最近のインプット羅列します

一ヶ月ほどこのブログの更新をサボっているんですが、色々とインプットはあって、ただそれを論じるとなると相当のエネルギーがいるし、ほかの人も寄ってたかって分析しまくっているコンテンツもあるので、とりあえず、前回の更新以降の大きなインプットをただ箇条書き風に並べておきます。

 

1.進撃の巨人、読了いたしました。

 

娘がハマって、全巻大人買いという思い切った行動に出てくれたので、おこぼれにあずかり、夫婦して全巻読了してしまいました、話題の「進撃の巨人」。なんとなく、手塚治虫がきちんとお話をまとめることができたらこういうお話書いたかもしれないなぁ、という感じがした。特に、読者が結構のめり込んでファンも多くなったキャラクターを惜しげもなく惨殺していく感じが手塚先生っぽいなぁって。自分の暮らす世界の構造が根本から覆る、という「パラダイムシフト」の感覚や、何代にもわたって人を支配する大きな時間感覚というのも、ちょっと「火の鳥」未来編のカタルシスにも似てる感じがしたんだよね。でもねぇ、せっかく新しい刺激的なコンテンツが登場しても、自分が10代・20代くらいの頃に取り込んだコンテンツと比較したりその共通項に納得したりするのが本当にオッサンっぽくて嫌なんだよなぁ。壁の秘密が明らかになったあたりの話を職場の若者に、「自分のパラダイムを壊さないと」みたいな社内訓話のネタにさせてもらったりしてる自分もオッサンっぽくってマジ嫌になるっす。

 

2. ヲタ活動も相変わらずでございます。

 

さくら学院は8月末の閉校に向けて色んなイベントが公表され始めたし、BABYMETALも9月末に10BUDOKANの映像作品の発売が発表されて、ヲタ活動もかなり充実しておりました。一番胸に来たのはなんと言っても久しぶりの現場参戦になった6月12日の公開授業「写真の授業」。業界の一線で活躍するプロの方を講師にして、さくら学院の生徒さんに様々な授業を行う、という、さくら学院でしか見ることができないコンテンツ。この日記でも色んな公開授業の感想を書いてきたけど、これが自分の参加できる最後の公開授業だ、という思いもあったし、ほぼ1年半ぶりに森ハヤシ先生や生徒さん達と同じ空間と時間を共有できたライブ感覚に胸が熱くなる思いもあった。冒頭登場した森先生に降り注いだ拍手がなかなか鳴り止まなくて、胸いっぱいになっている森先生にまたこちらも熱くなる、これが、生徒さんだけじゃなくて、職員室や父兄さん達みんなで作り上げてきたさくらの空気感なんだよなって。

写真の授業は、講師の神戸先生の飄々としたキャラも手伝って、終始和やかで笑顔の絶えない時間になったのだけど、翌日に緊張感あふれる歌の考古学を控えていた生徒さん達に対する職員室の気遣いだったのかなって思います。歌の考古学は参戦できなくて、自分にとっての最後の公開授業になったのだけど、それがこんな和やかな時間で本当によかったです。

 

3. 「ポーの一族」続編購入

 

萩尾望都先生が、「ポーの一族」の新作を40年ぶりに描いた、と聞いて、正直言えば不安しかなかったんですよね。ネットで見た表紙に描かれたエドガーは、明らかに最近の萩尾先生のシャープになった描画タッチのエドガーで、それもただただ不安だった。自分がまさに14歳というエドガーと同い年の時に出会って、まさに自分のパラダイムが解体されてしまった作品の続編なんて、怖くておいそれと読めません。

先日、ふらっと立ち寄った書店に、「春の夢」「ユニコーン」「秘密の花園」が並んでいるのを見て、思わず手が出てしまう。購入したその日に3冊読了。不安を感じてた自分を埋めてやりたい。萩尾先生なめるな。

上質なファンタジーっていうのはその世界の中に読者が引きずり込まれてしまって、自分の住んでいる世界の見え方自体が変貌してしまう感覚があるものだと思うんですけど、40年前の「ポーの一族」で感じたその感覚を、また味わえる日が来るなんて思いもしなかった。エドガーもアランもあの頃のままで、アランは愛らしさが増してヒロイン感が強くなってるけど、でも2人とも全然変わってない。それでいて、2人を廻る世界観や時代感覚は40年前より遙かに深く広くなっていて、これから2人がどうなっていくのか、新刊が本当に楽しみ。

 

4. 中元日芽香さん「ありがとうわたし」読了

 

中元すず香さんからお姉様の日芽香さんを知って、引退直前のらじらーサンデーに号泣して以来、乃木坂には全然興味ないのに日芽香さんのことだけはどうしても気になってたんですよね。本を出す、という話を聞いて、これもちょっと不安半分で購入。正直ちょっと読むのが辛い箇所もあったんですけど、身体に変調をきたすまでに許せなかった自分自身の存在を、時間をかけてゆっくりと肯定していく過程に、何度も胸が熱くなりました。

