そして僕らは誰と戦えばいいのか~「怪獣は襲ってくれない」の余韻~

ここ数か月、さくら学院の卒業生の舞台を見ることが多くて、倉島颯良さんと黒澤美澪奈さんが共演した「じゃ歌うね、誕生日だしウチら」、新谷ゆづみさん出演の「怪獣は襲ってくれない」、そして今日は、飯田らうらさん出演の「消された声」を観劇。さくら学院の2人の関係性をベースに作られた音楽劇、ともいえる「じゃウチ」、新谷さんの鬼気迫る演技が評判になった「怪獣」、そして、重厚で暗い物語の中で未来につながる希望の光を見せてくれた「消さ声」の飯田さん、それぞれの舞台で輝く卒業生を見ることができました。でもやっぱりその中で、一番モヤモヤしている、というか、ずっと心の中に淀んでいるのが、新谷さんが出演された「怪獣は襲ってくれない」なんだよなぁ。そしてそのモヤモヤが、逆の意味でクリアになった気がしたのが、今日拝見した「消された声」なんです。

「消された声」は真っすぐ正統派のサスペンスドラマで、国家権力と裏社会の権力が手を結んだ巨悪に対して個人が戦いを挑む、というのが基本構造になっている。その巨悪に結びついた真犯人が絞られていくプロセスもスリリングで、若い役者さんの熱演や回り舞台の舞台道具そのものが演技をしているようなダイナミックな演出でグイグイ魅せていく、パワフルなお芝居でした。

でもねぇ、この「巨悪に挑む個人」っていう構図自体が、今の時代の混迷感としっくりこない感じもするんだよね。巨悪を暴こうとするのがフリーランスルポライター、というのも、最近とみに鼻につく社会正義を振りかざすメディアの胡散臭さもダブってしまって素直に見られない。もちろん、この舞台で描かれた「消された声」が現代には存在しない、とは決して言わない。確かに、何かしら大きな力によって踏みにじられ、圧殺された声は今の時代も沢山あるだろうと思う。でも、そういう消された声、という単語を見ても思い浮かぶのは「怪獣は襲ってくれない」のラストシーンのこっこの叫び声なんだよなぁ。「私が悪いの?!」「あんたたちは幸せなの?!」と叫びながら、舞台裏へ大人たちに抱えられて消えていった、まさに「消された」こっこの叫び声なんだよ。新谷さんに憑依したトー横キッズの声の方が、新宿の街角の吐瀉物をそのままこちらの顔面に投げつけられたみたいな強烈な印象で、今の時代の困惑と怒りをガツンとぶつけられたような気がするんだ。

「怪獣は襲ってくれない」を見てからもう1か月以上経つのに、このお芝居が与えた感情の波立ち、というか、混乱、困惑がずっと続いている感じがする。そして先月末に、ネットで流れたこの記事。

news.yahoo.co.jp

舞台で描かれた物語そのままじゃないか、と見まがうような現実を報道する記事。脚本・演出の岡本昌也さんがアフタートークでも何度もおっしゃっていた、「これはほぼ脚色していない、リアルな歌舞伎町の現実です」という言葉が、何一つ誇張ではなかったことを実感して、困惑はさらに増幅する。そして、今日、「消された声」を観劇して、自分の中の困惑が一つの文章になって浮かび上がってきた気がしていて、それは、「僕らは誰と戦えばいいんだ?」という問いかけなんだ。

舞台の上でも、悲惨な家庭状況を語るメロに向かって、ゼウスが、「戦えよ!」と叫ぶシーンがある。でも、メロは自分を虐待する母親の交際相手と戦うことはできない。なぜなら、それは自分の最愛の母親の愛する人だから。

こっこは実父から恒常的な家庭内暴力を受けているけれど戦う術を持たない。ただそこから逃げ出すことしかできない。逃げた先のトー横は居心地はいいかもしれないけどやっぱり地獄だ。そしていつまで待っても怪獣は襲ってくれない。突然出現した巨大な怪獣が放射能ビームで街を焼き尽くすこともなければ、そんな怪獣と戦ってくれる銀色の巨人もいない。愛する家族を理不尽に殺戮する国家権力の暴力という巨悪もない。それと戦ってくれる正義のマスメディアなんてのは幻想だ。そして、自分を傷つける家族と正面から戦うことは、自分の血、すなわち自分自身と戦うことだ。

そうして戦う相手を見失ってしまった、こっこやメロやにゃんぎまりの戦いは、結局自分を敵として、自分自身を破壊する方向に向かってしまう。絶え間ないリストカットオーバードーズ、飛び降り自殺。自分と戦っちゃだめだ、と言ってあげたいけど、その一方で、自分に負けるな、と言う大人だって多いよね。自分の弱さに向き合え、だの、指を自分に向けろ、だの。

さくら学院の楽曲が、2016年度の「アイデンティティ」以降、自分探しの内省的な楽曲に変化していったことも思い出したりする。2017年度の「My Road」も自分自身の進む道を探す七転八倒を描いていたし、そういう内省や自分の弱さとの闘いを歌った楽曲の一つの頂点が、2018年度の「Carry On」だった。でも2019年度の「アオハル白書」になって、さくらの子達は戦う先を自分達の外に見つけようとした。自分らしさを圧殺しようとする大人の常識や世間の無言の圧力に対する抗議のようなこの曲は、今の@onefiveの持っている外向きのエネルギーの源泉のような気もする。

東日本大震災のような自然災害、あるいは「怪獣」のような外からの破壊に対しても、人は一つになれるかもしれない。生きること自体が戦いになる日々の中で、シンプルな助け合いや自己肯定も生まれるかもしれない。でも「怪獣は襲ってくれない」。戦うべき敵はどこにもいない。

「消された声」の主人公たちもまた、家族から捨てられた施設出身の子供たちだった、というのも象徴的な気もする。最愛の人や仲間の無念を晴らすために戦う、という戦いの目的も、戦う相手も持つことができた「消された声」の主人公たちは、こっこたちに比べればまだ幸運だったのかもしれないよね。

