ニッセイオペラ「ヘンゼルとグレーテル」~音楽の意図を真っ直ぐ受け止めること~

6月16日の父の日、「父の日サービスだよ」と、女房が誘ってくれたのが、日生劇場で上演していたニッセイオペラ「ヘンゼルとグレーテル」。女房が以前、せんがわ劇場での「天国と地獄」で共演した小林大祐さんが出演されている、ということで、チケットを確保してくださったのだそうです。とにかく大好きなオペラなので、勇んで出かける。とりあえず、メインキャストだけご紹介しておきますと、

ヘンゼル:山下 裕賀
グレーテル:鵜木 絵里
父:小林 大祐
母:八木 寿子
魔女:伊藤 達人
眠りの精・露の精:照屋 篤紀

という布陣でした。

今回の演出舞台については、Youtubeにダイジェスト映像がアップされているので、雰囲気を知ることができます。

www.youtube.com

演出意図などについては、まだ地方公演が残っているようなので、あまり詳しくここでは書きませんが、大人と子供を全く別の生き物のようにくっきりと区別して描きながら、大人の世界が滅びゆく運命にある中で、子供の目にしか見えない様々な森の異形の生き物たちに導かれ、子供たち自身が、明るい未来の世界を自分たちの力で切り拓いていく、という、希望と夢に溢れた舞台でした。

この「ヘンゼルとグレーテル」は、ニューヨークに赴任していた頃、METの舞台でも見ているのですが、このMETの舞台は、この物語が避けがたく持っている「カニバリズム」の部分に焦点を当てて、世界を覆う富の偏在と、人が人を食う貧困の悲惨を、若干スプラッタ的に描いた舞台で、正直言って、あまり子供に見せたい舞台じゃなかった。でもね、このオペラに関して言えば、「子供に見せたいか」っていうのって結構キモだと思うんですよ。そもそもフンパーディンクは、このオペラの元になる曲を、妹さんの子供たちが歌う歌芝居の曲として書いたのですから、音楽そのものが、子供たちに何を伝えたいか、という観点で書かれている。そこをずらして大人のメッセージを加えてしまうと、音楽の意図からはずれてしまうんじゃないか、と思うんです。

オペラにおける演出の役割、という、いつもの議論なわけですけど、そういう意味では、広崎うらんさんの演出は、このオペラを見る子供たちに何を伝えようか、という、作曲家の意図をまっすぐ受け止めた上で、今の子供たちに伝えたい現代的なメッセージを付け加えた、とてもいい演出だったと思います。日生劇場らしく舞台装置も素晴らしく、生き物のようなお菓子の家も、ダンサーたちのファンタジックな衣装も最高でした。

音楽的には非常に難しいオペラで、分厚いオーケストラが歌い手の前に壁のように立ちはだかるんですよね。そのオーケストラを、あくまで流麗に、歌い手に寄り添った自然な演奏に仕上げていたのが、まだ芸大の学生さんだった頃に少しだけお世話になったことのある角田 鋼亮さん。本当に立派になられましたねぇ。チケットを手配してくださった小林大祐さんの、大きな身体なのに軽やかでコミカルな演技と確かな歌唱もとっても素敵でした。

小林さん以外のソリストの皆さんも本当に素晴らしかったのですが、やっぱりなんといっても魔女の伊藤達人さんのぶっ飛びぶりが凄かったですね。この魔女が、怖い中にどこかでキュートさがないと、本当にグロテスクなお話になってしまうのだけど、そういう意味では、振り切った衣装と演技、そして実は高度な歌唱テクニックで、素晴らしい見せ場を作っていました。

眠りの精の撒く眠り砂で子供たちが眠りに落ち、14人の天使たちを夢に見るシーンでは、兄妹の二重唱でいつも胸が熱くなってしまう。そこにさらに畳みかけるように、天使たちの登場の素晴らしい演出と閉幕直前のサプライズ演出で、完全に涙腺ダム大決壊。号泣していたら隣の席の女房もぼろぼろ泣いておりました。果てしない多幸感。

子供に向かって書かれたオペラだけど、音楽的にものすごくしっかり作ってある、という点において、このオペラは、「子供だまし」なのではなく、本気で作り上げねばならない「子供向け」オペラなのだ、という意識を持って、子供たちに、次の世代に、何を伝えねばならないのか、という真摯な姿勢で臨まないといけないオペラだと思うんです。客席を埋めた子供たちは、魔女のド派手なステージングにゲラゲラ笑いながら、でも何かしらしっかり受け止めたものがあったと思います。出演者の皆さん、スタッフの皆さん、チケットを手配してくださった小林さん、本当に素敵な舞台と時間をありがとうございました。

最近のインプット、残り2つ、と言いながら、また今日二つ増えちゃった

最近結構インプットが続いていて、全然この日記に感想を書くのが追い付いてませーん。でもなるべく、この日記には日々のインプットを書き綴っていきたいので、なんとか書きなぐりでも記録をつけていきたいと思います。先日の日記で書ききれなかったのが、

 

・調布フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会ホルストがオシャレ

・METライブビューイング「カルメル会修道女の会話」で号泣

 

という二つのインプット。そして今日は、

 

日生劇場ヘンゼルとグレーテル」の多幸感に涙が滝状態ですよ。

さくら学院、転入生オリエンテーション三時限目に参戦

 

ということで、最後のはオタ活なので別に書き起こすとして、とにかくまずは先日書ききれなかった二つのインプットについて、書きなぐってまいりたいと思います。

まずはこれ。

  

・調布フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会ホルストがオシャレ

娘が加入している調布フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会が、6月9日に開催。今回はメインがベートーベンの7番。「のだめカンタービレ」ですっかりメジャーになったベト7ですが、何度聞いてもかっこいい曲。これは楽しみ、と夫婦で聴きに行きました。調布駅前のグリーンホール。