AKBというアイドルシステムは、思春期の少女達の序列争いをファンも巻き込んでショウ化する、という意味で、個人的にはあんまり支持する気になれません。序列争いだから与えられる振り付けも歌も、個々の個性を表現するよりユニゾンが多くなっている感じがあって、あんまり楽しいと思えない。もちろん、乃木坂含めて、本当によくもまぁそろえたなってくらいに美少女ばっかりで、みんなホントにキラキラしてるけどねぇ。

日芽香さんが乃木坂じゃなくて、アミューズとかハロプロみたいに個々の個性をしっかり伸ばしてくれる場所に行っていたら、また別の物語があったのかもしれないけど、そんなことを言っても仕方のないことで、今ある自分を全部肯定するところから次が始まるんだよね。「ありがとうわたし」って言えるようになった日芽香さんが、同じように追い詰められているアイドルさんのそばに寄り添ってあげて、沢山の人を笑顔にしてくれるといいなぁ。

「春はのけもの」~この現実と地続きの異世界旅行~

自分の学生時代ってのは小劇場演劇が無数にあって、自分も結構そういうお芝居を見に行きましたけど、プロセニアムによって区切られた物語世界を、少し離れた客席から眺めるものだった演劇を、客席も巻き込んだ異空間のエンターテイメントに変貌させた小劇場の熱気にくらくらした記憶があります。最近あんまり、そういう会場全体が異世界に変貌するような演劇を見る機会がなくて、さくら学院の卒業生の飯田らうらさんが出演してた「劇メシ」(レストランを借り切って店内全体を使ってお芝居をする企画)の配信映像なんかを見て、こういうのも面白そうだなぁって思ってました。

今回、さくら学院の卒業生の黒澤美澪奈さんが、大学受験のための休業から復帰して舞台をやるという。それも、「♭FLATTO」という、場所を選ばすどこででもお芝居をやろう、という企画団体の旗揚げ公演。公演会場は渋谷の雑居ビルの中の小さなバー。これは見たいなぁ、と思って、思わずチケットを購入。今日はその舞台の感想を。日常世界が非日常の異空間に変貌した先にさらに現実世界につながるのだけど、その現実世界はアイドルという非日常の異世界にまたつながっているという、パラレルワールドの連続体を旅しているようなトリップ感を味わえた時間でした。

 

出演:

黒澤美澪奈 / 田中日奈子 / 清水らら / 松村遼 / 横大路伸

スタッフ:

作・演出: 横大路伸

 

という布陣。

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会場になったBAR TRIANGLEの営業時の写真をネットで探しましたけど、こんな感じの普通のバーです。このカウンターの椅子をなくして、写真の左側のソファー席を壁際に並べて、その前に椅子を少し並べて、全部で客席は20席。この写真の中央の床部分と、右側のカウンター奥が演技空間になる。

大人になった主人公が高校生時代のエピソードを回想する、というドラマ構成の中で、冒頭の黒澤さんのモノローグから、一気に時空が歪む。黒澤さんとインタビュアー役の横大路さんの間のやり取りで時間が現在と過去を行ったり来たりする。演技スペースに置かれた机と椅子、というわずかな舞台装置が教室を表し、バーカウンターは教卓になり、教卓の教師と生徒が同じ客席方向を向いているのに、対面しているように見せる演劇的効果。バーカウンターの奥は学校の廊下になり、帰り路になり、寄り道途中の橋の上や川の土手になる。ある意味手作り感満載なんだけど、客席の想像力を絶えず刺激する役者さん達のプロの芝居力で、空間がリアルな重量感のある物語世界に見えてしまう。そして、細かい所に丁寧に仕込まれた伏線を回収しながら、所々にキラキラした言葉を散りばめた脚本の構成の妙。プロの舞台の凄みを随所に感じる。

黒澤さんはさすがの座長の貫禄だったんですけど、ミレニアム桃太郎に続いて、この人に「あてて書かれたお芝居」が商業企画として成立してしまう、というのは色んな意味で凄いなぁ、と思いました。さくら学院の父兄さん達、という固定ファンを持っているのももちろん強みだと思うけど、横大路さんのような作家さんが、「この人にあててお話を書きたい」と思ってしまうのが黒澤さんのパワーだよね。私が関わっているオペラの世界でも、たくさんいるソプラノ歌手の中で、「この人は間違いなくプリマだ」と言われる人たちがほんの一握りいるんだけど、黒澤さんは間違いなくプリマの器なのだと思う。

