万年筆女子会コンサートVol.3「世界民謡めぐり〜歌は千年、筆は万年〜」

女房が参加しているこの「万年筆女子会コンサート」、前回までの2回は、万年筆に絡めて、「文豪シリーズ」「国産礼賛」、と続けてきたのですが、今回は、ネタが切れた、ということで、とにかく色んな民謡でいこう、と決めたそうです。そこで、世界で記録に残っている「民謡」を探してみると、大体1000年くらいの歴史を持っている、ということに気づいたうちの女房が、「歌は千年、筆は万年」というキャッチコピーを考え出した。まぁ無理くりなんですけど、意外となるほど感があっていいですよね。

本番コンサートは、舞台監督兼バーテンさんとして手伝わせてもらったんですけど、バーテンさんが結構楽しかった。9月末の公演に向けて、ヒゲをはやしていたせいもあって、私だと気づかなくて、ホール付のバーテンさんと思いこんじゃった人もいたみたいで、なんだか嬉しかったです。へへへ。

コンサートの内容について。このグループの魅力は、なんといってもその声の色合いの多彩さと、それがアンサンブルになった時のブレンドの見事さ。そしてそのブレンドをがっちり支える田中知子さんのピアノの豊かな音。様々な国の民謡の多様な彩りもあって、ものすごくカラフルな演奏会、という印象。

でも、繰り返しになるけど、やっぱりこのグループを稀有なものにしているのは、その見事なアンサンブルだと思います。個々のソロ曲の完成度ももちろんとても高くて、どの歌手も安定感と個性でものすごく輝いているのだけど、その煌きが和音になって絡み合った時にホール全体を満たす音の層の厚さに、ふんわりと身体全体が包み込まれてしまって、その多幸感ったら半端ない。

前にも書いたことがあるんですけど、ソロ歌手として活躍しているオペラ歌手が何人か集まってのジョイントコンサートで、ソロ曲はとっても素晴らしいんだけど、余興のようにして演奏されるアンサンブルがどうにもハモらなくて、なんだか残念な気持ちになることが結構あります。それに比べて、万年筆女子会のアンサンブルで、がっかりさせられたことは一度もない。ある意味失礼な言い方になるかもしれないけど、ソリストとして見たら、もっと声のパワーや色合いの豊かな歌い手はいるかもしれない。でも、これだけのレベルのオペラ歌手が揃って、これだけ完成度の高いアンサンブルを聞かせてくれるグループって、日本全国探してもなかなか見当たらないのじゃないかな、と思う。それぞれの選手は9秒台を出していなくても、4人になれば世界一になってしまう400メートルリレーみたいに。

今回、どうしてこんなにこのグループのアンサンブルががっつりハモるのかな、と聞いていて、そうか、と思ったのが、田辺いづみさんの声の厚み。一人だけのメゾソプラノの田辺さんの安定したピッチの柔らかな声に含まれる豊かな倍音の層が、個性豊かなソプラノ歌手の声たちをしっかり取り込んで、さらに豊饒な響きを生み出す。やっぱりアンサンブルの基礎は低音部なんだよな、と、ピッチが悪くて荒れたドラ声のベースのワタクシは大変反省しながら聞きました。

出会いというのは奇跡の積み重なりで、この5つの声が重なり合って生み出されたこの音の煌きも奇跡の産物。そしてきっと、そんな出会いのきっかけになった万年筆の発明も奇跡なら、歌われている歌が1000年受け継がれてきたのも奇跡。そんな奇跡がキラキラ輝いている瞬間を、会場のバーテンとして支えられた幸せをかみしめた一日でした。次のコンサートが待ち遠しいなぁ。

はてな日記も終わりますね

気が付けばこの日記、1か月も更新をさぼっておりました。連動しているGAGブログとか、何といってもFACEBOOKで日常のつぶやきを発信するようになって、どんどんこの日記の更新が滞っていく中で、つい先日、はてなダイヤリー機能の廃止が発表されましたね。自分自身のネットでの情報発信の頻度をそのまま反映しているような気がしたなぁ。

