一期一会の「ライブ」でないとダメなんだよ

この日記、3月初めに更新してから全く更新する気が起こらず今日まで2か月放置してしまいました。放置した理由というのはご多聞に漏れず昨今のコロナ自粛で、この日記自体がライブや舞台の感想を中心に綴っていた日記だったから、書くことがなくなっちゃった、というのと、自分自身も多少なり関わっていたこの「ライブ」という存在自体が否定されているような最近の空気感に耐えられなくて、出口が見えない絶望感に何も書く気がなくなってしまった、というのが理由かなぁ。

どなたかがツイッターで、「ジェットコースターが好きな人がジェットコースターの動画見て満足できるわけない。『ライブ』も同じで、『ライブ』は『体験』なんだ」という投稿をされていて、激しく同感。これまでのこの日記で、「一期一会」という言葉でライブ空間を表現したことが何度もあったけど、その日、その時、その場所で、同じ空気を呼吸し、同じ温度を体感し、同じ音の波動を浴びた、という「経験」、一つの「場」を共有した、という体験こそが「ライブ」の醍醐味で、それを奪われた今の状況は、表現する側としても、ファンとして客席にいた側としても、本当に辛いです。

パフォーマー達もそれぞれに苦悩しながら試行錯誤をしていて、LIVE配信は至るところで行われているし、リモートアンサンブル動画、LINELIVE、インスタライブ、YouTube配信などなど、様々なネットツールを駆使して、自分たちの表現の場を確保しようとしている。その中から、実際にビジネスモデルとして生き残っていく表現手段も生まれてくるのかもしれない、とは思います。さくら学院の卒業生の山出愛子さんとか、インターネットサイン会(決まった時間帯にネット経由でグッズを購入した人にサイン入りグッズをお送りします、そのサインしている様子をライブ配信します、という企画)をやっていて、面白い企画だなぁ、って思った。何かというと東京に集中するこの手のイベントに地方から参加できる道を開いた感じですよね。

でもねぇ、やっぱり、ライブは「一期一会」だと思うんだ。表現する側にとっても醍醐味なのは、客席にいるお客様の反応を見ながら自分の表現が変化するコミュニケーションが生み出す興奮で、お客さまの笑い声や拍手のタイミング、もっと言えばお客様の息遣い一つでセリフも曲のテンポ感も変わってくる。お客様の方も自分の掛け声や拍手で演者が乗ってくる感じを楽しんでる。複数日公演なんかだと「今日のお客様は昨日のお客様よりノリがいいなぁ」なんて会話を演者の間でしょっちゅうする。それって要するに、ライブって演者とお客様が一体になって作るエンターテイメントで、ネットや電波を経由して一方的に提供される一方向のエンターテイメントじゃないってことなんだよね。

私も自分の過去の舞台をYou Tubeで配信したりし始めましたけど、それはあくまで、近い将来再開されるであろう実際のライブ舞台へお客様を誘うためのツール、と思ってやってます。過去のライブ舞台の記憶を呼び起こしてもらって、またあの空間を一緒に楽しみたいなぁ、と思ってもらうためのもの。誰かが、色んなライブ配信が増えているのを見て、「これで実際の舞台に行かなくてもいいや、と思われると困る」と言ってたけど、ライブってそんなに簡単に他のものにとって代われるものじゃないと思うんだよなぁ。その時にしか見られない演者の瞬間を共有できる喜びと、その場を共に作っていく興奮。

自分がBABYMETALやさくら学院の沼にハマったのも、このグループが「その時にしか見せない姿」を見せてくれるグループだからなんだよね。特にさくら学院なんか、毎年中学三年生の最上級生が卒業して、転入生が入ってくることで全く異なるグループになってしまう。その時その瞬間にしか、そのグループは存在しない。そうでありながら同じ「さくら学院」というグループであり続ける、テセウスの船みたいな存在である所に、ものすごく魅力があって、この春の「さくら学院」はこの春にしか見られないんです。来年の春にはこのグループは違うグループになってしまう。BABYMETALにもそういう儚さがあって、この儚さって、日本のアイドルグループが大なり小なり共有している性格で、日本のアイドル文化がここまで大きな産業になったのも、彼ら彼女らが燃やす「今」という瞬間を共有できる喜びが大きな原動力だと思う。

だからこそ、このコロナ禍で、「ライブ」という文化そのものが失われそうになっているのが悔しくて仕方ないんだよね。アイドルグループだけじゃない、五輪や甲子園、インターハイを目指していたスポーツマンもそうだけど、この災厄は、そういう若い人たちの「今しかない」この時間を一日一日奪い続けているんだよなぁ。

「ライブ」という表現が、かつてのような熱気と汗と呼吸を共有する熱い場に戻るまで、多分数年の時間を必要とするかもしれません。でも、少ない観客でもいい、その場、その空気をお客様と共にできる時間が戻ってくることを信じて、ライブを続けてきた人間として、今できる発信を続けていくしかないし、若い表現者のために、できるだけの応援をしてあげないと、って思います。諦めてたまるか。

