新谷ゆづみさんに消されるかと思いました。

本日、赤坂Blitzで開催された、さくら学院の「Road to Graduation Happy Valentine」、夜公演に参戦してきました。今日はその感想を書こうと思うんだけど、なんか夢でも見ていたみたいで現実感がないわ~。だってね、2メートルと離れてないところで生徒さんたちが全力の笑顔で踊ってるんだよ。アイコンタクトとって微笑んでくれたりするんだよ。新谷ゆづみさんと一瞬目が合って、多分お客様と目が合ったらすぐ視線を外しちゃダメだよって教わってるんだろうけどさ。あの潤んだ目でしばらく見つめられただけで、汚れたおじさんはもう消えてしまいたくなりました。マジ天使。

 

さくら学院の現場で今まで参戦したのは、ライブヴューイングと公開授業だけで、本当のライブに参戦したのは今回が初めて。なのになんとなんと最前列をゲットしてしまったのですよ。汚れたおじさんはもう、ごめんなさい、としか言えないよねぇ。なんか、先日の公開授業も三時限とも良席だったし、2018年度とは何か縁があるに違いない。先日偶然図書館で借りた本も、原題を確認したらFairytale だったしなぁ。全然関係ないな。舞い上がってるから許してちょうだいよ。


最前列ってのは、全体のフォーメーションとかは今ひとつ把握できなかったりするけど、とにかく一人一人の表情がすごくよく見えて、それぞれの表現に対するスタイルのようなものが見えて面白いなぁ、と思いました。今回新たな発見だったのは、森萌々穂さんと野中ここなさん。二人とも、とにかく曲の中で自分なりの物語を演じている空気感というか、こう演じるぞ、という積極性が素晴らしいんです。この曲のこの歌詞ではこういう表情、という演技プランがすごく明確で、森さんの見せる時折ハッとするような切ない表情や、野中さんのクルクル変化する豊かな表情が素晴らしかった。それが一番濃厚に出たのが、森さんが参加したWinkのカヴァー曲、「淋しい熱帯魚」で、森さんの憂いを帯びた表情と繊細なダンスに時折胸がグイッと掴まれるような感覚がありました。

 

藤平華乃さんのキレ(思わず目が行ってしまう)、吉田爽葉香さんの佇まいの美しさ(ランウェイは圧倒的な存在感!)有友つぐみさんの清潔感溢れる色気(あのヘアスタイルが最高)、白鳥沙南さんのパッと周りが華やかになる空気感、田中美空さんの爽やかな美しさ、そして八木美樹さんの癒しオーラと、野崎結愛さんのプロっぷり(ラストの約束の未来で、途中でスカートのホックが外れてしまったのを、冷静にしっかり付け直して、最後までセンターを踊りきった見事さは、菊池プロの再臨かと思った)。そして何より一人一人が、それぞれの個性を全部客席に届けようとするプロ意識がすごい。どのメンバーもそれぞれにキラキラしていて、本当に元気をもらえたんだけど、やっぱり中三の3人のアンサンブルと気迫と、表現者としての完成度の高さには圧倒されました。日高麻鈴という人は歌唱力の人だと思っていたのだけど、ダンスのキレの良さは素晴らしいし、新谷ゆづみさんは一つ一つのパフォーマンスに対する誠実さと、何よりどこかしら古風な美少女の空気感を持っていて、天使感が半端ない。繰り返すけど、マジあの視線に導かれてこのまま天国に行くと思いました。


そして麻生真彩さん。やっぱりね、汚れたおじさんは、あなたをずっと見ていたいと思ったよ。影ナレーションのお客様との阿吽のキャッチボール、MCの見事な仕切り、そういうトーク委員長としての爪痕はもちろんだけど、図抜けた声量と情感溢れる美声、力強いダンス。パフォーマンス中に、舞台上の演者も客席も全部全部巻き込んで笑顔を広げていく求心力とカリスマ性。どんな小さな舞台でもいい、ずっと表現することをやめないでほしい。あなたの笑顔に救われる人が必ずいるから。


