先日ガレリア座で上演したカールマンのオペレッタ「サーカスの女王」、すごくよく似た彼の代表作「チャルダッシュの女王」と同様、テーマになっているのが、いわゆる「芸人」と貴族の身分違いの恋。そこでふっと思ったんですが、「身分違いの恋」というのをテーマにしたオペラって、あの「椿姫」とかそれなりにあるけど、「芸人」という職業にスポットを当てた作品ってあんまり聞かないなぁ、と思ったんですね。「芸人」=身分が低い卑しい職業、というレッテルを越えて、真実の愛を貫こうする物語。さて、ここからは、例によって暴走気味の浅薄な衒学的文章が続きます。最初にお断りしておきますが、平に平にご容赦のほどを。
エメリッヒ・カールマン(1882年~1953年)は、その生没年を見ても、19世紀末から20世紀末の時代の混沌を、ハンガリー生まれのユダヤ人というマージナルな立場で生き抜いた方。それもあってか、彼の音楽は、故郷のハンガリーの民族色を色濃く残しながらも、作品によってウィーンやパリ、ロシアやアメリカの色を加える、という多国籍音楽の様相を呈していて、そういうグローバリズム、とりわけアメリカ音楽への傾倒、そしてユダヤ人という出自から、ナチスドイツ時代に「退廃音楽」のレッテルを貼られたりもした音楽家です。
逆に言えば、彼の音楽には、どこかしら「根無し草」のような無国籍感があって、それが彼を、故郷を持たず世界中を流浪する「旅芸人」という存在に結び付けたのかもな、なんて思ったりする。「チャールダッシュの女王」のヒロイン、シルヴァ、「サーカスの女王」の主人公、ミスターXことフェージャは、共にショウビジネスの世界に身を置いて世界を流浪する故郷を持たない(あるいは故郷を捨てた)存在で、そんな彼らへのシンパシーが、カールマン自身の「ハンガリー出身でウィーンで活躍するユダヤ人」という国境を越えたアイデンティティから生まれていたとしても不思議ではないと思います。
でもここでちょっと面白いなぁ、と思うのは、シルヴァにせよミスターXにせよ、「キャバレーの歌姫」「サーカス」というショウビジネスの世界に身を置いていて、これが当時の貴族社会から見ると、非常に「卑しい」職業として規定されていることなんだよね。「サーカスの女王」では明確に、元貴族だったフェージャが、貴族の地位を自ら捨てて「身を落とす」先として、「サーカス」が位置付けられている。カールマンの数々のオペレッタに共通する大きなテーマが、身分や国境、文化といった境界が時代と共に混然としていく中で、唯一信じられる人と人との真情、なのだけど、時代と共に破壊される「貴族」という旧来の価値に対比する「卑しい立場」の職業として、「歌姫」「サーカス芸人」というショウビジネスが対比されるところが面白いな、と。
ショウビジネスを「卑しい職業」として蔑視する見方というのは日本でもかつて存在していて、「河原乞食」という言葉が私の子供の頃まではまだ生きていた。土地に定住して一定の収入を得る百姓や武士の生き方を最も「真っ当な」生き方として定める士農工商の封建時代的職業道徳感は、「会社」という疑似的な「土地」から一定の収穫(給与)を得るサラリーマンの生き方を社会的に高い位置に押し上げ、そういった組織から収入を得ないショウビジネスを一段低い地位に置いたし、その感覚って、今でも多少なり現代日本の職業価値観に繋がっている気はする。ショウビジネス含めたソフト産業に社会の富が移行すると共に、ショウビジネスに関わる人たちの社会的地位が上昇してきて現在に至るわけだけど、カールマンの時代というのはそういう「ショウビジネスの地位向上」の端緒にあたっていた時代だったのかもなぁ、と。
一方で、サーカス芸人などの漂泊の民を、土地という束縛から逃れた自由な民として一種神聖化するような視点もある気がする。欧州の様々な芸術作品に現れる、ジプシーを聖的な存在として見る視点に共通する、漂泊民への畏怖のような視点。そういう視点って、例えばレイ・ブラッドベリが自らの作品の重要な道具立ての一つとして「サーカス」に執着したこととか、フェデリコ・フェリーニが「サーカス」というモチーフを生涯通して愛したことともつながる気がするんですよね。割と最近の映画である「Big」で、少年が大人になる謎の機械に出会う遊園地にも、現実世界と異なる「サーカス」に共通する存在感がある気がするし、「サーカス」の大人気キャラであるピエロが恐怖をあおるスティーブン・キングの「IT」や、最近大ヒットした映画「ジョーカー」も、「サーカス」というショウ自体の持つ非現実感とファンタジーが源泉になっている気はする。
こういう漂泊の民を、既定の制度の枠に囚われない自由な民として位置付けて日本史に別の視点を提供したのが網野義彦先生で、彼の歴史観に大きく影響されたのが、「花の慶次」の原作者の隆慶一郎さん、というのは割と知られた話なんだけど、さまざまな束縛から自由な漂泊の民を一種の聖なる民として畏敬の念を持って見る、というのは東西共通なのかもしれないですね。そう思って見ると、「サーカスの女王」という作品は、貴族であったフェージャがサーカスの芸人に「身を落とす」物語、というより、そこでいったん既定の価値観から自由になり、ただの「ヒト」として一人の女性を愛するようになる物語、とも言えて、ある意味一種の「貴種流離譚」とも言えるかもしれない。
もう一つ、「サーカス」の歴史とかを調べていて、これは面白いなぁ、と思ったのは、現在に続くいわゆる「近代サーカス」の原点って意外と最近で、1768年に英国で退役軍人のフィリップ・アストリーというひとが始めた円形劇場での曲馬ショウだったんですって。「サーカスの女王」の主人公のミスターXは、「ロンドンから来た」という触れ込みで、だから彼は「ミスターX」という英語の芸名を持っているのだけど、これってサーカスの本場である英国から来ました、という意味だったんだね。他の主要人物も、ウィーン娘なのに「イギリス人」と名乗っていたりする理由がやっと分かりました。
おお、やはり想像通り、全くオチのない思いつきだらだら並べただけの文章になってしまった。「サーカス」もそうですけど、ショウビジネスの歴史っていうのも掘り下げるとすごく面白いなぁ、と思うんですよね。私の関わっているオペレッタというのは、19世紀半ばにパリでオッフェンバックが始めたものですけど、その源流にはやはりパリで生まれたヴォードビルとかバーレスクがあるし、バーレスクは米国に渡ってストリップ入りのショウになり、またショウビジネスが一種の「猥雑さ」を身にまとう要因になったりする。こういうショウビジネスの進化樹をたどっていくのって面白いなぁって思うんです。