ショウビジネスの歴史とカールマン作品

先日ガレリア座で上演したカールマンのオペレッタ「サーカスの女王」、すごくよく似た彼の代表作「チャルダッシュの女王」と同様、テーマになっているのが、いわゆる「芸人」と貴族の身分違いの恋。そこでふっと思ったんですが、「身分違いの恋」というのをテーマにしたオペラって、あの「椿姫」とかそれなりにあるけど、「芸人」という職業にスポットを当てた作品ってあんまり聞かないなぁ、と思ったんですね。「芸人」=身分が低い卑しい職業、というレッテルを越えて、真実の愛を貫こうする物語。さて、ここからは、例によって暴走気味の浅薄な衒学的文章が続きます。最初にお断りしておきますが、平に平にご容赦のほどを。

エメリッヒ・カールマン(1882年~1953年)は、その生没年を見ても、19世紀末から20世紀末の時代の混沌を、ハンガリー生まれのユダヤ人というマージナルな立場で生き抜いた方。それもあってか、彼の音楽は、故郷のハンガリーの民族色を色濃く残しながらも、作品によってウィーンやパリ、ロシアやアメリカの色を加える、という多国籍音楽の様相を呈していて、そういうグローバリズム、とりわけアメリカ音楽への傾倒、そしてユダヤ人という出自から、ナチスドイツ時代に「退廃音楽」のレッテルを貼られたりもした音楽家です。

逆に言えば、彼の音楽には、どこかしら「根無し草」のような無国籍感があって、それが彼を、故郷を持たず世界中を流浪する「旅芸人」という存在に結び付けたのかもな、なんて思ったりする。「チャールダッシュの女王」のヒロイン、シルヴァ、「サーカスの女王」の主人公、ミスターXことフェージャは、共にショウビジネスの世界に身を置いて世界を流浪する故郷を持たない(あるいは故郷を捨てた)存在で、そんな彼らへのシンパシーが、カールマン自身の「ハンガリー出身でウィーンで活躍するユダヤ人」という国境を越えたアイデンティティから生まれていたとしても不思議ではないと思います。

でもここでちょっと面白いなぁ、と思うのは、シルヴァにせよミスターXにせよ、「キャバレーの歌姫」「サーカス」というショウビジネスの世界に身を置いていて、これが当時の貴族社会から見ると、非常に「卑しい」職業として規定されていることなんだよね。「サーカスの女王」では明確に、元貴族だったフェージャが、貴族の地位を自ら捨てて「身を落とす」先として、「サーカス」が位置付けられている。カールマンの数々のオペレッタに共通する大きなテーマが、身分や国境、文化といった境界が時代と共に混然としていく中で、唯一信じられる人と人との真情、なのだけど、時代と共に破壊される「貴族」という旧来の価値に対比する「卑しい立場」の職業として、「歌姫」「サーカス芸人」というショウビジネスが対比されるところが面白いな、と。

ショウビジネスを「卑しい職業」として蔑視する見方というのは日本でもかつて存在していて、「河原乞食」という言葉が私の子供の頃まではまだ生きていた。土地に定住して一定の収入を得る百姓や武士の生き方を最も「真っ当な」生き方として定める士農工商の封建時代的職業道徳感は、「会社」という疑似的な「土地」から一定の収穫(給与)を得るサラリーマンの生き方を社会的に高い位置に押し上げ、そういった組織から収入を得ないショウビジネスを一段低い地位に置いたし、その感覚って、今でも多少なり現代日本の職業価値観に繋がっている気はする。ショウビジネス含めたソフト産業に社会の富が移行すると共に、ショウビジネスに関わる人たちの社会的地位が上昇してきて現在に至るわけだけど、カールマンの時代というのはそういう「ショウビジネスの地位向上」の端緒にあたっていた時代だったのかもなぁ、と。

一方で、サーカス芸人などの漂泊の民を、土地という束縛から逃れた自由な民として一種神聖化するような視点もある気がする。欧州の様々な芸術作品に現れる、ジプシーを聖的な存在として見る視点に共通する、漂泊民への畏怖のような視点。そういう視点って、例えばレイ・ブラッドベリが自らの作品の重要な道具立ての一つとして「サーカス」に執着したこととか、フェデリコ・フェリーニが「サーカス」というモチーフを生涯通して愛したことともつながる気がするんですよね。割と最近の映画である「Big」で、少年が大人になる謎の機械に出会う遊園地にも、現実世界と異なる「サーカス」に共通する存在感がある気がするし、「サーカス」の大人気キャラであるピエロが恐怖をあおるスティーブン・キングの「IT」や、最近大ヒットした映画「ジョーカー」も、「サーカス」というショウ自体の持つ非現実感とファンタジーが源泉になっている気はする。

こういう漂泊の民を、既定の制度の枠に囚われない自由な民として位置付けて日本史に別の視点を提供したのが網野義彦先生で、彼の歴史観に大きく影響されたのが、「花の慶次」の原作者の隆慶一郎さん、というのは割と知られた話なんだけど、さまざまな束縛から自由な漂泊の民を一種の聖なる民として畏敬の念を持って見る、というのは東西共通なのかもしれないですね。そう思って見ると、「サーカスの女王」という作品は、貴族であったフェージャがサーカスの芸人に「身を落とす」物語、というより、そこでいったん既定の価値観から自由になり、ただの「ヒト」として一人の女性を愛するようになる物語、とも言えて、ある意味一種の「貴種流離譚」とも言えるかもしれない。