自分のはてな日記については、今後も継続していこう、とは思っていて、GAGブログでは宣伝を、はてな日記(今後は、新しいはてなブログを作って引き継ぐつもりですが)では色んなインプットに対するまとまった感想文を、で、FACEBOOKでは日常のつぶやきを、という分担にしていこう、と思っています。こうして見ても、一般人である私が世界に情報発信できるツールがこれだけあって選べる時代になったんだね。インターネットなんてものが存在しなくて、「パソコン通信」の黎明期に社会人になった身としては、本当に隔世の感がある。

日記のクローズに向けて色々準備はしていきますが、とりあえずは、この1か月間のインプットの中で、8月25日に、渋谷のラトリエで開催された、万年筆女子会コンサートVol.3「世界民謡めぐり〜歌は千年、筆は万年〜」の感想を書き留めておきます。ずいぶん時間がたってしまって申し訳なかったです。

「ヘンゼルとグレーテル」〜多幸感と重層性と〜

8月11日、たましんRISURUホールで、東京シティオペラ協会のオペラ公演、フンパーディンク作曲「ヘンゼルとグレーテル」(ノーカット版)を鑑賞。うちの女房がグレーテルを演じた舞台。多幸感に満ちた音楽と、幾重にも重なったモチーフの重層感溢れる豊饒な音楽と、そして同じく、シンプルな中に複雑な歴史と背景を感じさせる物語の深みに、語りたいことが溢れてきて大変。今日はその感想を。


全編のクライマックス、子供たちを現実から夢の世界に誘う天使たち。もう泣けて泣けて。
 
指揮:竹内聡
演出:川村敬一

ヘンゼル:末広 貴美子
グレーテル:大津 佐知子
ペーター(父):櫛田 豊
ゲルトルート(母):上木 由理江
魔女:伊藤 潤
眠りの精:堀江 恵美子
露の精:田中 彰子

合唱:東京シティオペラ協会合唱団
子供たち:KEI音楽学院の生徒たち
演奏:赤塚 博美(エレクトーン) 大杉 祥子(ピアノ)

という布陣でした。
 
まずは音楽の話ですが、女房がこのオペラに出演する、という話をあるオペラ歌手にしたら、まず言われたのが、「この演目はね、オーケストラがものすごく分厚いから、声のない歌い手の声は全然聞こえなくなるんだよ」という話でした。さすがワーグナーの弟子、とにかくオーケストラが分厚くて、声で対抗するのは大変なのだそうです。「子供向けのオペラだ、と思って、子供に演じさせたり、若手の声のない歌い手に演じさせる舞台が多いけど、なめたら大けがする演目だからね」と。

今回は、その重層的なオーケストラを、音量コントロールの自由度の高い赤塚先生のエレクトーン伴奏で聴けた、という点でも、作品の輪郭がくっきりして逆に良かったのかもしれない、と思ったりします。おそらく生楽器の演奏よりも、登場人物のモチーフがすごくくっきりと際立って聞こえて、フンパーディンクの音楽がまさにワーグナーの影響をそのまま受けているんだな、というのがとても分かりやすかった。

個人的にはワーグナーってのがどうにもダメな人間で、心地よくなる直前で出したり引っ込めたりするあの勿体ぶった感じが我慢ならないんだけど、フンパーディンクの音楽はまっすぐ心地よいし、子供向けのSingspielを発展させてオペラに仕上げた、という製作プロセスのせいもあってか、個々のモチーフはドイツ民謡のシンプルで美しいメロディーが中心なので、何より分かりやすくて耳に優しい。「ライトモチーフ」を勉強するにはこのオペラから入るのが、私みたいな初心者にはいいのかもね、と思ったり。

歌った女房に言わせると、聴衆に届いている音楽に比べて実際の楽譜は難度が非常に高いそうで、そういう意味でも一筋縄ではいかない演目なのだそうです。ライトモチーフは決してこれみよがしに飛び出してくるわけではなく、でも常に登場人物に寄り添って、さりげなく何気なく自分を主張している。そんなモチーフが美しい背景の音楽の中で溶け合っている、まさにドイツの森の中で登場人物たちだけがふっと浮き上がって見えてくるような多層的な音楽がたまらなく心地よい。