高校生からこのオーケストラに入ってチェロを弾いている娘は、気が付けばトップサイドを任されていて、堂々たる弾きっぷりに夫婦して感動。手前味噌になってしまいますけど、音楽のフレーズの流れを先読みしてしっかり身体全体で楽器に力を伝えていて、昔は腕だけで弾いている感じだったのに、やっぱり一生懸命楽器に向かっているとこんなに上手になるんだねぇ、と、我が娘ながら感心しちゃいました。

プログラムの中では、二曲目に演奏された、ホルストの「サマセット狂詩曲」という曲が、コンパクトながらドラマがとても明確で、しかも美しい旋律に満ちていて、初めて聞いたのですがとても印象に残りました。ホルスト、というと「惑星」しか知らないのだけど、こんな素敵な曲も書いてるんだね。イギリス民謡の豊饒な世界を美しい田園の村の悲恋物語に昇華させた見事な佳品。

メインのベト7は本当に否応でも盛り上がる曲。誰かが、「ベートーベンの第九は、アマチュアの演奏に限る」と言っていたんですけど、調布フィルのベト7を聞いて、なんとなくその言葉を思い出しました。アマチュアって、そのステージの刹那に全精力傾けるんだけど、ベートーベンにはそういう、否応でも全力疾走しないと収まらないような、履いた人が死ぬまで踊り続けてしまう赤い靴みたいな魔力がある気がするんですよね。ヘンに計算したり、上手に演奏しよう、と思っても無駄、みたいな、演者の魂と体力を吸い取る感じ。ラストに向かっていく高揚感が半端なくて、ところどころプロの演奏にはない破綻もあるんですけど、もろともせずに突き進む感じがロックでした。

 

・METライブビューイング「カルメル会修道女の会話」で号泣

後で書きますけど、今日見た日生劇場の「ヘンゼルとグレーテル」で流した涙が、あまりにも幸福感が極まった果ての涙だったのに比べて、この「カルメル会」で流した涙は、「死」という、万人が逃れることのできない運命に向き合った時の、人間の苦悩と苦痛、そしてそれを乗り越える理性の尊厳と崇高に触れた、重たい重たい涙でした。

プーランクのこの作品のことは、プーランク狂(教)徒のうちの女房に教わっていて、トラウマになりそうなラストシーンも、色んな舞台のダイジェスト映像で見たことがあるんです。なのだけど、冒頭からきちんと全編を見たのは今回が初めて。それで逆にすごく印象深かったのは、前半の修道院長の苦痛と神への呪詛に満ちた悲惨な死なんですね。

キリスト教ラジオ講座か何かを偶然聞いていた時に、人を救う神とは別に、人を試す神、という議論がある、という話を聞いたことがあって、その時論じられていたのが、「ヨブ記」なんですね。心正しい人の信仰を試すように、次々と苦痛を与える神。そのヨブの如くに死病の苦痛にのたうち回る修道院長は、神を呪い、自分自身の信仰すら呪う言葉を口にしながら死んでいく。

その院長の死に際に対して、コンスタンスが言う、「あの方の悲惨な死は、他の人の死を軽くするための犠牲だったのだ」という解釈や、後半でも新院長が口にする、イエス磔刑の前に呟いた「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(神よ、なぜ私を見捨てたのか)という言葉もあって、後半、従容として自ら死へ歩んでいく修道女たちの姿を際立たせるために、この修道院長の悲惨な死が置かれている、というのがすごく分かる。プーランクの意図もそこにあったのだと思う。分かるんですよ。分かるんだけど、じゃあ自分の身になってみれば、やっぱりオレは修道院長みたいに苦痛と恐怖でのたうち回りながら死んでいくんだろうなぁ、って思っちゃうんだよね。人間なんて、そんなに強いものじゃない。もちろん、だからこそ、後半の修道女たちの行為が人智を超えた超人的な行動として聖性を帯びるのだけど、自分にはできないなぁ、と思ってしまうし、そういう、あまりにも人間的な死、というものも容赦なく描いてしまうプーランクの音楽の力に、なんだかぞっとしてしまう。

ラストシーン、分かっているのに、「サルヴェ・レジーナ」の合唱と共に不気味に鳴り響くギロチンの音に背筋が凍る。その恐ろしい音に向かって、しずしずと歩んでいく修道女たちの最後に、コンスタンスとブランシュが、あまりにも邪気のない綺麗な笑顔で続いていく。その姿はもうすっかりこの世のものではなくなっていて、我々は二人の天使が天界に旅立っていくのを、ただ涙で見送っていくしかない。

以前のMETライブビューイングで、あまりの美しさにモデルさんかと思ったイザベル・レナードは、ちょっと美人過ぎてブランシュの腺病質的なところが前半あまり感じられなかったのだけど、逆にそういうちょっと生命感あふれるところが、後半、奴隷のような境遇になっても生きようとする場面になると活きてくる。そんなブランシュが、最後に自ら死に向かう天使に変貌する所が涙腺決壊ポイント。

そのブランシュに対比して、最初から最後まで、この子は天使の魂を持ってるんだなぁ、と思わせたのが、エリン・モーリーのコンスタンスでした。このコンスタンスの無垢な強さが、ブランシュがあれだけ恐れていた死に対して、真っ直ぐ向き合う勇気をくれるんだよね。

「対話」というタイトル通り、重唱はほとんどなく、モノローグとそれに対する簡単な応答、そして重厚な合唱で構成されたこのオペラ。「死」という運命に対して、音楽でガチンコ勝負を挑んだような、胸の奥にざっくりギロチンの刃がたたきつけられたような、強烈な作品でした。プーランクってやっぱりすごいんだなぁ。

最近のインプット、四連発でいきますが、とりあえず二つ。

 例によって更新が滞っておりまして、申し訳ございません。さぼっている間にそれなりにインプットはあったので、ここでまとめて。ということで、四連発です。

 

北とぴあ合唱フェスティバルで、清泉女学院のユニゾンに圧倒される

・映画「さよならくちびる」、セリフに頼らない文法が心地よいのよ

・調布フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会ホルストがオシャレ

・METライブビューイング「カルメル会修道女の会話」で号泣

と四本でーす(サザエさん風)。書ききれるのかなぁ、と思って書きだしたらやっぱり書ききれそうにないので、まずは前半二つのみ。

 