でもね、大好きな新谷さんが演じていたってことを差し引いてもさ。こっこには生きてほしいんだ。生き延びてほしいんだ。戦うべき敵もいない、周りは全て自分の存在を否定する、それでも、自分自身を敵にしないで欲しい。自分を滅ぼしてほしくない。若い子が自ら命を断つのを見るのはつらい。それは、自分の身近で、一日でも長く、もっと長く生きていたいって思いながら、たった5歳で難病で亡くなった小さな子供がいるからかなぁって思うんだけどね。あなたの敵はあなたじゃない。あなたが戦う相手はあなたじゃない。じゃあ誰と戦えばいいんだよって言われて答えを出せない自分が不甲斐なくてしょうがないけどさ。生きてくれって、死ぬためじゃない、生きるために戦ってくれって、おじさんはただ思うんだ。

「シャンソン・フランセーズ」と「柳の木」~時を語り、時を超える~

今日は、9月29日に、千代田区立内幸町ホールで開催された、ピアニスト田中知子さんプロデュースの「シャンソン・フランセーズ」を拝見して思ったことをつらつらと。演奏会の感想、というより、かなり寄り道の多い雑談になっちゃいそうですが、ご容赦くださいまし。

うちの女房が長らくお世話になっているこのシリーズも12回目。サブタイトルは「ふたたび」。ちらしの主催団体を見ても分かる通り、後援団体を持たず、完全に自主公演として開催される最初の回だったのですけど、過去11回重ねてきたこのシリーズのエッセンスを濃縮したような回だったなぁって思います。特に濃厚に感じたのが、「時を語る」というテーマなんだよね。

以前のシャンソン・フランセーズでも、プログラム全体が一つの人生、あるいは時間の経過を表現している、というコンセプトを持っていたことは何度かあったと思うのだけど、今回はそれが非常に明確に提示されていた気がする。特にその主題を分かりやすく示していたのが、3回に分かれて演奏された「谷間に三つの鐘が鳴る」という曲。もともと3番から構成されているこの曲は、1番が、人の誕生を、2番が、若者の幸福の絶頂を、3番が、人の死を歌っていて、その人生の節目節目に、谷間の村に鳴り響く教会の鐘の音を歌っている。この1番がコンサートの冒頭に歌われ、2番が前半のラストに、そして3番が演奏会の終盤に歌われることで、プログラムが人の人生を綴っている、ということが明確に示される。

この3つの人生の節目の間に散りばめられるシャンソン昭和歌謡の曲も、全体的に若年層のキラキラした感じの曲から、次第に陰影を深めていくように構成されていて、だからこそ、最後に佐橋美起さんがしみじみと、でもとてもクリアに歌う「老夫婦」が胸に沁みる。そしてもう一つ、今回のサブタイトルにもある「ふたたび」という曲をプロローグ・エピローグに提示することで、単なる人生の始まりと終わりではなく、「転生」ないし「輪廻」という円環の構造を閉じる、とても知的に構成されたプログラムだなぁ、と思って聞いていました。

ここでちょっと話が飛ぶのだけど、ちょうどこの演奏会の直前、9月23日に、神奈川県民ホールで開催された、青島広志先生の「少女マンガ音楽史」を聞きに行っていたのです。その時に聴いた、「柳の木」という作品を思い出したんですよ。

漫画家を目指していた青島先生の萩尾望都先生への愛とリスペクトに溢れた演奏会でした。

「柳の木」は、「イグアナの娘」や「訪問者」「メッシュ」など、複数の萩尾作品の主題となっている「親と子」の関係性を、マンガならではの手法で詩的に描き切った傑作短編で、演奏会では、この漫画をスライドで映写しながら、青島先生の器楽曲が流れる、という構成でした。でもこの作品が、まさに「時を語る」という、シャンソン・フランセーズと共通するテーマを持った作品だったんだよね。

「柳の木」の原作漫画は、川の対岸から、河原にぽつんと立っている柳の木を映し出す固定カメラの映像のような、まったく同じ構図のコマを重ねていく手法を取っています。

冒頭からラスト近くまで、この同じ構図が続く。しかし同じ構図の中で時はどんどん流れており、柳の木の周辺を駆け回っていた小さな男の子は、成長し、恋をし、家庭を作り、年齢を重ねていく。しかし、彼の成長を見守る柳の木の下の女性は、いつまでたっても年を取らない。この女性は、柳の木と一体化した、男の子の母親の魂で、ずっと彼の成長を見守っている、という親子の絆の物語。

萩尾先生がこの「柳の木」で試みた、同じアングルのコマで違う時間を切り取ることによって時間経過を表現するという手法は、手塚治虫が既に何かの作品で試みていた記憶もあって、マンガ、という表現手段が時間経過を表現する時にかなり一般的に使われている表現だと思う。それをここまで突き詰めた作品はあまりないかもしれないけど、さらにいえば、漫画の原型ともいえる「絵巻物」の中でも、時間経過を静止した画像で表現する試みは沢山あって、一つのグロテスクな典型例が、「九相図」という、小野小町のような絶世の美女が、死んで死体が腐乱し骨になっていく様を描いた絵画かな、と思います。もともと平安時代から、絵巻物は、「巻き取り、広げる」という行為を進めることで、同じ平面上で時間経過を表現する絵画表現でした。ずっと長く広げると、同じ画面に違う時間軸が描かれていたりする。西洋絵画でも、同じ画面上で違う時間軸が描かれる、というのはよくある手法で、同じ人物が3人描かれている、なんてこともよくあるよね。そう考えると、ミケランジェロのシスティナ礼拝堂の大天井画、なんてのも、コマ割りされた壮大なマンガとして聖書の物語を語っている、と言えなくもない。

かなり話がそれたけど、「静止した絵によって切り取られた人生の一瞬」を積み重ねていくことによって、一つの人生、時の流れを語る、という「柳の木」の構成と、「歌によって語られる人生の瞬間」を積み重ねていく「シャンソン・フランセーズ」の構成に、なんとなく共通するものを感じたんです。同じ「時を語る」というテーマに対する違うアプローチ、というか。

そこで逆に自分的に印象強かったのが、「絵画」、あるいは「漫画」という芸術表現が静止しているのに対して、「歌」も「音楽」も静止していない時間芸術である、という相違なんだよね。萩尾先生がその繊細なタッチで切り取った登場人物たちの人生の一瞬一瞬は、その線によって固定されている。でも、「歌」は流れ、そして消える。そしてもう一つ大きな要素は、「歌い手」自身が時を重ね成長していく、ということ。