冒頭の「My Graduation toss」と、 最後の「Carry on」では、みんなの思いが迫ってきて涙が出ました。なんか、明日からおじさんも顔笑ろうって思った。12人の天使の皆さん、本当に素晴らしいパフォーマンスをありがとう。そして職員室の皆さん、この学院をずっと続けていこうという皆さんの苦労や覚悟が、一つ一つの舞台をこれだけ輝かせるんだと思います。これからもこの天使たちを輝かせてあげてくださいね。

東京室内歌劇場の歩み Part.6 ~いっぱい盗みたい!~

今日は昨日お邪魔した、渋谷伝承ホールで開催された「東京室内歌劇場の歩み Part.6」の感想文です。なんだか、いっぱいヒントをもらえた素敵な演奏会でした。

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プログラム。青島先生直筆の作曲家のイラストとそのコメントがなんとも青島先生らしくて笑

最近、女房がお世話になるようになってから、すっかりおなじみになってしまった東京室内歌劇場ですけど、それまではその活動をよく存じ上げていませんでした。記憶や記録をたどると、初めてこの団体の舞台を拝見したのは、ガレリア座でもお世話になっていた近藤政伸先生が出演された、1997年上演の「ポッペアの戴冠」。次に認識したのは、NHKBS放送でも放送された、2002年に新国立劇場の中劇場で上演された、コクトー二本立て、プーランクの「声」とミヨーの「哀れな水夫」。コクトー二本立ても、なかなか日本で上演される機会のない演目ですし、「ポッペアの戴冠」に至っては、市川右近さんが演出し、ローマ時代の愛憎劇を歌舞伎に置きなおした舞台。それだけでもとても「とんがった」演目に挑戦する団体だなぁ、と思いますけど、今回の演奏会で、本当にこの団体でしか見ることができない、実験的で挑戦的な作品を上演し続けてきたんだなぁ、と実感。

 

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プログラムに掲載されていたこの時期の上演作品。ああ、なんだかどれもこれも見てみたいなぁ。

そして、今回取り上げられた作品はどれも、メジャーなオペラ作品とは言い難いながら、本当に「佳作」という単語がぴったりくる作品ばかりなんです。「白秋旅情」はどちらかというと前奏的な位置づけだったような気がしますが、林光先生の「白いけものの伝説」の、シンプルなのに神秘的な深い響きが美しい後半の二重唱。青島先生の「黄金の国」のラスト、合唱の中に「のろ作」のアリアが突き通ってくる時の鳥肌が立つようなカタルシス。青島先生が何度も、「これはモーツァルトの失敗作なんです」と繰り返していた「カイロの鵞鳥」の、モーツァルト節、ともいえる、ソロから重唱と声部が増えていく陶酔感。どこか「ヘンゼルとグレーテル」を彷彿とさせるファンタジー「クリスマスの妖精」の多幸感。「ああ、世の中には自分の知らない素敵なオペラがいっぱいあるんだなぁ」という思いで、なんだか嬉しくなってしまう。

極めつけが、最後に上演された、「シュフルーリさんのコンサート」。オッフェンバックという作曲家は、ガレリア座その他で散々取り上げているので、なじみ、という以上の親近感を感じていて、彼が大量に書いたと言われている一幕もののオペレッタを一つでも多く見てみたいし、できるものなら自分でも歌ってみたいと思っているんです。女房が東京室内歌劇場にご縁をいただいたのも、オッフェンバックの一幕もの、「市場のかみさんたち」でしたし、自分が出場したオペレッタコンクールで歌ったのも、ネットで見つけてきた、「ブラバントのジュヌヴィエーヴ」という一幕もののオペラのアリアでした。それくらい愛着のあるオッフェンバックの作品、演奏された一部分だけを聞いてみても、自分が歌ったマイアベーアの「悪魔のロベール」の旋律がそのまま出てくるわ、どう聞いてもヴェルディのジャンジャカジャン伴奏に合わせた三重唱が始まったと思ったら、バスが「呪うぞ!」と叫ぶのは「リゴレット」だし、いきなりドニゼッティの「ランメルモールのルチア」のソプラノとフルートの掛け合いをソプラノとテノールが二重唱でやりだすわ、本当にやりたい放題。そして全編パロディであるにも関わらず、本家を換骨奪胎して現れてくるオッフェンバックメロディのなんて悪魔的に美しいことよ。この演目、全編見たいなぁ。やってくれないかなぁ。

