ちょっとブログを放置し過ぎましたね~日本語力落とさないようにしないとねぇ~

気が付けばこのブログ、二か月近く放置してしまいました。色んなインプットやアウトプットはあったんですが、Twitter(いまではXというのか)さんとか自分の演奏会の企画とかで自己表現欲求が満たされてしまっていて、こういうブログで文章をしっかり綴る欲求が落ちてきているんだね。

まぁその前から、自分の「漢字力」が凄く落ちているなぁ、という実感があって、それは明らかにいわゆる「ワープロ病」なんだよね。ワープロってのも死語なのか。いずれにせよ、自分の手で漢字を書かなくなって、パソコンが代わりに変換してくれることに頼っているうちに、自分の漢字力がどんどん落ちている気がする。手で文章を書いていると時々、「この漢字どう書いたっけ?」と戸惑うことが多くなって、すごく簡単な漢字で迷ってしまう自分に呆然とすることがある。

でも、こういう「漢字力の低下」というのは自分だけじゃないみたいですね。先日、映画の字幕制作で有名な戸田奈津子さんのインタビュー記事を読んでいると、「日本で字幕が定着したのは、昔の日本人の識字率が非常に高かったことも一因なんです」ということをおっしゃっていて、その流れで、「最近、若い人の識字率が非常に下がっていて、字幕も、『とにかく漢字を減らして、ひらがなを極力多くしてください』って言われるんです」ということをおっしゃっていた。「このままでは日本でも映画の字幕文化は滅びますね」と。

若い人が漢字が読めない、っていうのは結構実感することが多くて、自分の推しの10代のアイドルさん達なんか、ホントにびっくりするほど漢字、あるいは日本語を知らないんだよね。それでもちゃんと大学生になっていたりするので、漢字読めなくても大学生になれちゃう時代なんだなぁって驚くことがある。「水面」を「みなも」と読めない大学生、「竹垣」を「たけがき」と読めない(というか恐らくその言葉自体を知らない)高校生。割と高学歴と言われる大学を出ている人が、「ケレン味」という言葉を知らなかったりして驚いたり。

確かに、日本語、という言葉自体が非常に難しい言語だ、というのも、この言語そのものの継承を難しくしているのかも、と思ったりする。26文字の文字を覚えればあとはその組み合わせを学べばよい欧米言語と違って、ひらがなカタカナ100文字に、無限に存在する漢字を組み合わせて、それがケースバイケースで読み方が変わる、という恐ろしい言語。先日女房に以下の質問されて驚愕したんだけど、皆さん、下記の自覚ありました?

女房:1から10までの数字を、声出して言ってみて。
私:いち、に、さん、し、ご、ろく、なな、はち、く、じゅう
女房:10から逆に言ってみて。
私:じゅう、きゅう、はち、なな、ろく、ご、よん、さん、に、いち
女房:なんで「9」と「4」は読み方が変わるの?
私:??????

他にも、ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、とお、なんて言うと、「ななつ、やっつ、ときて、なんで『ここのつ』なんだよ、きゅうつ、か、くっつ、でいいじゃねえかよ」とブチ切れる厚切りジェイソンみたいな外国人がいるそうです。あるいは、ネットとかよく見る日本語の複雑さについて語られる以下のような例文もありますよね。

「3月1日は日曜日で祝日、晴れの日でした」

多くの日本人なら普通に読み下してしまうこの文章、外国人から見るとこれをすらすら読めること自体驚愕なんだそうですね。というのも、この文章の中で出てくる「日」という漢字の読み方、全部異なっている。規則性も何もない。Why Japanese People?!

逆に言えば、こういう複雑性を持っている日本語って、かなり意識をしてしっかり継承していかないと伝わらなくなってしまうものなのかもしれないなぁって思います。昔は、江戸の頃からの寺子屋制度とか、歌舞伎や落語や浪曲といったエンターテイメントを介して、特別な教育を施さなくても、全ての社会階層の人々が共有できる文字力・文章力・日本語力を維持することができていたんじゃないかなぁ。それが失われてしまって、かつ、マンガやアニメ、ゲームなどの文字情報・言語情報が少ないメディアやエンターテイメントで子供が育つようになってしまうと、日本語の複雑性に触れる機会そのものが失われてしまう。そうなると、なんらかシステム的に、あるいは意識的にしっかり継承しないと、この独特の複雑性を持った日本語という言語自体、急速に単純化していってしまうかもしれないなぁって思います。

まぁ、言語も生き物だからそうやって単純化してしまうのも、文化や歴史によって変化してしまう言語の宿命だ、とあきらめてしまうのも一つの道なんだろうけどね。それに、人間が学ばなくても、生成系AIが代わりに記憶し継承し創造までやってくれるようになるかもしれないしなぁ。しかしそれを受け取る人間側が、生成系AIが綴る日本語が読めなかったり理解できなかったりしたら一体どうなるんだ?生成系AI同士でコミュニケーションして全て完了してしまう世界における人間同士のコミュニケーションって、一体どうなるんだろう。老化とワープロ病で私の頭からこぼれおちてしまった漢字たちの行く末含めて、色んなことが心配になる酷暑の夏であります。

ライブがくれる出会い その2 ~ファンの優しさが奇跡の時間を生んだりする~

最近復活してきたライブ空間の中で、ライブっていうのは、パフォーマーとオーディエンスの出会いの場で、一期一会の空気を共有する大事な場だっていうのを改めて実感しているのだけど、先日参戦した@onefiveのリリースイベントで、本当に気持ちのいい出来事を目撃したんですよね。この日記ではその場に居合わせた幸せ含めて、記録に残しておきたいと思います。

@onefiveは、「推しが武道館に行ってくれたら死ぬ」に登場するアイドルグループCham Jamのメンバーとして出演、そのドラマ版、映画版の主題歌を担当。今回は、その映画の主題歌である「Chance」のCDリリースイベント、ということで、5月から6月にかけて、東京、大阪、名古屋の野外イベント会場でのリリースイベントを開催しています。その中で、6月4日のイオンモール幕張でのリリースイベントに参戦してきました。

こんな感じの野外ステージ。ミニライブの後に、メンバーから直接カレンダーを手渡してもらう特典会付きのイベントです。配られたカレンダーには、メンバーが裏にメッセージを記入しているものが2枚だけあり、それを受け取ったお二人は、4人と記念撮影を撮ることができる、というスペシャル特典付き。