シャンソン・フランセーズ」も12回という回数を重ねる中で、常連の歌い手さんもその歌唱技術を変化させていくし、新しい歌い手さんを迎えたり、シリーズの中の定番曲を歌う歌い手も毎回変わっていったりします。それがこのシリーズの新鮮さ、常に変化していく移ろい、すなわち「時の流れ」を感じさせたりもするのだけど、例え変化したとしても、それでも明確に、「シャンソン・フランセーズ」であり続ける変わらないテイストがある。それは田中知子というプロデューサーの軸が変わらずぶれない、というのが最も大きな要因かな、とも思うけれど、何か他の要因も含まれている気もするんですよ。

何か結論があるわけではない漫然とした文章になってしまって申し訳ないのですけど、ここでもう一つ跳躍をします。こういう色んな新しい要素や、常に変化していきながら変わらない、「テセウスの船」的な存在って、音楽の世界では結構あるんじゃないかな、という気がします。ウィーン・フィルベルリン・フィルといった一流オーケストラの変わらない音色とかは言うまでもなく、身近な所では、合唱コンクール吹奏楽コンクールの常連校などが、「山西サウンド」「安積黎明サウンド」「淀工サウンド」といった変わらない音色を持っていたりする。それは同じ指導者がずっと指導している、という要素も大きいと思うけど、3年経てばメンバーが完全に入れ替わる学校部活において、同じサウンドや音色を保ち続けている、というのは指導者だけの意志ではなく、表現者自身、あるいはそれ以外の何かの意志が働いているような気もする。その意志が、一つの人生の終わりを告げる鐘の音が鳴り終わるとともに、「ふたたび」その鐘の音を鳴り響かせているような。

自分がどっぷりハマっている「さくら学院」というアイドルグループもそういう存在でしたけど、どれだけ歌い手が変わっても、表現しているメンバーが入れ替わっても、変わらないそのグループの軸、テイスト、というものがある気がしていて、「シャンソン・フランセーズ」というシリーズも、田中知子というプロデューサーの美意識を軸にして、その周辺の表現者達を巻き込んで、変化しつつも同じテイストを保ち続ける「テセウスの船」になりつつある気がします。ひょっとしたらこの原動力、変わらない意志そのものが、人生を鮮やかに切り取る「シャンソン」という音楽自体が持っているパワーというか、魔力なのかもしれないけどね。田中さん、今回も女房がお世話になりました。女房がこのシリーズに参加するきっかけにもなった、「キャラメル・ムー」、2度目のムーは、田中さんのぶれない軸に沿いつつも、しっかり成長を感じさせる出来でございましたでしょうか。

どうして風船なのだろう。

 

時を語りながら時を超えていくこのシリーズの行く末をこれからも、柳の木の下にひっそり立って見守りたいと思います。

共演者の方々も、お疲れさまでした。田中さん、メンバーが4人になろうが結婚しようがアイドルであり続けるももいろクローバーZに負けず、100回公演まで走り続けてくださいね。あと88回!

ブルーアイランド版コシ・ファン・トゥッテ~家の呪縛を解くために~

9月14日というのは自分にとって大変特別な日になりまして、18年ぶりにアノ球団がアレしたわけですよ。自分は関西出身なのでどうしてもアノ球団のファンなんです、という説明って世間的には納得感強いんですけどね、でも別に関西出身なら必ずアノ球団のファンにならなきゃいかん、というキマリなんかないんですよ。確かに環境の圧力のようなものはありますよ。在阪TV局は毎日のようにゴールデンタイムにアノ球団の試合を放送してますしね。アノキチといわれるタレントさん達が自分の番組で六〇おろしとか歌いまくってたりしますよ。でもねぇ、避ければ避けられるんですよ。裏番組だってあるわけですし、関西に住んでたって、〇甲おろしを聞かずに一生過ごすことだってできるわけですよ。にもかかわらず自分がアノファンになっちゃったってのは、やっぱり親の影響が大きいと思うんだよなぁ。

別のアノファンの人から、「僕は遺伝性のアノキチなので」と言われてすごく納得したことがあって、やっぱり親がアノキチで、しかも関西在住だと、毎日毎晩アノ球団の試合を見るわけですよ。子供だもの、結果に一喜一憂する親の心情にそのままシンクロして、田淵だ藤田だ江夏だワイワイ言ってたわけですよ。結局そうやって自分の身体にアレが刻印されてしまったわけで、これはもう、「親の呪い」というか「家の呪い」だよねぇ。

急に何の話をしておるのか、というと、この9月14日に見に行った、ブルーアイランド版コシ・ファン・トゥッテ「男も女もみんなこうしたもの」の感想を書こうとしているんですけどね、なんだってアレの話になったんだ。いや、同じ日にアノ球団がアレした、というだけじゃなくて、一応テーマとしては共通しているんだよ。「家の呪い」というか「家の呪縛」というテーマでね。

ブルーアイランド版、というのは、青島広志先生の演出によるオペラの上演、と思っちゃいけません。オリジナルのオペラをネタにした、青島広志先生の心象風景のお蔵出し、と思うのが一番しっくりくる。でもそういう感想というのも、実は今回改めて感じたことだったりします。ちょっと冒頭に提示したテーマからは外れるけど、まずは、そちらの話を。

定番オペラやオペレッタに独自の設定や解釈を盛り込む、というのは、20世紀のオペラ演出で一般的になった手法で、ドン・ジョバンニの舞台を現代のハーレムに置き換えたピーター・セラーズの演出に代表されるように、オペラの持つ普遍的な価値や意味を現代によみがえらせようとする一つの試みだったと思います。でも、青島演出のオペラというのは、前述のようにオリジナルのオペラをネタにして全く別の世界を表現しようとする試みで、今回のコシファンを拝見して、「あ、これって野田秀樹さんのシェイクスピアへのアプローチと同じ試みかもな」と思ったんですよね。

野田秀樹さんがNODA・MAPでやっていたシェイクスピアの翻案、というのも、オリジナルのシェイクスピアを全然違う設定で読み替えてしまう試みで、そこから逆に日本語の豊かさや演劇の本質が見えてくる刺激的な舞台でした。青島先生がブルーアイランド版を始められたのがいつごろかは存じ上げないのですが、年代的にも野田秀樹さんの小劇場演劇ムーブメントと重なっている気がするし、そもそも舞台構成とか色んな所に、レビューやスラップスティック的な色んなギミックを持ち込んで猥雑な雰囲気を作り上げる小劇場演劇的なアプローチに共通した雰囲気を感じちゃったんですね。

