ここ数か月、さくら学院の卒業生の舞台を見ることが多くて、倉島颯良さんと黒澤美澪奈さんが共演した「じゃ歌うね、誕生日だしウチら」、新谷ゆづみさん出演の「怪獣は襲ってくれない」、そして今日は、飯田らうらさん出演の「消された声」を観劇。さくら学院の2人の関係性をベースに作られた音楽劇、ともいえる「じゃウチ」、新谷さんの鬼気迫る演技が評判になった「怪獣」、そして、重厚で暗い物語の中で未来につながる希望の光を見せてくれた「消さ声」の飯田さん、それぞれの舞台で輝く卒業生を見ることができました。でもやっぱりその中で、一番モヤモヤしている、というか、ずっと心の中に淀んでいるのが、新谷さんが出演された「怪獣は襲ってくれない」なんだよなぁ。そしてそのモヤモヤが、逆の意味でクリアになった気がしたのが、今日拝見した「消された声」なんです。
「消された声」は真っすぐ正統派のサスペンスドラマで、国家権力と裏社会の権力が手を結んだ巨悪に対して個人が戦いを挑む、というのが基本構造になっている。その巨悪に結びついた真犯人が絞られていくプロセスもスリリングで、若い役者さんの熱演や回り舞台の舞台道具そのものが演技をしているようなダイナミックな演出でグイグイ魅せていく、パワフルなお芝居でした。
でもねぇ、この「巨悪に挑む個人」っていう構図自体が、今の時代の混迷感としっくりこない感じもするんだよね。巨悪を暴こうとするのがフリーランスのルポライター、というのも、最近とみに鼻につく社会正義を振りかざすメディアの胡散臭さもダブってしまって素直に見られない。もちろん、この舞台で描かれた「消された声」が現代には存在しない、とは決して言わない。確かに、何かしら大きな力によって踏みにじられ、圧殺された声は今の時代も沢山あるだろうと思う。でも、そういう消された声、という単語を見ても思い浮かぶのは「怪獣は襲ってくれない」のラストシーンのこっこの叫び声なんだよなぁ。「私が悪いの?!」「あんたたちは幸せなの?!」と叫びながら、舞台裏へ大人たちに抱えられて消えていった、まさに「消された」こっこの叫び声なんだよ。新谷さんに憑依したトー横キッズの声の方が、新宿の街角の吐瀉物をそのままこちらの顔面に投げつけられたみたいな強烈な印象で、今の時代の困惑と怒りをガツンとぶつけられたような気がするんだ。
「怪獣は襲ってくれない」を見てからもう1か月以上経つのに、このお芝居が与えた感情の波立ち、というか、混乱、困惑がずっと続いている感じがする。そして先月末に、ネットで流れたこの記事。
舞台で描かれた物語そのままじゃないか、と見まがうような現実を報道する記事。脚本・演出の岡本昌也さんがアフタートークでも何度もおっしゃっていた、「これはほぼ脚色していない、リアルな歌舞伎町の現実です」という言葉が、何一つ誇張ではなかったことを実感して、困惑はさらに増幅する。そして、今日、「消された声」を観劇して、自分の中の困惑が一つの文章になって浮かび上がってきた気がしていて、それは、「僕らは誰と戦えばいいんだ?」という問いかけなんだ。
舞台の上でも、悲惨な家庭状況を語るメロに向かって、ゼウスが、「戦えよ!」と叫ぶシーンがある。でも、メロは自分を虐待する母親の交際相手と戦うことはできない。なぜなら、それは自分の最愛の母親の愛する人だから。
こっこは実父から恒常的な家庭内暴力を受けているけれど戦う術を持たない。ただそこから逃げ出すことしかできない。逃げた先のトー横は居心地はいいかもしれないけどやっぱり地獄だ。そしていつまで待っても怪獣は襲ってくれない。突然出現した巨大な怪獣が放射能ビームで街を焼き尽くすこともなければ、そんな怪獣と戦ってくれる銀色の巨人もいない。愛する家族を理不尽に殺戮する国家権力の暴力という巨悪もない。それと戦ってくれる正義のマスメディアなんてのは幻想だ。そして、自分を傷つける家族と正面から戦うことは、自分の血、すなわち自分自身と戦うことだ。
そうして戦う相手を見失ってしまった、こっこやメロやにゃんぎまりの戦いは、結局自分を敵として、自分自身を破壊する方向に向かってしまう。絶え間ないリストカット、オーバードーズ、飛び降り自殺。自分と戦っちゃだめだ、と言ってあげたいけど、その一方で、自分に負けるな、と言う大人だって多いよね。自分の弱さに向き合え、だの、指を自分に向けろ、だの。
さくら学院の楽曲が、2016年度の「アイデンティティ」以降、自分探しの内省的な楽曲に変化していったことも思い出したりする。2017年度の「My Road」も自分自身の進む道を探す七転八倒を描いていたし、そういう内省や自分の弱さとの闘いを歌った楽曲の一つの頂点が、2018年度の「Carry On」だった。でも2019年度の「アオハル白書」になって、さくらの子達は戦う先を自分達の外に見つけようとした。自分らしさを圧殺しようとする大人の常識や世間の無言の圧力に対する抗議のようなこの曲は、今の@onefiveの持っている外向きのエネルギーの源泉のような気もする。
東日本大震災のような自然災害、あるいは「怪獣」のような外からの破壊に対しても、人は一つになれるかもしれない。生きること自体が戦いになる日々の中で、シンプルな助け合いや自己肯定も生まれるかもしれない。でも「怪獣は襲ってくれない」。戦うべき敵はどこにもいない。
「消された声」の主人公たちもまた、家族から捨てられた施設出身の子供たちだった、というのも象徴的な気もする。最愛の人や仲間の無念を晴らすために戦う、という戦いの目的も、戦う相手も持つことができた「消された声」の主人公たちは、こっこたちに比べればまだ幸運だったのかもしれないよね。
でもね、大好きな新谷さんが演じていたってことを差し引いてもさ。こっこには生きてほしいんだ。生き延びてほしいんだ。戦うべき敵もいない、周りは全て自分の存在を否定する、それでも、自分自身を敵にしないで欲しい。自分を滅ぼしてほしくない。若い子が自ら命を断つのを見るのはつらい。それは、自分の身近で、一日でも長く、もっと長く生きていたいって思いながら、たった5歳で難病で亡くなった小さな子供がいるからかなぁって思うんだけどね。あなたの敵はあなたじゃない。あなたが戦う相手はあなたじゃない。じゃあ誰と戦えばいいんだよって言われて答えを出せない自分が不甲斐なくてしょうがないけどさ。生きてくれって、死ぬためじゃない、生きるために戦ってくれって、おじさんはただ思うんだ。