音に包まれる時間って必要なんだよなぁ

今日は、先々週に新国立劇場で見たオペラ「夜鳴きうぐいす」と「イオランタ」、そして今日ティアラこうとうに見に行った江東オペラの「トゥーランドット」、3つのオペラの感想をまとめて。やっぱり音に身体ごと包まれる時間って必要だよなぁ、というのが一番の感想でしたが、他にも思ったことをいくつかつらつらと。

新国立劇場で見た二演目はどちらも初見だったのですが、あまり見る機会のないロシア物のオペラをこれだけのスケールで作り上げることができるっていうのが、やっぱり新国立劇場の凄みだよなぁって思いました。しかもそれをほとんど日本人キャストだけで作り上げてしまうんだよなぁ。新国立といえば、メインキャストのほとんどが海外から招かれた有名歌手で、サブキャストの数人だけが日本人、という舞台がずっと多かった気がするんだけど、コロナのおかげで海外から歌手を呼ぶことが難しくなり、逆に今が旬の素晴らしい日本人歌手のパフォーマンスを楽しめる機会が増えたんじゃないかなって思います。ラフォルジュルネみたいな音楽祭だって、海外から演奏家を呼べないから断念するんじゃなくて、日本人音楽家だけでも十分高クオリティの音楽祭ができるんじゃないかなぁって思う。

「夜鳴きうぐいす」は、もともとがファンタジー、というか寓話で、ポップアートっぽい舞台の作り含めておとぎ話感の強い舞台だったんだけど、最後にナイチンゲールが皇帝にとりついた死神を歌の力で調伏するシーンとか、なんか今のコロナ禍の世界と重なって見えて胸に来てしまった。やっぱり音楽って災厄や病魔から人を救う力があるんじゃないかなって思ったり。

「イオランタ」は、あまりにチャイコフスキーらしいロマンティックが過ぎたお話で、神の栄光をたたえる最後のアンサンブルとか、もう交響曲の終楽章みたいな盛り上がりで、不謹慎だけど少し笑ってしまった。かごの中の鳥として、男も世間も知らずに大事に育てられた深窓の令嬢、っていうのは、「リゴレット」のジルダ、「ホフマン物語」のアントニアみたいにオペラには無数に出てくると思いますし、多分昔からヒロインの一つの典型なんだろうなって思いますけど、「イオランタ」ってのはその究極の形だよねぇ。自分が盲目であることすら知らない純粋無垢な美少女が人間世界から隔絶された屋敷で大事に大事に育てられてる、なんて、夢見過ぎだったチャイコフスキーの乙女趣味爆発してないかい?

なかなかオペラ舞台を見に行く機会がなくて、たまには生の音を全身で浴びたいなぁ、と女房と二人で出かけた新国立劇場でしたが、大きな会場全体に鳴り響くトップレベルの歌い手さん達の歌声と東フィル、新国立劇場合唱団のサウンドがぶっ放すチャイコフスキーのフィナーレはホントに音の滝に打たれているみたいなデトックス効果でした。

そんなデトックス効果を、音の滝、というより、もっと蠱惑的な音の温水浴みたいな感じで全身で体感できたのが、今日ティアラこうとうに見に行った江東オペラの「トゥーランドット」。もともと野外劇場で演奏されることも多い非常にスケールの大きい演目ですが、コロナ対策で密な空間を作れない、という状況を逆手に取って、オーケストラを舞台奥に配置し、舞台の前面にソリストの演技空間を作り、合唱団を二階席に、バンダの金管をテラス席にと会場全体に配置したステージ構成が見事でした。プッチーニって、なんとなく一種の催眠作用をもたらすようなウネウネした感じ、というか、アルファ波と同じ波長じゃないかと思うような心地よいうねりを感じる音楽なんだけど、それが舞台上だけじゃなく、二階席から人の声として降ってくる。この「音楽浴」みたいな感覚がたまらない。江東オペラは昔女房がお世話になったこともあるんですけど、非常に声の出るしっかりした合唱団なので、その声が上から降ってくる効果が素晴らしい。児童合唱も本当に美しくて、一幕はほとんど夢見心地で聞いておりました。しかも合唱を二階席に、ソリストを舞台上に、と別々に配置することで、中国の民衆、という典型的な「コロス」を演じる合唱の役割が明確になるんだよね。

トゥーランドット」ってのはお話としては本当に無茶苦茶、というか、「ボエーム」のようなベリズモオペラを書いた同じ作曲家の作品とは思えないくらい非現実的なお話なんだけど、まぁ完全なおとぎ話として見た方がいい。そう思うと、新国立劇場で見た「夜鳴きうぐいす」もファンタジーだったし、当時のヨーロッパにおいて、中国や日本というアジアの国々は、一種のおとぎの国として位置付けられていたってことなんだろうなぁって思います。

そしてトゥーランドット、というのも、イオランタ同様、男を知らず、世界を知らない箱入り娘の一人だなって思う。イオランタの周りに立てられた壁は、親が立てたもので、トゥーランドットが自分の周りに巡らせた壁は、過去の亡霊にそそのかされて自分で立てた壁なんだけど、壁の中にこもって男を知らない、という点については同じ。そういう処女性が純粋な受容に向かうとイオランタになるし、激しい拒絶に向かうとトゥーランドットになるわけだけど、籠の中の鳥、という意味では、同じ理想的女性像の鏡に映った二つの姿なのかもしれないなって思う。

イオランタにせよトゥーランドットにせよ、「リゴレット」のジルダや「蝶々夫人」の蝶々さん同様、初めて知った男への愛にわが身を捧げてしまうわけだけど、そういう純粋さも彼女たちを理想の女性にしている一要素なんだろうなって思います。その一方で、そういう女性をモノにしてしまう男ってのは大変評判が悪くなるわけで、カラフにせよマントヴァにせよピンカートンにせよ女性の敵みたいに言われることが多いよねぇ。カラフなんか、一途に想いを寄せるリューを見殺しにしちゃう、なんてことがあるから余計に、女性からだけじゃなくリューびいきの男性からも敵視されちゃう。江東オペラのリューは津山恵さんだったので儚げで美人に見えるから余計にカラフの最低男っぷりが際立つ。津山さんは美人だけど、多分本当のリューちゃんってのは、健気だけどあんまり美人じゃなかったので、カラフ君は恋人にする気になれなかったんじゃないかな、って、帰り道で女房に言ったら、「もしそうならカラフは本当にヒトデナシだ」とボロクソであった。

新国立劇場の一流の舞台も素晴らしかったんですけど、江東オペラの、ティアラこうとう全体を包み込む音の中に自分自身も溶けていくような多幸感は本当に最高でした。やっぱり音に包まれる時間っていうのは人間が生きていく上で必要不可欠な時間なんじゃないのかなぁ。配信では決して味わえない、ライブでないと感じられないこの大切な時間を、不要不急と切り捨ててほしくないんだよなぁ。