今までいくつかブルーアイランド版のオペラを拝見しているのだけど、小劇場演劇との共通項を感じたのは今回が初めてで、なんでかな、と思ったらやっぱり「コシ・ファン・トゥッテ」というアナーキーな素材そのものの持っているシェイクスピア的セリフ劇の側面と、シチュエーションコメディとしての要素の強さが影響している気がした。コシ・ファン・トゥッテにおける変装した婚約者、という仕掛けは、シェイクスピア演劇において多用される「男装するヒロイン」という仕掛けに源流があるし、二組のカップルの恋の行方と大団円、という構造そのものが、シェイクスピア時代から綿々と受け継がれた西洋戯曲の基本パターンだったりする。要するに、モーツァルトのオペラブッファってシェイクスピアから始まるルネッサンス演劇からそれほど遠くない場所にあるんだよね。

さらに今回の青島版コシにシェイクスピア的な印象を感じたのが、青島先生が持ち込んだ、コシの男女4人が、そもそも同性愛カップル2組だった、という「性の倒錯」という仕掛け。前述したように、シェイクスピア劇には「男装するヒロイン」というのが頻出するのだけど、これってもともと、当時の演劇において女性役を演じるのが変声期前の少年だったことが多く、この少年がさらに男装して主人公に恋を指南する、というシチュエーションが、当時の観衆に倒錯的な興奮を与えた、というのが大きな要素だったそうです。演劇における性の倒錯、というのは、シェイクスピア時代にとどまらず、日本の歌舞伎により現代にまで受け継がれ、1970年代後半のイギリス戯曲「クラウド9」などでも見られた手法で、男優が女性役をやり、女優が男性役をこなす、という倒錯の中に、逆に演劇という表現の自由度を表す仕掛けだったりする。プロセニアムという閉じられた世界の中で、性も時代も飛び越える自由が表現できる、という。

そういう、時間も性も飛び越える、という舞台の持つ表現の自由さの中で、青島先生が今回のコシに持ち込んだもう一つの仕掛けが、主人公の4人の男女の母親の生霊が常に舞台の奥に存在しており、4人の行動を束縛する、という仕掛け。自由であるはずの舞台の上で、登場人物を縛る「家の呪縛」「血の呪縛」という仕掛けが、見ていて笑える演出なんだけど、ちょっと個人的にはゾッとするような恐怖感も感じたんだよなぁ。

冒頭のMCで、青島先生が、ご自身の幼少期の経験として、男性的なるもの、女性的なるものを身に着ける少年期のご家庭で、おばさまやおばあさま、といった女系親族の影響が強くて、女性的なものへのあこがれや親しみ(女言葉や女性的な美意識)が強かったんだ、という話をされていて、そういう「家の呪縛」ってあるよなぁ、と思ったんだよね。前回拝見した青島版「蝶々夫人」でも、蝶々さんの父の亡霊とピンカートンの母の亡霊が霊的闘争をする、それが、蝶々さんが自分の息子を手にかけるという悲劇につながる、という読み替えをやっていて、この「家の呪縛」「血の呪縛」というのは、青島版における一つの大きなテーマなのかもしれないなぁ、なんて思った。まぁそれで、冒頭のアレの話とつながってくるんですがね。私がアノ球団の勝敗に一喜一憂してしまうってのも、まさに「家の呪縛」。

青島版コシの4人は、この「家の呪縛」を否定し、自らを開放するために、「性規範の否定」という手段を使う。そもそもLGBTというのは、家族という血縁でつながる制度を破壊する力を持っているので、ある意味究極の解放の呪文なんだよな。それは舞台表現そのものが持つ極めてラディカルな武器で、歌舞伎とならんでその「性の倒錯」という解放の呪文を舞台表現の手段として維持してきたタカラヅカのトップスター、大和悠河さんが今回出演されていたのも恐らく偶然ではない。

まぁねぇ、家族観に関する「家の呪縛」はLGBTという飛び道具で破壊することができるけどねぇ、アノ球団の呪縛を解く飛び道具はどこかにないかねぇ。だれかがテレビで、「宗教の持つ力がそれほど強くなくなっている現代において、文句なしに好き、と言えるものを持っている阪神ファンって、一種の宗教団体みたいに見えますね」と言っていて、そうなんだよなぁ、と思いました。これは一種のマインドコントロールだよなぁ。あんまり普段の生活に影響しないからいいけどさ。日々星占い見るみたいにアノ球団の勝ち負けに一喜一憂する呪縛からそろそろ逃れたいと思うんだよ。これはオペラの観劇感想文だったはずなんだが、全然違うものが入り込んでしまった。これも何かの呪いだなぁ。

出演者の皆様、青島先生、お疲れさまでした。また、あっと驚く色んな引き出し見せていただくのを楽しみにしております。

怪獣は襲ってくれない~新谷ゆづみはガメラである~

今日、新宿トップスシアターで観劇した「怪獣は襲ってくれない」。芝居の内容そのものも十二分に心揺さぶられるものだったので、その感想は(ネタバレ防止の意味でも)終演後にまたじっくり書きたいと思いますが、今日は「こっこ」を演じた新谷ゆづみさんのことを集中的に書きたいと思います。この人の過去の映像作品の演技でも、ずっと感じていた「新谷ゆづみさんという役者さんは一体何者なのか?」という疑問が、今回の舞台を拝見してちょっと理解できた気がした。その答えが、このブログのタイトルにも書いた、

 

「新谷ゆづみはガメラである」

 

という結論。えっと、この文章はちゃんと着地するのだろうか。でもね、新谷さん自身が怪獣なんじゃないですか、という感想が結構ツイート、じゃない、ぺけ(X)さんに溢れている中で、「怪獣の中で言うなら、ガメラだよなぁ」という連想した人も結構いると思うんだ。そのあたりの感覚を解き明かしていきたいと思います。

ぺけさんに投稿された新谷さんの舞台裏の姿。ガメラゴジラと対峙している。

 

