onefiveの声のこと

3月6日、onefiveの渋谷クラブクワトロのライブに参戦してきました。2019年10月19日にこのグループが初めて神奈川芸術劇場に舞い降りた瞬間を見届けて以来、ほぼ3年半の時間を経て、やっと目の前に再び現れた4人は、すっかり一流のパフォーマーに成長していました。圧倒的なステージと充実感で、「持ち歌が少ない」と言う言葉もあったのだけど、そう言われて初めて、演奏されたのは10曲だけだったのか、と驚くほどの満足感。色んな方が書いているライブレポートを拝見しても、このグループの完成度と溢れる魅力と更なる成長への期待に充ちていて、意味もなく、「でしょでしょ、ウチの子最高でしょ」と誇らしい気持ちになる。別にお前が褒められているわけじゃないんだぞ。でも推しが褒められるってのはそういう気持ちになるものだよねぇ。

 

配信で再見して復習してみても、何度繰り返して見ても新しい発見がある濃密なステージで、語り始めるとどこまでも語り続けてしまいそうな感じもするんですが、今回は、onefiveの楽曲の中の4人の歌声にちょっとフォーカスしてみたいと思います。実際、SOYOちゃんが各曲で魅せた多彩な表情の魅力について語るだけで多分このブログ2回分くらい書けそうな気もするけど、まぁそれは別の機会にね。

 

オンラインライブやCD、MVなどで何度も聞いてきたonefiveの楽曲たちでしたけど、ライブハウスの大スピーカーの前で体全体で聴くと、自宅のAV機器では感じとれなかった様々な音の層が感じ取れて、こういう音だったのか、という新しい発見が一杯ありました。個人的には、「雫」という楽曲の印象がかなり根本的に変わってしまった。メロウなミディアムテンポのバラード、という感じの曲だし、語られている言葉もかなり内省的な日常の一コマなのに、随分低音を強調した厚みのある音で構成されているなぁ、とは思っていたんだけど、大スピーカーからこの低音がガシガシ身体全体を震わせて、さらに4人のパッションこもったダンスが加わると、この曲は決して日常の独り言的なバラードじゃなくて、むしろ一人の少女が自分の人生観を変えるような強烈なパラダイムシフトを体感してしまった決定的な一瞬を切り取った、ものすごく激しい曲なんじゃないか、という印象に変わってしまったんですね。もちろん私個人の感想に過ぎないので、作詞のYURAさんや辻村有記さんの意図とは全然違うかもしれないけど。でも曲の持っている圧力というか、音圧やステージから感じるメッセージの強さが、ものすごい緊張感をもって迫ってきて、これはひょっとして尾崎豊の「十五の夜」と同じくらいのメッセージソングなのかもしれないって思った。

 

そんな楽曲たちの中の4人の声、という点で言うと、4人は決して、恵まれた声量や広い音域を持った歌い手とは言えないと思います。しっかり鍛えられてはいると思うけど、圧倒的な声をもったさくらの先輩達に比肩できるものではないと思う。でも、そういうある意味「ハンデ」が逆に魅力になるように、辻村有記さんの作り出すメロディーがものすごく巧みに設定されている感じがします。どの歌も高音で歌い上げるロングトーンとかがなく、歌いやすい中音域を中心に作られていて、音楽的な厚みは声よりもインストゥルメンタル部分が担う。そしてシンプルなメロディーやラップで、4人の大きな魅力の一つである人間味が自然に感じられるように、ナチュラルな語り口をものすごく意識して作られている。

そしてSOYOさんのピアノ伴奏で歌われたChocoholicさんの楽曲2曲では、より「つぶやき」要素が強く感じられるファルセットを多用することで、高音域と中音域で、語るような、つぶやくようなハーモニーを実現していて、決して4人の声に無理をさせずに、あくまで自然に等身大の言葉が伝わるように工夫されている感じがしました。

そしてやっぱり大きいのは作詞のYURAさんの紡ぎだす言葉のタペストリーの色鮮やかさなんだよなぁ。使われている言葉は本当に平凡で、それこそコンビニに並んでいるおなじみのチョコレートパンや缶コーヒーのような日常なのに、そこに立ち現れるシーンの鮮やかさや印象の強さが半端ない。「雫」の中の「光がさして輝く軌跡の上で踊りだすDancer」の煌めき。「LaLaLa Lucky」の中のアルファベットを織り込んだ遊び心。この人も間違いなくonefiveの奇跡を生み出している天才の一人だと思う。

 