もう一つ、「サーカス」の歴史とかを調べていて、これは面白いなぁ、と思ったのは、現在に続くいわゆる「近代サーカス」の原点って意外と最近で、1768年に英国で退役軍人のフィリップ・アストリーというひとが始めた円形劇場での曲馬ショウだったんですって。「サーカスの女王」の主人公のミスターXは、「ロンドンから来た」という触れ込みで、だから彼は「ミスターX」という英語の芸名を持っているのだけど、これってサーカスの本場である英国から来ました、という意味だったんだね。他の主要人物も、ウィーン娘なのに「イギリス人」と名乗っていたりする理由がやっと分かりました。

おお、やはり想像通り、全くオチのない思いつきだらだら並べただけの文章になってしまった。「サーカス」もそうですけど、ショウビジネスの歴史っていうのも掘り下げるとすごく面白いなぁ、と思うんですよね。私の関わっているオペレッタというのは、19世紀半ばにパリでオッフェンバックが始めたものですけど、その源流にはやはりパリで生まれたヴォードビルとかバーレスクがあるし、バーレスクは米国に渡ってストリップ入りのショウになり、またショウビジネスが一種の「猥雑さ」を身にまとう要因になったりする。こういうショウビジネスの進化樹をたどっていくのって面白いなぁって思うんです。

ありともりを尊ぶ

今回はさくら学院ネタです。興味のない方はここでご退出下さいませ。ヲタネタ多くてすみませんねぇ。

さくら学院の歴代のトーク委員長が本当に好きで、リアルタイムで見てなかったはずの初代杉崎寧々さんから、野津友那乃さん、白井沙樹さん、黒澤美澪奈さん(MC委員長)、岡田愛さん、麻生真彩さん、と、どの方をとってもいいなぁって思ってしまう。何がいいんだろうなって思うと、それぞれが抱えているコンプレックスや挫折感を乗り越えていこうとする姿にドラマ感じちゃう部分なんだよね。そういうドラマがある意味頂点に達したのが2018年度の麻生さんで、夢見ていた生徒会長になれなかった挫折感を抱えて、でもこの年度のエースとしてパフォーマンスを引っ張って数々の伝説を残したその姿に、これからも麻生さん推し父兄として生きていくことを誓ったのは私だけじゃなかったと思う。

そういう意味で言うと、2019年度のトーク委員長森萌々穂さん、という人には、当初、挫折感やコンプレックス、それを乗り越える葛藤、といったドラマを感じる余地が余りない第一印象があった。頭もよくて社交性もあり、パフォーマンスのレベルも高くて、リーダーシップもあるお姫様。確かに就任の時に、「森の乱」というドラマはあったんだけど、その後はある意味、敏腕トーク委員長として、2019年度の裏番として、今年度のさくら学院を引っ張る安定感のある存在だったのは確か。

でも、さくら学院という「ショウビジネスを目指す少女たちの成長を見せる」場所は、色んな機会をとらえて、一人一人のメンバーが抱えている葛藤や一筋縄ではいかない揺れ動く感情の裏面をちらちらと見せてくれる。freshの仕切りがうまくできなくて森さんが号泣した回が象徴的だったりしたのだけど、森さんのそつのなさとか、当意即妙の対応、ぶりっ子キャラといった彼女の持つスキルが、自分自身の中の弱さとか自信のなさを覆い隠して、外界と戦うための武器として機能しているように見える瞬間が結構あって、そういう瞬間を見るたびに、この人の魅力がどんどん増していった。森さんの一年間の、自分自身との闘いと、自分に向けられる外からの視線との闘い、という物語が、2019年度のさくらの中に沢山あった物語の中でも、一つの大きな魅力的なStoryだった気がするんです。

生放送やライブ舞台しか見ていないで、あまりメンバーの個人的な心理や性格を想像するのはよくないとは思うのだけど、森さんという人は意外と、表に見えているほど社交的な性格じゃなくて、実は人見知りで警戒心の強い所がある気がするんだよね。自分の心を開くのが苦手なんだけど、そういう心を鎧うためのそつのなさと社交性を演じる頭の良さも持っている、でも本当は凄く繊細で、傷つきやすい小動物のような本音がちらっと見える瞬間がある気がするんですよ。

そういうツンデレ感が見えてくると、もう森さんの姿から目が離せなくなってくる。外界との折り合いを必死につけているような緊張感が、外に向かって激しい攻撃的なパフォーマンスになって表れた時の、硬質で研ぎ澄まされた印象に心ぎゅっとつかまれる気がする。アオハル白書やLet's Danceの森さんのパフォーマンスには、なんだか痛々しさすら感じるくらいのヒリヒリする切迫感があって、この人の持つそういう緊張感が、2019年度のさくらのパフォーマンスを一つ違う次元に高めている気がするんです。

