「黄泉がえり」〜手話の温かさ〜

時々、電車の中などで、聴覚障害の方と思われる方々が、手話で会話をされている姿をお見かけしますよね。その度に、なんとなく、不思議な気分がしていたんです。普通、障害を持っている方を見かけたりすると、「お気の毒だなぁ」とか、「かわいそうだなぁ」なんて同情心が出てくるもの。でも、手話で会話をしている彼らを見ると、いつも、不思議と、「うらやましいなぁ」という気持ちになってた。

障害を抱えている方のご苦労とかを了解していない、健常者のたわごと、とお叱りを受けるかもしれません。でも、私が、手話での会話を見ながら感じたうらやましさ、というのは、そのコミュニケーションの密度の濃さと、そのなんともいえない温もりなんです。

手話で会話をしている方々は、身振り手振りという身体表現の豊かさは勿論、顔の表情や身体の表情全体を使ってコミュニケーションをされている。その表現の豊かさ、自分の意志を伝達したい、という強い欲求に圧倒されるのです。それは、言葉という便利なコミュニケーションツールに寄りかかっている我々健常者が失ってしまっている、表現への欲求。言葉を発することのできる我々健常者の方が、どれだけ言葉をないがしろにし、結果として、浅薄で中身のないコミュニケーションを重ねていることか。それに比べて、言葉を失った彼らの持っているコミュニケーションの、なんと密度が濃く、そして、人間の肌の温もりに溢れていることか。

そんな思いを新たにしたのは、先日、日本映画専門チャンネルでやっていた、映画「黄泉がえり」を見たから。評判がいい映画だったので、一度きちんと見てみたい、と思っていたのです。評判通り、実にいい映画でした。「E.T.」が公開されたとき、「あんな単純な発想で、あんなに感動的な映画ができるなら、オレが先にやってればよかった」なんて、情けないことを言っていた映画人が一杯いました。「黄泉がえり」も、発想としては、極めてシンプル。でもシンプルだからこそ、味わい深い。同じ発想でも、スティーブン・キングの「ペット・セメタリー」みたいなホラーにしない所がいい。

この映画の中では、何度も泣けるシーンが出てくるのですが、ヘンな話、クライマックスのシーンよりも、挿入されるとても何気ないシーンが泣けるんですよね。兄弟でひたすらキャッチボールをしているシーンとか。でも中でも、もう泣けて泣けてしょうがなかったシーンが、田中邦衛さんの演じるお医者さんを巡るエピソード。映画を見ていない人もいるかもしれないので、詳しくは書きませんが、このエピソードを感動的なものにしている最大の要因が、「手話」なのです。

私が関わっている、オペラやオペレッタ、という表現の中で、我々は、身体と声、という、人間の持っているコミュニケーションツールを最大限に活用している。あるいは活用しなければならない。それだけのツールを与えられていながら、我々のコミュニケーション能力は、果たして十分活かされているんだろうか。音のない世界で、身体だけを使って自分を必死に表現している、あの聴覚障害者の方たちの方が、コミュニケーションということの本当の意味を、よく理解しているんじゃないだろうか。我々よりもよっぽど、彼らの方が恵まれているのかもしれない。携帯メールや破壊された薄っぺらい日本語の飛び交う我々の世界よりも、彼らの世界の方がよっぽど豊穣な意味に溢れているのかもしれない。そんなことを思いました。

あんまり、お奨め映画、という言葉は使わないんですが、「黄泉がえり」という映画は、間違いなくお奨めの映画です。やっぱり日本映画は面白い!