新谷さんという人をさくら学院の頃から知っている人間として、いつも不思議だったのだけど、この人は本当に自分を主張しない人なんですよね。さくら学院では毎週生配信の番組があったのだけど、そこで話題を振られた新谷さん、自分の主張をすることが非常に少なかったんです。それって卒業した後も同様で、変わらないなぁって思ったのが、先日新谷さんのラジオでも放送された、新谷さんのバースデーイベントの八木美樹さんとのセッション。お客様から事前にもらった質問に二人で答えていくのだけど、新谷さんは一度も自分の主張をしない。八木さんが「たこ焼き」と言えば「たこ焼き」。「もんじゃ」といえば「もんじゃ」。新谷さんが本当に好きなものは何なのか、ご自身がお勧めしたいものは何なのか、一切言わない。全部八木さんの意見に合わせてしまう。

そういう姿って、以前から何度も見ていて、話している相手が言うことに寄り添ってしまうんですよね。「えぇ?」「うーん」「なんだろう?」と言っているうちに、他の人が先に何かを発言して、それを聞いて、「そうだね、それだね」と言ってしまう。

正直、さくら学院を卒業して女優の道に進む、と聞いた時、一番心配したのはこの人のこういう所だったんだよね。生き馬の目を抜くような自己アピール競争の激しい芸能界で、こんなに自己主張しない新谷さんが本当に生き残っていけるんだろうか、って、保護者目線の強いさくら父兄としては妙な心配をしてしまったんですよ。在学中から定評のあった演技力や、「さよならくちびる」で見せたビビッドな演技を見ていたから、演技力は全く心配していなかったのだけど、freshで後ろに引いてしまう姿とか、森センに詰められてもなかなか自分の意見を言おうとしない姿を見ていて、大丈夫かな、この子って、ずっと思ってた。

逆に言えば、これだけ自己主張のない人が、表現者として立った瞬間に吹き上がる感情の炎の強さが本当に謎だったんだよね。「麻希のいる世界」「(instrumental)」「やがて海へと届く」「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」、どの作品でも、新谷さんの演じる人物の感情の迸り、その「憑依」する感じってのは本当に嘘がない。この人が演技として口にする「好き」という言葉の密度の高さ。こんなに命がけの「好き」を口にできる役者さんをあまり知らないし、「やがて海へと届く」で、笑顔のままボロボロと涙をこぼし始めた新谷さんの演技に衝撃を受けた人は多かったと思います。

今日の観劇で、一つその謎が解けた気がしたのが、アフタートークで、「感情を爆発させるシーンで、新谷さんなのか、こっこなのか、どちらの感情で演技しているのか」と問われた新谷さんが、「ここはもう感情の塊というか、こっことか新谷、という個人を超えて、感情そのものを吐き出している感じで演じてますね」とコメントされていたんですよね。そのコメントを聞いた時に、「そうか、この人はガメラなんだ」と急に腑に落ちたんですよ。さあ、やっとここで冒頭の文章に来たぞ。無茶苦茶唐突だが。

平成ガメラ第三作「ガメラ3邪神覚醒」で、手塚とおるさんが演じていた倉田という謎の人物が、こんなセリフを言うんですね。「ガメラ超古代文明が生み出した一種の器だ」と。地球を守ろうとする地球自体が持つ治癒力である「マナ」の力をその身に閉じ込め、パワーに変える器が「ガメラ」だと。

演じる人の感情、あるいは演じる「人」だけではなく、「トー横キッズ」という、社会の全てから見捨てられた子供たちの迸る怒りや悲しみという感情自体を取り込み、それを増幅して放射する「新谷ゆづみ」という器。そう理解すると、この人が極端なまでに自分を主張しない、というのもなんとなく理解できた気がしたんですね。器が自分を主張してしまうと取り込む感情に濁りが出てしまう。ピュアに演じるべき感情を表現するのに、自分自身の感情や意見を反映させることは逆に邪魔になる。

そういう役者さんって、意外と少ない気がする。キムタクさんなんか典型的だと思うけど、どんな役をやってもキムタクさんだよねぇ。吉永小百合さんだって、何をやっても吉永小百合さん。それだけの個性とか、その人にしか出せない佇まいを持っている、というのはもちろん素晴らしい天賦の才だと思うのだけど、新谷さんはそういう「役を自分に引き寄せる」作り方とは全く逆の方向で演技を作っている気がする。その役の持っている感情そのものを取り出して、それを自分の中に取り込み、増幅して放射するような演技。ガメラのような入れ物、増幅器としての役者さん。

でも、ちょっと話がそれるかもだけど、そもそも古代、「演技」という行為自体、神事であり、神を自らの身体に憑依させることで始まったものなんだったんだよね。憑依ということ自体が自分の個性を没却することからスタートするので、古代ギリシア演劇でも、日本の神楽や能楽でも、演者は仮面を身に着けて自分の個性を消した。そして演じる役の「器」になりきった。その究極の形が人形浄瑠璃だと思うんだよね。人間ではなく人形が演じる、という「器」の究極の形。ガメラの中でも、勾玉を通じてガメラと精神交流してしまう少女が「巫女」と表現されていたけれど、新谷さんは「巫女」のような立ち位置で演技をしているのかもしれない。さすが、古神道の聖地である熊野や密教の聖地高野山を抱く和歌山出身の女優。

もちろん、新谷さんが人形のような無個性、無感情な人格であるか、といえば全然そんなことはなく、涙もろかったり、周囲への心配りが厚かったりする人柄は色んな所で垣間見れる。周囲の流行に流されない、いつまでたっても「都会に染まらない」自分を守っている強い精神も持っていると思う。ただ、こと演技や芸能界での立ち位置、という観点でいえば、「優秀な器に徹する」というこの人の方法論が見える気がして、それが無数の映像監督さんや演出家さん達に信頼され、印象的な役を任されるこの人の最大の武器のような気もするんです。「新谷ゆづみはガメラである」と考えると、その平成ガメラを監督した金子修介監督のお嬢様、金子由里奈監督の作品に出演した、というのも、ちょっと「ガメラ」との縁を感じたりする。

