怪獣は襲ってくれない~新谷ゆづみはガメラである~

今日、新宿トップスシアターで観劇した「怪獣は襲ってくれない」。芝居の内容そのものも十二分に心揺さぶられるものだったので、その感想は(ネタバレ防止の意味でも)終演後にまたじっくり書きたいと思いますが、今日は「こっこ」を演じた新谷ゆづみさんのことを集中的に書きたいと思います。この人の過去の映像作品の演技でも、ずっと感じていた「新谷ゆづみさんという役者さんは一体何者なのか?」という疑問が、今回の舞台を拝見してちょっと理解できた気がした。その答えが、このブログのタイトルにも書いた、

 

「新谷ゆづみはガメラである」

 

という結論。えっと、この文章はちゃんと着地するのだろうか。でもね、新谷さん自身が怪獣なんじゃないですか、という感想が結構ツイート、じゃない、ぺけ(X)さんに溢れている中で、「怪獣の中で言うなら、ガメラだよなぁ」という連想した人も結構いると思うんだ。そのあたりの感覚を解き明かしていきたいと思います。

ぺけさんに投稿された新谷さんの舞台裏の姿。ガメラゴジラと対峙している。

 

新谷さんという人をさくら学院の頃から知っている人間として、いつも不思議だったのだけど、この人は本当に自分を主張しない人なんですよね。さくら学院では毎週生配信の番組があったのだけど、そこで話題を振られた新谷さん、自分の主張をすることが非常に少なかったんです。それって卒業した後も同様で、変わらないなぁって思ったのが、先日新谷さんのラジオでも放送された、新谷さんのバースデーイベントの八木美樹さんとのセッション。お客様から事前にもらった質問に二人で答えていくのだけど、新谷さんは一度も自分の主張をしない。八木さんが「たこ焼き」と言えば「たこ焼き」。「もんじゃ」といえば「もんじゃ」。新谷さんが本当に好きなものは何なのか、ご自身がお勧めしたいものは何なのか、一切言わない。全部八木さんの意見に合わせてしまう。

そういう姿って、以前から何度も見ていて、話している相手が言うことに寄り添ってしまうんですよね。「えぇ?」「うーん」「なんだろう?」と言っているうちに、他の人が先に何かを発言して、それを聞いて、「そうだね、それだね」と言ってしまう。

正直、さくら学院を卒業して女優の道に進む、と聞いた時、一番心配したのはこの人のこういう所だったんだよね。生き馬の目を抜くような自己アピール競争の激しい芸能界で、こんなに自己主張しない新谷さんが本当に生き残っていけるんだろうか、って、保護者目線の強いさくら父兄としては妙な心配をしてしまったんですよ。在学中から定評のあった演技力や、「さよならくちびる」で見せたビビッドな演技を見ていたから、演技力は全く心配していなかったのだけど、freshで後ろに引いてしまう姿とか、森センに詰められてもなかなか自分の意見を言おうとしない姿を見ていて、大丈夫かな、この子って、ずっと思ってた。

逆に言えば、これだけ自己主張のない人が、表現者として立った瞬間に吹き上がる感情の炎の強さが本当に謎だったんだよね。「麻希のいる世界」「(instrumental)」「やがて海へと届く」「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」、どの作品でも、新谷さんの演じる人物の感情の迸り、その「憑依」する感じってのは本当に嘘がない。この人が演技として口にする「好き」という言葉の密度の高さ。こんなに命がけの「好き」を口にできる役者さんをあまり知らないし、「やがて海へと届く」で、笑顔のままボロボロと涙をこぼし始めた新谷さんの演技に衝撃を受けた人は多かったと思います。