そんな森さんが、外界との戦いのパートナーに選んだのが、やっぱり同じように人見知りで引っ込み思案な有友さんだ、という所が、ありともりのコンビを神聖化する要因だったりするんだな。超絶美人で万能型のパフォーマーなのに、内向的で他人への気配りが強すぎて今一つ一歩前に出られない有友さん。そんな有友さんが前に出ていくための勇気を与えている森さんのパッションと、森さんの心の支えになっている有友さんの優しさが、この二人の人見知りさん達を他のコンビとは違うもっと深い絆で結んでいるように見えちゃうんだよね。

繰り返しになりますけど、ここに書いたことは、彼女達が我々父兄に見せる本当にわずかな表情や言葉だけで広げた妄想に過ぎません。ご本人たちが見たら、キモいドルヲタの戯言にしか見えないかもしれないんだけど、こういう妄想や勝手な物語がどんどん膨らんでしまうのが、このさくら学院というグループの魅力、というか魔力なんですよね・・・

Wagner Society Orchestra福岡公演に遠征してきました

世の中がコロナ騒動でカオスと化す前に、娘が所属している慶應ワグネル・ソサイエティ・オーケストラの演奏旅行が開始するという。京都、福岡、とめぐって、演奏旅行の締めくくりが、2月29日のサントリーホールでの演奏になる、というのだけど、

「その日はパパは無理だなぁ。翌日、合唱団のアンサンブルコンテストがあって、29日はその直前練習なんだよ」

「えー、せっかくメインに乗ることになったのにー。マーラー10番、聞いてほしい」

というやりとりの果てに、「じゃあ演奏旅行先の福岡に来なさい!」と言われて、お、それもいいな、と思い立ってしまいました。会社に有給を願い出て、1日半の福岡弾丸旅行。考えてみれば、こういう遠征旅行は、BABYMETALで大阪とか神戸に行った以来。推しゴトと一緒にするな、と言われそうだけど、まぁ娘ってのは父親にとってアイドルみたいなもんですからね。ということで行ってまいりました、2月19日のWagner Society Orchestra福岡公演の推しゴト。

でもその後のコロナ騒動で、2月29日のサントリーホールの演奏会は延期になり、私の合唱団のアンサンブルコンテストも出場辞退となって、この週末に至ります。そう考えると、この福岡でのマーラーを聴けたのはまずはラッキーでした。

行くのを決めたのが1か月ほど前だったんですが、最近って国内の飛行機チケット安いんですねぇ。1か月前くらいに予約すると、往復でも3万円台で福岡まで行けちゃう。そして中洲のカプセルホテルを予約したんだけど、これが3000円くらいで泊まれて、大浴場とか充実していてすごく快適。今後の推しゴトの参考になるなぁ、と思いながら予約。

実を言えば、福岡空港には仕事で結構立ち寄ることが多いんですが、福岡空港を経由して博多に出てしまうことがほとんどで、福岡市内を歩いたのはこれが初めて。コンサートのあるアクロス福岡 シンフォニーホールは、天神駅と直結している商業施設の中にあるホール。内装がとにかく美しくて、特にシャンデリアが、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場シャンパンシャンデリアそっくりのきらびやかさ。

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素敵なホールでした。

オーケストラの門外漢である自分が演奏について色々感想をいうのはおこがましいとは思うんですが、ウェーバー「魔弾の射手」序曲という鉄板の前奏から、リムスキー・コルサコフの「スペイン奇想曲」という前プログラムの2曲はとても気持ちよく聞けてよかったです。メインがなにせマーラーなので、初心者でも楽しめるものを、という選択だったのかもしれませんが、個人的にも、以前ガレリア座で全幕演奏をしたことのある「魔弾の射手」はなじみがありましたし、リムスキー・コルサコフも、一部「シェーラザード」そっくりの旋律が出てきたりして、軽やかでメロディックな素敵な曲だなぁ、と思いました。

ワグネルは日本のアマチュアオーケストラのトップクラスに入るオケなので、そういう曲の魅力や感動をしっかり伝えることができる技量のあるオケ、だと思います。演奏技術にムラがないわけではないけど、それでも楽曲の本質とか全体の流れをきちんと押さえた演奏を聞かせてくれる。

メインで演奏されたマーラーの10番は、ほとんど狂気と紙一重のような躁鬱状態マーラーが、自分の頭の中に鳴り響く音楽をスケッチに書きなぐっているような、混沌とした印象が強くて、「ちゃんと予習しておいてね!」と言われて事前に色んな録音聞いたり、解説読んだりしたんですけど、なんかピンとこなかった。でも、このワグネルの福岡の演奏では、特に第五楽章でなんか泣けてきちゃった。殉職消防士の葬送の太鼓の音、と言われる大太鼓の音が鳴り響いた後、長いフルートのソロ(絶品でした)にわし掴みにされた心の琴線を、これでもか、とばかりに何度もなぞっていく弦のさざ波のような響きが続く。安らかで平穏な境地を描いているようにも聞こえる甘美な響きなのだけど、いつまでも静かな安寧の境地にたどり着けない者の、平穏への希求の叫びや嘆きのようにも聞こえてくる。

コロナ騒動で色んなところでパニックになっていて、各種イベントや演奏会が次々中止になってます。まさに混沌と混乱。こんな状況下では、音楽には何の力もない、と言った人がいて、確かにその通りかも、とは思うんですけど、この演奏会のマーラー10番を聞いたことって、どこかで私の心の栄養になっている気がするんですよね。音楽って、危機を変える力は持たないかもしれないけど、でも、危機の中を生きようとする人の力や支えにはなるんじゃないのかなぁ。

演奏を聴いたあと、中洲の居酒屋で長浜ラーメンをいただきました。本場の長浜ラーメンって全然しつこくなくってあっさりしてるんですね。翌朝少し時間があったので、一度行ってみたかったガメラとギャオスの初戦場になった福岡ドームにも足を延ばしてみる。海辺にある地方都市って、やっぱり楽しいなぁ。

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美味しかった!