天候にも恵まれて、ミニライブも素晴らしいパフォーマンスだったんだけど、そんな中で、一つとてもキュートな奇跡が起きました。間近に関わったfifthさん達のツイートとかをまとめると、こんな出来事だったようです。

7歳の女の子と、お父様の二人連れが、通りすがりに偶然、野外ステージの4人のパフォーマンスを見て、女の子がとっても興味を持ってくれた。CD1枚買えば、4人に直接お話ができる、と言われて、お父様が、「CD買う?」と聞いたら、お嬢様が1枚ほしい、と言ってくれたそうです。

CD1枚買って特典会の列に並んでいたら、「お渡し会にはマスクの着用をお願いします」とスタッフさんに言われた。お二人ともマスクを持ってきていなくて、諦めようか、と言っていたら、そばにいたfifth(@onefiveのファンネーム)の方が、「私予備のマスクを持ってますよ」と貸してくれたんだって。

小さな飛び入りのファンが並んでくれて4人も大喜びで声をかけてあげて、もらったカレンダーを持って女の子がニコニコと退場しようとしたら、fifthの方が、「ちょっと待って、当たってますよ!」と声をかけてあげた。

女の子の持っていたカレンダーの裏に、集合写真のスペシャル特典への当選を示す、メンバーのコメントが書かれていた。ご本人たちはそんなスペシャル特典があるなんて知らなくて、周りのfifthの人達に言われて驚愕。

その時に、周りのfifth連中が大喜びで拍手喝采して、他のfifthも気が付いた。飛び入りの女の子の幸運を祝福する拍手が会場一杯に鳴り響きました。この時の拍手は本当に温かくて、私もなんだか胸が熱くなったのだけど、幕張イベントの受け入れ先になった蔦屋幕張店のスタッフの方も強い印象持ってくれたみたいで、ツイートの中で言及されています。

 

4人に囲まれた記念写真を撮った女の子。好きなすみっコぐらしのキャラの話をしたり、「大きくなったら@onefiveに入ってね」なんて、4人にいっぱい声をかけてもらったそうで、そんな様子をスタッフさんが実況すると、また見守るfifthさん達は大喜びで拍手喝采。お家に帰ってから、もらったカレンダーを飾って、4人の絵を描いてくれたそうです。そのお父様のツイートが、またfifthさん達にリツイートされて、ネット上も温かい空気に包まれました。

 

こういう温かい奇跡を生み出せるのって、蔦屋さんもおっしゃるように、@onefiveのファンであるfifthの方々の温かさ、というのが直接の原因ではあるのだけど、そういうファンを呼び寄せている@onefiveというグループの魅力であり、このグループを生んださくら学院という学校の力なんだなぁ、って思います。

2019年、さくら学院の中学三年生だった時に結成された@onefive。4人のメンバーは、さくら学院の生徒、としても活動を続け、中学卒業と同時にさくら学院を卒業する、というグループのルールに従って、卒業公演の準備を進めていました。そこに襲ったコロナ禍により、パシフィコ横浜で開催される予定だった4人の卒業公演は中止、結局半年後の2020年8月、無観客の配信ライブ、という形で卒業。毎年開催されていた、卒業生の写真集お渡し会、という、ファンと直接交流できる唯一の機会も奪われてしまった、そんな4人です。

コロナ禍に翻弄された4人をさくら学院の頃から見守ってきた父兄(さくら学院のファンの呼称)さんからすると、今回のリリースイベントは、直接4人と声を交わせる初めての機会。もうさくら学院の生徒でもなく、@onefiveのファンネームも、父兄ではなくて「fifth」という名前に変わってしまっているけれど、でもひょっとしたら、さくら学院で実現しなかった父兄さん達との交流をメンバーが望んでくれたのかもしれない。そんな気持ちも含めて、このリリイベに臨んだ元父兄のfifthさんたちは沢山いたと思いますし、集合写真特典だって、あわよくば自分が、と誰もが思っていたと思う。

でも、やっぱりこういう野外イベントというのは、通りすがりの人達の目に触れて、新しいファンになってもらう、という大事な機会。そもそも、「推し武道」のドラマ出演で、推し武道界隈含めてグループのファン層が拡大、特に若い女性方のギャラリーが増えてきていて、そういう人たちにもアピールしたいイベントでもあったんだよね。古参の元父兄がのさばっているばかりじゃなくて、若いファン層を拡大したい。

他のアイドルさん界隈のことはよく知らないんだけど、さくら父兄って、推しを巡ってファン同士で争ったり、排他的でご新規さんを拒絶したり、ということがあんまりないんですよ。むしろ、若い女性のファン層が増えてファンベースが拡大することを望んでいるし、そこで変に古参ぶってマウント取ったりするのも潔しとしない感覚がある。@onefiveをきっかけにさくら学院という素晴らしい学校のことを知ってほしい、という思いはあるけど、とにかく一緒にこのグループを応援する仲間を増やしたい、という意識が強い。待ち行列で言葉を交わしたfifthさんとも、「若い女性が結構増えてきてていいですねー」と言葉を交わしたりしていました。

そんな中で、7歳の小さな女の子が、4人のお姉さんたちのことを大好きになってくれた。さくら父兄が多いfifthの人達にはそれが本当に嬉しかったんだと思うし、共にこの4人を応援してくれる小さな同志の加入を、心から祝福したんだと思うんですよね。

 

公式さんも祝福。

 

パフォーマーを育てるのはそのファンだし、ファンと共に作り上げる一期一会のライブ空間が、色んな奇跡や温かい時間を生み出して、それがまた新しいファンを増やしていく。パフォーマが温かいファンを集めて、そのファンの優しさが奇跡の時間を生み出して、それがまた笑顔の輪を、Ring Donutsのように優しい甘い時間の輪を作り出していく。そういう循環の中で、この子達の周りが笑顔で一杯になれば本当にいいなぁって思います。

「ライブ」がくれる出会い その1~やっぱりお客様って大事なんだなぁ~

最近のこの日記ではずっと似たようなテーマを書いている気がするんだけど、コロナ禍を経て、「ライブ」という空間と時間を共有する機会が増えてきて、改めて、ライブって「出会い」だなぁっていう感覚を思い出しているのかもしれないです。今回も、そういう「ライブパフォーマンス」がくれた「出会い」の話を2つ書きたいなって思っているんですが、全然違うテーマなので2回に分けて書きます。一つ目は、家族で行ったお寿司屋さんでのお話。