次に物語について。プログラムに指揮者の竹内先生が書かれていた文章を読むと、子供たちを森に追いやる残酷な義母は、人間的な弱さを抱えた優しいお母さんになっていたり、全体に、グリム童話にある、親と子の対決と、その親のたくらみを出し抜く子供の小賢しさ、みたいな、ちょっと汚い部分がずいぶんきれいに処理されている。グリム童話が実は残酷、というのはよく言われる話で、この物語だって、自分を殺そうとする親と子供の戦い、みたいな部分があるし、極めつけは魔女を焼き殺してお菓子にして食べちゃう、というクライマックスだよね。要するにこれって、人食いの話じゃん。

実際、METで見た最新演出の「ヘンゼルとグレーテル」は、この物語のカニバリズムの側面を前面に押し出していて、幕間にはゾンビみたいな断末魔の人間の顔のイラストが映し出されたり、最後に子供たちみんなでむしゃむしゃ食べるのは、こんがり焼けた魔女の丸焼き(そのまんま人間の形をしている)でした。クリスマスより、街中がスプラッタに染まるハロウィンに上演した方がいいような演出。

多分この物語のルーツをたどれば、30年戦争で荒廃したドイツで、飢えに苦しんだ人たちが実際に体験したカニバリズムが基になっていることは容易に想像できる。飢えに苦しんだ家族が、食い扶持を減らすために子供を森に捨てる。森の中には、戦争で荒廃した村を尻目に、自給自足で豊かに暮らしている老婆がいて、子供はその老婆のたくわえを奪い、老婆も殺して食べてしまう。なんて陰惨な話。

そういう物語の陰惨さを、明るいハッピーエンドのファンタジーに転換する仕掛けがこのオペラにはいくつもあって、親子の関係を改善したのもその一つなんだけど、やっぱり極めつけは、眠りの精と露の精、という魔法の精霊たちの登場によって、悲惨な現実から子供たちが魔法の異世界にジャンプするシーン。カッコウの声が響く森の中で、天使たちの祈りの歌が聞こえてくると、もうそれだけで泣けてきちゃう。そこまでの物語は、森でイチゴをお腹一杯になった子供が、道に迷ってそのまま森の中で幸せな死を迎える、という、アンデルセンの泣ける童話になりそうな物語で、子供たちがどんどん追い詰められていくのに、それでも「神様が守ってくれる」と祈りの歌を捧げるところなんか、続く最悪の悲劇を想像させて涙なしに聞けない。そうやって「ああ、もうこの子たちはこのまま天に召されるんだな」と思ったところに、異世界への扉が開き、お菓子の家という最大の救済が姿を現す。


なんといってもお菓子の家だよね〜

長い歴史や様々な改訂を経て、純粋な子供の祈りが救済をもたらす、という、きわめてシンプルな物語がそこにはあって、やっぱりMETの演出はちょっとグリムの原作に影響されすぎてるよなーと思う。もっとシンプルに楽しく作れば、こんなに素敵なお話なのに。

原作のなかで、親子の対決部分を担うのがヘンゼル(親の企みの裏をかいて、石を落として帰り道を見つけたりする)で、後半の魔女との対決部分を担うのがグレーテルなのだけど、親子が和解してしまっているオペラ版では、純粋な子供と邪悪な魔女の対決が主軸になる。なので、このオペラの推進役になるのはやはりグレーテルで、例によって手前味噌になるかもしれませんが、女房はこの物語の軸になる役をうまくやり切っていたと思います。8歳の子供に見せるためには、胸を開いて肘を後ろに持っていくといいんだ、などと、子供になるための姿勢からしっかり研究して取り組んでおりました。日本語歌唱の安定感も抜群。

どこかで耳にしたことのある分かりやすいドイツ民謡のメロディーたちが、複数のライトモチーフになって絡み合い、ドイツの黒い森のような深い深い色合いを生み出す、その中でキラキラと輝くピュアな子供の夢のような歌声。こんなに多幸感に満ちたオペラって、なかなかないよね。東京シティオペラ協会のみなさま、本当に幸せな時間をありがとうございました。共演者の皆様、スタッフの皆様、女房が大変お世話になりました。またどこかで、こんな素敵な時間をご一緒出来たら嬉しいです。