北とぴあ合唱フェスティバルで、清泉女学院のユニゾンに圧倒される

所属している合唱団「麗鳴」で参加した北とぴあ合唱フェスティバルクロージングコンサート、テーマは信長貴富作品、ということで、信長先生ご自身に指揮していただいたり、その他の合唱団の素晴らしいパフォーマンスに触れたり、実に稀有の体験をさせていただきました。

中でも圧倒されたのが、清泉女学院の演奏で、リハーサルの最中とか、舞台裏でスタンバイしている時には本当に普通のわちゃわちゃした感じのお嬢さんたちなのに、いったん演奏が始まった途端に会場全体が底鳴りするような凄い音が鳴るんです。同じような圧倒的な響きを持っていたお江戸コラリアーずに比べて、全体の声量が勝っているわけではないのに、本当に会場全体がぐわんぐわん鳴るんですよ。この圧倒的なパワーはなんだろう、と思ったら、本番を指揮してくれたTさんが、

「ユニゾンの力ですね」

とぼそっと呟いていて、そういうことか、と思った。複数の人の声が完ぺきにシンクロした時に生まれる倍音の層の厚さが、会場全体を共鳴させるんですね。パワーじゃなくて、ピッチの正確さとシンクロ率の高さなんです。清泉女学院は「新入団員を中心としたまだ若いメンバーで臨みました」というコメントがあって、それでこのシンクロ率っていったいなんなの、と口あんぐり。日本のトップレベルの部活って、本当に世界レベルなんだなぁ、と改めて思いました。

 

・映画「さよならくちびる」、セリフに頼らない文法が心地よいのよ

この映画のことを知ったのは、さくら学院卒業生の新谷ゆづみさんと日髙麻鈴さんの映画デビュー作、ということがきっかけだったので、まぁ裏口から入ったようなものなんですが、聞けば、以前見て号泣した「黄泉がえり」の塩田明彦監督の作品だという。これは見なければ、と思っていたところに、日比谷で新谷さんと日髙さんの舞台挨拶付きの上映回がある、というので、申し込んだら当選。喜び勇んで見てきました。

映画というのは表現のためのツールなので、これをどう使って何を語るか、という語り口に、監督の作家性が出るわけですけど、「黄泉がえり」で感じた塩田監督の語り口は、役者の口から発せられる言葉だけに頼らずに、どれだけ物語を語れるか、ということを突き詰めるタイプの監督さんだ、という印象でした。特に、伊東美咲さんが演じる聾学校の教師が、よみがえった聾者だった母親と手話を交えて会話するシーンについて、その感動を以前のこの日記にも書いています。

塩田監督の代表作とも言われる「月光の囁き」を見ていないので、実に浅薄な感想になってしまうのだけど、「さよならくちびる」も、言葉にならない互いへの想いを伝える術を知らなくて、音楽という儚い絆にすがる3人の男女を描いていて、本当に切ないいい映画でした。音楽は時間芸術なので、その時間をライブ会場で共有した高揚感は、その時間が過ぎれば消えてしまう。そんな儚い絆が、三人だけではなくて、その音楽に触れた人々をつないでいく。でもそれはあまりに儚くて、だからこそリアルな人間同士のぶつかり合いを支えきれずに、三人は互いに傷つき、別れを決意するところまでこじれてしまう。

主役の二人の演じるギターデュオ「ハルレオ」のファン、という役柄だった日髙さんが、自分を周囲の人々、あるいは世界そのものとつなぎとめてくれた「ハルレオ」の音楽をくちずさみながら、感極まって泣き出し、それを優しい笑顔で新谷さんが受け止める、というシーンは、音楽が人と人をつなぐ力を持っているのだ、ここにも、音楽の絆で結ばれた人たちがいるんだ、ということを象徴する名シーンでした。(ちなみにこの日髙さんが歌いだした、というのは日髙さんのアドリブだった、というのも、さくら学院のファンの間では大変話題になっていたんですが)

言葉に頼らずにドラマを描こう、とする塩田監督の指向は、主役三人が頻繁に口にする煙草にも表現されていて、要するに言葉に詰まった時に胸にたまった想いを煙にして吐き出すための道具なんだよね。最近、映画で喫煙シーンが多いと文句を言われる、なんていう風潮に対する、塩田監督の反骨精神も現れているようで面白かった。

ロードムービー、というのは、旅の初めと旅の終わりで、主人公たちがいかに変化するか、というのが物語のキモで、あのラストシーンには賛否あるかもしれないけど、あの三人の関係性がこの旅を経て確実に変化した、という納得感があって、私的には嬉しいラストシーンでしたね。

人が口にする言葉にあまり信頼を置いていない塩田監督なのだけど、逆に信頼しているのが、音楽の力と、詩の力。すごく印象的に現れるのが、ところどころに挿入されるハルの書いた詩で、美しい風景を背景に白抜きの飾らない文字で画面に現れる詩が、言葉にならない、音楽に乗せた歌詞としてしか表出できないハルの想いを綴っていて胸に迫る。映画の宣伝にも使われていたレオがハルに強引にキスをするシーンで、すっかり「百合映画」という印象を持たれている人も多いかもしれないけど、ハルはレオのことが好きなのに、その想いに答えようとするハルを拒絶するので、百合の関係すらこの二人の間には成立しない。この三人の関係の中で一番複雑なのはハルの気持ちで、多分ハルの気持ちはどこにも行き場がなくて、ただひたすらに音楽に向かっていく。そうやって空に放たれたハルの音楽や歌詞の力が、レオやシマをハルにどうしようもなく惹きつけてしまう、そのゴールのない関係性が切なくて愛しくて。