今日の観劇で、一つその謎が解けた気がしたのが、アフタートークで、「感情を爆発させるシーンで、新谷さんなのか、こっこなのか、どちらの感情で演技しているのか」と問われた新谷さんが、「ここはもう感情の塊というか、こっことか新谷、という個人を超えて、感情そのものを吐き出している感じで演じてますね」とコメントされていたんですよね。そのコメントを聞いた時に、「そうか、この人はガメラなんだ」と急に腑に落ちたんですよ。さあ、やっとここで冒頭の文章に来たぞ。無茶苦茶唐突だが。

平成ガメラ第三作「ガメラ3邪神覚醒」で、手塚とおるさんが演じていた倉田という謎の人物が、こんなセリフを言うんですね。「ガメラ超古代文明が生み出した一種の器だ」と。地球を守ろうとする地球自体が持つ治癒力である「マナ」の力をその身に閉じ込め、パワーに変える器が「ガメラ」だと。

演じる人の感情、あるいは演じる「人」だけではなく、「トー横キッズ」という、社会の全てから見捨てられた子供たちの迸る怒りや悲しみという感情自体を取り込み、それを増幅して放射する「新谷ゆづみ」という器。そう理解すると、この人が極端なまでに自分を主張しない、というのもなんとなく理解できた気がしたんですね。器が自分を主張してしまうと取り込む感情に濁りが出てしまう。ピュアに演じるべき感情を表現するのに、自分自身の感情や意見を反映させることは逆に邪魔になる。

そういう役者さんって、意外と少ない気がする。キムタクさんなんか典型的だと思うけど、どんな役をやってもキムタクさんだよねぇ。吉永小百合さんだって、何をやっても吉永小百合さん。それだけの個性とか、その人にしか出せない佇まいを持っている、というのはもちろん素晴らしい天賦の才だと思うのだけど、新谷さんはそういう「役を自分に引き寄せる」作り方とは全く逆の方向で演技を作っている気がする。その役の持っている感情そのものを取り出して、それを自分の中に取り込み、増幅して放射するような演技。ガメラのような入れ物、増幅器としての役者さん。

でも、ちょっと話がそれるかもだけど、そもそも古代、「演技」という行為自体、神事であり、神を自らの身体に憑依させることで始まったものなんだったんだよね。憑依ということ自体が自分の個性を没却することからスタートするので、古代ギリシア演劇でも、日本の神楽や能楽でも、演者は仮面を身に着けて自分の個性を消した。そして演じる役の「器」になりきった。その究極の形が人形浄瑠璃だと思うんだよね。人間ではなく人形が演じる、という「器」の究極の形。ガメラの中でも、勾玉を通じてガメラと精神交流してしまう少女が「巫女」と表現されていたけれど、新谷さんは「巫女」のような立ち位置で演技をしているのかもしれない。さすが、古神道の聖地である熊野や密教の聖地高野山を抱く和歌山出身の女優。

もちろん、新谷さんが人形のような無個性、無感情な人格であるか、といえば全然そんなことはなく、涙もろかったり、周囲への心配りが厚かったりする人柄は色んな所で垣間見れる。周囲の流行に流されない、いつまでたっても「都会に染まらない」自分を守っている強い精神も持っていると思う。ただ、こと演技や芸能界での立ち位置、という観点でいえば、「優秀な器に徹する」というこの人の方法論が見える気がして、それが無数の映像監督さんや演出家さん達に信頼され、印象的な役を任されるこの人の最大の武器のような気もするんです。「新谷ゆづみはガメラである」と考えると、その平成ガメラを監督した金子修介監督のお嬢様、金子由里奈監督の作品に出演した、というのも、ちょっと「ガメラ」との縁を感じたりする。

なんか本当に無理やり、無茶苦茶な文章書いていますけど、それだけ興奮した舞台だったし、それだけ心揺さぶられた(というより、心引き裂かれるような痛みまで感じた)新谷さんの演技だったんですよね。明日もう一回観劇予定。この女優さんが取り込み、何万倍にも増幅して放出する、トー横キッズたちの思いを、しっかり受け止めたいと思います。ギャオスみたいに一瞬で爆散しそうな気もするが。