なんか本当に無理やり、無茶苦茶な文章書いていますけど、それだけ興奮した舞台だったし、それだけ心揺さぶられた(というより、心引き裂かれるような痛みまで感じた)新谷さんの演技だったんですよね。明日もう一回観劇予定。この女優さんが取り込み、何万倍にも増幅して放出する、トー横キッズたちの思いを、しっかり受け止めたいと思います。ギャオスみたいに一瞬で爆散しそうな気もするが。

♭FLATTO音楽演劇「じゃ歌うね、誕生日だしウチら」〜私たちは、奇跡だ〜

今回は本日観劇した、♭FLATTO音楽演劇「じゃ歌うね、誕生日だしウチら」(以下、「じゃウチ」)の感想を思いっきり書きます。無茶苦茶心揺さぶられたし、無茶苦茶色んなことを連想したパフォーマンス。ちょっと整理しながら書くので、例によって支離滅裂になっちゃうかもしれないけどご容赦のほど。


♭FLATTOというプロジェクトは、黒澤さんが出演された第一回公演「春はのけもの」、第二回公演「夏のばけもの」を見ています。観客とお客様の距離が極限まで近く、お客様のいる空間そのものも演劇空間としてしまうこのプロジェクト、演者自身のパーソナリティがかなり生な形でさらけ出される感じがあるんだよね。今回の「じゃウチ」では、ライブスペースと客席、というある程度明確な区分があって、そこを越境する瞬間が少なかったせいか、パフォーマンスそのものをしっかり楽しめた側面はあるのだけど、ただ、そもそもこの企画自体が、倉島颯良さんと黒澤美澪奈さんという2つの才能が出会った奇跡という現実のドラマに立脚しているために、フィクションと現実、演技とリアルの境界を越境する瞬間が何度もあり、これぞ日常空間を演劇空間に変貌させてしまう♭FLATTOの醍醐味なんだよなぁ、と思った。


逆に言えば、僕らの人生の中にだって演劇になるようなドラマや奇跡っていっぱいあるんだよね。今回演じられたアイとユウの物語は、現実の黒澤さんと倉島さんの奇跡のドラマよりも、我々の日常生活の隣にありそうな等身大の若者の物語に仕立てられていたけれど、それでも、夢への思いや挫折、人への思いやりとすれ違い、沢山のドラマを内包している。2人の人生のドラマは、わずかに語られる手紙と、歌い踊る2人のパフォーマンスと音楽でしか語られないけれど、奇跡のような強い絆で結びついた2人を引き裂く見えない壁に苦しむ姿もしっかり描かれていて、2人の人生が決して笑顔だけではなかったことが示唆されていたりする。


その2人のドラマには、否応なく倉島颯良さんと黒澤美澪奈さんの出会いとこれまでの足取りが重なって見えてくるんだよね。さくら学院という場所で奇跡的に出会い、2年間という短い期間で深い絆を繋いだ2人。共に女優という道を選びながら、これまでの歩みは2人とも決して平坦ではなかった。そして、倉島さんのAmuse退所と、その後、今までとは異なる場での活躍を見せ始めた矢先のこの舞台。


パフォーマンスのバランス、という意味でも、黒澤さんと倉島さんっていいバランスだなぁって思うんですよね。声のパートも倉島さんがソプラノで黒澤さんはアルト。身体のシルエットに恵まれていて、ダンスの所作の一つ一つが艶っぽく決まる倉島さんと、小柄な身体を身体能力の高さで躍動的に見せる黒澤さん。倉島さんの腕の軌跡が美しいパラパラダンス、黒澤さんの後半パンツスタイルになった時のソロダンスの躍動感とか、対照的だからこそユニゾンになった時のカタルシスが高いんだよなぁ。


もう一つ、演劇的な感想を言うと、2人の人間の運命的な出会いとその奇跡というドラマを手紙で綴っていく、という構成が、昔大好きだったセゾン劇場の「ラブレターズ」と重なって、そこも胸キュンポイントだったんですよね。手紙だからこそ伝えられることを年月と共に重ね続けて、「ラブレターズ」の男女は直接会うことでむしろお互いの運命の歯車を狂わせてしまうのだけど、アイとユウの2人は直接「対話」をし、ライブという時間を共有することで、共に生きていく勇気を得る。時間と空間を超えるコミュニケーション手段である「手紙」によって、過去と現在が目の前でだまし絵のように重なって見える演劇的構造が本当に好き。


毎年お互いの誕生日を祝い合おう、というアイとユウの約束が、アンコール曲のさくら学院2016年度卒業曲で、7年前の約束と重なり合った瞬間、父兄の涙腺は完全に決壊。さくら学院という学校が自分の心を惹きつけてやまないのは、倉島さんと黒澤さんのような出会いが、絆の物語として今も続いていくことで、人と人の出会い、そしてそこからまた新たな出会いや物語が生まれてくる奇跡を目の前に見せてくれることなんだよね。「私たちは奇跡だ」というセリフがあったけど、この世には奇跡が起こるんだよって、こんな夢も希望もなくなったジジイにも信じさせてくれたのが、さくら学院という学校だったなぁって、改めて思いました。

 

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黒澤さん、すみません、倉島さんのオリジナルカクテル選んじゃいました。美味しかったです。

さくら学院の楽曲のベースラインが好き

世の中ではKAWAII SONICで@onefiveが盛り上がっていたり、Zepp HanedaでBABYMETALが盛り上がっておりますが、仕事の都合とかチケット確保できなかったりと蚊帳の外の自分は、ひたすらさくら学院の楽曲を聞きまくっている引きこもり父兄状態になっております。そんな中で、さくら学院の楽曲のベースラインのことをちょっと語ってみたくなりました。

他のアイドルさんの曲を一杯聞きこんでいるわけでもないので、さくら学院の楽曲をことさらに賛美しようというわけではなくて、単純に、さくらの曲に時々現れるかなり凝ったベースラインが好きだなぁ、という個人的な好みの話です。リズム楽器として、通奏低音のビートをしっかり刻む単純なベースラインと違って、旋律楽器としてのエレキベースが対旋律をがっつり鳴らしていたり、時々かなり荒ぶったソロを弾いていたり、エレキベースではなくて打ち込みでベースラインを鳴らしているのにその音の厚みや音色にかなりこだわっている曲が結構あって、それがたまらなく好きなんだよなぁ。