6月8日は自分達夫婦の結婚記念日で、なんとなく毎年この前後には、結婚式を挙げた都ホテル東京に一泊してちょっと美味しいものを食べて、という一年に一回の贅沢を楽しむのが家族の年中行事になっています。今年は娘も独立して、3人とも忙しくて宿泊は無理。さてどうしましょうか、という話をした時に、じゃあ食事でちょっと贅沢しましょうか、と、予約したのが、都ホテルのお寿司屋さん「さえ喜」。

カウンター7席しかない隠れ家のようなたたずまいのお店で、有田焼の陶板の上に次々と出てくるお料理は、どれもこれも本当に素晴らしいお料理でした。最初に出てきた味わい深い〆カツオから、もう舌も喉も大喜び。赤酢のシャリのほろほろとした粒だった食感はどんなネタにもしっくり合う。贅沢感あふれるのどぐろの棒寿司、目の前で調理してくれる毛ガニのしゃぶしゃぶ、ふわふわの太刀魚、どれも本当に美味しい。とろたくでさえ食べたことのない食感。出していただいた日本酒も、どれも醸造家それぞれのこだわりの味わいがあって、日本酒の世界の奥深さも感じることができる、素晴らしいコースでした。

寒紅梅酒造さんのNATSU SAKE。季節限定のペンギンラベルが可愛い。

ドンペリ醸造責任者だったリシャール・ジョフロワという方が醸造したというIWA。華やかな味わいでした。

でもね、素敵だったのはお料理やお酒だけじゃないんだなぁ。職人さんとのお喋りももちろん楽しかったけど、同じカウンターで隣に座ってたお若いご夫婦がとっても素敵な方たちだったんだ。奥様のお誕生日のお祝い、ということでいらっしゃってたそうなのだけど、お料理が得意な旦那様が板前さんに色々レシピを聞いている様子とか、可愛い奥様の涼しげなお召し物とか、醸し出している空気感がすっきりと品がいい。お誕生日のお祝いデザートが出てきた時に、女房がハッピーバースデーを歌ってあげた声に(オペラ歌手がちょっと本気で歌ったもんだから)感激してくれたり、お二人のお祝いの楽しい時間を共有できたのがなんだかすごく嬉しい時間だったんです。

いいお店とか、いいホテルとかって、そのスタッフや場所や設備だけじゃなくて、お客様が作るものだ、っていう話がよく言われるけど、あの「さえ喜」での時間が笑顔いっぱいの特別な時間になったのは、あのご夫婦のおかげだったなぁって思います。僕ら家族はせっかくのお二人のラブラブ時間のお邪魔してただけなのかもしれないけどねぇ。「さえ喜」みたいな密な空間は特にそうだけど、どんなレストランでも、単に出てくるお料理がおいしいだけじゃなくて、お客様の醸し出している空気感っていうのも凄く大事だなぁって思いました。

自分の関わっているオペラ舞台でも時々あることですけど、その日の客席を見て、ちょっと残念だなぁって思っちゃうことってたまにあります。自分のお目当ての人の出番が終わったら帰ってしまう、とか、演者が集中している時のおしゃべりとか、色んな客席のマナー違反で、その場の空気感が壊されてしまうことって結構ある。お食事、というのも一つの時間と空間を共有するエンターテイメントで、それは舞台も変わらない。そういう一期一会の時間で、お客様、聴衆の役割ってやっぱり大きいなぁって、改めて思った時間でした。

お料理の数々。女房作のコラージュ写真でお送りします。

江戸前寿司らしい、どのお寿司もひと手間かけている、その手間で旨味が増すんですね。

女房はワインもいただいておりました。

結婚記念日のお祝いのお皿。

ここで結婚式を挙げて26年。長いお付き合いになりましたね。これからもお世話になりまする。よろしくお願いいたします。

 

パフォーマンスを作るのはパフォーマーだけじゃない

日記の更新サボってるんですが、どちらかというとインプットが多すぎて消化しきれず溜まってる感じ。先日、集中的なインプットがあったので、ちょっと一気に吐き出してみます。「劇場版推しが武道館に行ったら死ぬ」の応援上映と、BABYMETAL BEGINS -THE OTHER ONE-のディレイ・ビューイングに、先週の土曜日に連続で参戦したので、その感想をまとめて。

「推しが武道館に行ったら死ぬ」は、自分の推しのonefiveが、岡山の地方アイドルCham Jamのメンバーとして出演する、ということで、ドラマ版からずっと見てきたコンテンツ。ドラマから入って、漫画原作からアニメまで制覇して、漫画の絵柄の繊細な美しさ、アニメに描かれる岡山の街並みの美しさ、そして実写版ドラマのアイドルさん達とヲタさん達の絆に涙。この劇場版が公開される、ということで、公開直後に劇場に見に行きました。満足度の無茶苦茶高かったドラマ版をさらに凌駕するホントに素敵な映画。原作の世界観を深く理解した上で、それをさらに掘り下げるオリジナルストーリーも加えながら、きちんと伏線を張ってきちんと回収していく丁寧な脚本。ドラマ版でも感じた絵作りの丁寧さも相変わらずだったけど、今回は舞菜を中心としたChamJamの子達のドラマに深みが加わっていて、そこがさらに、アイドルとヲタの関係性というテーマを感動的なものにしていた気がしました。市井舞菜役の伊礼姫奈さんの陰影のある演技はドラマでも存在感あったけど、劇場版では五十嵐れお役の中村里帆さんが本当によかった。過去の自分の挫折も、グループの試練も夢も、かつての盟友との絆も、全てを一身に抱えて、それを未来ある舞菜に託す、という物語の大きな軸を、中村さんが微妙に震える表情や声の変化で繊細かつ美しく表現していて、だからこそラストシーンで、れおが舞菜にかける言葉が物語の全ての重量を支える重いセリフになる。ラストのライブシーンが、音楽映画によくある取ってつけたようなサービスシーンじゃなくて、Cham Jamという、本当にそこに存在しているグループと、メンバー一人一人の成長と夢を表現する希望の舞台になって、画面のこちら側の客席にも確かなリアリティを持って迫ってくる。Twitterにも書いたけどなんか京都アニメーションの佳作を見てるような気がした。

