ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい~推しにもやさしくしたいんだよなぁ~

今日は、昨日見た「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」という映画の感想文から、自分の推しゴトに対する最近の思いなんかを絡めて書き進めたいと思います。ちゃんと着地するかどうか正直心もとないんですが、まぁ書き始めてみましょう。

映画「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」自体も、さくら学院の卒業生である新谷ゆづみさんが、主要な登場人物の一人である白城ゆい役で出演されている、ということで、新谷さんの舞台挨拶付きの上映回を狙って行きました。要するに推しゴトの一環。でも、過去の出演作品の全てで、色んな素敵なクリエーターさんに出会わせてくれた新谷さんらしく、今回も、金子由里奈監督を始めとする素晴らしい才能に出会わせてくれました。

舞台挨拶での新谷ゆづみさんと金子由里奈監督のツーショット。スマホ画質で申し訳ありません。しかし金子監督、新谷さんとほとんど年齢変わらなく見えるくらいお若くてキュートな方でした。

 

映画についての感想、という点で言うと、若干厳しめの感想になってしまいます。すごく素敵な画面や印象に残るシーンが沢山あるんだけど、全体の編集のリズムがちょっと私の生理とは合わなかったなぁ、というのが第一の感想。原作を読んでいないし、金子監督の他の作品を拝見していないので、なんとも言えないのだけど、時間軸をずらしたり、シーンの伏線を回収したりするタイミングとか、そこに持っていくリズムみたいなものがちょっとトリッキーな感じがあって、そこについて行けなかった所が何か所があった。二回見てある程度納得感は得られたんだけど、もう少し分かりやすくしてもよかったんじゃないかなーという印象。その因果関係の回収に意識がとられてしまって、ラストの、七森と麦戸が「対話」という自分自身との闘いに正面から向き合うクライマックスへの勢いに上手く乗り切れなかったんだよね。

見た私自身の理解力の問題、という気もするんだけど、一つ一つのシーンを、普通の平凡な絵にしない、したくない、という作り手のこだわりも感じて、それが逆に引っかかっちゃったかなぁ。そういう要素を強烈に感じたのが、ラストシーン。エンドクレジット直前に、部室に居並ぶぬいぐるみ達にゆったりと近づいていくカメラが、ちょっと何かの動きを予感させるように一瞬下方に視線を落とす。「あれ?」と思ったらエンドクレジットになる。何が起こったのか、何かが起こるのか、答えはない。こういう、「あれ?今のなに?」という編集が結構あって、その意味を考え始めるとすごく面白いんだけど、ちょっと疲れる。

でもねぇ、そういう所が、金子監督の若さかもしれないし、既存の映画文法をどうやって変革していくか、いわゆる「映画らしい映画じゃない映画」をどうやって撮るか、ということばっかりトライしてたお父様の金子修介監督の影響も感じるんだよね。そういう意味では、自分の生理に合わないからといって、この映画自体を否定する気は全然ない。むしろ、「映画で世界を変えたい」という意気込みで、あらゆる画面に多層的な意味を加えようとする意欲と若さには圧倒されたし、「いいなぁ」と思う箇所は一杯ありました。

何より、一人ひとりの役者さん達が凄くいい芝居をしている。こういう芝居を引き出せた、という一点でも、金子監督はただものじゃないと思います。お目当ての新谷さんを始め、細田佳央太さん、駒井蓮さんの三人が、激情で声を荒げるシーンはほとんどないのに、呟くような語り口の中で、ものすごく分厚いリアルな感情を言葉に乗せてくる。

そういう点では、ぬいサーの部員さん達のセリフも含めて、自然な言葉やセリフ達をものすごく繊細に切り取った音像設計というか、録音技術に結構感動したんだよなぁ。五十嵐猛吏さんという方が録音担当なのだそうだけど、ぬいサーの部員さん達がぬいぐるみに話しかけている言葉が時に浮き上がり、時に背景になる自然さ(ヴェンダースの「ベルリン天使の詩」思い出しちゃった)。ぬいぐるみを洗う時の水音は優しくも静かな死を連想させるし、絞り出すように語る麦戸の「つらいね」という言葉の粒立ち、路上を歩きながらの西村の解放感のある呟きを、通りすがりの人のスマホの会話がぶった切る瞬間に、「対話の加害性」が表現されるシーンとか、この音像設計がなかったら表現できなかったんじゃないかなぁ、って思う。西村を演じた若杉凩さんもカッコよかったなぁ。