もともと、小中学生という変声期前の少女たちがメインボーカルを取っているので、中元すず香さんや戸高美湖さんのような少数の例外を除くと、そんなに豊かな倍音を持たない硬質な声が主旋律を取ることが多い。なので、ベースラインがくっきりと分厚い音像を形作ることで、曲の音の厚みが増す感じがある。ベースラインの倍音の上に、カツンとした響きの少女たちのボーカルがハマった時の快感。

さらに言うと、さくら学院の楽曲自体が、年を重ねるにしたがって低音部の厚みを増していった感じもするんですよね。例えば、2012年度~My Generation~に収録された「スリープワンダー」と、2017年度~My Road~に収録された「スリープワンダー」を聴き比べてみると、明らかに後者の方がベースの音が強調されて聞こえてくる。さらに典型的なのは、2014年度~君に届け~の「アニマリズム」と、2020年度~Thank You~に収録された「アニマリズム」。もう別の楽曲じゃないかと思うほどに音像設計が変化していて、後者の方がこれでもかとばかりにベース音の厚みが強調されている。さくら学院の楽曲を多数作編曲しているベーシストの本田光史郎さんの影響もある気もするんだけど。

ということで、個人的に、この曲のベースラインが好き、という曲をいくつかピックアップしてみました。さくら学院の楽曲を知らない方も、是非一度聞いてみて欲しいし、さくら学院の楽曲に親しんでいる方も、この曲のベースラインの音にちょっと耳を傾けていただくと、決して妥協することのなかったこのグループの楽曲の新しい魅力を再発見できるかもしれません。そして、「お前、ホントに聴き方が浅いなぁ、なんであの曲のあのベースラインを取り上げないんだよ!」というディープな父兄さんの感想もあるかもしれません。いずれにせよ、さくら学院というグループが世に送り出した楽曲たちの魅力について色々語ってみたい、というのがこの文章のメインの目的になります。正直、「この曲のベースラインも無茶苦茶いいなぁ」と思った曲も他にも沢山あったのですけど、長文になりすぎるので、泣く泣く数曲カットしております。

 

・Dear Mr. Socrates[バトン部 Twinklestars](2010年度~message~収録)

 今回、この記事を書こうと思って聞き直した楽曲の中で、こんなにベースラインが遊んでいたんだ、と驚いた楽曲です。全体の音像がそんなに低音を強調していない中で、ベースラインも高音域で軽やかに遊んでいて、曲全体をとても軽やかな感じに仕上げている感じがします。この曲ほど遊んでいないんですけど、同じバトン部の「天使と悪魔」(2014年度~君に届け収録)のベースラインも時々軽やかに遊んでいる箇所があって、これがバトン部の楽曲の特徴だったのかな、とも思います。

 

・サイエンスガール・サイレンスボーイ[科学部 科学究明機構ロヂカ?](2012年度~My Generation~)

 Bメロから入ってくるベースラインがサビになるまで複雑な対旋律を奏で続ける。サビで一瞬リズム系になったかと思うと間奏でまた暴れ始める。一部は打ち込みかな、と思うのですけど、この複雑なベースラインが、DNAの描くらせん構造のように、曲の印象を迷路のようなミステリアスなものにしている感じがあります。科学部は、2012年度~My Generation~の「デルタ」も、2013年度~絆~の「Welcome to My Computer」も、ベースラインが本当に凝っていて、楽曲の知的な世界観と合っている感じがします。

 

・予想以上のスマッシュ[テニス部Pastel Wind](2013年度~絆~)

 この曲のベースラインはもう最初から最後まで、奏者が遊んでいるみたいな軽やかさがあります。リズム感、スピード感、というより、主旋律とネット越しにラリーを楽しんでいるようなセッション感がたまらなくよい。2012年度~My Generation~収録の「スコアボードにラブがある」にも共通する遊び心溢れるベースラインです。

 

・キラメキの雫(2015年度~キラメキの雫~)

 この曲のベースラインはそんなに特徴的なフレーズを奏でていないのですけど、ずっとロックベースの荒ぶる感じが続いていて、それが爆発するのが間奏のチョッパーベースのソロなんですよね。小中学生アイドルがチョッパーベースのソロをバックに踊る、というだけでなんだか胸沸き立つ感じがあります。チョッパーベースといえば全編チョッパーベースが暴れている「あきんど☆魂」という名曲もありますね。

 

・My Road(2017年度~My Road~)

 今回この記事を書いたのはこの曲のせい、といってもいいくらい、この曲のベースラインのカッコよさには本当にシビレました。これは恐らく編曲の本田光史郎ご自身がベースを弾いてらっしゃるのじゃないかな。間奏でのピアノとベースのバトルも無茶苦茶カッコいい。2014年度~君に届け~収録の「さよなら、涙」や、2017年度~My Road~の「未来時計」もピアノが印象的な曲なのですけど、どちらもとても印象的なベースラインがあります。ピアノにベースが絡むとどこか緊張感というか、曲に切迫感が生まれる感じがします。「悔しくて大泣きしたって」の歌のバックで鳴っているベースの対旋律がなんだか温かいんだよなぁ。

 

・クロスロード(2019年度~Story~)

 コロナ禍のために卒業公演が縮小されて、配信ライブで1回しか披露されなかった曲ですけど、この曲は歌い手をベースが支えている感覚がすごく強くて、特に1番・2番の歌いだしは、4人の声とベースラインがほとんど同じウェイトで鳴っている感じがして、4人とベースの5重唱のように聞こえるんです。

 

「クロスロード」もそうだし、「My Road」、そして、2020年度~Thank You~の「The Days~新たなる旅立ち~」でもそうだけど、さくらの楽曲のベースラインは決してとがった音じゃなく、丸みや柔らかさ、どこかに温かさがあって、さくらの子達の歌声に寄り添う感覚が強い気がしています。考えすぎかもしれないけど、ベースの低音がさくらの子達の声を包み込んだり、あるいは声に推進力を与えているような、前に向かって背中を押してあげているような感じが、さくらの子達を見守る職員室の先生の思いを代弁しているような感覚までする。そんな感覚が、自分がさくらの楽曲のベースラインに魅かれる理由なのかもしれないって思ったりします。

 

夏の推しゴト前半をまとめて~長生きすると色んな経験するよ~

この夏はさくら学院卒業生や縁のある方々が、沢山のイベントや舞台で活躍していて、さすがに全通というわけにもいかず、自分のお財布とスケジュールをにらみながらぼちぼちと参戦しています。7月・8月に参戦、あるいは参戦予定のイベントなどを並べてみます。