こういう「音楽映画」で、挿入される音楽がショボいと、なんとも残念な結果になるんですけど、主題歌の「さよならくちびる」にせよ、挿入歌の「誰にだって訳がある」「たちまち嵐」も、どちらもとてもいい曲だった。楽曲の完成度の高さが、この映画をさらに佳作に仕上げていたと思います。考えてみたら、「黄泉がえり」もクライマックスはライブシーンだったなぁ。

 

さて、今日のところはこんなところで。またすぐ、残りの二つのインプットについても書きますね。来週も、見てくださいね~(サザエさん風)

ジュゴンとツチノコ Vol.3 Made in Japan! ~日本歌曲の奥深さ~

25日(土)、女房が参加している音楽ユニット「ジュゴンツチノコ」の三回目の演奏会、「Made In Japan!」を聞きに行ってきました。今回はその感想を。

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会場になった赤坂のカーサ・クラシカ、私は初めて伺ったのですが、クラシック演奏家の間ではかなり名の売れた会場のようですね。お料理も美味しいし、お店の雰囲気もとても素敵で、何より、スタッフがこういった音楽イベントに慣れている感じがあり、お客様の誘導もスムーズで、とても心地よかったです。

会場の心地よさに加えて、今回のテーマは日本歌曲。フランス歌曲や英米歌曲を中心にした前回までのプログラムと比べて、邦人曲である、というのがまた聴き手にとって大変心地よい。若干身びいきになるかもしれませんが、大津佐知子という歌い手は、児童合唱時代から邦人曲に親しんでいて、日本語歌唱についてスキルを磨いていた人なので、日本語の歌詞が聞き取れない、というストレスが殆どない。そういうハードルの低さと、客席の雰囲気、二人のフレンドリーなMCなどもあって、過去の2回の公演と比べても、とてもアットホームで温かい空気に満ちた演奏会になりました。

と言いながら、実は、邦人曲、というのは、演奏家にとって別のハードルがそびえていたりするんですよね。今回取り上げた、徳山美奈子・湯山昭・伊藤康英・木下牧子、という作曲家たちは、現在も一線で活躍している作曲家の方たち。ということは、どの楽曲も、いわゆるクラシック音楽の歴史を一通り消化しきった先に生まれた「現代音楽」ばかりなわけで。もちろん、MCの中で、貝賀さんが何度も、「皆さんが聴いてもなんだかチンプンカンプンになるような曲はなるべく避けました」とおっしゃっていたように、選曲された曲はどれも耳に心地よい分かりやすい楽曲ばかりなんですが、それでもどこかに一筋縄ではいかない様々な「現代音楽」っぽい仕掛けが隠れている。単純な音の組み合わせや流れの中にも隠れた様々な技巧を、何事もなかったかのようにお客様に届けるのは、意外と難しかったりするんじゃないかな、と思います。

そういう現代音楽の文法をある意味カリカチュア的にぶち込んだコミックソングが、伊藤康英先生の「あんこまパン」で、大変バカバカしい歌詞(というか、林望先生のエッセイ)を、大変難易度の高いピアノ伴奏と大変高等な歌唱技術で客席に届けないといけない。二人とも相当苦労したようですが、苦労の甲斐あって、客席は演奏中ずっとムフフ笑いに包まれておりました。(爆笑、という感じではないところがこの曲のなんとも衒学的なところなんだよね)

貝賀さんの演奏されたピアノ曲もどれもとても魅力的な作品ばかりで、門外漢の私も、いい曲だなぁ、と思いながら聞いていました。徳山美奈子先生の「巣立つ鳥達へ」など、貝賀さんのご家族への想いも込められた曲も多く、そういう選曲も、温かな空気を醸し出す要因だったと思います。

大津が歌った歌曲の中では、前述の「あんこまパン」も楽しかったのだけど、湯山昭先生の「ロマンチストの豚」「くじらの子守唄」のどちらもとてもキュートで、しかも一度聞くと忘れられない平明な曲で、とてもよかった。いい曲って決して古くならないんですね。同じようにこれは今後もずっと歌い継がれていくんだろうな、と思った木下牧子の歌曲もとても素敵で、歌が終わってしまうのがもったいないような、もっとこの歌を聞いていたいなぁ、というような、そんな不思議な思いがしました。

本編の最後に歌った「竹とんぼに」は、以前から大津が何度か演奏会で取り上げている曲ですが、何度聞いてもなんだか目頭が熱くなる。でも今回は特別胸に来ましたねぇ。最近、娘が大学に進学して、運転免許取ったり、大学のサークルでとても大きな会場で演奏会をやったり、どんどん広い世界で経験を積んでいる姿が、空高く舞い上がっていく竹とんぼの姿に重なっちゃったんだと思います。人の親になるって、こういう歌がどんどん沁みてくるってことなんだなぁ。

マチュアピアニスト、と言いながら、音楽に対する真摯な姿勢と高い技術を持つ貝賀さんと、ひょんな縁でご一緒させていただくことになり、このユニットだから挑戦できる楽曲を積み重ねて、また新しいレパートリーを増やすことができました。こういう場は本当に大事だね。これからも二人で、また新しい世界を見せてもらえると嬉しいです。温かい時間をありがとうございました。お疲れさまでした。

さくら学院2019年度転入式〜やっぱり沼から抜け出せないよお〜

本日、文京シビックホールで開催された、さくら学院2019年度転入式に参戦してきました。正直、一番推しだった麻生真彩さんの卒業で、今後どうフォローしていこうかな、と迷いもあったんですが、そういう迷いを一気に吹き飛ばす、クオリティも密度もものすごく濃い舞台でした。今日はたっぷりとその感想を。ライブビューイング参戦の方はネタバレだらけなので、閲覧注意です。


冒頭の中3ズ4人の場内MCで、この4人のバランスの良さというか、いい意味でも悪い意味でもソツのなさのようなものが見えて、これがどんな風に変化していくのかな、という不安も混じった期待感が高まる。そのMCの中で森さんがちょっと原稿を間違えてしまったのが、今から思えば、後半の伏線だったのか、と思ってしまうあたり、2019年度のRoad toのドラマを盛り上げようと思ってしまう父兄の悪い癖かもしれん。