会場にはまだまだ男性の姿が多かったけど、女性ファンの数も次第に増えてきているようだし、様々な衣装も楽しませてくれる4人のコスプレを楽しんでいる方も多いようで、カラオケでこの4人の楽曲を歌い踊る女性たちが大量発生する日も来るんじゃないかな、と思います。特に大変なテクニックを必要としないけど、でも自分の気持ちをそのまま吐き出すことができるような、歌いやすい素敵な歌ばかりなので、是非同世代の女性たちの愛唱曲になるといいなぁ。

 

北京五輪の開会式を見てちゃんと反省しませんか

先日終わった北京冬季五輪ですけど、あの開会式を、習近平帝国のプロパガンダ大会として非難する声や、少数民族を弾圧しながら諸国民の調和を歌う偽善を指弾する声とかはかなり厳しいものがあって、「中国開催もロシア参加も間違いだった」なんて言いきってる某新聞なんかもあったりしましたね。でも、あの開会式のイベントとしてのクオリティの高さを称賛したり、東京五輪の開会式と比較して自分を省みる声はほとんど聞こえなかった気がします。それはたぶん、東京五輪の開会式をあれだけ棄損した側の人間が、日本における言論の主流を占めているマスコミであったり、利益誘導と身内意識に凝り固まった既得権益の中枢にいる人たちだからなんだろうけどね。でも、中国という国の非道を声高にあげつらう前に、あれだけのクオリティのイベントを国を挙げて実現できてしまう彼の国の地力をまっすぐ認めるべきだし、それに比して日本という国は、「国を挙げて取り組む」イベントをまともに期日までに完成させることができない国になってしまったんだ、という反省をしっかりするべきなんじゃないかなぁ。

もちろん、コロナ禍という未曽有のハンデと日々闘いながら全日程を大過なく終了した大会自体の運営は素晴らしかったと思うし、関係者の方々は生涯誇れる素晴らしい成果だったと思うのだけど、だからこそ余計に、あの開会式の体たらくが本当に残念なんだよなぁ。もちろん、チャンイーモウという天才が全責任を負ってイベントを仕切る北京五輪開会式の構造自体が、彼の国の独裁的な政体と多様な意見を圧殺する国制を象徴している、と言えなくもないんだけど、いいものを作ろうと集ったクリエーターをよく分からない忖度や身内のしがらみで追い出したり、ひがみやっかみで互いに足を引っ張りあったりした挙句に、製作のための時間という大事なリソースを削り取ってしまった日本の愚行を見ると、単純に、もう中国には全然かなわないんだなぁって思っちゃう。

でもねぇ、パラリンピックの開会式は、北京より東京の方が間違いなく良かったです。一貫したストーリ、統一された世界観、布袋さん登場に代表される遊び心とインパクト、和合由衣さんをはじめとするパフォーマーの個性と熱演。今でも時々見返したくなる素晴らしいショウで、これができるのになんで・・・と思っちゃうんだよなぁ。あの五輪の開会式を見て、これが東京の実力だって思って欲しくないなぁ。

「麻希のいる世界」~少女たちは何のために、どうやって戦うのか~

「麻希のいる世界」について、11月に東京フィルメックスでプレミア上映されたのを見て、「世界を見る視線を変えてしまうことができる映画」っていう感想をこの日誌に書いてます。あれから2か月半たって、昨日、公開日初日に2回目の鑑賞。自分がもし10代の少年だった頃にこの映画に出会っていたら、ひょっとしたら人生変わったかもしれないなぁ。50代のオッサンなりの視点で、一人の少女が生命かけて人を求める姿を1時間半息を殺して見つめた感想を書きたいと思います。以下、ネタバレ含みますので、未見の方はご注意ください。そして未見の方は、是非映画館でこの映画の世界の風を感じてほしいと思います。

makinoirusekai.com

色んな方の感想を見ても、この映画の持つ「痛々しさ」に触れている方が多いのだけど、それはこの映画に描かれる戦いの主人公が「少女」である、ということに起因する部分がやっぱり大きいと思う。少年を主人公にした青春アウトロー映画は沢山あるけれど、そこで描かれる少年の戦いは、大抵の場合、外にある他者を傷つける方向に向かっていくと思うし、実際、この映画でも、祐介の戦いは、麻希という他者を傷つける方向に向かっていく。でも、由希が愛する人に少しでも近づこうとして世界に挑みかかっていく戦いは、専ら自らを傷つける方向に向かってしまって、それがより痛々しさを増すんだよね。「月光の囁き」で、歪んだ愛に挑みかかるように自らの身体を男にゆだねる姿を見せつける沙月の姿にも重なるけど、眼帯という分かりやすい記号で自分が負った傷の姿を見せてくれた沙月に比べて、由希の傷は外から見えないから余計に痛々しさが増す。その心の傷を視線だけで見せる新谷ゆづみの切なさたるや。