もう一つ、黒澤さんって舞台向きの人だなぁ、と以前から思っていましたけど、生で聞くとさらにその印象が強くなりました。よく言われる「顔のうるさい」表情の豊かさだけじゃなくて、滑舌含めた発声が舞台の発声なんですよね。数百人のホールの隅々までマイクを通さずに、生の声で言葉を届けるために鍛えられた発声と滑舌。絶叫芝居だけでなく、普通のセリフを喋っている時でも、豊かな響きでハコ全体が共鳴するような瞬間が何度もありました。

 この黒澤さんの持っているパワーがお芝居全体の推進力になっていくのだけど、それを受け止める田中日奈子さんの凛とした美しさも印象的。宣材写真やツイッターの動画見て、和風のすっきりした美人だなぁって思ってたけど、実物は写真より数倍キレイだった。

ラスト近く、子供の頃から背負った宿命に対する覚悟と、それ故の拒絶に自分に傷ついてしまう田中さんのセリフには、若い頃からショウビズの世界に飛び込んで色んなものを犠牲にしてきたかもしれない田中さん自身の思いも少し含まれているのかも、なんてちょっと思いました。ラスト、悲しい別れを新しい出会いに再生させようとする3人の物語への期待を、20人の来場客一人一人の瞳を覗き込むように見つめながら呼びかける黒澤さんのセリフも、休養期間から戻ってきた黒澤さん自身に、彼女のこれからへの期待を呼びかけられているような、そんな現実と虚構の交錯する感覚を何度も感じて、それもこういう小さな演劇空間ならではの異化効果だなぁと。

そういう意味では、ある程度、素の自分に役柄を引き寄せる演技もできたかもしれない黒澤さんと田中さんに比べて、清水さんの演じたのどかという役は、より虚構性が高く、ドラマの起伏の核を担っている役で、演じるのに物凄くパワーが必要だったんじゃないかな、と思います。でもこの清水さんが良かったんだ。技巧的なセリフも感情に乗せたセリフも、繊細な表情の変化も、自然にこなして決して作り物の感じがしない。「私はのけものだ」という物語のタイトルを呟く瞬間のリアルな感情の重さ。もともとすごく可愛い方なのに、親友から無神経な言葉を告げられて傷つく時のちょっと歪めた顔の表情など、小さな演技のリアリティが胸に迫る。清水ららさん、という役者さん、今回初めて拝見したんですけど、自分の中で要チェックの役者さんになりました。

さくらの卒業生を追いかけていると、色んな素晴らしい才能に出会うことができて、それがさくら父兄の醍醐味だったりします。子供たちの心の支えになっている安心感を自然に演じていた松村さんも素敵な役者さんで、上背のすごくある方なので、大きな舞台でこの人の演技を見てみたいなぁ、なんて思いました。

もう取り返すことができない真実に触れて涙を流すのどかを、大人になった咲良が抱きしめるラストは、冒頭の咲良のモノローグで触れられた、果たせなかった約束、叶わなかった願いを時を超えて抱きしめようとする人間の普遍的な願望のように見える。めくるめく異世界への旅はまた振り出しに戻って、カーテンコールで我々の前に立った三人のお嬢さんは、もう普通の女子高生ではなくて、我々の手の届かない華やかな芸能界のアイドルの顔をして、一回り大きくなって次の舞台へと旅立っていく。黒澤さんの復帰第一作にこんな素敵な作品を作り上げてくれた横大路さん、夢のような時間をありがとうございました。コロナで忘れていた生の声の力、空間を、思いを共有する時間の心地よさを、もう一度思い出させてくれた、本当に濃密な時間でした。

ネット配信花盛りですねぇ

STAY HOME強いられたゴールデンウィーク、我が家も御多分に漏れず、自宅でほとんど過ごしておりました。毎年この時期はラ・フォル・ジュルネとくらやみ祭で過ごしてたんですけどね。昨年から続くこの失われた時間が、将来の自分たち、とりわけ若い人たちにどんな影響を与えることになるのか、現時点では何も予想することはできないのが怖いんだよね。身近な方をコロナで失っていない我々みたいな一般人からすると、震災みたいに今まであった物理的に目に見えるものが破壊される災厄と違って、目に見えないものが時間とともに失われていく感覚がホラーっぽくって怖い。なにかしらかけがえのないものが失われてしまったことに時間が経ってから気づいて、もう取り返しがつかなくなってしまわないかって。

一方で私の関わっている舞台表現の世界では、コロナのおかげで、すっかりネット配信が一つの表現手段として定着しましたね。ゴールデンウィーク中も、友人が出演したミュージカルのライブ配信と、女房が出演したオペラ演奏会のライブ配信を鑑賞。