そんなリアリティあるライブシーン、自分ももっと没入したいなぁ、と思ってたら、「応援上映」企画のニュースが出て、これは行かないと、と思ったんですよ。同じ土曜日に予定を入れていたBABYMETAL BEGINSのディレイビューイングの時間に間に合わせるために、池袋で開催された応援上映に参戦。Cham Jamメンバーを演じた推しのonefiveのTシャツ着て、サイリウムも持って、しっかり準備して行ったんですよ。

だけど、映画館の客席の前方は空席が多くて、自分の周囲の方々は皆さん地蔵状態だったんだよね。冒頭からラストのライブシーンまで会場はシーンとしてて、自分も、ラストのライブシーン前にサイリウムをつけるのが精いっぱい。後席の方はライブシーンでは結構盛り上がってたみたいで、「舞菜がんばれ!」なんて女ヲタさんの声が飛んだ時は結構胸熱になったりしたんだけど、正直すごく不完全燃焼に終わってしまった。

一方で、同じ日の少し遅い時間にスタートした新宿会場は満席状態で、映画冒頭から応援(というかヤジ)で無茶苦茶盛り上がったみたい。その新宿会場のレポートとかが回ってくると、自分が切込隊長になって声上げる勇気出せなかったことを本当に後悔。Cham Jamの子達に声かけられるのはこれが最初で最後だったのになぁ。冒頭に舞奈がアップになるシーンで、オレが一言、「舞菜〜」って声出すだけで劇場の空気変わっただろうに、それができなかった小心者の自分が悔しい。「三崎さん、田中だけはやめとけ〜」って言ってあげたかったのになぁ(それかよ)。

応援上映なんて凄く分かりやすい例なんだけど、要するにパフォーマンスを作るのって、パフォーマーや作品だけじゃなくて、オーディエンスがどんな空気感を作るかってことが大きく影響するんだよね。自分や女房が関わってるオペラとかクラシック演奏会の世界では、200人の会場にお客様が20人くらい、なんていう、絵にかいたような「閑古鳥」が鳴いているコンサートもたまにあります。それでもビジネスとして成り立ってしまうのがクラシック業界の別の問題だったりするんだけどね。でもそういう冷え切った会場では、パフォーマー自身が自分から熱を発していかないといけなくて、疲労感半端ないし、いいパフォーマンスにするのは至難の業です。

逆の意味で、オーディエンスがパフォーマンスを伝説のレベルにまで引き上げることもあって、それを実感したのが、同じ日に行ったBABYMETALのディレイビューイングだったんですよね。まだ2ヶ月しか経ってないんだなぁ。なんか神話の世界に転移していたような、夢でも見ていたのか、というような記憶しかない、4月1日のぴあアリーナMMでのパフォーマンスを記録したディレイビューイングに、応援上映の不完全燃焼感を抱えて参戦。こちらは一言も声を出さずに食い入るように画面を見ていたんだけど、ラストには涙止まらなくなって、Cham Jamメンバータオルで流れる涙を拭っておりました。横から見たらマジ気色悪い。ちなみにタオルは優香タオル。

面白いのは、この公演も決してオーディエンスは最初から無条件に盛り上がってたわけじゃなかったこと。幕張で三つ目の棺が登場し、3人目の新メンバーが暗示された後のこの公演、冒頭の「LEGEND」こそその物語を引き継いでいたし、メギツネから始まったその後の一連のセットリストは、大人の雰囲気を持った新曲の初披露も交えてそれなりに盛り上がってはいたけど、どこかで、初めてのコラボとなる西の神バンドと新曲のセッションを試しているような、その音を聴衆側も確認しているような、「睨み合い」みたいな時間がしばらく流れていた気がします。ここで何かが起こるんじゃないのか、幕張で予告された「The Other BABYMETAL」がここで生まれるんじゃないのか。オレたちはそれを見に来たのに、新曲のセッション聴かされてもなぁ、という空気がなかったとはいえない。

その空気感が一気に変化したのが、戸高美湖、木村咲愛、加藤ここなの3名による「新生命体」(私は「ちびメタ」と呼んでるけど、「ぐんぐん隊」という呼称もある)のKARATEのパフォーマンスからでした。新生命体の3人が、BABYMETALがこれから進もうとする新しい挑戦とその物語への期待感、METALVERSEというコンセプトを目に見える形で示してくれた。その後の新曲、「Believing」と「METALIZM」は、前半の新曲披露とは少し色合いを変えていて、「この後絶対に何かが起こる、俺たちは歴史の証人になる」という期待感がギリギリ増大していった気がします。特に「METALIZM」は、コンセプトアルバムの中でも、インド民族音楽的なバーバリッシュな空気感が溢れる名曲で、これが披露された後、鉄板の「Distortion」「PaPaYa」での熱狂は、鉄板曲としての狂騒を超えていて、これは何かの終わりなのだ、何かの終わりを祝う祝祭なのだ、という意識がどんどん高まっていった。そこで投下された「Road of Resistance」でもう、私の涙腺は完全に崩壊してたと思います。

そういう空気感、というのは、舞台上の三姫や西の神バンド、ちびメタの3人が作り上げたものではあるけど、決して彼らパフォーマーだけで作り上げたものじゃない。これまでBABYMETALが歩いてきた歴史を見届けてきたメイトたちの間で共有されていた期待感(そこには多分に不安も含まれていたと思うけど)があったからこその空気感だと思う。2015年に「最も献身的なファンを持っているグループ」という賞まで取ったBABYMETALだからこそ、会場の空気がまさに一つになって、かつてのエンブレムの昇天とYUIMETALのLEGEND化、そしてMOMOMETAL爆誕というラストシーンを、号泣しながら見守る瞬間へと昇華していったんだと思います。

そんなプロセスを劇場で号泣しながら反芻しつつ、やっぱりパフォーマンスを作るのはパフォーマーだけじゃないんだよなぁ、というのをすごく実感しておりました。応援上映を盛り上げるのもオーディエンスだし、別の要素としては、そのイベントの運営が稚拙でパフォーマンスへの熱が一気に冷めちゃう、なんてことだってよくあること。オペラは音楽と舞台美術、衣装や演出が結合した総合芸術です、という人がいるけど、どんなパフォーマンスだって、パフォーマーとオーディエンスの間のコミュニケーションで成り立つ総合芸術なのだし、だからこそ双方向のコミュニケーションが味わえるライブ空間こそが、パフォーマンスには絶対必要なものなんだよなぁって、改めて思ったりしました。

ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい~推しにもやさしくしたいんだよなぁ~

今日は、昨日見た「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」という映画の感想文から、自分の推しゴトに対する最近の思いなんかを絡めて書き進めたいと思います。ちゃんと着地するかどうか正直心もとないんですが、まぁ書き始めてみましょう。

映画「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」自体も、さくら学院の卒業生である新谷ゆづみさんが、主要な登場人物の一人である白城ゆい役で出演されている、ということで、新谷さんの舞台挨拶付きの上映回を狙って行きました。要するに推しゴトの一環。でも、過去の出演作品の全てで、色んな素敵なクリエーターさんに出会わせてくれた新谷さんらしく、今回も、金子由里奈監督を始めとする素晴らしい才能に出会わせてくれました。

舞台挨拶での新谷ゆづみさんと金子由里奈監督のツーショット。スマホ画質で申し訳ありません。しかし金子監督、新谷さんとほとんど年齢変わらなく見えるくらいお若くてキュートな方でした。

 

映画についての感想、という点で言うと、若干厳しめの感想になってしまいます。すごく素敵な画面や印象に残るシーンが沢山あるんだけど、全体の編集のリズムがちょっと私の生理とは合わなかったなぁ、というのが第一の感想。原作を読んでいないし、金子監督の他の作品を拝見していないので、なんとも言えないのだけど、時間軸をずらしたり、シーンの伏線を回収したりするタイミングとか、そこに持っていくリズムみたいなものがちょっとトリッキーな感じがあって、そこについて行けなかった所が何か所があった。二回見てある程度納得感は得られたんだけど、もう少し分かりやすくしてもよかったんじゃないかなーという印象。その因果関係の回収に意識がとられてしまって、ラストの、七森と麦戸が「対話」という自分自身との闘いに正面から向き合うクライマックスへの勢いに上手く乗り切れなかったんだよね。

見た私自身の理解力の問題、という気もするんだけど、一つ一つのシーンを、普通の平凡な絵にしない、したくない、という作り手のこだわりも感じて、それが逆に引っかかっちゃったかなぁ。そういう要素を強烈に感じたのが、ラストシーン。エンドクレジット直前に、部室に居並ぶぬいぐるみ達にゆったりと近づいていくカメラが、ちょっと何かの動きを予感させるように一瞬下方に視線を落とす。「あれ?」と思ったらエンドクレジットになる。何が起こったのか、何かが起こるのか、答えはない。こういう、「あれ?今のなに?」という編集が結構あって、その意味を考え始めるとすごく面白いんだけど、ちょっと疲れる。

でもねぇ、そういう所が、金子監督の若さかもしれないし、既存の映画文法をどうやって変革していくか、いわゆる「映画らしい映画じゃない映画」をどうやって撮るか、ということばっかりトライしてたお父様の金子修介監督の影響も感じるんだよね。そういう意味では、自分の生理に合わないからといって、この映画自体を否定する気は全然ない。むしろ、「映画で世界を変えたい」という意気込みで、あらゆる画面に多層的な意味を加えようとする意欲と若さには圧倒されたし、「いいなぁ」と思う箇所は一杯ありました。

何より、一人ひとりの役者さん達が凄くいい芝居をしている。こういう芝居を引き出せた、という一点でも、金子監督はただものじゃないと思います。お目当ての新谷さんを始め、細田佳央太さん、駒井蓮さんの三人が、激情で声を荒げるシーンはほとんどないのに、呟くような語り口の中で、ものすごく分厚いリアルな感情を言葉に乗せてくる。

そういう点では、ぬいサーの部員さん達のセリフも含めて、自然な言葉やセリフ達をものすごく繊細に切り取った音像設計というか、録音技術に結構感動したんだよなぁ。五十嵐猛吏さんという方が録音担当なのだそうだけど、ぬいサーの部員さん達がぬいぐるみに話しかけている言葉が時に浮き上がり、時に背景になる自然さ(ヴェンダースの「ベルリン天使の詩」思い出しちゃった)。ぬいぐるみを洗う時の水音は優しくも静かな死を連想させるし、絞り出すように語る麦戸の「つらいね」という言葉の粒立ち、路上を歩きながらの西村の解放感のある呟きを、通りすがりの人のスマホの会話がぶった切る瞬間に、「対話の加害性」が表現されるシーンとか、この音像設計がなかったら表現できなかったんじゃないかなぁ、って思う。西村を演じた若杉凩さんもカッコよかったなぁ。

ラストシーン、優しさという呪いから、愛しい七森や麦戸を守るのだ、という白城の覚悟が示されることで、「優しさってなんですか?」という強烈な問いかけで映画は終わる。ぬいぐるみに近づこうとして、ふっと下を向くカメラは、ぬいぐるみに話しかける誘惑から目をそらして人に向き合おうとする白城の決意を表しているのかもしれないし、ひょっとしたら、人のつぶやきを聞き続けたぬいぐるみ自身が、人に向かって話しかけようと棚から降りようとした瞬間なのかもしれないなぁ、なんて思いました。

映画を見た後、何かしらもやもやとしたものが残る、というのは、金子監督が作ったこの映画によって、私の心が傷ついた証拠だと思う。映画を人に見せることで人を動かす、ということ自体の持つ加害性。でもね、傷つかないと人は動かない。変化しないと人は前に進めないんだよなぁ。

なんていう思いも湧き上がっているのは、実は最近、自分の推し達がみんな、新しいステージへとChangeし始めている時期と、この映画を見た時期が重なっているせいなんだよねぇ。BABYMETALが新体制宣言したのは前回のブログで書いたけどさ。先週見たonefiveのステージ「Chance x Change」の舞台では、さくら学院自体の清楚なイメージをあえて壊すようなギャルっぽいルックスに4人が挑戦していて、昔からのファンの間でも賛否両論あったみたいなんだよね。推しの遠坂めぐさんも、バズった「キレてます」シリーズに依存しないで、もっと音楽を中心に据えた動画で勝負したい、と言い出して、新規チャンネルを立ち上げたりしたし。

