「シャンソン・フランセーズ」と「柳の木」~時を語り、時を超える~

今日は、9月29日に、千代田区立内幸町ホールで開催された、ピアニスト田中知子さんプロデュースの「シャンソン・フランセーズ」を拝見して思ったことをつらつらと。演奏会の感想、というより、かなり寄り道の多い雑談になっちゃいそうですが、ご容赦くださいまし。

うちの女房が長らくお世話になっているこのシリーズも12回目。サブタイトルは「ふたたび」。ちらしの主催団体を見ても分かる通り、後援団体を持たず、完全に自主公演として開催される最初の回だったのですけど、過去11回重ねてきたこのシリーズのエッセンスを濃縮したような回だったなぁって思います。特に濃厚に感じたのが、「時を語る」というテーマなんだよね。

以前のシャンソン・フランセーズでも、プログラム全体が一つの人生、あるいは時間の経過を表現している、というコンセプトを持っていたことは何度かあったと思うのだけど、今回はそれが非常に明確に提示されていた気がする。特にその主題を分かりやすく示していたのが、3回に分かれて演奏された「谷間に三つの鐘が鳴る」という曲。もともと3番から構成されているこの曲は、1番が、人の誕生を、2番が、若者の幸福の絶頂を、3番が、人の死を歌っていて、その人生の節目節目に、谷間の村に鳴り響く教会の鐘の音を歌っている。この1番がコンサートの冒頭に歌われ、2番が前半のラストに、そして3番が演奏会の終盤に歌われることで、プログラムが人の人生を綴っている、ということが明確に示される。

この3つの人生の節目の間に散りばめられるシャンソン昭和歌謡の曲も、全体的に若年層のキラキラした感じの曲から、次第に陰影を深めていくように構成されていて、だからこそ、最後に佐橋美起さんがしみじみと、でもとてもクリアに歌う「老夫婦」が胸に沁みる。そしてもう一つ、今回のサブタイトルにもある「ふたたび」という曲をプロローグ・エピローグに提示することで、単なる人生の始まりと終わりではなく、「転生」ないし「輪廻」という円環の構造を閉じる、とても知的に構成されたプログラムだなぁ、と思って聞いていました。

ここでちょっと話が飛ぶのだけど、ちょうどこの演奏会の直前、9月23日に、神奈川県民ホールで開催された、青島広志先生の「少女マンガ音楽史」を聞きに行っていたのです。その時に聴いた、「柳の木」という作品を思い出したんですよ。

漫画家を目指していた青島先生の萩尾望都先生への愛とリスペクトに溢れた演奏会でした。

「柳の木」は、「イグアナの娘」や「訪問者」「メッシュ」など、複数の萩尾作品の主題となっている「親と子」の関係性を、マンガならではの手法で詩的に描き切った傑作短編で、演奏会では、この漫画をスライドで映写しながら、青島先生の器楽曲が流れる、という構成でした。でもこの作品が、まさに「時を語る」という、シャンソン・フランセーズと共通するテーマを持った作品だったんだよね。

「柳の木」の原作漫画は、川の対岸から、河原にぽつんと立っている柳の木を映し出す固定カメラの映像のような、まったく同じ構図のコマを重ねていく手法を取っています。

冒頭からラスト近くまで、この同じ構図が続く。しかし同じ構図の中で時はどんどん流れており、柳の木の周辺を駆け回っていた小さな男の子は、成長し、恋をし、家庭を作り、年齢を重ねていく。しかし、彼の成長を見守る柳の木の下の女性は、いつまでたっても年を取らない。この女性は、柳の木と一体化した、男の子の母親の魂で、ずっと彼の成長を見守っている、という親子の絆の物語。

萩尾先生がこの「柳の木」で試みた、同じアングルのコマで違う時間を切り取ることによって時間経過を表現するという手法は、手塚治虫が既に何かの作品で試みていた記憶もあって、マンガ、という表現手段が時間経過を表現する時にかなり一般的に使われている表現だと思う。それをここまで突き詰めた作品はあまりないかもしれないけど、さらにいえば、漫画の原型ともいえる「絵巻物」の中でも、時間経過を静止した画像で表現する試みは沢山あって、一つのグロテスクな典型例が、「九相図」という、小野小町のような絶世の美女が、死んで死体が腐乱し骨になっていく様を描いた絵画かな、と思います。もともと平安時代から、絵巻物は、「巻き取り、広げる」という行為を進めることで、同じ平面上で時間経過を表現する絵画表現でした。ずっと長く広げると、同じ画面に違う時間軸が描かれていたりする。西洋絵画でも、同じ画面上で違う時間軸が描かれる、というのはよくある手法で、同じ人物が3人描かれている、なんてこともよくあるよね。そう考えると、ミケランジェロのシスティナ礼拝堂の大天井画、なんてのも、コマ割りされた壮大なマンガとして聖書の物語を語っている、と言えなくもない。