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一度来たかったんです。新しいビルが建っていて、ガメラの場所がなくなってた泣

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また行きます!

 

パフォーマンスにおける「笑い」あるいは「諧謔」のパワー

最近あんまりBABYMETALやさくら学院のことをこの日記に書いてなかったんですが、久しぶりに。最近の彼らのパフォーマンスを見てちょっと思ったことを。

先日のBABYMETAL幕張2Daysで、初めてライブ披露された「Oh! MAJINAI」と「BxMxC」が、欧米も巻き込んで無茶苦茶盛り上がっているみたいですね。前者はSABATONのボーカリスト Joakim Brodénが増殖してコサックダンスを踊るインパクトMAXの映像、後者は巨大なフォントの漢字がスクリーンに踊る映像をバックにすぅさんが聞かせるラップの完成度の高さが話題なんだけど、両者に共通するのは、なんだか笑えるユーモアあふれるパフォーマンスになっている所のような気がしています。

自分的には、以前のBABYMETALのパフォーマンスですごく好きだったのが、そこかしこに溢れるユーモアだったんですよ。TOKYO DOMEの冒頭に流れたシンゴジラのパロディ映像もそうだし、「ド・キ・ド・キ☆モーニング」「いいね!」「おねだり大作戦」みたいなユーモアとキュートさが前面に押し出された楽曲はもとより、代表曲の「イジメ、ダメ、ゼッタイ」や「ギミチョコ!」にしても、ゆいもあのスクリームパートに現れるちょっと笑えるフレーズが曲にキュートさを加えていて、それが逆に、曲の持っている真っ直ぐなメッセージを胸にじわっと届けてくれるような感覚があって、この人たちは確信的にこういうことをやってるな、と思ってたんです。

「笑い」あるいは「諧謔」というのは、既成概念や時代の束縛を破壊するパワーを持っていて、それは世紀末パリを席巻したオッフェンバックが自作のオペレッタで、当時の最高権力者であるナポレオン三世を徹底的に戯画化して笑い飛ばした頃から変わらない。既存勢力が目くじら立ててくれば、「だんな、洒落ですよ洒落。洒落が分からないとはだんなも無粋だねぇ」なんて笑いに紛らせてごまかしてしまう。でも、その笑いの裏にあるメッセージ性の強さや、音楽に対する真摯な姿勢や課題認識は、確実に既成概念を破壊し、次の時代を開く力になっていく。

BABYMETALがMETALの既成概念を突破した要因は沢山あると思うんですけど、その中の一つに、この「諧謔性」「ユーモア」、という要因もあったんじゃないかな、と思うんです。本気のMETALサウンドと、三姫のアイドル性をつなぐ接着剤としても、この「ユーモア」という要素はすごく重要な役割を果たしていた気がする。その「ユーモア」がちょっと後退してしまって、もっとシリアスな、未来へ前進する強い意思のようなものが前面に出てきていたのがDARK SIDE時代で、あの頃のパフォーマンスにはどこか、ユーモアや笑いが入り込む余裕がなくて、もっと切羽詰まった緊張感と、それが生み出すパワーに満ちていた気がします。「Elevater Girl」には若干そういう諧謔性が現れているんだけど、DARK SIDE時代にはこの楽曲も非常にパワフルな楽曲としてパフォーマンスされていた気がします。

METAL GALAXYが投下されて以降、その代表作になる「PA PA YA!!」あたりから、ちょっと以前のユーモアが垣間見えるようになってきて、それがある意味爆発したのが「Oh! MAJINAI」だった気がするんですよね。METAL GALAXY発表後のインタビューで、すぅさんが、「一番好きな曲は?」と聞かれていて「Oh! MAJINAI」と答えていて、この人はこの曲の破壊力と、この曲が持っているMETALとIDOLとユーモアのバランスの良さが分かってたのかなぁ、と思う。

