貴女の今後の活躍をずっと応援していきたいなって思います。

 

GAG第13回公演「My Home」~こういうカップリングができるのはGAGだけ!~

先週、9月7日(土)に、渋谷のl'atelierで、GAG(Galleria Actors Guild)の第13回公演を開催。長く続けてきた朗読シリーズ、「南の島のティオ」から、「帰りたくなかった二人」の朗読と、女房が歌うサミュエル・バーバーの歌曲「ノックスヴィル1915年の夏」の二本立て。会場をほぼ満席にしてくださったお客様と、濃密な時間を過ごすことができました。今日はその感想を。

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当日配布したパンフレットの表紙イラスト。

 

GAGは、女房と結婚する前に、二人芝居をやりたいね、と結成した二人きりの劇団で、音楽活動を舞台活動の中心にしている二人が、普通のお芝居や朗読などの別の舞台活動もやってみよう、と始めたユニット。全編の朗読上演を目指して続けている池澤夏樹さんの「南の島のティオ」の朗読シリーズは、今回で8話目になります。でも、今回お届けした、「帰りたくなかった二人」は、どうお客様にお話を伝えるか、かなり悩みました。とても地味な話で、特にドラマティックなことが起こるわけでもない。淡々と島の日常生活が描かれていく中で、人と土地の関係と繋がり、という重いテーマが、静かに語られるお話。実際、全編の中でも印象が薄くて、最初読んだ時には、そんなにお話に魅力を感じたわけじゃなかったんです。でも、2010年から、2年ほどの米国赴任を経て、改めて自分の生まれた土地、住む土地、それぞれの土地と人とのつながりを再認識した時、このお話のテーマが二人の中で、すとんと腹落ちした感覚がありました。

 

舞台に仕上げる前のお稽古は、演出家の女房と、朗読をする私が差し向いで練習します。ほとんど落語のお師匠とお弟子さんのような感じ。これを自宅でやるので家庭内の空気が大変居心地悪いものになるんですが、そこで随分詰めたのは、声の色を作らない、ということでした。朗読者としては、登場人物の台詞ごとに、そのキャラクターを演じようとしてしまうんですが、特に女性の台詞を喋る時、声を作りすぎてしまって、語られている中身が伝わらなくなってしまうんですね。

 

「『色んな声色でキャラクターを演じ分けられるSingさんってすごいですね』って言われるだけで終わっちゃうと、この話が伝えたいテーマが伝わらなくなっちゃうから」と女房にダメ出しされて、もっと平らかに、変な色をつけないように、声の色や語りのテンポ感、音程などを検証して、試して、修正して、を繰り返しました。でもそうやって声の色を変えずに、書かれている言葉に真っ直ぐ相対すると、逆に、一人一人の登場人物の言葉の底にあるキャラクターが見えてくる感覚があった。自分の声の表現力をアピールするのではない、この物語の中に生きている人たちの言いたいことを伝えるのが、朗読者のやるべきこと。

 

本番舞台では、長谷部和也さんのイラストや、女房の選曲したBGMなどの力もあって、面白かった、と言ってくださったお客様や「いい声ですねぇ」とほめてくださった方も多かったんですけど、やっぱり最後まで集中していられないお客様も結構いらっしゃって、自分の力不足も痛感しました。小さな会場なので目の前でお客様に居眠りされるのはかなり辛いものがあります。そんな中で、「お話の持っている哲学的なテーマがすんなり胸に伝わってきました」とおっしゃって下さったお客様の言葉があって、その言葉が本当に嬉しかったです。

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「南の島のティオ」のシリーズにずっと付き合ってくれているイラストレーターの長谷部和也さんの作品。素敵でしょ?