かなり話がそれたけど、「静止した絵によって切り取られた人生の一瞬」を積み重ねていくことによって、一つの人生、時の流れを語る、という「柳の木」の構成と、「歌によって語られる人生の瞬間」を積み重ねていく「シャンソン・フランセーズ」の構成に、なんとなく共通するものを感じたんです。同じ「時を語る」というテーマに対する違うアプローチ、というか。

そこで逆に自分的に印象強かったのが、「絵画」、あるいは「漫画」という芸術表現が静止しているのに対して、「歌」も「音楽」も静止していない時間芸術である、という相違なんだよね。萩尾先生がその繊細なタッチで切り取った登場人物たちの人生の一瞬一瞬は、その線によって固定されている。でも、「歌」は流れ、そして消える。そしてもう一つ大きな要素は、「歌い手」自身が時を重ね成長していく、ということ。

シャンソン・フランセーズ」も12回という回数を重ねる中で、常連の歌い手さんもその歌唱技術を変化させていくし、新しい歌い手さんを迎えたり、シリーズの中の定番曲を歌う歌い手も毎回変わっていったりします。それがこのシリーズの新鮮さ、常に変化していく移ろい、すなわち「時の流れ」を感じさせたりもするのだけど、例え変化したとしても、それでも明確に、「シャンソン・フランセーズ」であり続ける変わらないテイストがある。それは田中知子というプロデューサーの軸が変わらずぶれない、というのが最も大きな要因かな、とも思うけれど、何か他の要因も含まれている気もするんですよ。

何か結論があるわけではない漫然とした文章になってしまって申し訳ないのですけど、ここでもう一つ跳躍をします。こういう色んな新しい要素や、常に変化していきながら変わらない、「テセウスの船」的な存在って、音楽の世界では結構あるんじゃないかな、という気がします。ウィーン・フィルベルリン・フィルといった一流オーケストラの変わらない音色とかは言うまでもなく、身近な所では、合唱コンクール吹奏楽コンクールの常連校などが、「山西サウンド」「安積黎明サウンド」「淀工サウンド」といった変わらない音色を持っていたりする。それは同じ指導者がずっと指導している、という要素も大きいと思うけど、3年経てばメンバーが完全に入れ替わる学校部活において、同じサウンドや音色を保ち続けている、というのは指導者だけの意志ではなく、表現者自身、あるいはそれ以外の何かの意志が働いているような気もする。その意志が、一つの人生の終わりを告げる鐘の音が鳴り終わるとともに、「ふたたび」その鐘の音を鳴り響かせているような。

自分がどっぷりハマっている「さくら学院」というアイドルグループもそういう存在でしたけど、どれだけ歌い手が変わっても、表現しているメンバーが入れ替わっても、変わらないそのグループの軸、テイスト、というものがある気がしていて、「シャンソン・フランセーズ」というシリーズも、田中知子というプロデューサーの美意識を軸にして、その周辺の表現者達を巻き込んで、変化しつつも同じテイストを保ち続ける「テセウスの船」になりつつある気がします。ひょっとしたらこの原動力、変わらない意志そのものが、人生を鮮やかに切り取る「シャンソン」という音楽自体が持っているパワーというか、魔力なのかもしれないけどね。田中さん、今回も女房がお世話になりました。女房がこのシリーズに参加するきっかけにもなった、「キャラメル・ムー」、2度目のムーは、田中さんのぶれない軸に沿いつつも、しっかり成長を感じさせる出来でございましたでしょうか。

どうして風船なのだろう。

 

時を語りながら時を超えていくこのシリーズの行く末をこれからも、柳の木の下にひっそり立って見守りたいと思います。

共演者の方々も、お疲れさまでした。田中さん、メンバーが4人になろうが結婚しようがアイドルであり続けるももいろクローバーZに負けず、100回公演まで走り続けてくださいね。あと88回!