そしてその生命を削る戦いの動機は何なのか、といえば、ある意味、由希の動機ははっきりしていて、恐らくは小児がんと思われる難病で、明日にも自分の命が絶えてしまうかもしれない、という切迫感。「生きる証」という言葉で語られるこの切迫感は、由希が麻希への思いに突っ走っていく推進力として説得力があるし、ある意味我々のいる世界の常識の範囲内に収まっている気がする。

でもその由希の動機に比較して、麻希の悪魔的なまでの外界に対する戦闘姿勢っていうのはどこから来るのか、いま一つはっきりしない。一応麻希のセリフの中で、父親の性犯罪がその動機になったことには触れられているけど、どうもこの「父親の性犯罪」っていうのが本当のことなのかもよく分からないんだよなぁ。「嘘だと思ったらスマホで確認すればいくらでも出てくる」と麻希は言ってたけど、私にはどうしても信じられない。

ただ、麻希が父親に何かしらの性的虐待を受けたのは事実じゃないかな、と思うし、それが彼女の戦いの動機になっているのは確かかな、とも思います。その戦いの方法も、自分の身体を男に委ねることで、世の中の男がいかにクズばっかりかを証明して嘲笑う、という、これも一種の自傷行為のような感じがして、これもこの映画の痛々しさを助長しているんだけど。

ただ、そう解釈すれば、ある程度麻希の戦いの動機が我々の常識の中で理解できるんだけど、恐らくは塩田監督は、麻希の戦闘性の動機にもっと不条理な、もっと悪魔的なものを感じている気がする。全ての過去を失って再出発したはずの次の人生でも、麻希は明らかに複数の男性を狂わせているし、由希を魅了し取り込もうとする視線の蠱惑感は変わっていない。つまりは麻希という存在そのものが、反吐で詰まった排水管のような腐った世界に対する破壊者として生れ落ちてきた存在で、それはこの人が何度破滅しようが変わらないのだ、とでもいうような。

もう一つ、この少女たちの戦いは、全世界を敵に回しているにも関わらず、社会性のあるものではない、という点も面白いなぁって思った。過去の日本映画が、戦争であったり、社会の中で取り残される貧しさであったり、アウトローたちの仁義であったり、何かしら社会制度や経済制度の中で生きるためにあがく戦いを描いていたのに比べて、この映画で戦っている少女たちには経済的な困窮の影がない。麻希も由希もそれなりに裕福な家庭に育っている感じが見えるし、麻希のアルバイトだって、恐らくは汚れた父の稼ぎに依存したくない、という反発心から来ているように見える。祐介に至っては医者の家で自宅に音楽スタジオ並みの機材が揃えられるくらいの裕福な家庭。

貧しさの中で必死に生きる人間たち、なんていう、ある意味ステレオタイプの映画的人物像から遠く離れたこの映画の登場人物たち。分かりやすい言葉で言えば「食うには困ってない」この少年少女たちが、なんてギリギリのところまで追い込まれて、なんて必死に生きていることか。これで例えば、麻希が極貧の家庭で育った、なんていう経済格差を設定してしまうと、映画の主題がぼけてしまった気がするんだよね。社会問題にするどく切り込む、とか、そんな薄っぺらな主題じゃなくて、もっと根源的で普遍的な主題。決して100%理解しあえることのない人間と人間が、互いに求め合う思いの強さ、決して交わらないものが一つになろうと激しくぶつかり合う中で、否応なく燃え上がってしまう炎が世界を巻き込んで燃え盛っていく姿。そういう「人の業」のようなものを描いているという意味では、小津安二郎溝口健二などの日本映画の巨匠たちのアプローチに近いものも感じたりする。ラストシーン直前、黒澤明の「羅生門」の、多襄丸の顔に落ちた葉影が揺れる、風をとらえたあの有名なシーンを彷彿とさせる風のシーンにも、そういう日本映画の伝統へのオマージュを感じたりしました。二人の絆の結節点となる禍々しい小屋から、破滅を彩る鮮やかな夕日に向かって少女たちが駆け出していく余りにも美しいシーンも含め、中瀬慧さんの繊細なカメラワークの美しさにも魅了されました。

