「麻希のいる世界」~少女たちは何のために、どうやって戦うのか~

「麻希のいる世界」について、11月に東京フィルメックスでプレミア上映されたのを見て、「世界を見る視線を変えてしまうことができる映画」っていう感想をこの日誌に書いてます。あれから2か月半たって、昨日、公開日初日に2回目の鑑賞。自分がもし10代の少年だった頃にこの映画に出会っていたら、ひょっとしたら人生変わったかもしれないなぁ。50代のオッサンなりの視点で、一人の少女が生命かけて人を求める姿を1時間半息を殺して見つめた感想を書きたいと思います。以下、ネタバレ含みますので、未見の方はご注意ください。そして未見の方は、是非映画館でこの映画の世界の風を感じてほしいと思います。

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色んな方の感想を見ても、この映画の持つ「痛々しさ」に触れている方が多いのだけど、それはこの映画に描かれる戦いの主人公が「少女」である、ということに起因する部分がやっぱり大きいと思う。少年を主人公にした青春アウトロー映画は沢山あるけれど、そこで描かれる少年の戦いは、大抵の場合、外にある他者を傷つける方向に向かっていくと思うし、実際、この映画でも、祐介の戦いは、麻希という他者を傷つける方向に向かっていく。でも、由希が愛する人に少しでも近づこうとして世界に挑みかかっていく戦いは、専ら自らを傷つける方向に向かってしまって、それがより痛々しさを増すんだよね。「月光の囁き」で、歪んだ愛に挑みかかるように自らの身体を男にゆだねる姿を見せつける沙月の姿にも重なるけど、眼帯という分かりやすい記号で自分が負った傷の姿を見せてくれた沙月に比べて、由希の傷は外から見えないから余計に痛々しさが増す。その心の傷を視線だけで見せる新谷ゆづみの切なさたるや。

そしてその生命を削る戦いの動機は何なのか、といえば、ある意味、由希の動機ははっきりしていて、恐らくは小児がんと思われる難病で、明日にも自分の命が絶えてしまうかもしれない、という切迫感。「生きる証」という言葉で語られるこの切迫感は、由希が麻希への思いに突っ走っていく推進力として説得力があるし、ある意味我々のいる世界の常識の範囲内に収まっている気がする。

でもその由希の動機に比較して、麻希の悪魔的なまでの外界に対する戦闘姿勢っていうのはどこから来るのか、いま一つはっきりしない。一応麻希のセリフの中で、父親の性犯罪がその動機になったことには触れられているけど、どうもこの「父親の性犯罪」っていうのが本当のことなのかもよく分からないんだよなぁ。「嘘だと思ったらスマホで確認すればいくらでも出てくる」と麻希は言ってたけど、私にはどうしても信じられない。

ただ、麻希が父親に何かしらの性的虐待を受けたのは事実じゃないかな、と思うし、それが彼女の戦いの動機になっているのは確かかな、とも思います。その戦いの方法も、自分の身体を男に委ねることで、世の中の男がいかにクズばっかりかを証明して嘲笑う、という、これも一種の自傷行為のような感じがして、これもこの映画の痛々しさを助長しているんだけど。

ただ、そう解釈すれば、ある程度麻希の戦いの動機が我々の常識の中で理解できるんだけど、恐らくは塩田監督は、麻希の戦闘性の動機にもっと不条理な、もっと悪魔的なものを感じている気がする。全ての過去を失って再出発したはずの次の人生でも、麻希は明らかに複数の男性を狂わせているし、由希を魅了し取り込もうとする視線の蠱惑感は変わっていない。つまりは麻希という存在そのものが、反吐で詰まった排水管のような腐った世界に対する破壊者として生れ落ちてきた存在で、それはこの人が何度破滅しようが変わらないのだ、とでもいうような。

もう一つ、この少女たちの戦いは、全世界を敵に回しているにも関わらず、社会性のあるものではない、という点も面白いなぁって思った。過去の日本映画が、戦争であったり、社会の中で取り残される貧しさであったり、アウトローたちの仁義であったり、何かしら社会制度や経済制度の中で生きるためにあがく戦いを描いていたのに比べて、この映画で戦っている少女たちには経済的な困窮の影がない。麻希も由希もそれなりに裕福な家庭に育っている感じが見えるし、麻希のアルバイトだって、恐らくは汚れた父の稼ぎに依存したくない、という反発心から来ているように見える。祐介に至っては医者の家で自宅に音楽スタジオ並みの機材が揃えられるくらいの裕福な家庭。

貧しさの中で必死に生きる人間たち、なんていう、ある意味ステレオタイプの映画的人物像から遠く離れたこの映画の登場人物たち。分かりやすい言葉で言えば「食うには困ってない」この少年少女たちが、なんてギリギリのところまで追い込まれて、なんて必死に生きていることか。これで例えば、麻希が極貧の家庭で育った、なんていう経済格差を設定してしまうと、映画の主題がぼけてしまった気がするんだよね。社会問題にするどく切り込む、とか、そんな薄っぺらな主題じゃなくて、もっと根源的で普遍的な主題。決して100%理解しあえることのない人間と人間が、互いに求め合う思いの強さ、決して交わらないものが一つになろうと激しくぶつかり合う中で、否応なく燃え上がってしまう炎が世界を巻き込んで燃え盛っていく姿。そういう「人の業」のようなものを描いているという意味では、小津安二郎溝口健二などの日本映画の巨匠たちのアプローチに近いものも感じたりする。ラストシーン直前、黒澤明の「羅生門」の、多襄丸の顔に落ちた葉影が揺れる、風をとらえたあの有名なシーンを彷彿とさせる風のシーンにも、そういう日本映画の伝統へのオマージュを感じたりしました。二人の絆の結節点となる禍々しい小屋から、破滅を彩る鮮やかな夕日に向かって少女たちが駆け出していく余りにも美しいシーンも含め、中瀬慧さんの繊細なカメラワークの美しさにも魅了されました。

誰もが傷つき、一人として救われない、痛々しくて胸がひりひりするような物語のラスト、由希がうっすらと浮かべた微笑と、鼻筋に流れ落ちた涙が、彼女の戦いの全てを肯定してくれるような、何もかもを洗い流してくれたような不思議な爽快感で、そう、この子は自分の生命をしっかり燃やし尽くしたんだなぁって、なんだか救われたような気分になる。50代も後半になって、もう燃えカスしか残っていないクズの大人になり果ててしまった自分にも、胸の奥まですとんと落ちていつまでも輝いている、そんな小さな宝石のような映画作品になりました。塩田明彦監督、新谷ゆづみさん、日髙麻鈴さん、素晴らしい作品を作り上げてくれてありがとう。この作品の吹かせる風が、たくさんの人の心をざわつかせて、そしてたくさんの人の心の奥に、小さな輝きを残してくれることを祈っています。