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女房出演のオペラ演奏会のスクショ。

ご覧の通り、このオペラ演奏会もそうでしたし、友人が出たミュージカル舞台もそうだったんですけど、定点カメラでの動画配信。なので、基本的にはライブを補完する手段として位置づけられている感覚が強いのだけど、こういう配信ライブ、コロナ後もどんどん活用されていくんだろうな、と思いますよね。場所に制限されないから、東京を中心として活動している音楽家のライブを地方の人が楽しむことができるツールとして有効だし、アーカイブ機能を活用すれば、その日時に都合がつかない人に表現を届けるツールとしても有効。テレビのライブ放送みたいに気軽に使える所もよい。ネットは時間と空間を飛び越える手段なんだなぁと改めて実感。

私なんかは全然旧世代なので、こういう配信サービスには全然疎かったんだけど、最近、TikTokだのInstagramだのYouTubeライブだの今まで触れたことのない色んなSNSライブ配信にやたらに触れるようになりました。コロナのせい、ということじゃなくて、さくら学院推しになったおかげで、さくら学院の卒業生の方々や関係者のアーティストが色んな発信を続けているSNSに片っ端から加入して、彼らが時々発信しているライブ配信を見まくってるせいなんだよね。うーん、理由を口にするのが非常に恥ずかしい。

でもそういう若い世代の表現者ライブ配信見てると、チャット機能や視聴者からのコメント、投げ銭機能をうまく使いながら、一期一会のライブ感を楽しめる工夫が一杯あって面白いんだよなぁ。多分彼らのような世代は、ニコニコ動画やYouTuberの配信ライブをずっと以前から経験しているから、そういう機能を使いこなすセンスが備わっているんだろうね。インスタライブ中に投稿したチャットを拾ってもらえた時の一体感とか、生のライブでは決して味わえない興奮だったりしますし、ネットライブ配信ならではの楽しみだなぁって思います。こういう工夫を取り入れるのはなかなかクラシック演奏のライブでは難しいかもなぁ。でも例えば、オペラのライブ配信なんかで、休憩時間中に出演者とチャットでおしゃべりする、なんていう企画があっても面白いよね。METの幕間のインタビューを双方向にしたみたいな感じ。クラシックの演奏会でも、チャットでリクエスト募集して、第二部ではその歌歌います、とか、投票機能使ってプログラムを決めていく、とか、視聴者参加型のライブ配信とか面白いかもしれない。

アイドルさん達のライブ配信でのチャットやコメントなんか見ていると、そこにすごく濃密なコミュニティが生まれている感覚があるんだよね。常連さんがメンバーに名前を覚えてもらっていたり、チャットを拾ってもらったファンを他の視聴者が祝福したり。そういうコミュニティの一体感みたいなものも、ライブ配信特有の楽しみだったりする。でも、この濃密さが逆に、ネットならではの煩わしさとか怖さ、みたいなことにつながることもあって、匿名性が高い分炎上しやすいのがこういうコミュニティのリスク。ライブ配信なんかでも、かなりコミュ障っぽい視聴者のしつこいコメントに配信者が困ってしまう、なんていう場面を目撃したこともある。ネット配信ではどうしても配信者のプライベートが漏れ出してしまうし、SNSで傷つくアイドルさんは後を絶たない。ネット配信は発信者と受信者のプライベート空間をダイレクトに結んでしまうから、それゆえのメリットや一体感もあるけれど、マイナス要因ももちろんある。コロナに後押しされた形で急成長した表現手段ですけど、デメリットをうまく吸収したり制御しながら、表現の幅を広げてくれるツールとして成熟していくといいんだけど。

音に包まれる時間って必要なんだよなぁ

今日は、先々週に新国立劇場で見たオペラ「夜鳴きうぐいす」と「イオランタ」、そして今日ティアラこうとうに見に行った江東オペラの「トゥーランドット」、3つのオペラの感想をまとめて。やっぱり音に身体ごと包まれる時間って必要だよなぁ、というのが一番の感想でしたが、他にも思ったことをいくつかつらつらと。

新国立劇場で見た二演目はどちらも初見だったのですが、あまり見る機会のないロシア物のオペラをこれだけのスケールで作り上げることができるっていうのが、やっぱり新国立劇場の凄みだよなぁって思いました。しかもそれをほとんど日本人キャストだけで作り上げてしまうんだよなぁ。新国立といえば、メインキャストのほとんどが海外から招かれた有名歌手で、サブキャストの数人だけが日本人、という舞台がずっと多かった気がするんだけど、コロナのおかげで海外から歌手を呼ぶことが難しくなり、逆に今が旬の素晴らしい日本人歌手のパフォーマンスを楽しめる機会が増えたんじゃないかなって思います。ラフォルジュルネみたいな音楽祭だって、海外から演奏家を呼べないから断念するんじゃなくて、日本人音楽家だけでも十分高クオリティの音楽祭ができるんじゃないかなぁって思う。