誰もが傷つき、一人として救われない、痛々しくて胸がひりひりするような物語のラスト、由希がうっすらと浮かべた微笑と、鼻筋に流れ落ちた涙が、彼女の戦いの全てを肯定してくれるような、何もかもを洗い流してくれたような不思議な爽快感で、そう、この子は自分の生命をしっかり燃やし尽くしたんだなぁって、なんだか救われたような気分になる。50代も後半になって、もう燃えカスしか残っていないクズの大人になり果ててしまった自分にも、胸の奥まですとんと落ちていつまでも輝いている、そんな小さな宝石のような映画作品になりました。塩田明彦監督、新谷ゆづみさん、日髙麻鈴さん、素晴らしい作品を作り上げてくれてありがとう。この作品の吹かせる風が、たくさんの人の心をざわつかせて、そしてたくさんの人の心の奥に、小さな輝きを残してくれることを祈っています。

色んな道を見せてあげるのが年寄りの仕事、道を決めるのは若い人の仕事

12月に入って、娘の所属しているクレド交響楽団の演奏会が18日にあり、そしてその翌週の25日には、女房が所属していた東京大学柏葉会合唱団の演奏会がありました。大学生なりの未完成の技術を、それぞれの個性で補って、音楽の高みにピュアに挑戦している姿に、こういう若者たちに自分達みたいな年寄りができること、しちゃいけないこと、みたいなことをちょっと考えてしまった。特に18日に開催されたクレド交響楽団の演奏会では、前半に、御年83歳の巨匠、ジェラール・プーレさんがソリストとして参加された、ベートーベンのバイオリン協奏曲があったので、余計に、そういう「世代の責任」みたいなことを考えてしまったんですよね。

クレド交響楽団というのはワグネル・ソサイアティ・オーケストラの学生奏者を中心としたオーケストラで、指揮者も含めて大変若いオーケストラ。なので、いい意味でも悪い意味でも、使える技術の引き出しが少ない感じがある。もちろん、日本のアマチュアオーケストラのトップレベルの奏者たちですから、技術力も大変高いのだけど、それでもやっぱり出す音のダイナミックレンジとか奏法のバリエーションには限界があって、それは前回聞いた演奏会での戸澤采紀さんとの共演の時にも感じたんだよね。様々な武具で襲い掛かってくる並みいる敵を、バイオリン一本で一陣の風のようになぎ倒していく武芸者のような、戸澤さんの切れ味鋭い演奏には、若い演者達の音のはるか高みを駆け抜けていく修験者みたいな突き抜けた感じがあった。でも、今回のプーレさんのベートーベンには全然違う深みがあって、それがまたすごく胸に迫ってきた。

ベートーベンっていうのは、ある意味どこか偏執的に同じ動機のバリエーションを重ねていくしつこさというか、パズルをくみ上げるような職人的な作業で曲を作り上げていく側面があると思うんですけど、プーレさんの演奏は、「いや、ベートーベンって、もっと歌うんだよ」「もっと楽しいんだよ」とでも言いたげな、本当に自由自在な演奏でした。バイオリンという楽器には、「こんな音も出せるんだよ」「大きな音出さなくてもこうやれば響くんだよ」「こんな色の音も出るんだよ」と、若い演者の前で次から次へと自分の持つ技術を惜しげもなく見せていって、それがベートーベンの音楽の持つ享楽性というか、ベートーベンってこんなに楽しい音楽なんだ、というのを改めて発見させてくれる。戸澤さんの求道者みたいな清廉な風のような演奏に比べて、プーレさんの演奏は神仙の遊戯のような遊び心と挑戦に溢れていて、「ここをこうしてみたらもっと楽しいかもしれん」「ちょっとやってみるかな」みたいな独白まで聞こえてくるような、そんな楽しさに充ちていました。

でもねぇ、そのプーレさんの自由自在な音を聞いた後、後半に演奏されたブラームスの4番が、まぁ無骨というか、本当に球速150キロのストレートしか投げられない高校球児みたいな演奏で、一緒に聞いていた女房が、「こんなでっかい音で始まるブラ4初めて聞いたわ」と呟いたくらいのパワフルな演奏。指揮者が演奏会のパンフレットに書いていた「端正な絶望」なんてなんのその、どちらかというと、「コロナのばかやろー」「ふざけんなー」と叫び続けているような荒々しいパッションがあって、これはこれでブラームスの俗人的な側面を示したような、老年に至っても生々しい現世の塵芥に足を取られて苛立っているような、そんなブラームスだったような気もしました。

f:id:singspieler:20211226221013j:plain

 