杉崎寧々がさくら学院を変えたんだよなぁ

BABYMETALのYUIMETALの近況は全く不明で、アミューズ株主総会で、「体調は回復している」という情報があっただけで、10月の日本公演に復帰してくれるのかどうかもわからない。BABYMETALのファンクラブのTHE ONEからは、10月公演のチケット販売情報の詳細はまたお知らせするから、ちょっと待ってて、みたいな、「僕らも頑張ってるから忘れないでね」、みたいなメールが届いて、俺たちが待ってるのはそういうことじゃないんだけどなぁ、と思いつつ、とにかくYUIMETAL、というより、水野由結さんが幸せに、たとえ曲がりくねった道でも、自分の道をしっかり歩んでいることを遠くから祈るしかない。

三吉彩花さんが、矢口監督のミュージカル映画の主演に抜擢された、というニュースに、さくら学院の父兄さんたちが快哉を叫んでいたりするんだけど、2017年度の卒業式で、森先生が送辞で言っていた、「君たちが卒業後に色々成功しているニュースなんてのは、いやでも耳に入ってくるんだから、これから外の世界で、いっぱい失敗しておいで。そして、この、君たちが一番自分らしくいられる、さくら学院に戻ってきて、そんな失敗談を先生に聞かせてください。そういう、君たちが自分らしくいられる場所としての、さくら学院を、先生たちはずっと守っていくから」という趣旨のセリフを思い出す。さくら学院が、将来のプロのパフォーマーを育成する育成機関として存在している以上、卒業生には、芸能界で活躍することが最も期待されているのが事実。だから、森先生が、「成功」と言う時、それはやっぱり、三吉さんや松井愛莉さんのように、芸能界でしっかり実績を残していくことを意味しているのも事実だと思う。

パフォーマーを育成する育成機関としては、投資を回収する、という意味でも、プロのパフォーマーになって成功しない卒業生を生み出したことは「失敗」であり、そういう卒業生は「挫折した」と思われるのが本来。でも、中学を卒業したまだ高校生の女の子が、いくら中学時代に、一流の指導者の元で高度なレッスンを重ねたとしても、芸能界で必ず成功するとは限らない。芸能界はそんなに甘いものじゃない。

なので、さくら学院は、ある時点から、自分たちが育成しているのは、パフォーマーではなくて、「スーパーレディー」なのだ、という建前にシフトした気がしていて、その大きなきっかけになったのが、杉崎寧々さんじゃないのかな、と思う。さくら学院の初期メンバー、と言われる、武藤、三吉、松井、中元、杉崎、飯田、堀内、佐藤、菊池、水野、のうち、卒業してすぐに芸能界を引退する、と言ったのは杉崎寧々さんだけで、この彼女の決断と、その後のさくら学院に対する関わり方が、ある意味、さくら学院を、「パフォーマーを育てねばならない」という呪縛から解放して、より人間的なもの、本質的なものを学ぶ場として機能させるようになったのじゃないか、という気がする。

杉崎さんについて語りたいことは山のようにあって、色んなアーカイブで見るステージ上での彼女は、どちらかというとAKB系の接触系アイドルに近いファンへのサービス精神にあふれていて、過去のさくら学院の卒業生の中でも、菊池最愛以上にアイドルらしいアイドルだった気がする。色んな葛藤と幻滅を経て、結果的に、芸能界引退という道を選んだのに、杉崎さんの卒業は本当にさわやかで、その後も、夢だった看護学校への入学を果たして、芸能界で輝くだけじゃないスーパーレディーの道があるんだ、ということを具体的に示してくれた。それが、その後の卒業生が、芸能界を引退したとしても、さくら学院公演に顔を出し、その写真を見て父兄が温かいエールを送る、そんな先例になったんじゃないかな、と思う。杉崎さんなんか、多分、日本で一番ファンの多い看護師になるんだろう。芸能界を引退した武藤彩未さんや、野津友那乃さん、白井沙樹さんとかにも、いまだに父兄からのエールが絶えない。それって、杉崎さんが、「芸能界で失敗したって、いくらでも他の場所でスーパーレディーになれるんだよ」という姿を見せてくれているおかげなんじゃないかな、と思う。