「夜鳴きうぐいす」は、もともとがファンタジー、というか寓話で、ポップアートっぽい舞台の作り含めておとぎ話感の強い舞台だったんだけど、最後にナイチンゲールが皇帝にとりついた死神を歌の力で調伏するシーンとか、なんか今のコロナ禍の世界と重なって見えて胸に来てしまった。やっぱり音楽って災厄や病魔から人を救う力があるんじゃないかなって思ったり。

「イオランタ」は、あまりにチャイコフスキーらしいロマンティックが過ぎたお話で、神の栄光をたたえる最後のアンサンブルとか、もう交響曲の終楽章みたいな盛り上がりで、不謹慎だけど少し笑ってしまった。かごの中の鳥として、男も世間も知らずに大事に育てられた深窓の令嬢、っていうのは、「リゴレット」のジルダ、「ホフマン物語」のアントニアみたいにオペラには無数に出てくると思いますし、多分昔からヒロインの一つの典型なんだろうなって思いますけど、「イオランタ」ってのはその究極の形だよねぇ。自分が盲目であることすら知らない純粋無垢な美少女が人間世界から隔絶された屋敷で大事に大事に育てられてる、なんて、夢見過ぎだったチャイコフスキーの乙女趣味爆発してないかい?

なかなかオペラ舞台を見に行く機会がなくて、たまには生の音を全身で浴びたいなぁ、と女房と二人で出かけた新国立劇場でしたが、大きな会場全体に鳴り響くトップレベルの歌い手さん達の歌声と東フィル、新国立劇場合唱団のサウンドがぶっ放すチャイコフスキーのフィナーレはホントに音の滝に打たれているみたいなデトックス効果でした。

そんなデトックス効果を、音の滝、というより、もっと蠱惑的な音の温水浴みたいな感じで全身で体感できたのが、今日ティアラこうとうに見に行った江東オペラの「トゥーランドット」。もともと野外劇場で演奏されることも多い非常にスケールの大きい演目ですが、コロナ対策で密な空間を作れない、という状況を逆手に取って、オーケストラを舞台奥に配置し、舞台の前面にソリストの演技空間を作り、合唱団を二階席に、バンダの金管をテラス席にと会場全体に配置したステージ構成が見事でした。プッチーニって、なんとなく一種の催眠作用をもたらすようなウネウネした感じ、というか、アルファ波と同じ波長じゃないかと思うような心地よいうねりを感じる音楽なんだけど、それが舞台上だけじゃなく、二階席から人の声として降ってくる。この「音楽浴」みたいな感覚がたまらない。江東オペラは昔女房がお世話になったこともあるんですけど、非常に声の出るしっかりした合唱団なので、その声が上から降ってくる効果が素晴らしい。児童合唱も本当に美しくて、一幕はほとんど夢見心地で聞いておりました。しかも合唱を二階席に、ソリストを舞台上に、と別々に配置することで、中国の民衆、という典型的な「コロス」を演じる合唱の役割が明確になるんだよね。

トゥーランドット」ってのはお話としては本当に無茶苦茶、というか、「ボエーム」のようなベリズモオペラを書いた同じ作曲家の作品とは思えないくらい非現実的なお話なんだけど、まぁ完全なおとぎ話として見た方がいい。そう思うと、新国立劇場で見た「夜鳴きうぐいす」もファンタジーだったし、当時のヨーロッパにおいて、中国や日本というアジアの国々は、一種のおとぎの国として位置付けられていたってことなんだろうなぁって思います。

そしてトゥーランドット、というのも、イオランタ同様、男を知らず、世界を知らない箱入り娘の一人だなって思う。イオランタの周りに立てられた壁は、親が立てたもので、トゥーランドットが自分の周りに巡らせた壁は、過去の亡霊にそそのかされて自分で立てた壁なんだけど、壁の中にこもって男を知らない、という点については同じ。そういう処女性が純粋な受容に向かうとイオランタになるし、激しい拒絶に向かうとトゥーランドットになるわけだけど、籠の中の鳥、という意味では、同じ理想的女性像の鏡に映った二つの姿なのかもしれないなって思う。

イオランタにせよトゥーランドットにせよ、「リゴレット」のジルダや「蝶々夫人」の蝶々さん同様、初めて知った男への愛にわが身を捧げてしまうわけだけど、そういう純粋さも彼女たちを理想の女性にしている一要素なんだろうなって思います。その一方で、そういう女性をモノにしてしまう男ってのは大変評判が悪くなるわけで、カラフにせよマントヴァにせよピンカートンにせよ女性の敵みたいに言われることが多いよねぇ。カラフなんか、一途に想いを寄せるリューを見殺しにしちゃう、なんてことがあるから余計に、女性からだけじゃなくリューびいきの男性からも敵視されちゃう。江東オペラのリューは津山恵さんだったので儚げで美人に見えるから余計にカラフの最低男っぷりが際立つ。津山さんは美人だけど、多分本当のリューちゃんってのは、健気だけどあんまり美人じゃなかったので、カラフ君は恋人にする気になれなかったんじゃないかな、って、帰り道で女房に言ったら、「もしそうならカラフは本当にヒトデナシだ」とボロクソであった。

