ブルーアイランド版『蝶々夫人 宇宙編』〜またまた知ったかぶりの解釈文を並べます〜

今日は、少し前、3月26日(日)に東池袋のあうるすぽっとで開催された、ブルーアイランド版「蝶々夫人 宇宙編」の感想を書きます。女房が出演したご縁で見に行ったのですけど、終演後にFACEBOOKに、例によって思いつきの適当な感想文をちょっと載せたら、出演者の方々に結構受けてしまった。ということで、もう少し肉付けしてブログに残しておこうかと思い立った次第。

 

公演ちらし。


ブルーアイランド版は、オリジナルのオペラの世界を、青島広志先生独特の諧謔とぶっ飛んだ発想で、ほぼオリジナルのガラオペラのようなパロディ演目に仕立ててしまう企画。前回見に行った「こうもり」では、ファルケが実は吸血鬼でした、という謎の設定を持ち込んで、ゾンビが踊り狂うカオスな舞台を作っていた。なんだかモンティ・パイソンのギャグ映画のように、若干悪夢のようなグロテスクさも加味したごった煮舞台。それはそれで、パリの世紀末に咲いたオッフェンバックオペレッタに代表される数々のデカダンスの毒の花のような不思議な魅力も持っているし、昭和の不条理ギャグ漫画(魔夜峰央さんとかちょっと連想したり)の破壊力を想起したりする箇所もある。


一方で底流に青島先生のオペラ原曲に対するリスペクトや、(かなり屈折している感じもするけど)深い愛情とこだわりが流れているから、音楽に対する妥協はないんだよね。ドリフターズクレージーキャッツの破天荒なギャグの底流に、一流のミュージシャンである彼らの確かな演奏技術があるように、ごった煮の「なんじゃこりゃ」という混沌の中から、一流の歌い手たちの技術と、鈴木恵里奈先生指揮する、小編成なのに凄く雄弁なオーケストラの響きに支えられて、プッチーニの音楽の美しさが色鮮やかに鮮烈に浮かび上がってくる瞬間が何度もあったりする。そういう意味では、音楽そのものに対する冒涜じゃないかと思うような一部の現代的演出とかよりも、音楽そのものの魅力が伝わってくる気もします。


女房は、蝶々さんの敵役であるケイト「達」(4人で一体、というタコのような宇宙人…ネプチューン星人=海王星人、ということでタコなんだな)の一人として、毎日筋肉痛に襲われながら鍛えた動きで、クネクネと存在感見せていました。ラスト近くの「僕らはみんな生きている」の合唱で聴かせてくれた、青島先生オリジナルの超絶オブリガートも、綺麗に決まってよかった。大変頑張りましたね。しかし、この段落の中に、オリジナルの蝶々夫人と関係ある要素がほぼ皆無ってどういうことだよ。


で、ここからは、FACEBOOKに載せた感想文に少し肉付けした解釈文を。何度も申し上げているように全編ハチャメチャのパロディ舞台ですし、そこに盛り込まれている色んな記号を勝手な解釈で読み解いた、こちらも全編衒学的な知ったかぶり解釈なので、あんまり本気にしないで下さいね。多分下記に書いたことを青島先生がご覧になったら、「私はそんなつもりはない」って怒られちゃう可能性高いんだけど。以下、舞台をご覧になった方、あるいは出演された方にしか理解できない文章ですが、舞台のごった煮感は伝わってくるかと思います。

 

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西洋と東洋の異文化の衝突、カルチャーショックの生み出す悲劇、というオリジナルのオペラ蝶々夫人のテーマを、宇宙、という設定にまで拡大し、カリカチュアライズすることでより明確にした設定。それぞれの文化の価値観もグロテスクに強調されていて、例えばピンカートンが身につける赤フンドシは、蝶々さんを踏みにじる男性性=『マッチョ』の価値観の象徴だし、そのピンカートンを籠絡するケイトは、タコという軟体動物に擬せられることで、『エロス』という価値観を強調される。至る所で、価値観の衝突、闘争というテーマが明確にされていて、ピンカートンとケイトは、赤フンドシと赤い衣装という共通の記号で一体化されているし、ピンカートンの祖母と蝶々さんの父の霊的闘争という仕掛けも、双方の対立軸を明確にする。


途中挿入されるムソルグスキープロコフィエフのおどろおどろしい音楽とゾンビの群舞、それに怯える蝶々さん、という場面は、ロシアの暴力によって踏みにじられているウクライナの平和のメタファー、なんて読み解きをする人達もひょっとしたらいるかもしれないけど、青島先生はそんなに簡単に善悪の二元論で世の中を両断したりしない。もちろん、オリジナルのオペラが持っている蝶々夫人への深い同情に応じて、ほぼ全編が蝶々夫人=善、ピンカートン=悪、として描かれていくのだけど、ラストシーン、自分に向けた刃をピンカートンに向けることで、止めに入った子供が犠牲になってしまう、というオリジナルとは異なるどんでん返しによって、一気に価値観が相対化されてしまう。蝶々さん的価値観とピンカートン的価値観の相討ち、あるいは、相互の無理解によって、それぞれの価値観のいずれもが悲惨な敗北に直面する、という物語への変貌。ロミオとジュリエットの構造にもつながる対立と無理解が生み出す普遍的な悲劇でもあり、さらに、こういった文化や価値観の衝突の犠牲者が常に無垢な社会的弱者であることに対する抗議と嘆きでもある。だったらやっぱり蝶々さんは刃を自らに向けて、自らの価値観に殉ずるべきだったのか。ラスト、東武と西武の紙袋下げて息子を迎えに能天気に駆け込んでくるピンカートンにも、あんまり悪意があったとは思えないし、人間同士の無理解と異なる価値観への狭量さって、人間という生き物の全てが善意だけで行動したとしても避けることができない宿業なのかもしれないね。

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…なんて事を、本番終了後、タコを演じて疲れ果てて帰宅した女房に滔々と述べたら、よくもそんな胡散臭いことを分かったように言えるもんだ、と呆れられたわけですが、青島先生の舞台のテイストって、前述した昭和の不条理ギャグセンスが横溢している感じがあって、同じ昭和世代人としてはなんとなく琴線に触れちゃって、色々分かったような顔して語りたくなっちゃうんですよ。青島先生はじめ、共演者の皆様、とりわけタコの皆様、女房が大変お世話になりました。下らない駄文にお付き合い下さってありがとうございます。またどこかで楽しい時間ご一緒できましたら嬉しいです。