9人体制でのschool days、ベリシュビッツと、相変わらずの完璧なフォーメーションダンスなのだけど、圧倒的な声量や表現力のあった麻生真彩さんと日髙麻鈴さんが抜けて、下級生の声が出てきた結果として、全体の声のバランスが逆に平準化されて聞きやすくなった印象。歌としての説得力は落ちてるかもしれないんだけど、アンサンブルとしての完成度はとても高い。その中でも、八木美樹さんが本当にガツンとした声が出ていて驚く。田中美空さん、野中ここなさんのダンスの表現力と弾けっぷりが去年とは全然違っていて、こういう成長ってのはライブを見続けていないと分からないんだよなぁ、と改めて思う。


そういう、沼から出られない感を強くしたのが転入生3人。いや凄いです。去年の3人、特に野中ここなさんと白鳥沙南さんは、原石感が結構強かったと思うのだけど、今回の3人は相当高いレベルで仕上がっている感がある。恐ろしいのは、既に相当のパフォーマンス能力を備えているのに、さらに伸びしろを感じさせてくれるところ。その中でも、戸高美湖さんのダンスのキレの良さ、表情の豊かさ、ソロパートの声の伸びに釘付け。さすがASHで、鞘師里保さん以来の逸材かも、と注目されていただけのことはある。男前キャラの感じも素晴らしい。佐藤愛桜さんのピュアなお嬢様感と人を惹きつけずにはおかない明るく美しい笑顔、Perfume の「let me know」のMVに出た時から転入を切望されていた木村咲愛さんの、昨年の野崎結夢さんを彷彿とさせるプロ感と躍動感も素敵で、今年もすごい転入生が入ってきたぞ、とワクワク。


そして、生徒会人事ですよ。今回の生徒会人事は、正直言えば、若干職員室が日和った感がないわけじゃないと思う。藤平華乃さんははっきり言ってパフォーマンス委員長以外は生徒会長しかできないカリスマで、これを生徒会長に据えた時に、実質的にステージのプロデュースや仕切りをやらせるとすれば森萌々穂さんがベスト。ここで森さんにプロデュース委員長、有友さんにトーク委員長、という選択肢もあったんじゃないかと思う。そこで、森さんにトーク委員長、有友緒心さんと吉田爽葉香さんに、はみ出せ委員長と顔笑れ委員長を振るあたり、森さんがプロデュース委員長として全てを引っ張ってしまって、有友さんがそれに従う、という構図よりも、有友さんと吉田さんには自由にできるポジションを与えて、森さんには少し足りないトークの技術をもっと磨いて欲しい、という職員室の意図が見える。それは分かるのだけど、そりゃあ、森さんは納得しないよねぇ。


森さんはとにかく自己プロデュース能力が高い、と言われるけど、それって、自分の出来ること、出来ないことをしっかり見据えた上で、そこで自分が一番輝ける手段は何か、立場は何か、ということをしっかり見つけられる能力の高さなんだよね。そこで森さんの1つのロールモデルになっているのが、1つ上の学年の3人である、というのは多分言い過ぎじゃないと思う。日髙麻鈴さんの圧倒的な歌唱力や表現力には敵わない。麻生真彩さんの弾ける歌唱力やトークスキルには敵わない。新谷ゆづみさんの演技力には敵わない。そういうすごい先輩たちへのリスペクトがあるから、そういう先輩たちとは違う土俵で勝負するのがいい、と思うのは当然。


そこでさらに、プライドの高い森さんは、「でも一番になりたい」って思っちゃうんだろうなって思うんですよ。さくら学院の歴史の中で、「最高の××委員長だった」と言われたい。でも、トーク委員長で麻生真彩さんを超えるのなんか無理だ、と、森さんは思っちゃうんだと思うんです。自分の能力への自信のなさとプライドの高さのせめぎ合い。そこで、「どうして私をプロデュース委員長にしてくれなかったんですか」と倉本校長に涙ながらに詰め寄ってしまう「森の乱」が勃発したわけで。


森さんの気持ちはものすごくよく分かる気がする。でもね、森さん。トーク委員長にランク付けなんか出来やしないよ。麻生さんは確かに歴代トーク委員長の中でも傑出したトーク力の持ち主だった。でも、1つの公演をがっつりプロデュースする力とトーク力を合わせ持ったトーク委員長なんか今までいなかったと思うよ。森さんは、自分のトーク力を磨くことも必要かもしれないけど、誰にどう喋らせたら流れがよくなるか、全体の流れやシナリオを作り上げるトーク委員長になれる人だと思う。新谷ゆづみさんに言われたじゃない。「もっと人を頼っていいんだよ」って。もっと人に喋らせればいいんだよ。吉田さんも、有友さんも、藤平さんも、野中さんも、白鳥さんも、森さんが「喋らせてくれる」のを待ってる。それぞれが一番輝く言葉や場所を与えてあげられる、森さんにはそれだけの力があるんだから。


でもね、森さんがプロデュース委員長になりたかったもう一つの理由が、ひょっとしたら、森さんが憧れているBABYMETALの水野由結さんが務めた役職だから、というのがあったとしたら、本当に切ないなぁ、と思うんだ。中元すず香さんに憧れて、すぅさんと同じ生徒会長になる、という夢が破れた麻生真彩さんと同じ構図が、今年も繰り返された感じがしてさ。水野さん以降、2代目プロデュース委員長は現れていない、そこで自分がプロデュース委員長になれたら、どれだけ誇らしい気持ちになれるか。森さんが、倉本校長に、「プロデュース委員長って思っていいんですね!?」と詰め寄った切迫感の中に、ゆいちゃんの存在があったとしたら、森さんの涙は、昨年の麻生さんの涙と同じくらい、8年間のさくら学院の歴史が生んだ重い涙だよなぁって思う。そういうことを知らないデイリースポーツあたりが、「未練タラタラ」なんて書いてるけど、森さん、無視していいからね。分かってる人はちゃんと分かってるから。