25日に聞いた東京大学柏葉会合唱団の演奏会では、発声、という技術がまだまだ発展途上の歌い手さん達が、声の色合いと和声をひたすら揃えることを追求して、一つの音楽の高みに到達している感があって、ある意味日本の合唱が目指している一つの形だなぁ、と思って聞きました。三善晃の「五つの願い」などのアカペラ曲や、「A Little Jazz Mass」のAgnus Deiなどで、決まるべき和音が全てガッツリ決まる感じがあって、何度も鳥肌が立ちました。

一方で、やっぱり声がガツンと出る合唱団ではないし、ラテン語を含めて言葉の発語の技術が成熟しきれていない感じがあって、曲のメッセージをパッションで表現していく部分ではちょっと物足りなさが残るんだよね。千原英喜の「明日へ続く道」とかも、千原さんらしい美しい和声感が見事に表現できているんだけど、フレーズの中で湧き上がってくる言葉の力を表現する所でちょっと消化不良な感じも残る。

それでも、会場に何度も響いた美しい完璧な和音には、何度も胸詰まる思いになりました。このコロナ禍の一年の中で、ここまでしっかり声の色と和声を合わせてきた団員さん達の努力を考えると、本当に頭が下がります。最後に歌われた「地球へのピクニック」は、この合唱団の30周年に委嘱初演された、団員さん達の心のふるさとのような曲とのことで、2年ぶりに会場に響いたこの曲に、客席にいたOBOGの多くが(女房も含めて)目頭をぬぐっていました。

f:id:singspieler:20211226221049j:plain

 

こういう若い音楽家たちの思いのこもった演奏に触れると、やっぱりこの人たちが未来を担っていくんだよなぁって、頼もしい思いにもなります。でも、まだまだ未熟な若者たちの技術に対して、自在な楽器の可能性を示してくれたプーレさんの演奏なんかを見ていると、我々年寄りの役割って、「君の音楽にはまだこんな可能性があるんじゃないかな」「こんな音も出せるんじゃないかな」「こんな声も持ってると思うよ」と、若者たちの可能性を引き出してあげることなんじゃないかなって思ったりする。若い人たちに、「君の前にはこんなにたくさんの道があるし、君にはその道を進む力もあるんだよ」というのを見せてあげるのが僕ら年寄りの役目。でも、実際に進む道を決めるのは若い人の仕事。「お前はこっちに行かないとダメ」「なんでこっちに行かないんだ」なんてことを無責任に言う年寄りになっちゃダメなんだよなぁ。まぁその前に自分がプーレさんみたいな達人の域には全然達してない凡人だから、黙って若い人の言うことに従っているのが一番いいのかもしれんけどね。

12月は特別な月、そして次に踏み出す月

お久しぶりの投稿。今日は最近の我が家の日常も含めて、来年の色んな計画についてもちょっと書いてみようかな、と思います。なんといっても12月ですから。12月はどんなお家でも特別な月ですもんね。お正月になったって何が始まるわけでもない、なんて斜に構えたことを言う人は結構いるけど、12月をわくわくしないで過ごす人はあんまりいない気がする。クリスマスや年末に向けての賑わいを家族で過ごすこの季節は、どの家庭でも何かしら特別な思い出に彩られた時期なんじゃないかなって思う。

我が家ではこれにさらに娘の誕生日というイベントも重なっているので、特別感はさらに増します。娘の誕生日(14日)の前後には、毎年決まったフルコースのお料理を女房が作るのが我が家の決まり。今年は本日12日に、娘のバースデープレゼント購入(新しいチェロケース)と合わせて、女房が腕を振るいました。娘が10歳の頃から続けているこの家族行事、同じレシピでも毎年少しずつ工夫を重ねて、毎年どのお皿もちょっとずつ美味しくなっている気がします。

f:id:singspieler:20211212210123j:plain

マグロとアボカドのタルタル

f:id:singspieler:20211212210215j:plain

今年はウニのフラン。去年はカニでした。

f:id:singspieler:20211212210249j:plain

牛肉のブルゴーニュ

f:id:singspieler:20211212210322j:plain

今年は王道のイチゴのショートケーキ

調布駅前に成城石井ができてから、我が家のハレの食卓の食材が少しグレードアップした感じがしていて、今年の牛肉のブルゴーニュ風も、ちょっと肉の味わいが違いましたね。世の中が色々と騒がしいけれど、こうやって豊かな食卓を家族で囲める年末に、ただ感謝です。

