ブルーアイランド版コシ・ファン・トゥッテ~家の呪縛を解くために~

9月14日というのは自分にとって大変特別な日になりまして、18年ぶりにアノ球団がアレしたわけですよ。自分は関西出身なのでどうしてもアノ球団のファンなんです、という説明って世間的には納得感強いんですけどね、でも別に関西出身なら必ずアノ球団のファンにならなきゃいかん、というキマリなんかないんですよ。確かに環境の圧力のようなものはありますよ。在阪TV局は毎日のようにゴールデンタイムにアノ球団の試合を放送してますしね。アノキチといわれるタレントさん達が自分の番組で六〇おろしとか歌いまくってたりしますよ。でもねぇ、避ければ避けられるんですよ。裏番組だってあるわけですし、関西に住んでたって、〇甲おろしを聞かずに一生過ごすことだってできるわけですよ。にもかかわらず自分がアノファンになっちゃったってのは、やっぱり親の影響が大きいと思うんだよなぁ。

別のアノファンの人から、「僕は遺伝性のアノキチなので」と言われてすごく納得したことがあって、やっぱり親がアノキチで、しかも関西在住だと、毎日毎晩アノ球団の試合を見るわけですよ。子供だもの、結果に一喜一憂する親の心情にそのままシンクロして、田淵だ藤田だ江夏だワイワイ言ってたわけですよ。結局そうやって自分の身体にアレが刻印されてしまったわけで、これはもう、「親の呪い」というか「家の呪い」だよねぇ。

急に何の話をしておるのか、というと、この9月14日に見に行った、ブルーアイランド版コシ・ファン・トゥッテ「男も女もみんなこうしたもの」の感想を書こうとしているんですけどね、なんだってアレの話になったんだ。いや、同じ日にアノ球団がアレした、というだけじゃなくて、一応テーマとしては共通しているんだよ。「家の呪い」というか「家の呪縛」というテーマでね。

ブルーアイランド版、というのは、青島広志先生の演出によるオペラの上演、と思っちゃいけません。オリジナルのオペラをネタにした、青島広志先生の心象風景のお蔵出し、と思うのが一番しっくりくる。でもそういう感想というのも、実は今回改めて感じたことだったりします。ちょっと冒頭に提示したテーマからは外れるけど、まずは、そちらの話を。

定番オペラやオペレッタに独自の設定や解釈を盛り込む、というのは、20世紀のオペラ演出で一般的になった手法で、ドン・ジョバンニの舞台を現代のハーレムに置き換えたピーター・セラーズの演出に代表されるように、オペラの持つ普遍的な価値や意味を現代によみがえらせようとする一つの試みだったと思います。でも、青島演出のオペラというのは、前述のようにオリジナルのオペラをネタにして全く別の世界を表現しようとする試みで、今回のコシファンを拝見して、「あ、これって野田秀樹さんのシェイクスピアへのアプローチと同じ試みかもな」と思ったんですよね。

野田秀樹さんがNODA・MAPでやっていたシェイクスピアの翻案、というのも、オリジナルのシェイクスピアを全然違う設定で読み替えてしまう試みで、そこから逆に日本語の豊かさや演劇の本質が見えてくる刺激的な舞台でした。青島先生がブルーアイランド版を始められたのがいつごろかは存じ上げないのですが、年代的にも野田秀樹さんの小劇場演劇ムーブメントと重なっている気がするし、そもそも舞台構成とか色んな所に、レビューやスラップスティック的な色んなギミックを持ち込んで猥雑な雰囲気を作り上げる小劇場演劇的なアプローチに共通した雰囲気を感じちゃったんですね。

今までいくつかブルーアイランド版のオペラを拝見しているのだけど、小劇場演劇との共通項を感じたのは今回が初めてで、なんでかな、と思ったらやっぱり「コシ・ファン・トゥッテ」というアナーキーな素材そのものの持っているシェイクスピア的セリフ劇の側面と、シチュエーションコメディとしての要素の強さが影響している気がした。コシ・ファン・トゥッテにおける変装した婚約者、という仕掛けは、シェイクスピア演劇において多用される「男装するヒロイン」という仕掛けに源流があるし、二組のカップルの恋の行方と大団円、という構造そのものが、シェイクスピア時代から綿々と受け継がれた西洋戯曲の基本パターンだったりする。要するに、モーツァルトのオペラブッファってシェイクスピアから始まるルネッサンス演劇からそれほど遠くない場所にあるんだよね。