杉崎寧々さんが、卒業式の当日に書いた学院日誌の、「女神になる」という言葉が本当に鮮烈で、そして、ねねどんは間違いなく、さくら学院の女神になったのだと思う。挫折した人、失敗した人に対して、それでもいいんだよとそばで寄り添ってくれる女神になったのだと。そんな女神が、水野さんのそばにも寄り添ってくれていることを、ただ祈るしかないのだけど。

なんかね、さくら学院って、こういう物語が無数に絡まって、巨大で立体的なタペストリーを作っているから、本当にはまっちゃうんですよね。今日は、さくら学院を知らない人には全く理解できない内容になっちゃった。ごめんなさい。でも書きたかったんだよ〜。

オペレッタの典型的人物から、紀元前まで時間を遡っちゃったぞ

今、ガレリア座で、9月30日のオペレッタ公演、カール・ツェラーの「小鳥売り」を絶賛練習中。GAGブログでも宣伝してるんですが、チラシの画像をここにも貼っておこう。でも、この日記では、宣伝というより、この演目を練習しながら色々考えていることを、例によって衒学的にダラダラ書き連ねようかと思います。
 

公演チラシでっす。
 
私はこの日記で、「Singspieler」という名前を名乗っているんですが、これは、ドイツの大衆的な演劇形態だった、「Singspiel」(歌芝居)から取ったもの。ネット上の解説などを読むと、「ジングシュピール」というのは、ドイツの民謡などをベースとした有節歌曲(同じメロディーで違う歌詞を、1番、2番、3番、という感じで歌い継いでいく歌曲)をセリフでつなぎ、おとぎ話や喜劇的な物語を演じていく、ドイツで18世紀に一般的だった大衆娯楽、とのことで、今回の「小鳥売り」は、まさに典型的な「Singspiel」の傑作のひとつ、と言われています。最も有名な「Singspiel」が、モーツァルトの「魔笛」で、パパゲーノの歌なんてのは典型的な有節歌曲ですよね。さらにこれが発展し洗練されたのが、ウェーバーの「魔弾の射手」。このドイツの有節歌曲の伝統は、シューベルトの「冬の旅」や「野ばら」のような有名な有節歌曲にも結実している。

そんな話を、演出家の八木原さんと色々話していた時に、「Singさんが今回演じるヴェプス男爵というのもね、オペレッタに出てくる典型的な人物像だよね」という話になる。

「ウィーンフォルクスオーパなんかではね、『小鳥売り』のヴェプス男爵、『乞食学生』のオルレンドルフ、『ヴェニスの一夜』のデラックアとか、どれも同じバリトン歌手が演じるんだよ。オペレッタに出てくる一つの典型的なキャラクターなんだよね。Singさんのやったことのある役ばっかりでしょ」

実際、今回、ヴェプス男爵、という役をもらって、以前やったことのあるオルレンドルフにすごく似ているなぁ、と思ったりしたんです。でも、「小鳥売り」の登場人物には、他にも、色んな他のオペラの登場人物を彷彿とさせるキャラクターがいる。タイトルロールの「小鳥売り」アーダムのキャラクター造形には、間違いなく魔笛のパパゲーノが影響しているし、何より全体の物語の設定が、「フィガロの結婚」によく似ている。そう考えると、「フィガロの結婚」がさらに成熟と退廃の色を濃くした姿である、リヒャルトシュトラウスの「ばらの騎士」の世界も見え隠れする。「フィガロ」と「ばら」を結ぶ中間的な舞台作品、と言えなくもない。

さらに時を遡ってみたら、欧州の舞台作品の源流に、何かしら「典型的人物像」のようなものがあって、ヴェプス男爵、というのもそのうちの一つなのじゃないかな、なんて考えたりして、このあたりを深く追究してみるのも面白そうだな、と思ったんですね。よく言われる話で、世界の伝説や昔話が、どこかで同じ源流を持っている、という話がある。「三枚のお札」のように、追いかけてくる邪悪なものに3つの呪物を投げることによって逃亡を成功させる物語は世界中に分布していて、「呪的逃走」の物語、と言われる。日本神話とギリシア神話が酷似している、とか、石とバナナのどちらを選ぶ、と言われて、バナナを選んでしまったために、石のような永遠の命を失ってしまう「バナナタイプ」という伝説が世界中に流布していたり。