推しとヲタの関係っていうのは、ぬいぐるみに話しかけるぬいサーの部員のように、一方向でしか成立しない。でも、推しはぬいぐるみや人形じゃないくて、一人の人間だし、人間である以上、成長したり変化していくのは当然。アイドルさんが交際報道や結婚報道でバッシングを受けちゃう、なんてのは典型的な話だけど、変化や成長を受けた路線変更を裏切りと感じて他界していくヲタさんとかって、一杯いると思うんだよね。

でもねぇ、50過ぎてBABYMETAL知って、そこからさくら沼にハマったジジイヲタとしてはさ。推しはみんな娘の世代なんですよ。MOAMETALがちょうど私の娘と同級生なので、SUMETALと同級生の遠坂めぐさんなんか娘と二つしか違わない。そうすると、どの推しを見る目も、親目線になっちゃうんだよなぁ。子供にとって最後の避難所でありたいっていう親の気持ちが、そのまま推しを見る目になっちゃうんだよ。今はどんなにヤンチャしててもいい、それはないなぁって思うような寄り道しまくってたり、周りに無茶苦茶迷惑かけたりしてもいい、でもいつか戻ってきたら、温かく迎えてあげたいし、今は何があっても笑顔でいてほしいって思っちゃう。ほとんど放蕩息子の帰還の父親の気分だよね。

でも、そういうヲタって、果たして「優しい」って言えるのかなぁ。白城が七森や麦戸に対している態度っていうのは、愛しさの中にも少し厳しさもある。そしてその白城の「優しさ」によって、白城自身もものすごく傷ついたりする。推しの行動を全肯定してる自分のヲタ活動ってのは、果たして優しいって言えるのかなぁ、なんてちょっと考えたりして。

じゃあ推しの行動を批判的に見て「あんた違うでしょ!」なんて言い始めるとただのアンチになっちゃうし、とすれば静かに黙って他界するのも優しさかなぁ、なんて、ヲタはヲタでそれなりに悩んだりするんですけどね。ただ、繰り返しになるけど、推しとヲタの間には、推すか他界するか、あるいはアンチになるか、という選択しかないので、まさにぬいぐるみとぬいサー部員のような一方向の関係性しか成立しないのが怖い所だと思う。愛情は裏切られたっていう感覚であっというまに憎悪に変化するからねぇ。そういう意味でも、七森に傷つけられたとしても、それでも七森を愛おしいって思い、自分の感情すら客観的に捉えて、この愛しい人たちを守るんだ、と覚悟する白城って、本当に強いなぁって思います。チャンドラーの名言思い出すよね。

“If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.” 「タフでなければ生きていけない。優しくなれなければ生きている資格がない」

ヲタとしての自分は、いかに推しに裏切られたとしても、アンチにはなりたくない。静かに他界して、あとは遠くから推しの笑顔を祈り、いつかまた自分の守備範囲に戻ってきてくれた推しの笑顔に向かって拍手をしてあげる日を祈る、そんなヲタでいたいなぁって思ってます。とりあえずベビメタ沼からもさくら沼からもonefive沼からも遠坂沼からも全く他界する気はないが。映画の感想のはずなのに最後はただのヲタ話になってしまった。「ぬいしゃべ」のファンの方々には本当に深く深くお詫び申し上げます。大変申し訳ございませんでした。え、それで終わり?と思わせつつこの駄文を締めくくりたいと思います。あ、石投げないで。

BABYMETAL BEGINS THE OTHER ONE~物語は続く~

今日は、先週参戦したPIA ARENA MMでのBABYMETAL BEGINS THE OTHER ONEの2days ライブの感想を。この歴史的なライブに参戦できたことをFOX GODに感謝しながら、一オーディエンス、それもかなり「さくら父兄」としての視線からの参戦感想を書きたいと思います。楽曲やライブそのものの感想よりも、むしろその時に自分が感じたことを極私的に呟ければと。

2日間とも超Mosh Pit、Day1は別用があり入場時からの参加、Day2は物販からの参加でした。会場と観客誘導、という点でいうと、多くの人が感想で書かれているように、過去のBABYMETALのライブ会場と比べ、会場外のスペース(待機列の誘導スペース含め)に余裕がなく、かなり無理がある感じはしました。とくに一日目は、超MoshのAエリアとBエリアの誘導を同時に同じエリアで始めてしまったためにかなりの混乱が生じ、先に入場できるAエリアの方たちがBエリアの待機列をかき分けて前に進まなければならなくなってしまった。それでも開演時間に間に合ってしまう所が、さすが行列を作ることが世界一得意な日本人、という感じでしたが。このあたりは二日目には、先にAエリアの人を屋内の待機場所に誘導することで解消されていて、そういう改善の迅速さ、というのもさすがだなぁ、と思いました。

初の試みだった物販の事前整理券制、というのも非常にうまく機能した感じで、物販列のストレスは皆無でした。超MoshPitで早い時間帯の予約ができたおかげかもしれなくて、少なくとも1日目は、物販列と入場待機列が待機場所の狭さのせいでグシャグシャになってかなり混乱してたけどね。でも恐らくそういう多少の不便も予想しながらも、運営がこの会場にこだわったのは、この会場の名前が、PIA ARENA MMだったことに尽きると思う。MOAMETALとMOMOMETALのMMであり、MOMOMETALのMMでもある、MMという略称を持つこの会場で、MOMOMETAL爆誕を祝おう、という意図は、集ったメイトの方々はみんな理解していたと思います。

Mosh Pitより超Mosh Seatが断然よかった、というコメントをツイッターで多数見ますけど、ステージ上で起こっていることをしっかり見るには間違いなくSeat席の方がいい会場だったと思います。1日目は超MoshのBエリアだったんですけど、2日目のAエリアに比べるとステージのクリアランスは非常に低かった。結局BABYMETALの超Moshを選ぶことって、一緒にライブを作る側に立つか、それともある程度客観的にライブを見る側に立つか、という姿勢の違いなんだよなぁ。個人的には今回のようなマイルストーン的なイベントは、ステージに起こっていることをしっかり確認できるSeat席を選んだ方が正解だったな、というのが正直な感想。もちろん、超Moshで押し合いへし合いしながらジャンプして、レーザー光線に自分のFoxサインを浮かび上がらせる快感、というのは何物にも代えがたいなぁとは思いましたけどね。