12月は一年の締めくくりの月でもあるけれど、来年に向けて色んな準備を進めていこうとする時期でもあります。来年2022年、まだ世の中の姿がどうなっているか見えづらい所はあるけれど、それでも私も女房も、次の舞台、次のイベントに向けての準備を始めました。私が所属している合唱団麗鳴も、会場練習をオンラインとのハイブリッド方式で再開。昔からの仲間だけでなく、やっぱり歌いたい、という新しい入団希望者の方たちも加えて、生の時間と空間を音で共有する幸福を噛みしめています。

f:id:singspieler:20211212211600j:plain

この日は中館伸一先生のご指導で「風紋」を練習。いい曲だよねぇ

そして、女房は年末年始の様々な演奏会の準備に忙殺されています。ざっと並べると、

12月14日 東京室内歌劇場コンサート「山田耕筰~歌・うた・唄~」

f:id:singspieler:20211212212628j:plain

公演ちらし

12月23日 コンサートイマジン クリスマスコンサートin新潟

12月26日 うたごえランド in 永山

f:id:singspieler:20211212213139j:plain

公演ちらし

2022年1月3/4日 青島広志 新春おしゃべり音楽絵巻

f:id:singspieler:20211212213430j:plain

公演ちらし

そして詳細はまた別途、別のホームページでご案内しようと思っていますが、2022年の6月にあの企画、そして夏に、久しぶりのあの企画を開催しよう、と計画しています。木々の葉が次第に落ちて冬の支度に入る頃、我が家もしっかり美味しいご飯を食べて、来年に向けて心も身体もしっかり準備進めてまいります。

 

「Carry on」という楽曲のこと~「麻希のいる世界」を見た後で~

今日はさくら学院のことしか語りませんので興味のない方はここでご退場くださいね。先週末に東京フィルメックスでプレミア公開された、さくら学院の卒業生、新谷ゆづみさんと日髙麻鈴さんがW主演された映画「麻希のいる世界」。鑑賞後に心の中がざわついて仕方ないのだけど、1月の公開まではこの映画の内容には触れられない。なので、この映画を見た衝撃のことを、今日はちょっと別の切り口で語ってみようと思います。さくら学院の数ある名曲の中でも、自分的に一番好きな曲、「Carry on」をキーとして。さて、ちゃんとどこかに着地できる文章になるのか、自分でもよく分かりませんが、まぁとにかく書き始めてみましょうか。

さくら学院の楽曲には駄曲がない、というのは、サザンオールスターズから始まったアミューズの人脈と底力のなせる技なんだろうな、と思います。そして恐らくは、インディーズ、しかも小中学生アイドルユニットというこのグループの立ち位置からくる自由度の高さと若いスタッフの冒険心が結集されて、数々の妥協のない楽曲が生み出されたのかな、と思う。そんな冒険心と遊び心溢れたキラキラした楽曲達が、10代の少女達の情熱とMIKIKOイズムと結びついたさくら学院という場所は、色んな意味で奇跡の学校だったな、と改めて思います。

そんなさくら学院の楽曲の中で、自分的に別格に好きなのが、2018年度が生み出した「Carry on」という楽曲。さくら学院の楽曲の中では異色作とも言える曲で、さくら学院らしさが凝縮された「Jump UP」や「未完成シルエット」、最終年度が生み出した名曲「The Days」のように、夢に向かって挑み続ける少女達の日常や互いの心の絆を瑞々しく描いた曲とは少し毛色が違う。むしろ2016年度の「アイデンティティ」、2017年度の「My Road」から連なる、自分探しの旅をテーマとした楽曲の終着点に位置するような内省的な楽曲。最初にこの曲を聴いた時に、アコースティックで透明感と広がりのある大人びた曲調と、私みたいな中高年の心にも響く普遍的な歌詞がすごく印象的でした。

youtu.be

 

ぎゅっと握りしめたその手

そっと空っぽにしておかなくちゃ

真新しい未来を望んでも何も掴めない

きっと真っ黒な夜の帳にも

いろんな色が溶け込んでいて

見えなくても いつでも君を包む星屑の譜(うた)

 

さくら学院に多くの楽曲を提供してきたcAnoNさんの作詞。歌詞の中にもあるプライドや、深い霧に象徴される様々な迷いに目を眩まされても、目線を上げて心の中の目を研ぎ澄まして前に進もうとする主人公の姿は、確かにさくら学院らしい、と言えなくはない。でも、サウンドホーンの切迫した響きや楽曲全体を包む研ぎ澄まされた緊張感が、なんだか妙にヒリヒリした痛みを伴う感覚があって、この楽曲はそんなに単純な曲じゃないな、と思わせるものがありました。でもそれが何かはよく分からない。この大人びた楽曲を歌いきるに足りる歌唱力や表現力を持った麻生真彩さん、日髙麻鈴さん、新谷ゆづみさん、という2018年度の3人あっての深みのある名曲、という所で自分としてはとどまっていた気がする。

