最近のインプット、残り2つ、と言いながら、また今日二つ増えちゃった

最近結構インプットが続いていて、全然この日記に感想を書くのが追い付いてませーん。でもなるべく、この日記には日々のインプットを書き綴っていきたいので、なんとか書きなぐりでも記録をつけていきたいと思います。先日の日記で書ききれなかったのが、

 

・調布フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会ホルストがオシャレ

・METライブビューイング「カルメル会修道女の会話」で号泣

 

という二つのインプット。そして今日は、

 

日生劇場ヘンゼルとグレーテル」の多幸感に涙が滝状態ですよ。

さくら学院、転入生オリエンテーション三時限目に参戦

 

ということで、最後のはオタ活なので別に書き起こすとして、とにかくまずは先日書ききれなかった二つのインプットについて、書きなぐってまいりたいと思います。

まずはこれ。

  

・調布フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会ホルストがオシャレ

娘が加入している調布フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会が、6月9日に開催。今回はメインがベートーベンの7番。「のだめカンタービレ」ですっかりメジャーになったベト7ですが、何度聞いてもかっこいい曲。これは楽しみ、と夫婦で聴きに行きました。調布駅前のグリーンホール。

高校生からこのオーケストラに入ってチェロを弾いている娘は、気が付けばトップサイドを任されていて、堂々たる弾きっぷりに夫婦して感動。手前味噌になってしまいますけど、音楽のフレーズの流れを先読みしてしっかり身体全体で楽器に力を伝えていて、昔は腕だけで弾いている感じだったのに、やっぱり一生懸命楽器に向かっているとこんなに上手になるんだねぇ、と、我が娘ながら感心しちゃいました。

プログラムの中では、二曲目に演奏された、ホルストの「サマセット狂詩曲」という曲が、コンパクトながらドラマがとても明確で、しかも美しい旋律に満ちていて、初めて聞いたのですがとても印象に残りました。ホルスト、というと「惑星」しか知らないのだけど、こんな素敵な曲も書いてるんだね。イギリス民謡の豊饒な世界を美しい田園の村の悲恋物語に昇華させた見事な佳品。

メインのベト7は本当に否応でも盛り上がる曲。誰かが、「ベートーベンの第九は、アマチュアの演奏に限る」と言っていたんですけど、調布フィルのベト7を聞いて、なんとなくその言葉を思い出しました。アマチュアって、そのステージの刹那に全精力傾けるんだけど、ベートーベンにはそういう、否応でも全力疾走しないと収まらないような、履いた人が死ぬまで踊り続けてしまう赤い靴みたいな魔力がある気がするんですよね。ヘンに計算したり、上手に演奏しよう、と思っても無駄、みたいな、演者の魂と体力を吸い取る感じ。ラストに向かっていく高揚感が半端なくて、ところどころプロの演奏にはない破綻もあるんですけど、もろともせずに突き進む感じがロックでした。

 

・METライブビューイング「カルメル会修道女の会話」で号泣

後で書きますけど、今日見た日生劇場の「ヘンゼルとグレーテル」で流した涙が、あまりにも幸福感が極まった果ての涙だったのに比べて、この「カルメル会」で流した涙は、「死」という、万人が逃れることのできない運命に向き合った時の、人間の苦悩と苦痛、そしてそれを乗り越える理性の尊厳と崇高に触れた、重たい重たい涙でした。

プーランクのこの作品のことは、プーランク狂(教)徒のうちの女房に教わっていて、トラウマになりそうなラストシーンも、色んな舞台のダイジェスト映像で見たことがあるんです。なのだけど、冒頭からきちんと全編を見たのは今回が初めて。それで逆にすごく印象深かったのは、前半の修道院長の苦痛と神への呪詛に満ちた悲惨な死なんですね。

キリスト教ラジオ講座か何かを偶然聞いていた時に、人を救う神とは別に、人を試す神、という議論がある、という話を聞いたことがあって、その時論じられていたのが、「ヨブ記」なんですね。心正しい人の信仰を試すように、次々と苦痛を与える神。そのヨブの如くに死病の苦痛にのたうち回る修道院長は、神を呪い、自分自身の信仰すら呪う言葉を口にしながら死んでいく。

その院長の死に際に対して、コンスタンスが言う、「あの方の悲惨な死は、他の人の死を軽くするための犠牲だったのだ」という解釈や、後半でも新院長が口にする、イエス磔刑の前に呟いた「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(神よ、なぜ私を見捨てたのか)という言葉もあって、後半、従容として自ら死へ歩んでいく修道女たちの姿を際立たせるために、この修道院長の悲惨な死が置かれている、というのがすごく分かる。プーランクの意図もそこにあったのだと思う。分かるんですよ。分かるんだけど、じゃあ自分の身になってみれば、やっぱりオレは修道院長みたいに苦痛と恐怖でのたうち回りながら死んでいくんだろうなぁ、って思っちゃうんだよね。人間なんて、そんなに強いものじゃない。もちろん、だからこそ、後半の修道女たちの行為が人智を超えた超人的な行動として聖性を帯びるのだけど、自分にはできないなぁ、と思ってしまうし、そういう、あまりにも人間的な死、というものも容赦なく描いてしまうプーランクの音楽の力に、なんだかぞっとしてしまう。

ラストシーン、分かっているのに、「サルヴェ・レジーナ」の合唱と共に不気味に鳴り響くギロチンの音に背筋が凍る。その恐ろしい音に向かって、しずしずと歩んでいく修道女たちの最後に、コンスタンスとブランシュが、あまりにも邪気のない綺麗な笑顔で続いていく。その姿はもうすっかりこの世のものではなくなっていて、我々は二人の天使が天界に旅立っていくのを、ただ涙で見送っていくしかない。

以前のMETライブビューイングで、あまりの美しさにモデルさんかと思ったイザベル・レナードは、ちょっと美人過ぎてブランシュの腺病質的なところが前半あまり感じられなかったのだけど、逆にそういうちょっと生命感あふれるところが、後半、奴隷のような境遇になっても生きようとする場面になると活きてくる。そんなブランシュが、最後に自ら死に向かう天使に変貌する所が涙腺決壊ポイント。

そのブランシュに対比して、最初から最後まで、この子は天使の魂を持ってるんだなぁ、と思わせたのが、エリン・モーリーのコンスタンスでした。このコンスタンスの無垢な強さが、ブランシュがあれだけ恐れていた死に対して、真っ直ぐ向き合う勇気をくれるんだよね。

「対話」というタイトル通り、重唱はほとんどなく、モノローグとそれに対する簡単な応答、そして重厚な合唱で構成されたこのオペラ。「死」という運命に対して、音楽でガチンコ勝負を挑んだような、胸の奥にざっくりギロチンの刃がたたきつけられたような、強烈な作品でした。プーランクってやっぱりすごいんだなぁ。