カニバリズムについての娘との雑談まとめ

最近この日記は、舞台やコンサートを中心としたインプットに対する感想文がほとんどで、あまり自分の考えたことの発信とかしなくなっちゃったんですが、今回はちょっと久しぶりに、先日娘と雑談していてちょっと思ったことを。テーマが「カニバリズム(食人)」なので、ちょっとそういうのは弱い、という方はこの時点でご退出されることをお勧めします。

娘は大学で史学科に所属しているんですが、講義の資料として先生に配られたプリントに、18世紀欧州で流行した「旅行記文学」の最後に必ず現れた「食人族」のお話のイラストがあったんですって。本の挿絵で、人の足とかむさぼり食ってる食人族のイラストをA4に拡大したプリントで、娘は、「趣味が悪い」とおかんむりだったんだけど、その先生が言うには、このころの「旅行記文学」には、ほとんど必ずと言っていいほど「食人族」が登場して、当時の読者はそれをとても楽しんでいたそうな。

それを聞いて、それって一種の「キリスト文化の他文化に対する優位性」の表現かもね、という話をする。キリスト教に教化された西欧の人々は、神の恩寵を受けることによって、食人のような獣の風習から逃れ、「ヒト」として生きることができている、というような、ちょっと教訓も含まれた表現。そこでは、「食人」という風習が、「ヒト未満」の異人種の持つ特性として描かれることで、キリスト教世界と非キリスト教世界の間に明確なヒエラルキーを与えるための一つの記号として扱われていたのでは、と。

では日本は、と振り返ってみると、キリスト教のような明確なピラミッド構造を持たない精神世界を持つ日本において、かつて「食人」の特性を与えられたのは、山姥や鬼、といった「妖怪」たち、言い換えると、「ヒトならざるもの」だったよね、と。「ヒト」ではないものが「ヒト」を食うので、そこにあまりモラルが入り込む余地がない。もちろん、例えば上田秋成の「青頭巾」のように、もともと人であったものが人肉を知って「鬼」と化してしまう、という物語においては、「食人」が人外に堕ちるタブーとして描かれているので、多少はモラルの要素も含まれているのだけど、そこには悲劇性というより、この世界と地続きに存在していて、様々な妖しが棲む異界に対する怖れや畏敬、という、日本の「怪談」の持つ特性が現れている気がするなぁ、と。

でも、そういう日本における「食人」の物語が、人外の者の恐怖譚としてではなく、我々と同じ普通の「ヒト」が「ヒト」を食う、食わざるを得ない所に追い込まれる、という「悲劇」として描かれた時期があった気がしていて、それって私の子供の頃のような気がするんです。私の子供の頃、教科書にも載っていたような話としてよく聞かされたのが、江戸時代の天明の飢饉で東北が飢えに苦しんだ挙句に、死者の肉を食ったという話で、そこには普通のヒトがヒトを食わねばならない悲劇としての「食人」が描かれていた。そこには、そこまでヒトを追い込んだ封建主義を「悪」として描くことで、戦後の民主主義の価値観を肯定する意図が隠れていたのかもしれないんですが、「食人」が、異教徒でもなく、妖怪でもなく、ごくごく普通の市井の人々が生き延びるための最後の手段として、大きな「悲劇」として描かれていた時期だった気がする。

同じような「普通なヒトが飢餓のためやむなく人肉を口にする」という物語は、オペラ「ひかりごけ」や、バリー・コリンズの戯曲「審判」などにも現れる。ここで物語の背景になっているのは、飢餓という極限状態を生み出す「戦争」という政治状況。そう考えると、「食人」を悲劇の物語にする一つの要因として、第二次世界大戦というのが大きな役割を果たしていたのじゃないかな、という気がしてくる。普通の市井の人々が前線に兵士として駆り出され、極限の飢餓の中で人肉を口にする、そういう悲劇が第二次大戦中には実際身近なこととして結構あったわけだし、戦後も同様な飢餓に直面していた人々にとっても、「食人」はタブーではあったけれど、そのタブーを越えてしまった人々の悲劇を、自分の身に引き寄せて共感できる素地があった時代なのじゃないかな、と。

民主主義の最大の発明である「国民皆兵」の結果として生まれた大規模な殲滅戦である近代戦争が、普通の市井の人々を極限状態に追い込み、「食人」のタブーを破らせるところまで追いつめた。その民主主義を肯定するために、「食人」を封建時代の悲劇として掲載した戦後教科書って、なんだかねじれてますねぇ、とも思うけど、現在の飽食の日本における「食人」は、「東京喰種」にせよ「寄生獣」にせよ「進撃の巨人」にせよ、かつての山姥や鬼のような「ヒトならざるもの」がヒトを食う、本来の日本の物語世界が持っていた異界への畏れを表現する記号に戻ってきている気がします。その一歩前の所に、昨日までの友人が食人種と化してしまうジョージ・A・ロメロの生み出した「ゾンビ」という食人種の影響も加わって、親しい家族や友人が自分を食おうと襲ってくる、という悲劇性も加わってはいるけれど、それはあくまで食われる側の悲劇であって、食う側は「ヒト」としての属性を失っている。飢餓が「食人」の動機にならなくなった平和な飽食の日本において、「食人」は、むしろ現代社会の持つ様々な闇を表現する別の記号としての地位を持っているのかも、と思います。

なんか大学のレポートみたいになってしまいました。最近娘と大学のレポートの話結構するものだから、時々こういう話が膨らむんだよね。娘は、「会社辞めたら大学入りなおしてレポート書きまくれば」と言う。それも楽しそうだなぁ。