つまり、欧州の色んな舞台芸術、特に大衆演劇の中で、昔から広く大衆の人気を得ていた「典型的演目」というものがあって、ヴェプスやオルレンドルフというキャラクターは、そういう典型的な演目に登場する人物類型の一つだったんじゃないかな、と想像してみたんです。シェイクスピアの「ファルスタッフ」とか、ひょっとしたら同じ人物類型の中に含まれるのかもしれない。

そう思って色々ネットサーフしてみたら、イタリアの「コメディア・デラルテ」の中に、おなじみのコロンビーナとアルレッキーノアルルカン)のような「ストック・キャラクター」と呼ばれる典型的人物像がいる、という記事を見つけた。その中に、パンタローネ(老商人)という典型がいるんですね。ウィキさんによれば、

「金持ちで、欲深で、色欲旺盛な老商人。男らしさと精力の象徴として大きな股袋(コドピース)を股間に付けている。役柄として、インナモラータの親とされたり、イル・カピターノやイル・ドットーレの友人や商売仲間とされたりすることがある。パンタローネによる商売の計画が召使いザンニによって妨害されるのがお決まりのパターン。」

とのこと。これって結構ヴェプスっぽい気がするなぁ。同じくウィキさんによれば、「コメディア・デラルテ」は古代ローマの「アテルラナ」と呼ばれる大衆喜劇にまで起源が遡れるそうで、この「アテルラナ」は、紀元前390年くらいまでさかのぼれるんだって。21世紀の僕らが演じているキャラクターの後ろに、膨大な時の流れを垣間見る気がして、なんだかワクワクしますよね。

といいつつ、「小鳥売り」は、ドイツっぽいがっちりした構造の難曲が多いんで、紀元前のヨーロッパに想いを馳せる前に、目の前の楽譜を何とかこなすので精いっぱい。一生懸命頑張りますんで、お時間とご興味のある方は、9月30日、練馬文化センターへ是非足をお運びくださいまし!

沼にはまった〜さくら学院という物語〜

久しぶりに日記を更新したと思ったら、このネタかよ、というご批判は重々承知してるんですけどね。もうね、自分を偽るのはやめようと思うんですよ。観念しようと。カミングアウトしようと。ええ、もう最近本当に、さくら学院にはまってます。BABYMETALがちょっと先が読めなくなってしまっている現在、彼らの出身母体であるさくら学院をちらちら見ているうちに、ちらちらの頻度がどんどん上がってしまい、今やさくら学院の生配信番組に登録するわ、ブルーレイは買い込むわ、インタビュー記事が出ている雑誌を買いあさるわ。さくら学院ってなんだ?と思ったひとはググってみてください。ここから先は、読む方が、さくら学院とはなんぞや、ということをある程度知っている前提で書いちゃうので、Wikiとかを読んで、「小学校五年生から中学三年生の成長期限定アイドルユニット」という単語見ただけで引いちゃった人は、この場から静かに退場されるのが多分賢明かと思います。マジすみません。

7月7日、西日本が濁流にのまれている時に、まず頭に浮かんだのが、関東エリアは天気が持ちそうなので、よみうりランドで予定されていたさくら学院の屋外イベントは無事に開催されるな、というのと、西日本出身のさくら学院の生徒さん(九州と近畿の出身者が多い)のご実家は大丈夫かな、という感想だったあたりで、もうかなり重症といえる。いや、イベントに行ったわけじゃないんです。イベントが雨だったりすると、メンバーが思ったようなパフォーマンスが出来なくて悲しむかも、と思って心配になるんです。また広島県がひどいことになっているのを見て、卒業生の中元すず香さんや杉本愛莉鈴さんのご実家は大丈夫かな、と思ってしまう自分マジ気持ち悪い。さくら学院のファンのことを「父兄」と呼ぶっていうのも、周囲の人たちが一歩引いちゃう理由の一つだったりするとは思うんだけどさ。でもファンの心理を端的に表した単語だよねぇ。卒業生も含めて、メンバーが楽しく、幸せでありますように、と常に思ってしまうという。ウチの家族は白眼視を通り越して、見て見ぬふりしてますよ。視線が痛かった時期は過ぎ去って、既に、可哀想な人、みたいな哀れみの視線。