そういう意味でも、Avengersシステムを取り入れた最近のBABYMETALのパフォーマンスには好感度が高いんですが、一方で、彼らの出身母体のさくら学院が、非常にロック色の強いカッコイイ楽曲に傾斜しつつあるのが面白いなぁって思って見ています。昔のさくら学院には、「賢くなれるシリーズ」という、中学校の授業内容を楽曲に仕立てたアイドルらしいキュートでユーモアあふれる楽曲があったのだけど、2016年度の「メロディック ソルフェージュ」を最後に、作られなくなってしまった。以降、2016年度の「アイデンティティ」、2017年度の「My Road」、2018年度の「Carry On」、そして2019年度の「アオハル白書」と、さくら学院の新曲は急速に彼女たちの世代の葛藤や時代を反映したメッセージ性の強いロックチューンが中心になってきている。2018年の「Fairy Tale」や、2019年の「Merry Xmas to You」のようなキュートな楽曲やラブソングもあるけれど、ユーモアやパロディ感覚のようなものはかなり後退してしまっている。特に2019年のさくら学院は、KANO-METALでもある藤平華乃さんのパワーあふれるキャラと、裏番ともいえるオピニョンリーダの森萌々穂さんのパッションに牽引されて、ライブのパフォーマンスも無茶苦茶カッコいいロックなパワーが溢れているんだよね。

ただ、個人的には、BABYMETALが「笑い」「諧謔」を取り戻してステージの魅力が多層化したみたいに、さくら学院にも、かつてのユーモアの要素も少し残しておいてほしい気はするんですけどね。「賢くなれるシリーズ」はどれも名曲が多かったし。2019年度のさくら学院のカッコよさには心底シビれるんだけど、「Wonderful Journey」や「ご機嫌!Mr.トロピカロリー」を復活させてくれたり、一種の「賢くなれるシリーズ」ともいえる美術部の「C'est la vie」が発表されたりした2018年度のテイストも、どこかで残しておいてほしいなぁ、なんて思います。

プロ級だよね、と言われるのもちょっと違う

昨日書いた「プロ」に関する文章について、FACEBOOK経由でコメントその他もらったりして、まぁそんなにこだわらなくてもいいし、あんまり言うとちょっと自慢たらしく聞こえるんじゃないの、というご意見もいただきました。まぁ実際その通りで、うちの女房も自分から「私はプロの歌手です」なんて言わないし、私が女房のことを「プロのオペラ歌手なんだよぉ」なんて人に言うのに、ちょっと身内自慢の要素が加わっていることも否定しません。

でもね、音楽業界そのものが、この「プロ」か「アマチュア」かというのをパフォーマーに突き付けてくる局面や、自己主張してくるケースも結構あるんですよ。具体的な例でいうと、私が以前受けたコンクールは、アマチュア部門とプロ部門に分かれていて、受験する時に、「私はアマチュアです」「私はプロです」と宣言しないと受験できない。私の受けたコンクールだけじゃなくて、他にもそんなコンクール一杯あります。

もう一つの例でいうと、以前ガレリア座日本初演したカールマンのオペレッタ「シカゴ大公令嬢」を、別の団体が上演した時に、『プロ日本初演!』という冠をつけて上演したことがあって、これもかなり違和感があったんです。そういう、「君はプロなの?」「僕はプロだよ」という宣言をしないといけない局面が、この業界だと結構ある気がするんですよね。

まぁそういう「プロ」とは何者か、という話は置いておいて、今日は、前回書いた、パフォーマンスの評価としての「プロ」という言葉について、ちょっと思うことを書きたいと思います。

ガレリア座を中心として色んな舞台に出演させてもらうと、時々すごく心優しいお客様から、「プロ並みだよね」「プロ級だよね」なんていうお褒めの言葉をもらうことがあります。それはそれで凄くありがたいお言葉なんだけど、自分のパフォーマンス、特に、「歌唱」という点については、やっぱり決定的に「自分はプロじゃないなぁ」と思うんだよね。

すごく抽象的な言い方になってしまうんだけど、歌を与えられた時に、そこから見える世界の幅が決定的に狭いよなぁ、という感覚なんです。そりゃあ大学の頃から歌い始めて、もう30年以上歌ってるわけですから、普通のヒトよりは歌う身体もできているし、楽譜を見て多少偉そうなことも言えます。でもね、決定的なのは、「歌を歌いたくてしょうがない」と思うかどうか、という点なんじゃないかなって。

昨日の記事に対して、FACEBOOK経由で、「プロフェッショナル~仕事の流儀~」の時計職人さんが語った、プロフェッショナルに関する言葉を紹介くださった方がいました。曰く、

「食える食えないは関係ない。生きるか死ぬかでもない。自分はどうしてもこれがしたい、これしかできない、だからこれをする。それが本物のプロであり自分の仕事に対する尊敬である。」

この言葉を見て、自分の中の違和感の理由が分かった気がしたんだな。私は歌が好きかもしれないけど、どうしても歌いたい、という所まで駆り立てられているか、といえばそうでもないんです。自分が本格的なオペラよりも、お芝居やキャラクターも合わせた総合力で勝負できるオペレッタ舞台が好きなのもそういう所で、単に歌を聞かせるだけじゃなくて、色んな他の要素を加えたパフォーマンスが好き。総合力で勝負、といえば聞こえはいいけれど、結局は、「歌」に真剣に向き合うことから逃げてるんですよ。

「プロの歌手」として自分自身を商品にしている人は、やっぱり「どうしても歌が歌いたい」「歌が楽しくて仕方ない」っていう感覚と、その感覚の中で自分の歌をさらに磨き、歌い続けるために自分の歌い手としての商品価値を高める努力を怠らない人だと思うんだよね。この舞台で中途半端な歌を歌ったら次がない、という危機感と覚悟を持ちながら一つ一つの舞台に向き合っている。そういう真剣勝負をしている「プロ」の人たちを身近に見ているし、自分がそこまで歌に対して本気で向き合っていないのも知ってるから、「プロ並みだよね」なんて言われると、違うよなぁ、って思っちゃう。