もう少し、分かったようなことを言わせてもらうと、森さんの涙、という今回の転入式のドラマそのものが、プロデュース委員長、森萌々穂さんの初仕事だった、といううがった見方も出来なくない。あの森さんの涙がなかったら、今回の生徒会人事は、ある意味、無風、収まるべきところに収まってよかったね、というシャンシャン人事で終わっていた可能性が高い。ここで森さんが胸の内をぶちまけたからこそ、今回の転入式は父兄さんの心にガツンと響いたのだし、森萌々穂さん推しは一気に増えたと思います。そこまで計算していなかったとしても、この空気なら言ってもいいだろう、くらい、空気を読んだ上での発言だったと思う。姫はね、それくらい出来る人です。だからこそ、今年は森さんの成長を見届けたいし、そして何より、戸高美湖さんがどこまで化けるか。本当に楽しみが尽きない。いやー当分この沼から抜け出せそうにないですよ。マジで。

東京室内歌劇場「シンデレラ」・江東オペラ「ドン・カルロ」~作り手の思いはしっかり客席に届くんだ~

令和最初の日記は、平成最後に連ちゃんで見た2つのオペラの感想を一気に。4月27日、せんがわ劇場で見た、東京室内歌劇場「シンデレラ」と、4月28日、女房が出演した、江東オペラ「ドン・カルロ」の感想を。まずは「シンデレラ」から。

 

指揮:新井義輝

演出:飯塚励生

ピアノ:遊間郁子

フルート:遠藤まり

ヴァイオリン:澤野慶子

チェロ:三間早苗

キャスト:

 サンドリヨン:里中トヨコ

 ド・ラ・アルティエール夫人:三橋千鶴

 シャルマン王子:橋本美香

 名付け親の妖精:中川美和

 ノエミ:小川嘉世

 ドロテ:加藤麻子

 パンドルフ:杉野正隆

 王:古澤利人

 大学長:佐藤慈雨

 儀典長:松井康司

 総理大臣:渡辺将大

 精霊たち 1:安陪恵美子

 精霊たち 2:橋本奏

 精霊たち 3:本田ゆりこ

 精霊たち 4:音羽麻紀子

 精霊たち 5:久利生悦子

 精霊たち 6:矢口智恵

 

 という布陣でした。

 

マノン作曲「サンドリオン(シンデレラ)」というオペラは、女房が東京シティオペラでタイトルロールを演じさせていただいた舞台を拝見してから、大好きなオペラになりました。その後、METでも初演された舞台がライブ・ビューイングで上映されたり、世界的にも再上演の動きが出てきている感じ。以前の日記にも書いたけど、単純なおとぎ話の物語に留まらず、純粋な少女の思いの強さが奇跡を生み、その奇跡が生んだ愛がさらなる奇跡を生んでいくスパイラル構造が、原作にない、夢の世界をさまよう王子様とシンデレラの出会いと告白の幻想的なシーンを挿入することによって、より明確に描かれている、とても美しいオペラです。かなり観念的なところが、さっぱりとエンターテイメントに徹したロッシーニの「チェネレントラ」とはちょっと違う。そして、ライトモチーフをちりばめたマスネのメロディが本当に美しくて、シンデレラが「素敵な王子様」と呼びかける旋律が出てくるたびにウルウルしてしまう。

女房が出た舞台とMETのライブビューイングも合わせると、今回の舞台でこのオペラは4回目の観劇。それぞれの舞台はそれぞれに持ち味があって面白いんだけど、今回は、せんがわ劇場という舞台の特性もあり、一人一人の演者のキャラクターが非常にくっきりと客席に伝わってきた気がしました。東京室内歌劇場のせんがわ劇場のシリーズは、2012年の「ジャンニ・スキッキ」以来全ての公演を見ていると思うんだけど、今回は過去の公演と比較しても、舞台装置が非常にシンプルで、歌い手の演技表現以外の演出的な要素が削ぎ落されていた感覚があり、それが余計に、演者の個性が真っ直ぐ客席に届いてきた一因のようにも思います。いくつもの銀の円盤だけで出来上がった舞台装置は、途中の照明の演出も加わってシンプルながらとても印象的だったですけど、それ自体が強烈に主張してくるのではなくて、あくまで演者の背景として存在していた。そんな中で、演者の演技以外に舞台を鮮やかに印象づけていたのが、衣装。奇抜なことは全然していなくて、非常にきちんと作り上げられた衣装だと思うのだけど、妖精の衣装は、照明の演出効果が最大限に活かせるように、さりげなく嫌味なく光の刺繍がほどこされていたり、カリカチュア的に作り上げられたイジワル姉妹の衣装や、丁寧に作りこまれた王子様の衣装、フレディ・マーキュリーの扮装をちょっと取り込んでみる遊び心など、ファンタジーとリアリティをしっかりと描き分けて見事でした。衣装担当の下斗米大輔(株式会社エフ・ジージー)さんにブラボーです。

そして演者の皆さんそれぞれに本当にキャラが立っていて素晴らしかった。ドラマのキーマンであるお父さん役の杉野さんの安定感、万年筆女子会でもまろやかな声でお客様を魅了している橋本さんの王子様の凛々しい美しさ、そして里中さんの、しっかりコントロールされた品格ある所作の美しさ、その他の皆さんも、合唱陣含めて本当に素敵だったのですけど、なんといっても、なんといっても(大事なところなので三回言いますが)、なんといっても、三橋さんのイジワル継母が最高!。ただ舞台に出てきただけで笑いが起こり、一言ちょっと歌っただけで客席が沸く、こんなお母さん役見たことないです。本当にすごかった。

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美貌の王子様にすりよる怪しい中年男。橋本さん、皆さま、お疲れ様でしたぁ。そして後方のお母さまが素敵だわ。

 