新国立劇場の一流の舞台も素晴らしかったんですけど、江東オペラの、ティアラこうとう全体を包み込む音の中に自分自身も溶けていくような多幸感は本当に最高でした。やっぱり音に包まれる時間っていうのは人間が生きていく上で必要不可欠な時間なんじゃないのかなぁ。配信では決して味わえない、ライブでないと感じられないこの大切な時間を、不要不急と切り捨ててほしくないんだよなぁ。

Singspielerのさろん・こんさーと、無事終演いたしました。

4月16日に開催した自分の小さなコンサートの準備や宣伝に注力していたおかげで、このブログの更新が約一か月間空いてしまいました。おかげさまでコンサートはなんとか無事に終演したのですが、この一か月、それ以外にも大きなインプットが2つあって、コロナ禍の中でもかなり充実した日々を過ごしておりました。一つは、しっかりインプットをしないと、と女房と行った新国立劇場の「夜鳴きうぐいす」「イオランタ」。そしてもう一つは、自分のコンサートの前日にパワーをもらおうと参戦したBABYMETALの武道館10days最終日。このあたりの感想とかも書いていきたいのだけど、とりあえず今日は、なんとか終演までこぎつけることができた自分のサロン・コンサートの感想を書こうと思います。

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会場はいつものマエストローラ音楽院。本当なら50人近くお客様を入れられるサロンで、10名のお客様に限定、写真のように、お客様と演者の間にパーティションを置くなど、昨年のコンサートよりもかなり厳しめの対策を取っての上演。でも、新国立劇場や武道館とか行ってみても、客席の間隔、入場時の検温や手指消毒、連絡先の確認やマスク着用など、色んな形での感染防止対策が定型化されてきた感じがしますよね。実際、ライブハウスやカラオケボックスなどのクラスターは頻繁に報告されているけど、クラシックの演奏会でお客様が集団感染したって話って聞かない気がするなぁ。BABYMETALの武道館だって、5000人近い観客を10日間集めて、集団感染の話なんか出てないんだよなぁ。もちろん、問題は演奏会そのものじゃなくて、その準備段階の稽古場で密が発生してクラスターが出てきちゃうってことなんだろうけど。

今回の演奏会のテーマは、「中学校音楽教科書」。オペラやオペレッタばっかりやってて、その中でも悪役中心に色モノばっかり歌っている私に向かって、前回の演奏会の直後に、女房が、「中学教科書に掲載されているようなスタンダードナンバーをしっかり歌えるようになった方がいい」と言ってきた。そういえば、ちょうど音楽教科書が今年度改訂を迎える、ということもあって、では中学教科書に挑戦、というテーマでやってみようかと。

でも、この中学教科書、というのが意外と難物でした。皆さんがよくご存じの曲ばかり、ということは、逆に言えばボロも出やすいですし、何より、オペラやオペレッタのように演技とかケレン味でごまかすことができない。ただ真っ直ぐ歌に向き合わないといけない。そして向き合ってみれば、例えば「荒城の月」のような超スタンダード曲でも、一つ一つの音符や休符の中に何かしらの意味があって、それをおろそかにしてしまうと曲の味わいが損なわれたりする。何も考えずにただ歌うだけじゃ、それこそ中学生に聞かせられる出来にならない。

加えて、毎年春先になると発症する喉の炎症もあって、本番一か月前くらいの練習中に、声がかすれて全く音程が取れなくなることが何度かありました。曲数を減らしたり医者に行ったりしましたけど、もともとメンタルが弱くて本番前になるとすぐ喉の調子が悪くなることに加えて、やっぱり年齢の問題もある気がします。若い頃なら喉に無理な発声していても声が出ていたものが、ちょっとでも無理すると声帯の響きが支えられなくなっているのかな、と。

そういう自分の身体の状態で、中学教科書の名曲を歌うっていうのは、本当にハードな挑戦でしたけど、逆にいえば、自分の身体の中で何が起こっているのか、どういう筋肉の使い方や響きの場所を狙えばちゃんと最後まで響きを保てるのか、という発声の基本を凄く意識させられる機会でもありました。英語を勉強している人によく、「中学英語をしっかり勉強しなさい」ということがあるけど、音楽でも同じなんだなぁ。大事なことは全部、中学校の教科書に書かれているんですよね。