もちろん、舞台に立つからには、自分がプロかアマチュアか、ということは無関係に、お客様に対してできる自分の全力をぶつけるのがパフォーマーとしての礼儀だと思うし、必死にやります。その必死の姿勢やそこから得られる感動を評して、「プロ並みだよね」と言って下さるのはありがたいけど、でも自分は「歌」でプロ並みのパフォーマンスはできないし、そこまで「歌」に対して向き合う覚悟も姿勢もないなぁ、と。

卑下する気は全然なくて、「歌」以外の、演技とかナレーションとかについては、一流のプロには及ばないけど、そこそこお金を取れるレベルのパフォーマンスもできる自信はあるんです。じゃあその自信ってどこから来るの、と言われると、これも抽象的な言い方になっちゃうんだけど、セリフや演技プランを与えられた時に見える世界がすごく広くて楽しいってことなんだな。楽譜から見える世界よりもよっぽど世界が広がるし色んなアイデアも出てくるし、とにかく楽しい。一つ一つの舞台で色んな演技や構成を考えるのは大好きだし、いつもそういう妄想をしています。

でも歌はね・・・正直、そこまでのめりこめないんだなぁ。一つの歌に一生懸命取り組んで得られる高揚感も勿論理解できるし、経験もあるけど、「それがないと生きていけない」という所まで至ってない。そういう自分に対して、「プロ並みだね」と言われると、歌がないと生きていけない、と真摯に歌に向き合っている本当の「プロ」の人たちに対して、本当に申し訳ない気になってしまうんです。

もちろん、プロの中にも、舞台に対して全力で臨む姿勢がなかったり、びっくりするくらい歌に対して不真面目な「自称プロ」もいます。どんなに実力がなくても、お客様に対して自分の全力を届ける、というのがパフォーマーとしての礼儀。その礼儀を「プロであれ」という言葉で語る人もいるので、「プロ」という言葉って本当に多面性を持っているなぁ、とは思う。

あまりまとまらなかったのだけど、最後に、私がパフォーマーとして尊敬している中元すず香さん(BABYMETALのボーカリストSU-METALさん)が、アイドル時代に言った言葉をちょっとアレンジして載せておきます。最後はベビメタかよ、と言われそうだけど、パフォーマーとして、舞台のプロとしての基本姿勢みたいなものが語られている気がして。

「自分たちがどれだけ恵まれた環境の中で歌って踊れているか・・・(中略)・・・最高の笑顔をステージで見せること、精いっぱいの歌とダンスを見てもらうこと、一つ一つの音楽に対する向き合い方を一人一人が意識すること・・・」

舞台人として当たり前のことかもしれないけど、これをちゃんとやるのは本当に難しいこと。一つ一つの舞台に対してこの姿勢を保ちながら、「歌がないと生きていけない」という覚悟と強い思いを持っている「プロの歌い手」に対して、アマチュアの歌い手として、敬意と尊敬を忘れないようにしたいといつも思います。

プロと名乗るために必要なこと

うちの女房は、編集の仕事をしながら演奏活動をしているんですが、人に聞かれたら、「うちの女房はプロのオペラ歌手です」と答えるようにしています。そしたら先日、ある人から、「プロを名乗るということは、オペラ歌手という仕事で生活できているのか」と聞かれたんですね。

「それだけで生活している、とは言えないなぁ。」
「それじゃプロとは言えんだろう。プロと言うからには、それで生活できなきゃいかんだろう。」
「そんなこと言ったら、プロの演奏家と言える人はいないと思うよ。」
「NHK交響楽団の演奏者でもか?」
「あの人たちだって、演奏活動だけで生活はしてないよ。どこかの学校の先生をやったり、生徒さんをとって生活しているんだよ。」
「それはプロと言っていいだろう。」

この人の定義する「プロの表現者」というのは、その表現スキルによるパフォーマンス自体の対価と、その表現スキルを材料として講演をしたり先生をしたりする、いわば「切り売り」をすることによる対価によって生活を支えることができて初めて、「プロの表現者」と言える、という定義なんだな、と理解して、確かにそういう定義で「プロ」という言葉をとらえている人って多い気がしたんですね。でもすごくもやもやした。今日はそのもやもやについてちょっと書きたいと思います。長くなるかもしれないので、1回では終わらないかもしれない。

上記のように、「自分の持つ表現スキルを材料としたパフォーマンスの対価と、その表現スキルの切り売りから得る対価で生活できていること」を「プロ」の定義とするなら、創作活動のなかで赤貧にあえいだ明治・大正・昭和の文人のほとんどはプロとは言えないですよね。太宰治だって、芥川龍之介だって、小説だけで生活はできなかったわけだから、プロとは言えない。ドストエフスキーだってそう。なので、上記のように「プロ」を定義する人は、彼らを、「プロ」になりたくてあがきながら結局「プロ」になれずに挫折した「アマチュア作家」、としてとらえることになる。