オッフェンバックも含め、どの演目も難曲ばかりで、歌い切った演者の皆さんは本当に素晴らしいと思いました。自分がバリトンなので、やっぱり注目してしまう同じバリトン歌手、福山出さん、古澤利人さん、山田大智さんの歌唱の完成度に感動しましたけど、一番カッコイイなぁ、と思ったのは、「のろ作」を歌われたテノールの相山潤平さん。せんがわ劇場の「天国と地獄」でもオルフェウスを歌ってらっしゃいましたけど、表現の幅が本当に広いのに、声の打点が全くぶれない感じがすごい。

でも、今回の演奏会で一番印象深かったのは、実は青島先生のMCでした。当然のように台本なんぞ持たず、しゃべることは全部頭に入っているのに淀みなく、青島先生らしいユーモアたっぷりの語り口で客席は大ウケ。毒舌キャラらしいシニカルなコメントもいっぱい出てくるんだけど、それが決して嫌味な臭いがしないのは、お客様を楽しませよう、という心遣いと、出演者に対する行き届いた目配り気配りがベースにあるから。出演者の表現を先生がさりげなくサポートして補うような場面もあり、演奏会の満足度をどうやって上げるか、ということをものすごく細やかに気遣ってらっしゃるんだなぁ、と感心しました。まさにMC(Master of Ceremony)の鑑。

自分も演奏会のMCをやったりするので、そういう意味でも勉強になりましたし、同じバリトン歌手の方々の身体の使い方、演奏会全体の構成から、オッフェンバックの演目まで、いっぱいマネしたい、いっぱい盗みたい!と思えるポイント満載の演奏会でした。とはいえ、「いいなぁ」と思って自分でマネしても、なかなか簡単に再現できるものじゃないんだよねぇ。まだまだ精進せねば。

さくら学院公開授業「映像パフォーマンスの授業2」参戦記~やっぱり唯一無二のエンターテイメントだと思うんだよね~

1月20日(日)に開催されたさくら学院の公開授業「映像パフォーマンスの授業2」に参戦してきました。さくら学院の現場は、ライブビューイングを入れるとこれで4回目になりますけど、映画館で楽しむライブビューイングと、本人達を目の前にして客席との一体感を味わえるイベントでは密度が違う。しかも今回、非常にくじ運に恵まれて、1時限目から3時限目の一日3回公演を全部、それも全て7列目より前の席、という良席で楽しむことが出来ました。初めて生で見た新谷さんや日高さんに、「ああ、この人たちは実在してたんだ」という感動もあったんですけど、一方で、改めて、このグループの活動のユニークさと、エンターテイメントとしての完成度の高さを実感しました。ということで、今日は、さくら学院がやっているこの「公開授業」というエンターテイメントについて存分に語らせていただきます。ほんとに、こんなエンターテイメント他にはないぞ、と。

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会場で、なんと無料!で配布されていたファンブック、SDC(Sakura Data Collection)。さくら学院の今年の卒業生の過去の様々なデータを見事にまとめた、まさに父兄愛の結晶。プロの編集者の女房に見せたら、「このイラストと記事をこのレイアウトでまとめるのはプロの仕事だし、それを無料で配るってのはちょっと信じられない」と舌を巻いておりました。こういうファンブックとか、他のアイドルでももちろん存在するとは思うけどさ。でもね、「2018年度のこの子達の記録を、今残さないと後がない」みたいな焦燥感って、さくら学院固有のものだと思うんだよね。

さて、さくら学院の一つのユニークな舞台パフォーマンスである「公開授業」というのがどういうものなのか、という点を簡単におさらいしておくと、学校活動をエンターテイメント化した、というさくら学院のコンセプト上、授業そのものもエンターテイメントとしてファン(さくら学院では、父兄、と呼ばれる)に公開する、ということで、落語の授業や剣舞の授業といったパフォーマンス系の授業や、書の授業、アートの授業といった自己表現に関わる授業、または世界の授業、宇宙の授業、といった一般教養の授業まで、生徒の成長に資する授業を公開して実施する、というイベントです。呼ばれる講師は各界の第一人者なので、テーマだけでなくて授業そのものも面白くて、聞いている父兄にとってもためになる、と人気のイベント。今回、私が参戦した、「映像パフォーマンスの授業2」の講師は、白Aさん。紅白でSexy Zoneのパフォーマンスを演出した映像集団、ということで、講師陣がどれだけ豪華か、推して知るべしですよね。

