生かされているんだから一生懸命生きなきゃねぇ

今年も3月11日がやってきたんですが、3月11日ってのはうちの女房の誕生日なんですよね。女房は岩手出身ということもあって余計に、周りに気の毒がられることが多いらしいんだけど、「あっちが後からやってきたんだからしょうがないよねー」と言いながら、家族では毎年普通に誕生日をお祝いしております。今年は女房のリクエストで、夫婦して高尾山に登ってきました。ミシュラン三ツ星にふさわしい整備されたハイキングコースは、よくある観光地の軽薄さがなくて、人工と自然のバランスがたまらなくよい。お天気にも恵まれて、関東平野を見下ろしながらとろろそばを堪能いたしました。

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気分は最高

誕生日ってのは自分で選ぶわけにはいかないですし、家族の大事な記念日が悲しい事件に上書きされてしまう、なんてのは本当によくあることですよね。我々夫婦の結婚記念日の6月8日は、あの池田小学校事件発生の日で、記念日のお祝いを家族でしている時にテレビで事件のニュースが流れた時は、本当に暗澹たる気持ちになりました。でも、そもそも365日、何も起こらなかった日なんてのはないんだよね。最近購入した新車のカーナビ君は、毎朝エンジンをかけるたびに、その日が何の日か教えてくれるんだけど、毎回「そんな記念日があるのか」ってびっくりさせられます。ちなみに今日3月13日は青函トンネルの開業記念日だってカーナビ君が教えてくれたな。話が横道に進んでいるぞ。もとに戻そう。

911が誕生日の人もいれば、阪神淡路大震災の起きた1月17日が誕生日の人もいる。原爆が投下された8月6日や8月9日、東京大空襲の3月10日。沢山の命が失われた悲劇の日は一年365日の中に無数にある。世界中の誰一人死ななかった日、なんてのは存在しないわけで、結局、自分の今の幸せや命の後ろには、同じ時を分け合っているのに不幸のどん底にいる人たちや、その瞬間に失われていく命も必ずあるってことなんだよなぁ。

自粛警察みたいな正義をふりかざす人なんかは、そういう悲劇に心寄り添ってお祝い事なんかは自粛しろ、とか言いそうだけどさ。不幸な人や失われた命の想い大事にするなら、今生きている自分の人生をしっかり生きて、その幸せに感謝することこそ大事なんじゃないかなって思うんだよね。人間を生かすために犠牲になっている命に感謝するのが、食事の前の「いただきます」という言葉なんだっていう話がありますけど、全ての命が根源ではつながっていて、未来に向かって命をつなごうとして必死に生きているとするなら、同じ時間の悲しみにただ引きずられるのではなく、自分の幸せや生かされていることへの感謝の想いを持って精いっぱい幸福に生きようと努力するべきなんじゃないかなって思う。

3月11日は我々家族にとって無茶苦茶大切な日です。女房の誕生日という嬉しい日であり、岩手の友人知人たちに想いを寄せる大事な日であり、そして何より、失われた命を心に抱いて、今生きている自分たちの幸せに感謝する日。無駄に失われた命なんて一つもないんだからねぇ。