 続いては、女房が出演させていただいた、江東オペラ「ドン・カルロ」。

指揮:諸遊耕史

演出:土師雅人

出演

 ドン・カルロ:小貫岩夫

 エリザベッタ:津山恵

 フィリポ:高橋啓

 ロドリーゴ:山口邦明

 エボリ公女:田辺いづみ

 宗教裁判長:追分基

 テバルド:大津佐知子

 カルロ4世:松澤佑海

 レルマ伯爵:斎木智弥

 布告者:津久井佳男

 天使の声:高山由美

 演奏:江東オペラ管弦楽団

 合唱:江東オペラ合唱団

 

という布陣でした。

 

今回女房が参加させていただく前から、江東オペラ、という団体がある、ということは聞いていたのですが、今回、参加した女房から、「とにかく舞台の完成度がすごく高い」と聞いていて、期待胸いっぱいに会場に向かいました。そして期待を裏切らないクオリティに感激。昔お世話になった大田区民オペラといい、埼玉市民オペラといい、地元の調布市民オペラも素晴らしいというし、市民オペラって本当にすごいんですね。

ドン・カルロ」というオペラは、はっきり言って話としては完全に破綻していると思いますし、ちょっと重たすぎてオペラらしい華やかさに欠けるかな、という気がします。同じように話が完全に破綻している「トロヴァトーレ」のように、華やかな合唱シーンや戦闘シーンがあるわけでもないし、「アイーダ」のようなスぺクタクルシーンがあるわけでもない。でも、ものすごく素晴らしい音楽に満たされている、という点では、「トロヴァトーレ」と同じで、結果として、「ドン・カルロ」全幕上演を日本で見る機会って、来日公演以外では大変少ないのでは、という気がする。どうしてもハイライト上演など、美味しい所だけを取り出した上演になってしまう。

なので、なんと今回の主要キャストのほぼ全員が、初めて全幕上演に挑戦したのだそうです。アリアや二重唱などを抜粋で歌ったことはあっても、全幕通し、というのは初挑戦。それが逆に、今回の舞台のクオリティをすごく上げていた気がするんですね。出演者全員が、一期一会のこの機会に正面からぶつかってやろう、という気迫に満ちていて、その気迫が、客席にまでガンガン届いてきた気がする。

そういう出演者の気迫に、市民オペラらしく、関係者皆さんが、舞台に注ぎ込むエネルギーで応えている感覚があって、合唱団員の方々一人一人の熱演も含めて、舞台の熱量がとても高かった。それが最高潮に達したのが、なんといっても高橋恵三先生のフィリポ二世のアリア。先生の歌唱も本当に素晴らしかったのだけど、オケのチェロのソロが素晴らしくて、三幕冒頭のチェロのむせび泣きで思わず落涙してしまう。こんなの初めて。

唯一残念だったのが、字幕。ただでさえ複雑に絡み合った歴史ドラマで、セリフの一つ一つに隠喩とか婉曲表現が多く、直訳しても全然意味がわからない歌詞が多いのに、直訳調の上にかなり誤字脱字が多かったんですよね。字幕って結構時間がかかるし、難しいんだよなぁ。きっと校正の時間がなかったんだろうな、とは思うんだけど、ラストのデウス・マキナであるカルロ4世の亡霊の歌詞で、「天上で救われる」という言葉が、「天井」とタイポされたまま映写されてしまって、ラストのラストですごく残念だった。

重苦しいオペラの中で一服の清涼剤になるのが、うちの女房が演じたお小姓テバルドで、貴族の品格と、幼いながらも武人としての佇まい、でも一方でキュートな無邪気さも併せ持った少年を、過不足なく演じ切っておりました。有名なエボリ公女との二重唱では、初役に挑戦した盟友田辺いづみさんの気迫をしっかりと支えていましたし、フランドルの民の直訴シーンでは、Tuttiをズドンと突き抜けてくるエリザベートの津山さんの声ときれいに一体化していました。

作り手の想いっていうのは結構ダイレクトに客席に飛んでくる。一人一人が、この舞台でこの歌を歌ったら、またいつ歌えるか分からないぞ、という思いで、一音一音、ひと声ひと声を大事に大事に精いっぱい歌っている気持ちが、客席にガンガン届いてきて、なんだか胸がいっぱいになりました。江東オペラの皆様、女房がお世話になりました。これからも何卒よろしくお願いいたします。

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エボリ公女さまと。いい現場に参加できてよかったね。

人生初のソロリサイタル~ロマンチストのベースが夢見た主旋律を歌うまで~

最近この日記が、さくら学院の感想ばっかりになっていて、身内から若干苦情申し立てもあったので、ちょっと近況報告も兼ねて、昨日、4月19日にマエストローラ音楽院で開催した、自分のソロリサイタルの感想を書こうかと思います。色々とやらかしたんですが、それでも、やってみてよかった、と思えたイベントでした。以下、ご来場くださった皆様にはMCでお話した内容もありますが、リサイタルに至る経緯や選曲の過程などで思ったことを、前半の歌曲を中心に、まとめておきます。

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こんな泥舟企画に同乗してくださった、心優しい、ソプラノの君島由美子さん、ピアニストの小澤佳奈さん、本当にありがとうございました。そんなに心優しいとね、振り込め詐欺にあいますよ。

 

Singspielersのさろん・こんさぁと、と銘打ったシリーズは、今回の会場にもなったマエストローラ音楽院を舞台に、何度か開催していて、前回は、昨年の6月、少し会場を広くして、渋谷のラトリエというサロンで、「わるいやつら」というお題で開催しました。そのあと、次はどんな企画のコンサートにしようかなぁ、と思っていた時に、ガレリア座の友達の一人に、

「北さんがやってきたオペレッタの役って、『わるいやつら』というより、『憎めないやつら』って感じですよね」

と言われて、そうか、「憎めないやつら」ってのもいいな、と思ったんですね。これまでやってきたオペレッタのレパートリーがそこそこ溜まっているから、何曲か披露すれば、お客様に楽しんでいただける舞台が作れるかも、と。だったら、思い切ってソロリサイタルにしてみようか。