 

第二部、女房の歌った「ノックスヴィル1915年の夏」では、自分は女房の訳詞による字幕スライド制作と開演前の解説MCを担当しました。サミュエル・バーバーという作曲家は、きちんと旋律のあるクラシックの手法で曲を書いた最後の現代作曲家で、この曲も、ピアノの前奏が奏でる主題がしみじみと美しく、その美しい主題が形を様々に変化させながらずっと流れていきます。その中で語られるのは、アメリカ南部の中堅都市で、ある家族が過ごす、黄昏時の何気ない情景。でもその中で、少年の心によぎる人生や人間に対する深い思索が語られる。「帰りたくなかった二人」を上演しよう、という話をした時、「この曲とカップリングで上演したい」と女房が持ってきた曲。

若干手前味噌になりますが、冒頭の曲解説のMCを喋っている時から、女房が書いてくれた解説文の力もあってか、お客様の心をしっかりつかめた感覚がありました。そこに、田中知子さんのキラキラしたピアノの前奏が流れると、一つの緊密な空気がうまく生まれて、7歳の少年になり切った女房のドラマティックな歌唱をしっかり支える土台を作れたかな、と思います。変拍子も多く、曲の変化も目まぐるしい20分近い大曲は、歌う方も伴奏する方も、実は字幕スライド映写の方も相当緊張感を持って臨んだんですが、曲の終盤には客席のあちらこちらですすり泣きの音が聞こえ、小さな会場だけに余計に、お客様と演者が一体になって最後のクライマックスに向かっていった感じがしました。

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みっしりと密度の濃い時間を作り上げることができました。

 

GAGというユニットを初めてもう13年。ほそぼそと続けてきた活動ですが、今回やってみて、こんなカップリングの公演を制作できる団体なんてなかなかないんじゃないかな、と自画自賛してみたりする。12年間、ティオの世界を描き続けてくれている長谷部和也さん、七色の音色のピアニスト田中知子さん、舞台スタッフとして現場を支えてくれた娘と同級生の2人、チーム名「インスペクターズ」、そして会場のl'atelierのスタッフさん。本当にありがとうございました。そして何より、ご来場いただきましたお客様、本当にありがとうございました。南の島と、アメリカ南部、という全然違う土地の物語が、東京の会場で一つになり、皆様が、自分にとっての「My Home」って、どこなんだろう、という問いかけを共有することができた、そんな時間になったのなら本当に嬉しいです。

この夏の物語、これまでの物語、これからの物語

今年の夏のさくら学院は本当にイベントラッシュで、ざっと並べてみても、

 

8月4日、TIFスカイステージ・ホットステージに出演

8月11日、公開授業、一五一会の授業

8月18日、ちゃおガールオーディションにゲスト出演

8月24日、スタンディングライブ、夏のミュージックアワー

 

と、毎週のようにイベントがありました。逆に9月になって、今週末は生徒さんたちに会えない、とロスにはまる父兄さんが続出する始末。これ以外にも、MOMOKO-METAL爆誕、森さんの軽妙な仕切りが楽しめたJFNPARKのラジオ配信、山出さんの安定の活躍、新谷さんのラジオ配信や、FACTORY GIRLSでの日髙さんのアンダースタディとしての活躍など、卒業生の活躍も報じられ、父兄にとって嬉しいニュースが続きました。

私自身は、公開授業の一時限目と、スタンディングライブの昼夜公演に参戦しましたが、そこで感じた印象や、TIFの映像などの印象をまとめると、この夏は、2019年度のさくら学院にとって、一つのチームとして絆を深める意味で大きなターニングポイントであり、そしてひょっとしたら、さくらの歴史の中でも、後から振り返って大きな転換点になったともいえる夏だったのかも、と思ったりします。

2016年度の「秋桜学園合唱部」の舞台、2017年度のアミューズフェスへの参加、そして、2018年度の学院祭の「時をかける新谷」の寸劇が、それぞれの年度のチームビルディングに大きな役割を果たしたように、さらに、その後のさくら学院の在り方や成長の方向性に大きな影響を与えたように、今年の夏のイベント、特にTIFとミュージックアワーは、このグループの今年度のチームを作り上げる意味でも、そしてこれからのさくら学院の道筋を示す意味でも、そして何より、これまでのさくら学院の紡いできた物語を継承する、という意味でも、大きな夏だったような気がします。まだ振り返るのは早くて、今年度には学院祭やRoad Toなどの大きなイベントがまだまだ待っているんですけど、それでもそう思ってしまうくらい、TIFとミュージックアワーの舞台には、色んな物語が詰まっていた気がします。