その後、メンバーの美しさが凝縮されたようなMVを見たり、ラジオ番組でソロバージョンとして麻生さんが歌ったり、2019年度が引き継いでライブで歌ったりするたびに、生徒さんたちのこの楽曲への思いの強さ、真剣さも相まって、自分自身の生き方を顧みるような思いを新たにしてきました。もう一度手のひらの中に抱え込んでいる無駄なしがらみやくだらない自尊心とかを捨て去って、ピュアに世界に向き合ってみよう、と思わせてくれる、自分にとってもとても大事な曲。

先日の「麻希のいる世界」を見た後、この「Carry on」を聞き直した時、この曲の持っていた緊張感の底にあるものがふっと見えた気がして、今まで聞いていた曲とは全然別の楽曲に聞こえてきたのが、自分としては本当に衝撃だった。ネタバレしないように言葉を選ぶけど、「麻希のいる世界」に描かれた、何かを求める強烈な思い、その思いが自分自身をどれだけ傷つけようとも走り続ける衝動のヒリヒリした切迫感って、「Carry on」の中に既に描かれていたんじゃないかな、と思ったんです。

 

ぎゅっと瞑ったままの瞼

そっと目を覚ましておかなくちゃ

海に溶ける太陽の笑顔にも何にも気づけない

きっと真っさらな水の鏡にも

いろんな音を響かせていて

波紋のリズムにのせて君を誘う風の口笛

 

「Carry on」で歌われる言葉達は、あくまで美しくキラキラしているのだけど、でもひょっとしたら、握りしめた手のひらが握っているものを手放すことは耐えきれないほどの痛みを伴うことなのかもしれない。瞑ったまぶたから閉ざされた現実世界は、目を背けたくなるような醜い感情に満ちているのかもしれない。真っ黒な夜の帳や、真っさらな水の底に潜んでいるものに、この歌の主人公はボロボロに傷ついているのかもしれない。あるいは傷つくと分かっていても、でもそれでも、見えない星屑の譜、聞こえない風の口笛を求めて、傷だらけで必死に手を伸ばしているのかもしれない。

自分の中で、さくら学院、という場所を聖域として、幼い子供達がキラキラ輝きながら夢に向かってただ前を向いて進んでいる場所、という綺麗な印象に染めてきたけど、そこで彼女達がどれだけ傷ついて、どれだけ血を流してきたか、あるいは血を流す覚悟を決めてそれでも挑んできたか、そこまで具体的に想像できてなかった気がする。「麻希のいる世界」で描かれる破滅の様相は衝撃的なものだけど、さくらの子達も映画の少女達と同じくらい、自分が破滅してしまっても夢に届くなら気にしない、とまで言い切れるくらいの激しい思いで、身を切る痛みを感じながら日々夢に向かって走り続けていたんじゃないだろうか。それは実はさくらの子達に限ったことじゃない、自分が子供だと思っていた若者達の中で、何者かになりたい、何か自分の生きた証を残したいと格闘している子達は、みんなこれだけ激しい覚悟や挫折感の中で生きてるんじゃないだろうか。

考えすぎかもしれないけど、いままで何度となく聴いてきた自分の愛聴曲とも言える曲が、一つの映画で全然様相を変えてしまったことが本当に衝撃的だったんですよね。世界を見る視線を変えてしまう映画体験って本当に久しぶり。もう30年近くそんな感覚を味わったことはなかったなぁ。

「麻希のいる世界」、1月に公開されたら、もう一回(一回で済まないかもしれんが)ちゃんと鑑賞した上で、しっかり感想を書こうと思っています。一つだけ今の時点で言えるとしたら、この映画は確かに見た人の世界の見方を変えるだけの力を持っている。この駄文を読んで、もし少しでも興味を持った人は、是非映画館に足を運んでほしいと思います。

シャンソン・フランセーズ11~「田中知子劇団」100回公演目指して欲しいなぁ~

三谷幸喜さんが主宰されている東京サンシャインボーイズの舞台では、西村雅彦さんや梶原善さんのような常連役者さんがいて、三谷脚本のテレビドラマなどでも、その個性を活かした役柄を与えられて活躍されてますよね。小劇場演劇の世界では、そういう作家と役者さんの信頼関係っていうのはすごくよく見ますし、映画の世界でも、監督が信頼する常連役者さんというのは必ずいて、その作品の柱になってるのをよく見る。