 

・7月15日、@onefiveが出演したSPARK 2023 in YAMANAKAKO

・7月22日、新谷ゆづみさんのお誕生日イベント

・8月6日、@onefive出演のTokyo Idle Festval(TIF)

・8月11日、遠坂めぐさん出演のストリートピアノフェス

・8月20日、倉島颯良さん、黒澤美澪奈さん共演の、♭FLATTO「じゃ歌うね、誕生日だしウチら」

・8月24日、METALVERSE

 

9月以降も、新谷ゆづみさんの出演の舞台「怪獣は襲ってくれない」とか、飯田らうらさん出演の舞台「消された声」など、楽しみな現場が続きます。様々なエンターテイメントの現場で活躍している卒業生が多いので、どうしてもある程度現場を選ばないといけないのが悲しいくらい。

ここまで参戦したイベントの感想を書き始めるときりがないのだけど、まずは、@onefiveの出演した2つのフェス、SPARKとTIFのこと。

そもそもフェス、というものに参加したのが、昨年のやついフェスが初めてで、その後が遠坂さんが出たHUGロックフェスくらい。どちらも渋谷のライブハウスでのフェスなので、SPARKやTIFのような、野外ステージでの大規模フェス、というのは初めての経験だったんですね。

推しの@onefiveは、3人で臨んだSPARKにせよ、SKYSTAGEとHOTSTAGEで弾けまくったTIFにせよ、常に前進し攻め続けるこのグループのパワーを見せつけてくれました。TIFで披露された「Justice Day」はどこかバーバリッシュな印象もある祝祭的なパワーソングで、ちょっと鳥肌立つくらいのエネルギー感じた。

個人的には、@onefiveは、洗練された楽曲と、4人の鍛え抜かれた肉体を存分に生かしたパワフルなのに繊細で美しいダンスで魅せるグループなので、SPARKのような野外フェスはちょっと不利かな、という気がした。グループの推進力になっているパワーのKANOさんが欠場した、というのも大きかった気もするけどね。他のアイドルさん達のように、ファンの方々のコールやシャウトで会場全体が盛り上がる、というより、舞台上の4人のダンスをしっかり見たくなるんだよなぁ。そういう意味では、TIFみたいな都会的なフェスの方が、4人には合っている気がする。

初参戦のSKY STAGE、爽快感ハンパなかったです。@onefiveの4人が本当に大きく見えた。

この夏に参加した現場に共通することなんだけど、色んな素敵なパフォーマーさん達に新たに出会えたのも嬉しかったです。SPARKやTIFのようなフェスでは、色んなアイドルさんのSTAGEを見て、それぞれの魅力に触れることができて、その多彩なバラエティには驚嘆。日本のエンターテイメント業界の裾野ってすごく広いんだなぁ。SPARKでは会場の中をうろうろと歩き回っているアイドルさん達(野良アイドル、と呼ばれていたが)にすれ違う機会も多くて、@onefiveの3人もすぐそばを歩いていたり、非日常的な空間が広がっていて夢のようでした。

見上げると天空には富士山がそびえ立っているしねぇ。

他のイベントでも、沢山の素敵なパフォーマーさん達に出会うことができて、それぞれの魅力を垣間見ることができました。印象に残っている人たちを並べてみます。

・SPARKで拝見した、Honey Parasolさん、ちょっと大人な雰囲気と昭和歌謡っぽい楽曲に好印象。

・SPARKで拝見した、AMEFURASSHIさん、メンバーの身体能力の高さに驚嘆。小島はなさんの上腕二頭筋から三角筋のバキバキな感じがたまらん。

・新谷ゆづみさんのバースデーイベントにゲスト出演された三阪咲さん。トークににじみ出る優しい人柄と、パワフルな歌唱に魅了されました。

・TIFのSKY STAGEで拝見したi-COL(あいこる)のお二人。リアルプリキュアのような対照的な魅力の二人で、キャラも立ってる上に、歌もダンスもレベルが凄く高い。まだ高校生ということなので、これからが本当に楽しみ。

・TIFのHot Stageで拝見した、yosugalaさん。本当は4人の所、3人でのSTAGEだったのだけど、そんな感じは全くしない堂々たるSTAGE。何が強いって、歌声なんだよね。3人ともががっつり歌える声を持っている、大人のグループ、という感じがしました。

・TIFのHot Stageで拝見した、lyrical schoolさん。何より楽曲が凄くよかった。ラップには全然門外漢なのだけど、どの曲もカタルシスがある。そこにパフォーマーの方々のアイドルっぽいキャラが加わって、たぶん同世代の方々にしっかり届くパフォーマンスなんだろうな、と思いました。

 

そして、昨日参戦した遠坂めぐさん出演のストリートピアノフェスでは、どんなジャンルの音楽も受け止めてしまうピアノという楽器の万能性と、それを引き出す様々なパフォーマーさん達のテクニックを存分に楽しむことができました。超絶技巧クラシックのリストあり、ショパンあり、ピアノロックあり、ジブリあり、J-Popあり、ジャズありタンゴあり。個人的には、アルゼンチンタンゴの松永裕平さんの自由自在さ、ヒビキさんとのコラボがすごく興奮したし、真打として登場されたJacob Kollerさんの融通無碍なジャズアレンジに、音の迷路に入り込んでひたすら心の奥にビートが響くような心地よさ感じることができました。

何より遠坂めぐさん。この人のパワフルで切ない声がキャパ900人のホールにがっつり響くのを聞けたのは嬉しかったし、「新曲」聞きながらなんだか泣けたなぁ。ライブハウスで身近に聴くのもいいけど、大きな会場でこの人の声に包まれたのが本当に幸せでした。

11月のライブも楽しみです。

BABYMETALからさくら学院にハマって、卒業生たちが色んな展開をしていく中で、沢山の素晴らしいパフォーマーさんたちとの出会いをくれました。60年近く生きてきて、新しい歌い手さんやパフォーマーさんたちに出会うのは年末の紅白歌合戦くらいしかなかったんだけどねぇ。新しい出会いをくれたさくら学院には本当に感謝です。長生きすると色んな経験するよ。