さくら学院というのは部活なので、毎年メンバーが入れ替わってしまう。「今年はいいよね、来年もあるから」という言葉が通用しない。今年度のメンバーでこの舞台に立てるのは一度きり。そういう気迫と、また再びこの舞台に立てた、という喜びが爆発していた感じのTIF。ステージの映像を見た感想だけで言うと、他のアイドルさん達やそのファンの方たちの視線もあり、新年度初の大きな舞台ということもあり、生徒さんたちはむしろ、お互いの笑顔を確かめ合ったり、お互いのアイコンタクトを多くしたりして、互いの絆を確かめながら、自分たちがどこまでできるのか測っているような感覚がありました。そして、またTIFに戻ってこれた、という充実感と笑顔。

そんなTIFで自分たちの可能性を確認した後に披露されたミュージックアワーでは、ここまでできる自分たちの力で、過去のさくら学院が積み上げてきた物語を歌い継いでいくのだ、そして超えていくのだ、という気概を強烈に感じました。何よりも、昼夜公演で披露された曲数の多さ。ざっと並べただけで、全16曲。これを4月から夏にかけての期間にここまで仕上げてくる集中力。

 

昼公演:

1.負けるな!青春ヒザコゾウ

2.Hana*Hana

3.Hallo!IVY

4.チャイム

5.ベリシュビッツ

6.島人ぬ宝(一期一会伴奏)

7.キラメキの雫

8.FRIENDS

9.message

E1 ミュージック・アワー

E2 君に届け

 

夜公演:

1.FLY AWAY

2.オトメゴコロ

3.チャイム

4.School days

5.Hana*Hana

6.島人ぬ宝

7.キラメキの雫

8.FRIENDS

9.Carry on

E1 ミュージックアワー

E2 夢に向かって

 

これまでのさくら学院が積み上げてきたものを歌い継いでいくのだ、乗り越えていくのだという気概を一番感じたのは、なんといっても夜公演で披露されたCarry onでした。2018年度の中三の表現力があったからこそ完成した、さくら学院の一つの到達点とも言えるこの楽曲に挑戦した2019年度の気迫。もちろん歌唱の表現力はまだまだ未熟な部分はあるけれど、それでも、2019年度中三のそんな想いを、中二や中一の伸び盛りの歌唱がしっかり支えて、夜公演のCarry onでは、私を含め、頬を濡らす父兄さん達が沢山いらっしゃいました。

小中学生の可能性や能力をあなどってはいけなくて、彼らに高いハードルを与えれば、想像以上の成長を見せてくれるもの。そういう意味で、この夏のイベントラッシュを経て、一番成長したのは中学一年・二年生の中堅メンバーなんじゃないかな、と思います。パワーを増した八木さん、安定感と外向きのエネルギーが迸り始めた田中さん、全体のシンクロ性を超えるキレ味のダンスと、安定した歌唱の戸髙さん、恵まれたシルエットと笑顔でダイナミックなダンスを見せる佐藤さん。そして、振りまく笑顔の魅力が半端ない白鳥さんと、楽曲の物語への表現意欲が半端ない野中さん。

この夏を経て、さくら学院の大切な伝統が、中学一年・二年の中堅メンバーに受け継がれたことで、次の10年に向かうこれからの物語への基礎が作られた、今年の夏はそんな意味合いを持っていたのかもしれない。この夏の物語は、これまでのさくら学院が積み重ねてきた物語の新章であり、これまでのさくら学院の物語を歌い継いでいこうという意思の物語であり、そしてその物語が、次の10年に続くこれからのさくら学院の物語へとつながっていく。Carry onの冒頭に流れる時計の音のように、受け継がれていくさくら学院という長い物語の大きな一章をじっくり味わえた、とても濃い夏でした。