ラストシーン、優しさという呪いから、愛しい七森や麦戸を守るのだ、という白城の覚悟が示されることで、「優しさってなんですか?」という強烈な問いかけで映画は終わる。ぬいぐるみに近づこうとして、ふっと下を向くカメラは、ぬいぐるみに話しかける誘惑から目をそらして人に向き合おうとする白城の決意を表しているのかもしれないし、ひょっとしたら、人のつぶやきを聞き続けたぬいぐるみ自身が、人に向かって話しかけようと棚から降りようとした瞬間なのかもしれないなぁ、なんて思いました。

映画を見た後、何かしらもやもやとしたものが残る、というのは、金子監督が作ったこの映画によって、私の心が傷ついた証拠だと思う。映画を人に見せることで人を動かす、ということ自体の持つ加害性。でもね、傷つかないと人は動かない。変化しないと人は前に進めないんだよなぁ。

なんていう思いも湧き上がっているのは、実は最近、自分の推し達がみんな、新しいステージへとChangeし始めている時期と、この映画を見た時期が重なっているせいなんだよねぇ。BABYMETALが新体制宣言したのは前回のブログで書いたけどさ。先週見たonefiveのステージ「Chance x Change」の舞台では、さくら学院自体の清楚なイメージをあえて壊すようなギャルっぽいルックスに4人が挑戦していて、昔からのファンの間でも賛否両論あったみたいなんだよね。推しの遠坂めぐさんも、バズった「キレてます」シリーズに依存しないで、もっと音楽を中心に据えた動画で勝負したい、と言い出して、新規チャンネルを立ち上げたりしたし。

推しとヲタの関係っていうのは、ぬいぐるみに話しかけるぬいサーの部員のように、一方向でしか成立しない。でも、推しはぬいぐるみや人形じゃないくて、一人の人間だし、人間である以上、成長したり変化していくのは当然。アイドルさんが交際報道や結婚報道でバッシングを受けちゃう、なんてのは典型的な話だけど、変化や成長を受けた路線変更を裏切りと感じて他界していくヲタさんとかって、一杯いると思うんだよね。

でもねぇ、50過ぎてBABYMETAL知って、そこからさくら沼にハマったジジイヲタとしてはさ。推しはみんな娘の世代なんですよ。MOAMETALがちょうど私の娘と同級生なので、SUMETALと同級生の遠坂めぐさんなんか娘と二つしか違わない。そうすると、どの推しを見る目も、親目線になっちゃうんだよなぁ。子供にとって最後の避難所でありたいっていう親の気持ちが、そのまま推しを見る目になっちゃうんだよ。今はどんなにヤンチャしててもいい、それはないなぁって思うような寄り道しまくってたり、周りに無茶苦茶迷惑かけたりしてもいい、でもいつか戻ってきたら、温かく迎えてあげたいし、今は何があっても笑顔でいてほしいって思っちゃう。ほとんど放蕩息子の帰還の父親の気分だよね。

でも、そういうヲタって、果たして「優しい」って言えるのかなぁ。白城が七森や麦戸に対している態度っていうのは、愛しさの中にも少し厳しさもある。そしてその白城の「優しさ」によって、白城自身もものすごく傷ついたりする。推しの行動を全肯定してる自分のヲタ活動ってのは、果たして優しいって言えるのかなぁ、なんてちょっと考えたりして。

じゃあ推しの行動を批判的に見て「あんた違うでしょ!」なんて言い始めるとただのアンチになっちゃうし、とすれば静かに黙って他界するのも優しさかなぁ、なんて、ヲタはヲタでそれなりに悩んだりするんですけどね。ただ、繰り返しになるけど、推しとヲタの間には、推すか他界するか、あるいはアンチになるか、という選択しかないので、まさにぬいぐるみとぬいサー部員のような一方向の関係性しか成立しないのが怖い所だと思う。愛情は裏切られたっていう感覚であっというまに憎悪に変化するからねぇ。そういう意味でも、七森に傷つけられたとしても、それでも七森を愛おしいって思い、自分の感情すら客観的に捉えて、この愛しい人たちを守るんだ、と覚悟する白城って、本当に強いなぁって思います。チャンドラーの名言思い出すよね。

“If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.” 「タフでなければ生きていけない。優しくなれなければ生きている資格がない」

ヲタとしての自分は、いかに推しに裏切られたとしても、アンチにはなりたくない。静かに他界して、あとは遠くから推しの笑顔を祈り、いつかまた自分の守備範囲に戻ってきてくれた推しの笑顔に向かって拍手をしてあげる日を祈る、そんなヲタでいたいなぁって思ってます。とりあえずベビメタ沼からもさくら沼からもonefive沼からも遠坂沼からも全く他界する気はないが。映画の感想のはずなのに最後はただのヲタ話になってしまった。「ぬいしゃべ」のファンの方々には本当に深く深くお詫び申し上げます。大変申し訳ございませんでした。え、それで終わり?と思わせつつこの駄文を締めくくりたいと思います。あ、石投げないで。