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安定のパフォーマンスで支えてくれた共演者のお二人、受付含めてがっちりサポートしてくれた我が女房どの、そして、相変わらずの心優しいお客様たち。クイズ大会も盛り上がって、皆さんの笑顔を見ながら歌った「翼をください」や「ふるさと」は、こんな時期だからこそどこか胸に迫るものがありました。お客様の前で、同じ空間、同じ時間を共有しながら歌えることの幸せ、改めて実感した時間でした。やり方は色々と工夫が必要だけど、そういう困難を乗り越えても、こういう時間をこれからも守っていきたいなって思います。

性を売るのか聖を売るのか

今日のテーマは例によってBABYMETAL中心ですけど、そこからむっちゃぶっ飛んでいきますよ。さてちゃんと着地できるかしら。

最近のツイッターで、「SU-METALは自分を性的にアピールしないのに支持されているのがいい」という英語圏の方のツイートが紹介されていて、そうなんだよなぁ、とすごく共感。BABYMETALは、デビュー当時は赤いミニスカートで多少肌の露出もあったのだけど、2014年くらいから黒タイツに変わり、最近はほとんど肌の露出もなく、身体の線を強調することもない。ダンスにしても、セクシーさを強調するダンスはほとんどなくて、どちらかというとバレエやモダンダンスを思わせる、ダンサーのシルエットの美しさと、アクションのキレの良さが前面に出ている感じがします。

じゃあ彼女達は「女性」であることを自分の魅力としていないのか、というとそんなことは全然ない。「カワイイ」を極限まで突き詰めているMOA-METALと、超人的なパワフルボイスを武器にしているSU-METALは、二人ともそろって間違いなく「美女」です。でもその美しさに、「性」を前面に出さない質の高いパフォーマンスが組み合わさると、性的アピールではなくて、むしろカリスマ性や神聖性が前に出てくる。SU-METALもMOA-METALも、「すぅ様」「もぁ様」とか、あるいは女神に例えられることが多くて、二人とも女性としての美しさから「性」をアピールするレベルを超えて、「聖」を商品化するレベルに達している感じがする。

ちょっと昔を振り返ってみると、ショウビジネスと「性」というのは結構根の深い関係性を保ってる気がするんだよね。私の子供の頃の記憶とか辿ってみると、経済成長が大きくなって世の中が浮かれてくると、ショウビジネスと「性」の関係が濃厚になるような気がする。高度成長期の日本映画が何かと売りにしていたのは、有名女優がその映画でヌードになるかどうか、という点だった気がするし、自分が高校生くらいの頃の「アイドル」と言われた薬師丸ひろ子さんや原田知世さんも、映画で初めてキスシーンに挑戦、なんてのがやたら煽り文句になってた。「アイドル」が露骨に性を商品にするようになったのは、秋元某が仕掛けた「オールナイトフジ」や「夕焼けニャンニャン」だったんじゃないかなぁと思うけど、あれもバブル経済の産物でしたよね。同じ秋元某が生み出したAKB系アイドルも、会いに行けるアイドル、という名目の下に、ファンとの接触や疑似恋愛という形で「性」を商品化しているような印象がすごくするんだけど、そんなことを言うとファンの方々には怒られるだろうか。

アメリカあたりのポップミュージックの世界でも、女性シンガーは自らをセックスシンボルとして売っているケースが多いですよね。男性アイドルを追いかける女性ファンの心理はよく分からないのだけど、ショウビジネスの中の一つの商品カテゴリーである「アイドル」という商品は、「性」という価値と、つかず離れずの微妙な関係性を維持しているものだと思います。

さぁ、ここから熱狂的なファンの妄想が時空を越えますよ。もともと日本のショウビジネスの原点にも、「性」をアピールする側面というのは強くあったと思います。日本の舞台芸術の祖とも言える世阿弥は、将軍義満さんのお稚児さんになったのが彼の立身のベースになっているし、彼以降も、阿国歌舞伎が一種のストリップであったように、舞台表現は「性」の商品化と一体的に営まれていた側面がある。

でもその世阿弥阿国歌舞伎と同時代、中世日本において、「聖」を一種の商品として熱狂的な支持を受けた、一種の「アイドル」が存在していたと思うんです。その代表格が西行法師で、私はこの人は日本の男性アイドルの元祖じゃないかと思ってる。何を言い出すんだこいつ、と思われるだろうけど、ついてきてくださいよ。

西行法師が出家後、全国を行脚して、東大寺再建のための「勧進」を重ねた、という話がありますが、西行さんって、眉目端麗な若者ばかりを集めたという北面の武士の出身で、かつ、確か、御親族に今様の名手がいるんですよ。つまり、美男子で声もいいお坊様が、全国を回って綺麗な声でお経を唱えて寄付を集めた、ってことなんだけど、これってアイドル歌手の全国ツアーだよねぇ。集めたお金はお寺に寄進されるので、「ビジネス」とはいえないけど、でも間違いなく、「聖」的なレベルに到達した美しいパフォーマンスが、人を引き寄せ熱狂を生み出す核になったのでは、と想像できる。