府中青少年音楽祭~歌い継いでいくこと~

ちょっと遅くなってしまったのですけど、先週開催された、府中青少年音楽祭の感想を書きます。所属する合唱団麗鳴の一員として参加してきました。

合唱団麗鳴は、府中西高のOBOGが集って結成された、という経緯もあって、府中青少年音楽祭に、高校を卒業して、大人になっても合唱を続けている団体、という位置づけで毎年参加させてもらっています。同じように、府中四中のOBOGが結成している混声合唱団A.D.A(アデア)さんもいらっしゃるんですが、アデアさんと比較してもウチの団体の年寄りぶりが際立つ。アデアさんは、お兄さんお姉さん感があるんだけど、麗鳴あたりは完全に父兄さんと同年代か、それより上なんだよなぁ。

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こんな子供達が主役の音楽祭です。場違い感半端ない。

小中学校の合唱部、というのは本当に不思議で、よく訓練された歌える合唱団には、「中学生なのにここまでがっつり歌えるってすごい」という感動があるし、ベルカント歌唱がそれほど身についていない合唱団の、真っ直ぐな素直な歌声には無条件に心を揺さぶるものがある。結局どの合唱団の演奏にも感動してしまう。

以前にもこの日記で書いたのですけど、府中には、府中四中と府中西高という合唱名門校を中心に、合唱に対して熱心な学校が多いと思います。それが、大國魂神社で毎年開催される「くらやみ祭り」で、楽器を演奏して人前で踊る、という祝祭にあらゆる年齢層の市民が市を挙げて参加している、という土地柄が関係しているのかも、と以前の日記にも書きました。でも、それと合わせて、それぞれの団体の中で、この活動をつなげていこう、歌い継いでいこう、という意思の力のようなものを、今回は強く感じました。

今回、府中四中と府中西高でずっと合唱を続けていた、というお嬢さんが、麗鳴の演奏に参加してくださったのだけど、彼女は府中四中で後輩を指導しているんですね。府中西高の合唱部、というのも、OBOGの方々が、なんとか部のレベルを維持していこう、ということで、既に定年退職された櫛田豊先生が非常勤職員として指揮を続けてらっしゃる。多分そういう、先輩たちや周囲のスタッフの方たちの、伝統をつないでいきたい、という想いって、現役の学生さんたちもしっかり受け止めてるんじゃないかな、と思うんですよね。プレッシャーと言うマイナス面ももちろんあるとは思うけど、でも活動を続けて、演奏の質を上げていこうとする、一つの大きなモチベーションになっているとは思います。

学校卒業後に合唱をやめてしまう人が結構多い、というのは、そういう、「先輩から引き継いだものを歌い継がないと」という責任感やモチベーションが失われてしまって、個人で歌に向き合った時に、ある意味解放感のようなものがあって、「もういいや」と思ってしまう、というのも大きな要因の一つかもしれない、と思います。なんとか卒業後も合唱を続けてほしいな、という思いもあって、今回の演奏では、子供達に向かって、大人になってもこんなに歌を楽しめるんだよ、ということを一番に伝えたい、と思って練習してきました。演奏したのは、田中達也編曲の「情熱大陸」と、横山潤子作曲の「未確認飛行物体」。子供達もよく知っている曲だし、そういう曲を大人たちが、真剣に、でも楽しそうに歌っている姿を見せることで、やっぱり合唱っていいなぁ、続けたいなぁ、と思ってくれたら。

本番はそういう思いもあって、色々傷もありましたが、楽しいステージをお見せすることができたかも、と思います。参加していた子供たちが卒業した後、麗鳴に来てくれたら嬉しいなぁ。父兄さんでも大歓迎なんだけど。(結局団員募集が目的かよ)

クレド交響楽団 第2回演奏会~伝えるって本能なんだな~

はてなさんから、「ブログの更新が一か月滞ってますが、そろそろ更新しません?」なんて連絡が来ちゃいました。なにかしらインプットがあって、それに対して語りたくなった時に、このブログに文章書いているんですけど、ネタが溢れるほどあるオタク系のヨタ話は別のアカウントで語りまくっていて、このブログに書くネタが涸れてしまってるのが現状なんですよね。いきなり言い訳並べちゃってすみません。

で、今日は久しぶりに語りたいネタが出てきたので。昨日、第一生命ホールで開催された、クレド交響楽団の第二回演奏会の感想文。娘がチェロで参加したということで行ったのですけど、身内の演奏会というのを抜きにして、世代を超えて何かを継承したい、伝えたい、という人間の本能のような、芸術の本質的なものに触れたような、そんな感動的な演奏会でした。