でも、せっかくやるなら、今までやってきたレパートリーだけだとつまらない。何かしら、オペレッタだけじゃなくて、新しい曲に挑戦してみたい。とはいえ、全く知らない曲に挑む自信もないので、自分の知っている曲で、新しいレパートリーにできる歌曲とかないかな、と思っていた時に、女房が歌った、木下牧子先生の「夢みたものは...」を聞いて、自分のよく知っている合唱曲を歌曲にアレンジした曲を取り上げるといいな、と思いついた。オペレッタのステージと組み合わせれば、自分のやっている、合唱とオペレッタという、二つの音楽活動を包括したリサイタルに仕上げられるな、と決めて、そこから話がどんどん具体化してきました。

まずは、「憎めないやつら」のバランスで、合唱曲のステージのタイトルをどうしようかな、と考える。リサイタルや演奏会のタイトルはすごく大事だ、と思ってしまう夫婦なんですよ。女房がアメリカから帰国してきた時のソロリサイタル「ただいまの気持ち」というタイトルも、かなりこだわって、「ただ今帰りました」と「ただ今この瞬間の気持ち」という二つの意味をかけてつけたタイトルでしたし。私の企画のサロンコンサートのシリーズも、「わるいやつら」とか、「オペレッタの中の「ラ・ボエーム」」とか、お客様の目を引くキャッチフレーズにかなりこだわる。ということで、混声合唱団でなかなか主旋律を歌わせてもらえないベースの悲哀と、取り上げる予定の木下牧子先生の歌曲のタイトルを組み合わせて、「ロマンチストのベースが夢見たものは主旋律」というふざけたタイトルを思いついて、これでいこう、と。

木下先生の歌曲の中から、これとこれを歌いたい、とリストアップして、家で「こんな感じで歌いたいんだけどね」という話を女房に相談。そうしたら、女房が、

「どの曲も調性と曲調が似通っているよね。リサイタルの選曲をする時には、違った曲調や調性の曲を少し間に挟んだりしてみるものなんだよ。」

と言い出して、木下牧子先生の歌曲集を眺めながら、「これがよいと思う」と差し出してきたのが、「夕顔」。女声合唱曲「叙情小曲集『月の角笛』」の中の一曲なので、混声合唱で育ってきた私にとっては初見の曲だったのですけど、短い中に緊張感とドラマが詰まった素晴らしい曲で、よし、挑戦してみよう、ということになる。

他に、「鴎」は絶対やりたい、という話をする。合唱人ならかなりの人が歌ったことのある名曲なんですけど、混声合唱の「鴎」のベースは、ほとんどハミングで、この素晴らしい主旋律を歌うことができない。主旋律を歌いたい、というテーマにこんなにしっくりする曲はないからね、という話をしたら、またしても女房が、

「この『鴎』がどんな意味があるか、知ってるかね?」

と言ってくる。昭和21年に三好達治先生が書かれた詩、ということは知っていたので、終戦直後の解放感を歌った詩なんじゃないのか、と言ったら、

「鴎はね、海軍兵学校の学生さんの白い夏服を象徴しているんだよ」

と言われる。そうだったのか。ネットで調べてみると、第二次大戦中、戦意高揚の詩を沢山書かれていた三好先生が、学徒出陣の学生を前に、「なぜ前途ある君たちが死地に向かわねばならないのか」と号泣された、というエピソードとともに、歌詞の中には「彼ら」としか歌われていない、歌のタイトルの「鴎」が、戦地に散った学生の魂を象徴している、という話が載っていた。そんな歌だとは全然知らずに今まで、かっこいい歌だなぁ、と気持ちよく歌っていた自分を大変恥ずかしく思うと共に、ああ、これだけでも、このソロリサイタル企画してよかったなぁ、と思う。ソロリサイタルをやろうと思わなかったら、そして、この曲を取り上げようと思わなかったら、私はこれからもこの曲に込められた詩人の血を吐くような慨嘆の想いを知らないでいただろうな、と。

さて、曲が決まったら、次に調性です。原調で歌えればいいんですが、さすがにバスバリトンの自分には高い曲が多い。師匠の立花敏弘先生のところに持って行って、原調で歌ってみると、先生から、「うーむ、ちょっと高いよねぇ」といわれる。

「自分の持っている一番いい声でお客様に届けよう、ということをメインに考えるのが大事だよ。原調にこだわる人もいるけど、オペラやアンサンブルや試験じゃないんだから。自分の声の魅力が一番出る調性に変えればいいんです。その方がお客様にとっても自分にとっても心地よいのだから」

と言われて、「ロマンチストの豚」以外の曲は、全て原調から半音~全音移調して歌いました。それでもかなり高音だったのだけど、原調で歌うより無理なく表現できたと思います。移調楽譜は娘が、「一曲x千円ね」とアルバイトで作成してくれました。

こうやって振り返ってみれば、今回のソロリサイタル、ソロ、と言いながら、共演者のお二人、色んなアドバイスをくれた女房どの、師匠の立花先生、娘と、色んな人に支えられて本番の日を迎えられたんだな、と、改めて思います(ヘアメイクをお願いしたラルテの松本さんもね)。そういうプロセスの中で、自分の知らなかった曲、知らなかった物語、舞台を作る上での心構えなど、色んなことを学べました。一つの新しいことに挑戦すれば、必ず何かしら得られるものがある。50を過ぎて、もういい加減落ち着かないといけない年齢ではあるんですけど、こんなに新しい発見があるから、やっぱり挑戦することはやめられないと思った、そんな人生初のソロリサイタルでした。支えてくれた皆さん、そして何より、あの場に集まって下さった優しい笑顔のお客様方、本当にありがとうございました。まだまだ色々企ててまいります。これからも生温かい目で見守ってやってください。やっぱり舞台っていいなぁ。本当にいいなぁ。

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第二部、おなじみ、オッフェンバックの「天国と地獄」より、「ハエの二重唱」。これをレパートリーにして何度も歌っている自分って、何者なんでしょうって思うよね。