同じような話は、鎌倉仏教の開祖である親鸞法然さんの話にもあって、どうもこの辺のお坊さんたちは、今のジャニーズのスターみたいな感じで信徒さんたちを集めてたんじゃないかなっていう感じがする。つまり、中世の時代から、人を集めてお金を集める、という広い意味でのショウビジネスにおいて、「性」が主たる商品として取引されていた場だけではなく、「聖」が一種の商品として人を集め、熱狂させていた場があったのじゃないか、と思うんです。

容易に「性」が売り物になってしまうショウビジネスの世界において、パフォーマンスと自らのカリスマ性で「聖」を前面に出して戦っているBABYMETALは、中世宗教界に革命を起こした西行法然親鸞と同じレベルの「聖」なるパフォーマーなのだ、というのがこの文章の結論、ということになってしまうと、まさに狂信的なファンの妄言の極みってことになるんだけどさ。月一回ペースで通っている10BUDOKANステージ見てると、サポートダンサーの岡崎百々子さんも含めたBABYMETALのチームがどんどん神がかってきてる感じがするんだよね。巨大スクリーンに時々映し出される3姫の表情とか、もう女神にしか見えんもん。10BUDOKANが完遂されて、10音の鐘が鳴り終わった瞬間、この日本に何か奇跡的な救済がもたらされるんじゃないだろうかって、半分冗談、半分本気で思い始めている自分がいます。かなりヤバいやつになりつつありますね。だらだら書いたけど、結局BABYMETAL讃歌で終わっちゃったなぁ。

生かされているんだから一生懸命生きなきゃねぇ

今年も3月11日がやってきたんですが、3月11日ってのはうちの女房の誕生日なんですよね。女房は岩手出身ということもあって余計に、周りに気の毒がられることが多いらしいんだけど、「あっちが後からやってきたんだからしょうがないよねー」と言いながら、家族では毎年普通に誕生日をお祝いしております。今年は女房のリクエストで、夫婦して高尾山に登ってきました。ミシュラン三ツ星にふさわしい整備されたハイキングコースは、よくある観光地の軽薄さがなくて、人工と自然のバランスがたまらなくよい。お天気にも恵まれて、関東平野を見下ろしながらとろろそばを堪能いたしました。

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気分は最高

誕生日ってのは自分で選ぶわけにはいかないですし、家族の大事な記念日が悲しい事件に上書きされてしまう、なんてのは本当によくあることですよね。我々夫婦の結婚記念日の6月8日は、あの池田小学校事件発生の日で、記念日のお祝いを家族でしている時にテレビで事件のニュースが流れた時は、本当に暗澹たる気持ちになりました。でも、そもそも365日、何も起こらなかった日なんてのはないんだよね。最近購入した新車のカーナビ君は、毎朝エンジンをかけるたびに、その日が何の日か教えてくれるんだけど、毎回「そんな記念日があるのか」ってびっくりさせられます。ちなみに今日3月13日は青函トンネルの開業記念日だってカーナビ君が教えてくれたな。話が横道に進んでいるぞ。もとに戻そう。

911が誕生日の人もいれば、阪神淡路大震災の起きた1月17日が誕生日の人もいる。原爆が投下された8月6日や8月9日、東京大空襲の3月10日。沢山の命が失われた悲劇の日は一年365日の中に無数にある。世界中の誰一人死ななかった日、なんてのは存在しないわけで、結局、自分の今の幸せや命の後ろには、同じ時を分け合っているのに不幸のどん底にいる人たちや、その瞬間に失われていく命も必ずあるってことなんだよなぁ。

自粛警察みたいな正義をふりかざす人なんかは、そういう悲劇に心寄り添ってお祝い事なんかは自粛しろ、とか言いそうだけどさ。不幸な人や失われた命の想い大事にするなら、今生きている自分の人生をしっかり生きて、その幸せに感謝することこそ大事なんじゃないかなって思うんだよね。人間を生かすために犠牲になっている命に感謝するのが、食事の前の「いただきます」という言葉なんだっていう話がありますけど、全ての命が根源ではつながっていて、未来に向かって命をつなごうとして必死に生きているとするなら、同じ時間の悲しみにただ引きずられるのではなく、自分の幸せや生かされていることへの感謝の想いを持って精いっぱい幸福に生きようと努力するべきなんじゃないかなって思う。

3月11日は我々家族にとって無茶苦茶大切な日です。女房の誕生日という嬉しい日であり、岩手の友人知人たちに想いを寄せる大事な日であり、そして何より、失われた命を心に抱いて、今生きている自分たちの幸せに感謝する日。無駄に失われた命なんて一つもないんだからねぇ。