もともと、慶應義塾高校のオーケストラ部のOBたちが、非常にカリスマ性のあった学生指揮者さんを中心に作り上げた大学生中心のオーケストラ。団員の中にはまだ高校生もいる、という非常に若々しいオケなのだけど、日本の学生オーケストラのトップ集団にいる慶應ワグネル・ソサィエティ・オケで頑張っているメンバーが主体、ということもあり、表現に対する十分な技術も備えています。そして何より感心したのが、第一生命ホールという立派なホールがほぼ満席だったこと。会場手配、練習調整、そしてチラシや公演ビデオの製作など、演奏本体だけでは収まらない演奏会というイベントをきちんと作り上げるプロデュース力が素晴らしい。高校時代の成功した演奏会の記憶が忘れられなくて、というパッションだけでは、これだけの演奏会を2回も開催するのは難しいと思います。それだけ、グループとしての実務能力というか、制作集団としても優秀なんだなぁ、と思いました。

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第一生命ホール、本当に綺麗でいいホールだよねぇ。

前プロとして演奏された、ドン・ジョヴァンニの序曲、真夏の夜の夢の序曲は、若々しいエネルギーに満ちた疾走感で、非常に好感の持てる演奏。生硬な音や未熟な技術が曲の精度を損ねている部分はもちろんあるんだけど、ただ若さに任せて力任せに乗り越えていくのではなくて、しっかり知的に課題を具体化してクリアしていったプロセスの成果として、この演奏がある、というような、整理された感覚があってそれがよかったです。部分部分がそれぞれの力に任せて全体が破綻してしまうことがなく、しっかり足並みを揃えながら全力疾走しているような感じ。

そして今回の演奏会の白眉は、なんといってもメインのブラームスのヴァイオリン協奏曲でした。指揮者の方のヴァイオリンの師匠、ということで、元パリ国立高等音楽院の教授で、現在昭和音大で指導をされているジェラール・プーレさんがソリストを務められたのですけど、このプーレさんと若いオケとの丁々発止が素晴らしかったんです。

プーレさんは御年81歳ということで、正直言えば、ソリストとしては、もっと指も動き、音量もある演奏者はいると思います。でもプーレさんの演奏は、一つ一つのフレーズがものすごく「歌う」。ブラームスの持つウィーン流の「歌心」に満ち溢れている。そして完ぺきな音程。決めるべき音が確実に決まっていく安定感。81歳の演奏とは思えない、瑞々しくて若々しい、実に艶っぽい演奏。

そのプーレさんに対する10代20代のオケの団員は、もうほとんどお孫さんの世代。そして、教育者ということもありますから、ソロを演奏しながらも、頻繁に指導者としての顔が出てくるんですよね。オケの演奏に合わせて少し体を揺らしながら、時折キーになる音節でその楽器の方にふっと視線を投げたり、小さなジェスチャーを見せてみたり、時折「いいねぇ」という感じでにこにこと頷いてみたり。ソロのカデンツァの間も、「ほら、このカデンツァはこう弾くんだよ」というのを全身で団員や指揮者に伝えながら、時々うなり声まで上げながらの情熱的な演奏。

 娘に後で聞くと、プーレさん自身の演奏が練習のたびに変化してきて、その変化についていこうとオケも必死だったそうです。おそらくプーレさんご自身、「このオケはここまでできるんだな」「じゃあこうしてもついてこれるかな」「ここまでやってもいけるかな」みたいなキャッチボールを楽しんでらっしゃたんじゃないかな、と思います。時折、指揮者と、ほとんどおでこを突き合わせるぐらいに密なコンタクトを取りながら、フレーズの息遣い、歌の流れにオケ全体をぐいぐい巻き込んでいく求心力。

自分の知識や技術を若い世代に継承していく、伝えていく情熱、パッション。そして、それに必死に食らいついていきながら、一期一会の濃厚な一瞬一瞬に、確実にプーレさんの息遣いを吸収して音が豊かになっていくオケの成長。見る見るうちに豊かに伸びやかに広がっていくオケの音の深み。なんだか、稀代の剣の名人が自分の秘伝を若い剣士に伝えている一世一代の真剣勝負に立ち会っているような気分で、何度となく鳥肌が立ちました。