急に何を言い出したの、といえば、昨日拝見した、ピアニスト田中知子さんがプロデュースするシャンソン・フランセーズ11を見ていて、このシリーズにいつも出演されている常連歌手さん達の歌や演技が、小劇場演劇劇団や映画監督さんの「常連役者」さん達に重なって見えたんだよね。もともとシャンソン・フランセーズって、単なる演奏会じゃなく、「ヤング・オー・オー」みたいな昭和歌謡バラエティ番組や宝塚のレビューを見ているような感じがあって、全体のステージの雰囲気が「劇団」っぽいんですよ。コミックソング昭和歌謡、ミュージカルや定番のシャンソンまで、「振れ幅」の大きな舞台の中で様々な人生の機微を演じている常連歌手の皆さん達を見ていると、なんか、「田中知子劇団」の舞台公演を見ているような気分になってくる。

常連役者さんが、過去の公演でも歌った「辻馬車」とか「Ale,Ale,Ale」といったコミックソングの定番曲を歌う場面とか、どこかで客席にも「待ってました!」みたいな空気が流れる瞬間もあって、なんだか吉本新喜劇の常連役者さん達が一発ギャグを決める瞬間みたいな感じもした。最後にカーテンコールで「シャンテ」が歌われると、ほぼ満席になっている客席からは、コロナ禍を経て、やっとこの曲を会場全体で楽しめる日が戻ってきた、という安堵感も漂った気がします。昔の浅草レビューに通ってたお客様とか、ひいきの劇団の公演とかをこんな感じで楽しんでたんじゃないかなって思ったり。

でも、全く同じ定番メニューを同じように並べるだけではおさまらないのが田中知子というプロデューサーの欲の深さ(失礼)で、歌い手さんにしても、今回初の参加になる加地笑子さんや中村寛子さんを加えたり、今回初披露の「ジャポン旅行」(原曲はカナダ旅行)で、ご当地の名物を織り込んだ日本旅行コミックソングを新たに作り出したり、正統派二重唱をすっかりコミックソングに変えてしまった「愛のために死す」も、以前演奏した時とはちょっとオチを変えてみたり、と細かく手を入れてくる。吉野家とかマクドナルドの定番メニューも、毎年どこかしら改善を加えているっていう話がありますけど、そういう細かい変更点も、「お、今回はこう来ましたか」みたいな新鮮さがあって、私みたいな常連客の楽しみになっていたりします。

そういう定番曲の細かい変更や新しい挑戦に対しても、しっかり応えてくる常連歌手の皆さんも、常連、といいながら以前の演奏や歌唱とは確実に進化を遂げている感じがする。中でも変化を感じたのが末吉朋子さんで、もともと持ってらっしゃる超高音のコロラトゥーラの声にパワーが増した感じがして、「ある古い歌の伝説」では軽やかな高音なのに会場全体がぐわん、と鳴るような感覚が何度もありました。

この企画の「常連歌手」の一角を担わせていただいている感じもするうちの女房は、三つ子と見まごうようなフランスの女の子達の一人、初挑戦の「辻馬車」での御者さん、「恋のロシアンカフェ」の美輪明宏節と、この企画の「振れ幅」を象徴するような変身ぶりで、どの曲もそつなく印象強く歌いきっていたと思います。「ジャポン旅行」の金髪の女の子から、「ボン・ヴォアヤージュ」のドレス姿にたった一曲で衣装替えしてきたのには感心。楽屋は戦場だっただろうねぇ。

f:id:singspieler:20211026200632j:plain

もう11回目となったこの企画、もっと続けて欲しいなぁ。続けているからこその安心感、続けているからこその挑戦、続けているからこその新鮮な楽しみ方があるんだもの。田中さんは以前の公演で、「そろそろネタ切れだ」とおっしゃってた記憶もあるけど、定番曲も新曲も含めてどれもこれも新鮮に聞こえたし、ネタ切れどころか、涸れない泉のようにやりたいこと湧き出してきてる感じがするけどなぁ。

f:id:singspieler:20211026201125j:plain

皆様、またまた女房がお世話になりました。是非またお目にかかるのを楽しみにしております。100回公演目指して欲しいっす。あと89回っすね。楽勝っすよ、田中さん。

f:id:singspieler:20211026213338j:plain

f:id:singspieler:20211026213400j:plain

振れ幅写真貼っときまーす。