ライブ本体の感動についてはもう多くを語りません。1日目の最後の紙芝居で岡崎百々子さんの4年弱の長い献身が報われた瞬間はもう滂沱の涙でしたし、2日目に「いいね!」が復活した時の感激は忘れられない。ただ、個人的に一番感動したのは、Road of Resistanceで会場全体を見上げた時、フロアからシート席までを埋め尽くしたメイトさん達が腕を振り上げ、シングアロングで声を合わせている姿を見た時でした。幕張でも同じ光景を目にしたはずなのだけど、幕張はシート席がなかったので、会場が発声可能になってから、会場全体のメイトさん達を見渡せたのは今回のPIA ARENAが初めてだったんですよね。本当に、会場の全員が、すぅ様の声に合わせて同じ旋律を腕を突き上げて歌っているのが一望できた。この光景が再び戻ってきて、そしてその会場の全員が、MOMOMETALの誕生をその日一番の熱い歓声と拍手で祝福してくれた。父兄メイトの自分のここ数年間の願いがやっと叶ったような思いで、60近いオッサンが声を上げて泣きそうになりました。

THE OTHER ONEの新曲、特に、幕張で披露されたMETAL KINGDOM、LIGHT AND DARKNESS、MONOCHROME、LEGENDについては、すぅ様が既に完全に自分のものにしている感じがあったのだけど、Mirror Mirror、Time Wave、Believing、METALIZM、あたりは、すぅ様自身まだ試行錯誤をしている感じはありました。恐らくは海外ツアーで歌いこなしていく中でどんどん磨かれていくのだろうな、と思います。そういう意味では、初期にすぅ様でさえちょっと音程をつかみきれずに苦戦していたKARATEを、アリーナ公演初経験にも関わらず完璧に歌いこなした通称「ぐんぐん隊」のボーカル担当、戸高美湖(MIKOMETAL)には恐れ入りましたが。

今回のアルバムの成熟した感じはMOAMOMOのダンスにも表れていて、MIKIKOダンスの申し子ともいえるMOMOMETALのキレと艶っぽさとパワーを兼ね備えたダンスと、もはや人間というより天女ではと見まごうようなMOAMETALの、会場の空気の色さえ変えるダンスは、それ自体が動く芸術品、という感じ。なので、観客は、一緒に盛り上がる、というより、聞き入る、見入る、という姿勢が強くなるんだよね。でもそれが今回のアルバムの楽曲の魅力だし、ぐっとステージに集中した後に、キラーチューンのDistortionで爆発する、そして過去の神曲が三人体制で復活してギャン泣きする、みたいなメリハリが効いて、本当に過去最高のセトリだったなぁ、って改めて思います。

MOMOMETALの誕生と共に、YUIMETALがBABYMETALの公式サイトから完全に姿を消し、YMY(ゆいちゃんまじゆいちゃん)の方々が悲しみにくれているのは凄くよく分かる。でも、今回のMOMOMETALの誕生とYUIMETALの本当の意味での卒業は、水野さん自身が望んだことでもあるんじゃないかなって思います。色んな人の思いとか期待とかどうでもいい、水野さんが幸せで、笑顔でいてさえくれたらそれでいいっていうのが、さくら父兄の自分の気持ちです。僕らの心の中でYUIMETALはLIVING LEGENDとなってずっと輝いているし、僕らの中にいるYUIMETALを、今の水野さんに強制することは誰にもできない。新生BABYMETALにとってもよくないと思う。逆にいえば、YUIMETALを送り出すのに4年もかかったんだ。それくらいYUIちゃんの存在って大きかったんだよ。本当に本当に、お疲れさまでした。そして本当に本当に、ありがとう。

そんなYUIちゃんの不在と、コロナ禍の中での戦いを支え続けたMOMOMETALの物語をあの場に集ったメイトさんたちはみんな理解していた。さくら学院の頃から重音部に憧れ続け、ダンスの振り付けも担当するくらいにダンススキルを磨き、Avengersにも加わりながら、それでもやはりYUIMETALの後を継ぐことへの躊躇はあったと思う。KPOPアイドルへの挑戦も、自分の可能性を確認するプロセスだったんだろうし、そんな葛藤を経てMOMOMETALになることを選んだその勇気と覚悟。それをみんな理解していたからこそ、あの大きな拍手と歓声が生まれたのじゃないかな。単なる興奮とか熱狂というのとは少し違う、もっと優しくて温かい想いがあの拍手と歓声にはこもっていて、本当に、このグループを、さくら学院を推してきてよかった、と思えた瞬間でした。

中本すず香、菊地最愛水野由結、という天使達が語り始めた物語は、その出身母体であるさくら学院の36人が生み出す物語である「さくらSAGA」の外伝として誕生し、その後、神バンドと藤岡幹大さんとの交流という物語、佃井皆美さん、丸山未那子さん、平井沙耶さんなどのマッスル姐さん達の物語も絡み、鞘師里保さん、藤平華乃さんというASHとさくら学院という自らの出自に迫る物語を経て、今、母体のさくら学院を継承するAmuse Kidsの育成の場として、戸高美湖、木村咲愛、加藤ここなを始めとしたKidsの成長の物語まで語り始めた。その中で新生BABYMETAL自身も、楽曲の成熟に合わせた新たなMETALの異世界の扉を次々と開きつつある。物語は、無限のループを描きながら次第に拡大していくメビウスの輪のように、これからもずっと続いていく。THE ONEの時、モニターに映ったMOAMETALが、「もし終わりがあるなら」という歌詞を自分も口ずさんでいるのに気付いた瞬間、背筋に鳥肌が立ったのだけど、あれはもあ様自身が、一つの物語が終わり、そして別の物語が始まることを自分に言い聞かせていた瞬間だったのかもしれないなぁって思います。三人が始めた物語、そして新たな三人が歩んでいく物語。音楽を、世界を変えるかもしれないこのスーパーレディ達の歩む物語を、これからもずっと見守っていければと思います。