でも、ここでプーレさんが一生懸命伝えようとしているのは、自分自身の自己主張じゃないんだよね。そこが音楽の凄いところで、伝えようとしているのは、ブラームスの作品の魅力と理解と、それを表現するための技術なんだ。そこに、エゴがない。自分はブラームスという芸術作品を後世に運ぶ器に過ぎない。そういう謙虚さ、ストイックさのようなものも、プーレさんの演奏にはあったような気がします。

芸術という永遠の価値を後世に伝えていかないとならない、という、音楽家の使命感のようなもの。DNAに刻まれた、時間を超えて後世に自分を伝えていこうとする、人間と言う生き物の持つ本能にもつながるような、何かしら非常に本質的な瞬間に立ちあえた、そんな稀有な経験でした。プーレさん、クレド交響楽団の皆さん、素晴らしい時間をありがとうございました。プーレさんから受け取った宝物、大切にしてくださいね。

歌に対するコンセンサス

この三連休の間に伺った二つの演奏会の感想文を。歌に対するコンセンサス、というか、共通認識、のようなものが、演奏のクオリティや聴衆の反応を左右する、というのをちょっと感じた演奏会でした。まずは、7月13日にトッパン・ホールで開催された、「山田武彦と東京室内歌劇場 Vol.4」から。

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終演後の全員写真を、出演者の女房からもらいました。

東京室内歌劇場の実力派歌手たちが揃い、山田武彦先生の編曲とピアノに合わせて、日本歌曲やオペラ、歌謡曲を歌う、というこの企画。圧巻は第二部の、「歌謡曲でほぼ日本縦断 そして寄り道」というパート。演奏された曲を並べてみますが、これをクラシック歌手ががっつりしたベルカントで歌う様子を想像しただけでワクワクしません?

 

知床旅情

イヨマンテの夜

柿の木坂の家

青い背広で

黄昏のビギン

愛燦々

蘇州夜曲

南の花嫁さん

古城

ふたりの大阪

こいさんのラブコール

宗右衛門町ブルース

長崎の鐘

 

聴衆の皆さんの年齢層が結構高かったこともあり、演奏の途中に客席から鼻歌が聞こえてきたり、お客様の心の真ん中にしっかり直球で届いた感じ。昭和歌謡をクラシック歌手ががっつり歌う、というのは、田中知子さんの「シャンソン・フランセーズ」にもある企画なんですけど、昭和歌謡が声楽的にもしっかり作られていることが改めて分かります。さらに、それを彩る山田武彦先生の自在なピアノと華やかな編曲もあいまって、昭和歌謡の新たな魅力を再発見した気分になりました。

面白かったのは、一つの曲に対して、会場全体が一種の「コンセンサス」のようなものを共有している感じがしたこと。知床旅情、という曲に対して、お客様の一人一人がそれぞれの個人史の中で色んな印象や感想を持っているのだろうけど、森繁久彌さんのあの歌い口ととぼけたキャラクター、あるいは、加藤登紀子さんの力の抜けた歌唱を、お客様のほとんどが知っている。そういう「コンセンサス」、もっと単純に言えば、「この曲知ってるわ」という気持ちが共有されているところに、綺麗なドレスを着たソプラノ歌手がベルカントでこの曲を歌うと、「あら、こうして聞いても、やっぱりこの曲、いい曲よねぇ」という、ちょっと別のステージから生まれる感動や発見がある。ポップスの世界でも、名曲のカバー、というのがありますけど、それを一期一会のライブ会場の生演奏で聴くと、余計に心身に沁みる感覚があります。「コンセンサス」を崩すことによって生まれる化学反応、とでも言うか。