それでも、はまってしまったものは仕方ない。そしてここまではまってしまうと、やっぱり語りたくなるんですよ。特に、さくら学院というのは、すごく色んなことを語りたくなるアイドルグループなんです。それは、さくら学院の担任(舞台や生番組のMCや台本を書いている)の森ハヤシ先生が、「こんな年下の君たちから、人生ですごく大切なことを教えてもらったりする」と言っていた、その台詞そのまま。中学三年生になったらグループを卒業しなければならない、つまり、同じメンバーでパフォーマンスできるのは1年間だけ、というルール付けの下で、一つ一つの舞台が一期一会のギリギリの舞台になっていく。そこに、沢山のステージを義務的にこなしていく商業アイドルには生み出せない完全燃焼への希求が生まれる。舞台のクオリティを上げるために、真っ直ぐな感情や生々しい言葉がぶつかり合い、人間関係や人の力ではどうにもならない時の流れや偶然が絡み合い、下手な学園ドラマが顔色を失うような、シナリオのないドラマが繰り広げられていく。その数々のドラマについて、ものすごく語りたくなるんです。2010年の結成から、いくつも生まれてきた力強い物語の数々が、幾重にも積み重なり連携していく、終わらない物語の推進力に絡め取られてしまうと、何年も続く長編連載小説を読み続けているような興奮で、どこまでもズブズブとはまり込んでいってしまう。

さくら学院の父兄さんたちには、そういう物語を楽しんだり、アミューズが本気のスタッフを注ぎ込んで作り上げる舞台(振付は、あの、リオ五輪の東京アピールを演出したMIKIKO先生)の完成度や楽曲の素晴らしさにハマる人も多いので、さくら学院の父兄さんたちは全員ロリコンだ、と思われると、それはちょっと違うと思う(そういう人も多いとは思うし、お前はどうなんだと言われると言葉を濁すけど)。実際、先日行った2018年度転入式のライブビューイングで、私の隣に座ったのは、女性の父兄さんだったし。会場には他にも、初老のご夫婦や小学生含む学生さんもいらっしゃいました。ちなみに、私の隣に座った女父兄さん、ライブビューイング上映中ずっと号泣しっぱなしだったから、この方も相当なガチ父兄だと思う。もちろん、メンバーはとにかく美少女ぞろいなんで、そういうご趣味の方から見れば花園状態だと思うんだけどさ。美少女が集まっている、というだけで好きになっているんだったら、推しメンが卒業しちゃったらそこで終わりなんだけど、さくら学院はそうならない。

学校の部活動をテーマにした学園ドラマを見ているような感覚、というのが一番近い気がするんですね。響けユーフォニウム、とか、結構近い感覚があるし、ラブライブはよく知らないけど、似ている、という人も多い。実際、私の娘が高校の音楽部で幹部学年だった一年間は、娘を含めた3人の「インスペクターズ」というユニットが生まれて、様々な人間関係や困難を乗り越えて、定期演奏会の舞台を作り上げていく学園ドラマそのものだったけど、多分、どんな学校の部活動も、そういうドラマに溢れていると思うんです。思春期の少女を集めたパフォーマー養成機関を舞台にした学園ドラマを、アイドル活動として見せてしまう、というのが、さくら学院の本質で、部活動の商品化、と言っていいと思う。そして、部活動というのが、日本の学校に特有な活動である、という点からも、さくら学院というユニットが、非常に日本的な土壌から生まれたグループである、とも言えると思う。