そういう観点で見れば、演奏活動とそのスキルを切り売りすることで生活している演奏家、つまり、「プロ」と名乗ることができる演奏家って、音楽業界ではそんなに多くないと思うんです。大多数の人たちは、別の生活手段を確保した上で演奏活動をしている。英語教師をしながら小説を書いていた芥川龍之介と同じで、そういう人は「プロ」を名乗っちゃいけない。全員、「アマチュア」。

でもねぇ、なんかすごくもやもやするんだよね。そこまで「プロ」と名乗ることのハードル高くすることに意味があるのかなぁ。確かに、演奏活動と教育活動だけで生活できる演奏家はすごいし、そこまで行ける人って本当に一握りだと思うけど、そういう一握りにならないと「プロ」とはいえない、その他はみんな「アマチュア」だ、と言われると、ちょっと違う気がするんだよねぇ。

私とかが思う「プロ」の定義はもっと低くて、その人が自分のパフォーマンスを無償で提供しているのか、それとも有償で提供しているのか、という点に尽きる気がするんですよ。芥川にせよ、太宰にせよ、原稿を書けば誰かが買ってくれたわけで、その時点で、「俺はプロだ」と言えたと思うんですね。何かしらの表現(舞台や演奏会や雑誌など)を企画する人がいて、その人が、「あなたのパフォーマンスがこの企画に必要だから、対価を払うので是非参加してください」と言うかどうか。もっと簡単な言い方をすれば、オファーをいただいて有償でそれに応じた時点で、プロ、と言えるのじゃないか、と思うんです。

そういう意味で言えば、うちの女房は今完全に「プロ」として活動していて、オファーをいただいて、ギャラをもらって企画に参加している。でもそこに非常に微妙なグレーゾーンがあって、表現者がいつも悩んでいる、というのもよく聞く話なので、「プロ」って面倒臭い単語だなぁ、とも思うんです。

例えば、私が参加しているガレリア座の活動を称して、「あれはプロ活動だ」という人がいるんです。でもね、私はガレリア座からオファーをもらっても、そこから対価はもらってません。逆に参加費を払ってます。だから、私はあくまでアマチュアとしてガレリア座に参加している。でも、ガレリア座を「プロ」と呼ぶ人は、「だってチケットは有料でしょ」とおっしゃる。「お客様からお金もらっている以上、プロでしょう」と。

これもまた、「プロ」のハードルを別のところで上げている気がするんだね。チケット代が有料ならプロなのかよ、といわれたら、うちの娘がやっている大学オーケストラとか、チケットは有料です。じゃあ彼らはプロなのか?チケット無料の演奏会やっている学生オケはアマチュアで、有料で売った途端にプロになるの?

そこが、私が上述した、「その企画の主宰者(プロデューサー)から対価をもらっていますか?」というのが「プロ」を名乗る基準だ、という定義に繋がってくるので、その企画自体が無料か有料かは問わないんですね。チャリティコンサートとかであれば別ですけど、「身内の演奏会で無料でチケット配るので、ギャラなしでちょっと来て歌ってくれない?」なんて言われると、ちょっと待てよ、と言うのがプロ。いいよ、というのがアマチュア

時々、イラストレーターさんなんかが不満言ってるのが聞こえてくることがあって、「友達の結婚式でイラスト書いてくれって言われたんだけど、タダでやらんといかんのかなぁ」なんて話。知り合いのデザイナーさんとかに、「ささっと描いてくれないかな」なんて気軽に頼むのが本当にいいのかどうか、本当はすごく気を使わないといけない。

知り合いの知り合いで、ずっと、「私はプロのライターです」と言い続けてた人がいるんだって。だから絶対に自分の文章をタダで提供しない。私はプロです、と言い続けているうちに、本当にその人に取材を任せてくれる出版社が出てきて、ちゃんとお金を稼いで生活できるようになった。もしそういう人が、「お前は自分のスキルで生活できてないんだからアマチュアだ。アマチュアの癖に、自分のスキルに対価を求めるな」なんて言われたら、それって本末転倒になっちゃうよね。誰だって最初は自分のスキルだけで生活できるわけはない。少しずつ自分のパフォーマンスにお金を払ってくれる人が出てきて、それが積み重なって生活できる所まで積みあがっていく。完全に積みあがってから、「やっとオレもプロと言える」と胸を張るのもいいけど、最初から、「オレのパフォーマンスには金を払ってもらわないといけない、なぜならオレはプロだから」という矜持を持たないと「それで生活できる」所まで到達できない。そしてそういい続けることで、実際にお金を払ってくれるプロデューサが出てきたら、胸を張って、「私はプロです」と言えるようになる。「プロ」を名乗るために大事なのは、自分のスキルは有償です、と自分のスキルを安く売らないことと、それを支える実績(実際に買ってくれる人がいる、という事実)なんじゃないのかな、って思う。

やっぱり一回では終わらなかったですね。「プロ」と言う言葉には、パフォーマンスの質自体を評価するニュアンス(例:あの人はプロ並み)もあって、実はそこにも若干もやっとしたものを感じていたりする。次に機会があったら、そのことについても触れたいと思います。