そういう意味では、若干中途半端かな、と思ったのが、第一部の後半に演奏されたオペラ・オペレッタのアリアパートで、確かに演奏会の「品格」みたいなものを保つにはこういう本格的なクラシック曲もあっていいのだけど、客席側に少し「背筋を伸ばして」聞かないといけないかな、というような、ちょっと固い空気感が流れちゃったかな、という気がしました。同じオペラでも、山田武彦さんが手がけている浅草オペラのシリーズみたいに、それこそ、オペラと言うものに対する既成概念、一種の「コンセンサス」を崩してしまうようなアプローチであれば、全体の統一感もあったのかもしれないんですが。そういう意味では、カルメンの「ハバネラ」を客席でサービス精神たっぷりに歌った田辺いづみさんや、レハールの「メリーウィドウワルツ」をちょっとした小芝居でチャーミングに演じた吉田伸昭さん、大津佐知子のコンビは、山田先生流の遊び心あるパフォーマンスで、空気を和らげてくれました。しかし、「メリーウィドウワルツ」の小芝居は、本番直前に吉田さんが思いついてその場でアドリブで作った、という話を聞いて驚くやら呆れるやら。本当に自在な方。山田先生、吉田先生初め、共演者の皆様、女房が大変お世話になりました。昭和歌謡や日本のメロディーの魅力を、色彩豊かに届ける演奏会、次回が本当に楽しみです。

 

さて、もう一つの演奏会は、15日に新宿文化センターで開催された、大久保混声合唱団の第42回定期演奏会。女房が元団員で団内指揮者だったご縁で、私も何度か舞台の裏方をお手伝いさせていただいたこともある、伝統ある合唱団。昔古巣にしていた新宿文化センターに戻ってきて、しかも、辻秀幸先生が顧問としてバッハを振るという。これは聞かねば、と女房と新宿文化センター目指して出かける。

ところが、調布まで来たところで、京王線が人身事故で止まっちゃった。調布からタクシーで三鷹まで出て、なんて大回りを強いられて、第三ステージになんとか間に合いました。今麗鳴でやってる作品を作曲した横山潤子さんの編曲作品、聞きたかったんだけどなぁ。

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プログラムはこんな感じ。来年はオリンピックの真っただ中に、紀尾井ホールなんですね!

なんとか間に合った、第三ステージの「いのち」は、作曲家がピアニスト、ということもあって、ピアノ伴奏がキラキラしていて、ピアニストの村田智佳子さんの音色が本当に綺麗だった。演奏としては、少し全体の想いがまとまり切れていない、ちょっとあふれる思いが強すぎて、それこそ「コンセンサス」が得られていない感じがちょっとした。こちらの演奏会で感じたのも、「コンセンサス」という単語だったんですけど、それはどちらかというと、合唱団全体が作品に対する「コンセンサス」を共有している瞬間に、ふっと立ち昇る調和とか、会場全体を包み込む声の色のようなもので、第四ステージのバッハの演奏では、辻先生の職人芸的な指揮もあってか、がっちりした一体感を感じる瞬間が何度もありました。

一番そういう「コンセンサス」を感じたのは、アンコールで歌われたバッハのコラールと、「わたりどり」。特に「わたりどり」は、大久保混声がずっとアンコールピースとして歌い継いできた曲で、「この曲はこう歌う」という「コンセンサス」を団員全員が共有している感じがすごくしました。それを保守的、と言って嫌う人もいるかもしれないんだけど、数々の名演奏を世に送り出して、「この曲はこう歌うんだ」というスタンダードを作り続けてきた大久保混声だからこそ、確信を持って歌える歌い口のようなものがある。それが合唱団のサウンド、というか、受け継がれていく音色のようなものなんじゃないかな、と思います。メンバーはずいぶん入れ替わっても、何となく変わらない人間味あふれる声、やっぱりいい合唱団だなぁ、と思いました。大久保混声の皆様、素敵な時間をありがとうございました。

全く色合いの違う二つの演奏会を、「コンセンサス」という単語でまとめてみましたが、若干強引だったかな。でも、一つの言葉、一つの音を、複数の人たちが同じ思いを持って、「コンセンサス」を持って歌う時のパワーや魅力も捨てがたいし、一方で、ちょっとそれを崩すことで生まれる新しい魅力やというのも捨てがたいなぁ、と思った、充実の三連休でした。