プロと名乗るために必要なこと

うちの女房は、編集の仕事をしながら演奏活動をしているんですが、人に聞かれたら、「うちの女房はプロのオペラ歌手です」と答えるようにしています。そしたら先日、ある人から、「プロを名乗るということは、オペラ歌手という仕事で生活できているのか」と聞かれたんですね。

「それだけで生活している、とは言えないなぁ。」
「それじゃプロとは言えんだろう。プロと言うからには、それで生活できなきゃいかんだろう。」
「そんなこと言ったら、プロの演奏家と言える人はいないと思うよ。」
「NHK交響楽団の演奏者でもか?」
「あの人たちだって、演奏活動だけで生活はしてないよ。どこかの学校の先生をやったり、生徒さんをとって生活しているんだよ。」
「それはプロと言っていいだろう。」

この人の定義する「プロの表現者」というのは、その表現スキルによるパフォーマンス自体の対価と、その表現スキルを材料として講演をしたり先生をしたりする、いわば「切り売り」をすることによる対価によって生活を支えることができて初めて、「プロの表現者」と言える、という定義なんだな、と理解して、確かにそういう定義で「プロ」という言葉をとらえている人って多い気がしたんですね。でもすごくもやもやした。今日はそのもやもやについてちょっと書きたいと思います。長くなるかもしれないので、1回では終わらないかもしれない。

上記のように、「自分の持つ表現スキルを材料としたパフォーマンスの対価と、その表現スキルの切り売りから得る対価で生活できていること」を「プロ」の定義とするなら、創作活動のなかで赤貧にあえいだ明治・大正・昭和の文人のほとんどはプロとは言えないですよね。太宰治だって、芥川龍之介だって、小説だけで生活はできなかったわけだから、プロとは言えない。ドストエフスキーだってそう。なので、上記のように「プロ」を定義する人は、彼らを、「プロ」になりたくてあがきながら結局「プロ」になれずに挫折した「アマチュア作家」、としてとらえることになる。

そういう観点で見れば、演奏活動とそのスキルを切り売りすることで生活している演奏家、つまり、「プロ」と名乗ることができる演奏家って、音楽業界ではそんなに多くないと思うんです。大多数の人たちは、別の生活手段を確保した上で演奏活動をしている。英語教師をしながら小説を書いていた芥川龍之介と同じで、そういう人は「プロ」を名乗っちゃいけない。全員、「アマチュア」。

でもねぇ、なんかすごくもやもやするんだよね。そこまで「プロ」と名乗ることのハードル高くすることに意味があるのかなぁ。確かに、演奏活動と教育活動だけで生活できる演奏家はすごいし、そこまで行ける人って本当に一握りだと思うけど、そういう一握りにならないと「プロ」とはいえない、その他はみんな「アマチュア」だ、と言われると、ちょっと違う気がするんだよねぇ。

私とかが思う「プロ」の定義はもっと低くて、その人が自分のパフォーマンスを無償で提供しているのか、それとも有償で提供しているのか、という点に尽きる気がするんですよ。芥川にせよ、太宰にせよ、原稿を書けば誰かが買ってくれたわけで、その時点で、「俺はプロだ」と言えたと思うんですね。何かしらの表現(舞台や演奏会や雑誌など)を企画する人がいて、その人が、「あなたのパフォーマンスがこの企画に必要だから、対価を払うので是非参加してください」と言うかどうか。もっと簡単な言い方をすれば、オファーをいただいて有償でそれに応じた時点で、プロ、と言えるのじゃないか、と思うんです。

そういう意味で言えば、うちの女房は今完全に「プロ」として活動していて、オファーをいただいて、ギャラをもらって企画に参加している。でもそこに非常に微妙なグレーゾーンがあって、表現者がいつも悩んでいる、というのもよく聞く話なので、「プロ」って面倒臭い単語だなぁ、とも思うんです。

例えば、私が参加しているガレリア座の活動を称して、「あれはプロ活動だ」という人がいるんです。でもね、私はガレリア座からオファーをもらっても、そこから対価はもらってません。逆に参加費を払ってます。だから、私はあくまでアマチュアとしてガレリア座に参加している。でも、ガレリア座を「プロ」と呼ぶ人は、「だってチケットは有料でしょ」とおっしゃる。「お客様からお金もらっている以上、プロでしょう」と。

これもまた、「プロ」のハードルを別のところで上げている気がするんだね。チケット代が有料ならプロなのかよ、といわれたら、うちの娘がやっている大学オーケストラとか、チケットは有料です。じゃあ彼らはプロなのか?チケット無料の演奏会やっている学生オケはアマチュアで、有料で売った途端にプロになるの?

そこが、私が上述した、「その企画の主宰者(プロデューサー)から対価をもらっていますか?」というのが「プロ」を名乗る基準だ、という定義に繋がってくるので、その企画自体が無料か有料かは問わないんですね。チャリティコンサートとかであれば別ですけど、「身内の演奏会で無料でチケット配るので、ギャラなしでちょっと来て歌ってくれない?」なんて言われると、ちょっと待てよ、と言うのがプロ。いいよ、というのがアマチュア

時々、イラストレーターさんなんかが不満言ってるのが聞こえてくることがあって、「友達の結婚式でイラスト書いてくれって言われたんだけど、タダでやらんといかんのかなぁ」なんて話。知り合いのデザイナーさんとかに、「ささっと描いてくれないかな」なんて気軽に頼むのが本当にいいのかどうか、本当はすごく気を使わないといけない。

知り合いの知り合いで、ずっと、「私はプロのライターです」と言い続けてた人がいるんだって。だから絶対に自分の文章をタダで提供しない。私はプロです、と言い続けているうちに、本当にその人に取材を任せてくれる出版社が出てきて、ちゃんとお金を稼いで生活できるようになった。もしそういう人が、「お前は自分のスキルで生活できてないんだからアマチュアだ。アマチュアの癖に、自分のスキルに対価を求めるな」なんて言われたら、それって本末転倒になっちゃうよね。誰だって最初は自分のスキルだけで生活できるわけはない。少しずつ自分のパフォーマンスにお金を払ってくれる人が出てきて、それが積み重なって生活できる所まで積みあがっていく。完全に積みあがってから、「やっとオレもプロと言える」と胸を張るのもいいけど、最初から、「オレのパフォーマンスには金を払ってもらわないといけない、なぜならオレはプロだから」という矜持を持たないと「それで生活できる」所まで到達できない。そしてそういい続けることで、実際にお金を払ってくれるプロデューサが出てきたら、胸を張って、「私はプロです」と言えるようになる。「プロ」を名乗るために大事なのは、自分のスキルは有償です、と自分のスキルを安く売らないことと、それを支える実績(実際に買ってくれる人がいる、という事実)なんじゃないのかな、って思う。

やっぱり一回では終わらなかったですね。「プロ」と言う言葉には、パフォーマンスの質自体を評価するニュアンス(例:あの人はプロ並み)もあって、実はそこにも若干もやっとしたものを感じていたりする。次に機会があったら、そのことについても触れたいと思います。