本当にユニークだと思うのは、普通、エンターテイメントというのは、舞台作品として完成したものを製作して、それを披露するものだと思うのだけど、この「公開授業」という舞台作品は、授業の中で一つの課題(それは舞台パフォーマンスであったり、形のある作品だったりするのだけど)を製作していく、そのプロセスを生徒さんたちと一緒に共同体験することがエンターテイメントになっている、という点。「生徒と一緒に父兄も成長しよう」という謳い文句が、掛け声だけじゃなくて現実なんだよね。共同体験のプロセスでは、非常にテクニック的な「舞台裏」を見ることもできるし、さらに深い演者の内面に触れる瞬間もある。演者の成長を見せる、という意味では、声楽などのクラシックの世界でよくある「マスタークラス」というエンターテイメントにも通じるけど、さくら学院の「公開授業」は、生徒たちが基本的に「初心者である」ということが前提になるので、逆にそのパフォーマンスの持つ本質が見えてくる瞬間がある気がする。まだ真っ白な素材である演者自身の思わぬ能力が発揮される瞬間や、苦闘の結果与えられた課題を克服した瞬間のカタルシスなど、一期一会の時間を共有する楽しみもある。

今回の「映像パフォーマンスの授業2」で具体的にそれを感じた瞬間を並べると、制作のプロセスとして、白Aさんが、ホリゾントスクリーンに番号のついた格子を映写して、「この格子に合わせて白い箱を置いていくんです。その置き位置がずれると映像がうまく映らない」と解説している瞬間とか、生徒さん一人一人に、カウントを取りながらポーズのタイミングを確認していくプロセスなどが、まさに「製作の舞台裏」を見ている楽しみだったんですね。プロジェクションマッピングという技術がココまで進化しているんだ、という純粋な驚きを感じる、という意味では、教養番組的な側面もあった。さらに、2時限目で麻生真彩が難なくこなしていたギターのステップを、3時限目の八木美樹が無茶苦茶苦労しているのを見て、麻生真彩の身体能力の高さに改めて驚いたり、八木美樹がそれを何とか克服した姿に拍手を送るカタルシスも味わえたり。

単純な言葉で言い換えると、学校生活をテーマにした生のドキュメンタリーを見ているような感じなんだよね。ドキュメンタリーと教養番組と舞台パフォーマンスを一期一会の「コト」体験として楽しめる、という、多分、さくら学院以外にはほとんど体験できないエンターテイメント。

と言いながら、パフォーマーの勉強の真っ最中である小学生から中学生の子供達が舞台に立つ以上、パフォーマンスとしてはまだまだ未完成な部分が沢山出てくることも否定できない。そこを補う仕掛けがいくつか必要になってきて、もちろん、未完成な生徒さんたちが少しでも完成に近づいていくプロセスをドキュメンタリーとして楽しむのも、その仕掛けの一つではあるのだけど、それ以上に、一線で活躍している講師陣が見せてくれるパフォーマンスのクオリティがすごく高くて、それ自体で十分に楽しめるんです。前回参戦した「アートの授業」でも、イラストレーター、山下良平さんの素晴らしい作品が紹介されたり、山下先生自身が即興で画面に描いた木の枝の表現など、ちょっと鳥肌が立つような高度なパフォーマンスがあった(それを白鳥さんがざっくり消しちゃったんだけどねww)。

そして今回は、なんと言っても白Aさん。白Aさんの自己紹介、ということでまずは彼らのパフォーマンスを見せられるのだけど、これがとにかくカッコイイ。シンデレラ城で初めて見たプロジェクションマッピングが、こんな風にリアルな肉体と絡んでいくのか、という興奮。しかも、最後に、直前に撮影した父兄さんたちの写真との共演、なんてものを見せられてしまうと、舞台と客席が一体になる「特別な瞬間」を提供する一期一会のパフォーマンス、という、このブログで何度も書いている舞台の魅力が、最新のテクノロジーで100%発揮されている感覚に震えてしまう。だから舞台はやめられないんだよなぁ、という。