ブルーアイランド版『蝶々夫人 宇宙編』〜またまた知ったかぶりの解釈文を並べます〜

今日は、少し前、3月26日(日)に東池袋のあうるすぽっとで開催された、ブルーアイランド版「蝶々夫人 宇宙編」の感想を書きます。女房が出演したご縁で見に行ったのですけど、終演後にFACEBOOKに、例によって思いつきの適当な感想文をちょっと載せたら、出演者の方々に結構受けてしまった。ということで、もう少し肉付けしてブログに残しておこうかと思い立った次第。

 

公演ちらし。


ブルーアイランド版は、オリジナルのオペラの世界を、青島広志先生独特の諧謔とぶっ飛んだ発想で、ほぼオリジナルのガラオペラのようなパロディ演目に仕立ててしまう企画。前回見に行った「こうもり」では、ファルケが実は吸血鬼でした、という謎の設定を持ち込んで、ゾンビが踊り狂うカオスな舞台を作っていた。なんだかモンティ・パイソンのギャグ映画のように、若干悪夢のようなグロテスクさも加味したごった煮舞台。それはそれで、パリの世紀末に咲いたオッフェンバックオペレッタに代表される数々のデカダンスの毒の花のような不思議な魅力も持っているし、昭和の不条理ギャグ漫画(魔夜峰央さんとかちょっと連想したり)の破壊力を想起したりする箇所もある。


一方で底流に青島先生のオペラ原曲に対するリスペクトや、(かなり屈折している感じもするけど)深い愛情とこだわりが流れているから、音楽に対する妥協はないんだよね。ドリフターズクレージーキャッツの破天荒なギャグの底流に、一流のミュージシャンである彼らの確かな演奏技術があるように、ごった煮の「なんじゃこりゃ」という混沌の中から、一流の歌い手たちの技術と、鈴木恵里奈先生指揮する、小編成なのに凄く雄弁なオーケストラの響きに支えられて、プッチーニの音楽の美しさが色鮮やかに鮮烈に浮かび上がってくる瞬間が何度もあったりする。そういう意味では、音楽そのものに対する冒涜じゃないかと思うような一部の現代的演出とかよりも、音楽そのものの魅力が伝わってくる気もします。


女房は、蝶々さんの敵役であるケイト「達」(4人で一体、というタコのような宇宙人…ネプチューン星人=海王星人、ということでタコなんだな)の一人として、毎日筋肉痛に襲われながら鍛えた動きで、クネクネと存在感見せていました。ラスト近くの「僕らはみんな生きている」の合唱で聴かせてくれた、青島先生オリジナルの超絶オブリガートも、綺麗に決まってよかった。大変頑張りましたね。しかし、この段落の中に、オリジナルの蝶々夫人と関係ある要素がほぼ皆無ってどういうことだよ。


で、ここからは、FACEBOOKに載せた感想文に少し肉付けした解釈文を。何度も申し上げているように全編ハチャメチャのパロディ舞台ですし、そこに盛り込まれている色んな記号を勝手な解釈で読み解いた、こちらも全編衒学的な知ったかぶり解釈なので、あんまり本気にしないで下さいね。多分下記に書いたことを青島先生がご覧になったら、「私はそんなつもりはない」って怒られちゃう可能性高いんだけど。以下、舞台をご覧になった方、あるいは出演された方にしか理解できない文章ですが、舞台のごった煮感は伝わってくるかと思います。

 

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西洋と東洋の異文化の衝突、カルチャーショックの生み出す悲劇、というオリジナルのオペラ蝶々夫人のテーマを、宇宙、という設定にまで拡大し、カリカチュアライズすることでより明確にした設定。それぞれの文化の価値観もグロテスクに強調されていて、例えばピンカートンが身につける赤フンドシは、蝶々さんを踏みにじる男性性=『マッチョ』の価値観の象徴だし、そのピンカートンを籠絡するケイトは、タコという軟体動物に擬せられることで、『エロス』という価値観を強調される。至る所で、価値観の衝突、闘争というテーマが明確にされていて、ピンカートンとケイトは、赤フンドシと赤い衣装という共通の記号で一体化されているし、ピンカートンの祖母と蝶々さんの父の霊的闘争という仕掛けも、双方の対立軸を明確にする。


途中挿入されるムソルグスキープロコフィエフのおどろおどろしい音楽とゾンビの群舞、それに怯える蝶々さん、という場面は、ロシアの暴力によって踏みにじられているウクライナの平和のメタファー、なんて読み解きをする人達もひょっとしたらいるかもしれないけど、青島先生はそんなに簡単に善悪の二元論で世の中を両断したりしない。もちろん、オリジナルのオペラが持っている蝶々夫人への深い同情に応じて、ほぼ全編が蝶々夫人=善、ピンカートン=悪、として描かれていくのだけど、ラストシーン、自分に向けた刃をピンカートンに向けることで、止めに入った子供が犠牲になってしまう、というオリジナルとは異なるどんでん返しによって、一気に価値観が相対化されてしまう。蝶々さん的価値観とピンカートン的価値観の相討ち、あるいは、相互の無理解によって、それぞれの価値観のいずれもが悲惨な敗北に直面する、という物語への変貌。ロミオとジュリエットの構造にもつながる対立と無理解が生み出す普遍的な悲劇でもあり、さらに、こういった文化や価値観の衝突の犠牲者が常に無垢な社会的弱者であることに対する抗議と嘆きでもある。だったらやっぱり蝶々さんは刃を自らに向けて、自らの価値観に殉ずるべきだったのか。ラスト、東武と西武の紙袋下げて息子を迎えに能天気に駆け込んでくるピンカートンにも、あんまり悪意があったとは思えないし、人間同士の無理解と異なる価値観への狭量さって、人間という生き物の全てが善意だけで行動したとしても避けることができない宿業なのかもしれないね。

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…なんて事を、本番終了後、タコを演じて疲れ果てて帰宅した女房に滔々と述べたら、よくもそんな胡散臭いことを分かったように言えるもんだ、と呆れられたわけですが、青島先生の舞台のテイストって、前述した昭和の不条理ギャグセンスが横溢している感じがあって、同じ昭和世代人としてはなんとなく琴線に触れちゃって、色々分かったような顔して語りたくなっちゃうんですよ。青島先生はじめ、共演者の皆様、とりわけタコの皆様、女房が大変お世話になりました。下らない駄文にお付き合い下さってありがとうございます。またどこかで楽しい時間ご一緒できましたら嬉しいです。