さらに今回の青島版コシにシェイクスピア的な印象を感じたのが、青島先生が持ち込んだ、コシの男女4人が、そもそも同性愛カップル2組だった、という「性の倒錯」という仕掛け。前述したように、シェイクスピア劇には「男装するヒロイン」というのが頻出するのだけど、これってもともと、当時の演劇において女性役を演じるのが変声期前の少年だったことが多く、この少年がさらに男装して主人公に恋を指南する、というシチュエーションが、当時の観衆に倒錯的な興奮を与えた、というのが大きな要素だったそうです。演劇における性の倒錯、というのは、シェイクスピア時代にとどまらず、日本の歌舞伎により現代にまで受け継がれ、1970年代後半のイギリス戯曲「クラウド9」などでも見られた手法で、男優が女性役をやり、女優が男性役をこなす、という倒錯の中に、逆に演劇という表現の自由度を表す仕掛けだったりする。プロセニアムという閉じられた世界の中で、性も時代も飛び越える自由が表現できる、という。

そういう、時間も性も飛び越える、という舞台の持つ表現の自由さの中で、青島先生が今回のコシに持ち込んだもう一つの仕掛けが、主人公の4人の男女の母親の生霊が常に舞台の奥に存在しており、4人の行動を束縛する、という仕掛け。自由であるはずの舞台の上で、登場人物を縛る「家の呪縛」「血の呪縛」という仕掛けが、見ていて笑える演出なんだけど、ちょっと個人的にはゾッとするような恐怖感も感じたんだよなぁ。

冒頭のMCで、青島先生が、ご自身の幼少期の経験として、男性的なるもの、女性的なるものを身に着ける少年期のご家庭で、おばさまやおばあさま、といった女系親族の影響が強くて、女性的なものへのあこがれや親しみ(女言葉や女性的な美意識)が強かったんだ、という話をされていて、そういう「家の呪縛」ってあるよなぁ、と思ったんだよね。前回拝見した青島版「蝶々夫人」でも、蝶々さんの父の亡霊とピンカートンの母の亡霊が霊的闘争をする、それが、蝶々さんが自分の息子を手にかけるという悲劇につながる、という読み替えをやっていて、この「家の呪縛」「血の呪縛」というのは、青島版における一つの大きなテーマなのかもしれないなぁ、なんて思った。まぁそれで、冒頭のアレの話とつながってくるんですがね。私がアノ球団の勝敗に一喜一憂してしまうってのも、まさに「家の呪縛」。

青島版コシの4人は、この「家の呪縛」を否定し、自らを開放するために、「性規範の否定」という手段を使う。そもそもLGBTというのは、家族という血縁でつながる制度を破壊する力を持っているので、ある意味究極の解放の呪文なんだよな。それは舞台表現そのものが持つ極めてラディカルな武器で、歌舞伎とならんでその「性の倒錯」という解放の呪文を舞台表現の手段として維持してきたタカラヅカのトップスター、大和悠河さんが今回出演されていたのも恐らく偶然ではない。

まぁねぇ、家族観に関する「家の呪縛」はLGBTという飛び道具で破壊することができるけどねぇ、アノ球団の呪縛を解く飛び道具はどこかにないかねぇ。だれかがテレビで、「宗教の持つ力がそれほど強くなくなっている現代において、文句なしに好き、と言えるものを持っている阪神ファンって、一種の宗教団体みたいに見えますね」と言っていて、そうなんだよなぁ、と思いました。これは一種のマインドコントロールだよなぁ。あんまり普段の生活に影響しないからいいけどさ。日々星占い見るみたいにアノ球団の勝ち負けに一喜一憂する呪縛からそろそろ逃れたいと思うんだよ。これはオペラの観劇感想文だったはずなんだが、全然違うものが入り込んでしまった。これも何かの呪いだなぁ。

出演者の皆様、青島先生、お疲れさまでした。また、あっと驚く色んな引き出し見せていただくのを楽しみにしております。