そしてこれにさらに付加されるのが、生徒達が過ごした時間の経過、その個人個人が持っている物語自体を楽しむ、さくら学院というグループ特有のエモーショナルな側面。少ない練習時間で白Aさんのパフォーマンスをやり遂げてしまう個々の能力の高さ、そんな力を身につけた中三3人がこれまで積み重ねた日々。その中三3人へのサプライズメッセージ、3月に迫った卒業を前に流す涙、そして冒頭に書いたSDCのように、その時間を共に過ごしてきた父兄さんたち自身の物語など、重層的な物語世界が重なって、本当に充実感が半端ない。

既存のエンターテイメントに、これに似たようなエンターテイメントがあるかしら、と思ったら、多分、歌舞伎と宝塚、あたりじゃないかな、という気がしますね。成田屋中村屋の家族の成長の物語とか、宝塚の学校感とか。でも、その成長の過程自体を舞台パフォーマンスとしてお金取って見せてしまう、というのは、多分さくら学院が唯一だと思います。ひょっとしたら、世界的にも珍しいパフォーマンスグループなんじゃないかなぁ。

今回の舞台で、唯一、ちょっと気がかりだったのは、2時限目の麻生さんの表情が、授業の後半、少し暗かった時間があったんだよね。特に、サプライズがあった後、楽器パフォーマンスあたりで、ちょっとつまらなさそうな顔をしている瞬間があって。麻生さんというのは、自分が真ん中で注目されていないと落ち込む、というか、ちょっと反省モードに入ってしまう人だから、楽器パフォーマンス中に、自分が一生懸命やったギターよりも、後ろで苦労していた吉田さんのトランペットが注目されてしまったことに反省しちゃってたのかもな、と思ったりもするんですけど。でもひょっとして、前日の書の授業と、さらに今回のサプライズで、「これが自分にとって最後の公開授業なんだ」という気持ちが前面に出てきてしまったのかも、と思うと、ちょっとこの先心配になってしまう。本当に、麻生さんにはずっと笑顔でいてほしいんです。卒業後も、ずっとね。

恐らくは、白Aさんのプロジェクションマッピングを意識したと思われるグッズ、バーチャルドアスコープは、麻生さんを2個、新谷さんを1個、吉田さんを1個ゲット。今年度は、バレンタインライブの夜の部と、3月30日の卒業式に参加予定。今までライブビューイングでしか参加できなかったライブに、ついに初参戦です。歌の考古学には用事があって参戦できないけど、この3人の笑顔を、3月末まで見守っていければと思います。

リリーのすべて、マーニー~人の限界を知ってしまった僕らは~

二日続けてちょっと重ためのインプットがあったので、書き留めておこうかと。

昨日、ちょっと前にWoWoWで放送されたのを録画していて、ずっと見ていなかった、「リリーのすべて」を見る。娘は既に映画館で見ていて、「すごくいい映画だったから絶対見なよ」と推薦されていたし、何と言っても監督が、あの「英国王のスピーチ」のトム・フーパーさんだ、と聞いて、これはいつか見なければ、と思っていたのです。昨夜遅くに、何となく、リビングにいた女房と一緒に見てしまって、終わってから、二人して、うーん、と顔を見合わせてしまいました。

そして今日は、これも夫婦で、METのライブビューイングで、新作オペラ「マーニー」を見る。これも終演後、イチゴパフェをつつきながら、うーん、と色々語り合ってしまった。

ということで、今日はこの2つのインプットについて。映画とオペラ、ということでジャンルは違うんだけどね。こういう、読み合わせ、じゃないんだけど、同じ時期に入ってきたインプットで、不思議と共鳴しあう感じがあって、そういう「食い合わせ」みたいな現象が結構好きだったりするんです。なので、あえて強引に共通点を探してみたりする。

リリーのすべて」の時代背景は1920年代だし、「マーニー」の時代背景は1960年代なんだけど、どこかに共通点を感じてしまうのは、科学の可能性についての信頼や信仰、なんだよね。「リリー」にしても「マーニー」にしても、描かれているのは、人間の内面や心理の中に隠された「本当の自分」を探し求める物語。「リリー」はその解決方法として、性転換手術、という科学の力に頼るわけだし、「マーニー」においても、フロイト的「精神分析」、つまり科学の手法が色濃く見える。「リリー」においてはその映像の美しさ、映画の完成度の高さ、そして「マーニー」においてはその音楽の革新性の方が評価されるべきなのだろうけど、観客の一人としての純粋な感想を言えば、その「科学によって人の心の問題を解決できる」という基本的な姿勢に、なんとなくうさん臭さを感じてしまったりするんだよなぁ。