今回は、自分がなんでさくら学院にはまったのか、という言い訳と、自分はロリコンというわけじゃない、という言い訳をダラダラ書き連ねましたけど、他にも語りたいことは結構あって、時々スイッチが入ってしまったら、この日記で爆発しちゃうかも、と思います。特に語りたい、と思っているのが歴代のトーク委員長(さくら学院は学校なので、生徒会長もいれば様々な委員長がいて、トーク委員長はステージのMCやメンバーへのトーク振りをやったりする役職)のこと。そもそもが、なんで今回カミングアウトを決意してしまったか、と言えば、週末に届いたRoad To Graduation 2017 Finalのブルーレイを見て、トーク委員長の岡田愛さんの姿に気持ちをムッチャ揺さぶられてしまった、というのが一番大きいんですよね。別に彼女のファンであるわけではなくて、むしろ、芸能界エリートで周りの空気をしっかり読める山出愛子さんや岡崎百々子さんの方が推しだったりするんだけど、2017年度のさくら学院を語る上で、この岡田さんのキャラというのは本当に欠かせないピースだったと思う。まるで、太宰治の小説がドキュメンタリー映画になったような。他を圧倒できる高度なパフォーマンス力を持っているのに、自分に対するプライドが強すぎて、かえって劣等感と自信のなさが表に出てしまう。そんな自分の弱気を偽れない正直さと、それをくよくよと後悔してしまう人間的な弱さ。森ハヤシさんは脚本家としてもかなりの売れっ子なんだけど、その森ハヤシさんをして、「あのネタだけで1時間喋れる」と言い切った卒業公演のセトリを巡るドラマと言ったら、もう涙なしには見られない。ああ、止まらん。でもまた今度にしよう。他人から見たら本当に気持ち悪いだけだしねぇ。ほんとごめんなさいねぇ。

サロンコンサート「わるいやつら」終演いたしました。

6月10日に、渋谷で開催しましたSingspielersのサロン・コンサートAct.4、「わるいやつら」終演いたしました。


 
個人的には、やっぱり声が最後までもたなくて、これがアマチュアの限界だよなぁ、とかなり悔しかったんですけど、優しいお客様の温かい拍手と、共演者の頑張りで、集まった皆様はとても楽しんでくださったようで、本当にありがたい限りです。ご来場いただいた皆様、共演者とスタッフの皆様、本当にありがとうございました。

昨年の秋からずっと準備を進めてきて、通勤電車の中でもずっと頭の中で繰り返し歌ってきた歌の数々。もう終わっちゃったんですけど、今でも時々頭の中に鳴り響いていたりします。ご来場くださったお客様にもそういう方が一人でもいたらうれしいなぁ。

さて、前回のサロンコンサートもMC原稿をここに再掲したりしたんですが、今回も、「わるいやつら」というテーマに沿った文章を2つ書きました。それをこの日記に公開しておこうと思います。一つはプログラムに書いた文章、それと、MC原稿。今日はプログラムのご挨拶文を。
 

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 突然、オペラとはまるで関係ない話から始めちゃいます。
 昔、機動戦士ガンダムっていうアニメがありまして、我々の世代の多くがこれに思いっきりハマりました。実は来年2019年は、機動戦士ガンダムの最初のTVシリーズが放送されて40年(!)という節目の年で、最近結構マスコミなどでも取り上げられていたりします。なんでこのアニメ作品がこんなに長く愛されることになったのか。色々な分析が世の中にはいっぱいありますけど、私見を言わせてもらえれば、

 「敵役がかっこよかったから」

というのが大きな一因なんじゃないかな、と思うんですね。ガンダムの世界で、主人公が戦う敵役の「ジオン軍」というのが、制服にせよ、操るメカのデザインにせよ、登場人物やそのセリフにせよ、とにかく無茶苦茶かっこいいんです。青臭い主人公より全然深みがあって、実に人間臭い悪役たちが、この作品をここまで魅力的にしたんだと思うんですね。

 さてここで、オペラの世界に立ち返ってみます。古今東西のオペラやオペレッタを眺めてみると、大体の作品の主人公達は、もうちょっと賢く立ち回ればいいのに、と思わず呟いてしまう、直情タイプのテノールとソプラノのカップルが多くて、歌はかっこよくても魅力的なキャラがあまりいない気がします。それに比べて、テノールとソプラノの恋路を邪魔する悪役のバリトンや、ムンムンの色気でテノールを破滅させていく悪女たちの、なんと魅力的なことか。

 今回は、様々なオペラの中から、そんな悪役たちの、魅力に溢れた曲の数々をセレクトしてみました。そして、休憩明けの後半では、信頼を裏切られた絶望から、盟友の暗殺という悪事に身を投じていく男の哀愁を軸に、登場人物の様々な思惑が音楽という糸で見事に一つの織物に織り上げられていく、ヴェルディの傑作「仮面舞踏会」の一場面を通しでお届けしたいと思います。お楽しみいただければ幸いです。

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