性転換手術や精神分析によって救済される心があることは確かなことだと思うし、それこそが科学の進歩だ、ということを否定する気はない。でもね、じゃあ人間の心理を全て科学が解明したか、というとそんなことはないじゃないですか。「マーニー」を見た後で、なんとなく女房に話したんだけど、そもそも死刑廃止論者や、あるいは、未成年や心神耗弱状態の犯罪者を有罪に問わない刑事制度の根底にある思想というのは、悪事を起こす人の心は、何かしら科学的な手法によって「治療」することができる、という科学信仰なんじゃないかな、という気がするんだね。治癒することができる病んだ魂を、人の手で裁くべきなのか、という発想。

でもね、科学自体が人が作り出したものである以上、その科学にだって限界はある。そんなに簡単に人は人を治せないと思うんだよ。そして現代の我々は、既にそのことに気が付いているよね、と思うんだ。心の問題だけじゃない、国と国の間のいさかいや、どうにもならない衝突も含めて、科学ではどうにも解決できない闇がある、ということ。

「マーニー」を見に行く前に、女房がそのあらすじを話してくれて、私が、「なんかヒッチコック映画みたいだね」と言ったら、本当にヒッチコックが映画にしているお話でびっくりしたんだけど、ヒッチコックの映画にはそういうフロイト心理学の分析手法に影響された映画が多くて、代表作の「サイコ」なんてまさにそのものだよね。今見ても十分面白いんだけど、どこかに当時の時代の空気を感じてしまうのは、科学が人の心の闇を全部明るみに出してくれる、という楽観主義にある気がする。人間の心って、そんなに簡単に見通せるものじゃない、ということを、僕らはもう知ってしまっているから。

「リリー」にせよ、「マーニー」にせよ、そういう現代の我々の科学への絶望、というか、人間心理の混沌を垣間見てしまった、「知恵の実を食べすぎた」現代人の視点もしっかり加味されていて、むしろそこが面白く見えたりする。「リリー」においてそれを象徴しているのが、ゲルダ、という奥さんで、この映画の主役はこのゲルダさんだ、と思います。男女の性的な結びつきを超えて、相手の人としての本質的な部分を心から愛することの純粋さと苦悩を全部抱え込んだ、アリシア・ヴィキャンデルさんの演技が本当に泣ける。

そして、「マーニー」において、主人公の一筋縄ではいかない心理の多重性を表現していたのが、「マーニーの影」ともいえる四人の女性アンサンブル。マーニーのそばにいて、彼女の内面をコロスとして表現する役割を与えられているのだけど、それこそ「サイコ」的な多重人格の表現としても、さらに主人公の心の闇の深さの表現としても出色の設定と思いました。

逆に、こういう「自分探し」の作品が出てくること自体、現代の我々が、科学でも解明することのできない人間の心の複雑さや謎に心惹かれている証左なのかもしれないね。久しぶりのちょっと重ためのインプット、色々考えてしまいました。

誰か麻生真彩を発見してくれんかなぁ

娘がまだ幼稚園生だった頃に、美少女戦士セーラームーンが実写化されて、娘が見たがるから、というのを言い訳に、私も結構喜んで見てました。美少女達のアクションドラマ、という意味では、自分が昔ハマったスケバン刑事のシリーズと重なるものがあったんだよね。そしてまた、出演していた女優さんたちが本当に美人揃いだったんだ。セーラーマーズの北川景子さんの凛々しい美しさが際立っていたのは事実だけど、個人的に一番好きだったのが、セーラーマーキュリーの浜美咲さんだったんです。ドラマの中でも、途中で洗脳されてダークマーキュリーに変身するなど、二面性のある難しい役をそつなく演じていて、どちらかといえば演技力的には発展途上の方が多かったセーラー戦士の中では、セーラームーン役の沢井美優さんと同じくらい、頭一つ抜け出ていた感じがした。その後、出演女優さんたちがそれぞれ、舞台やグラビア、あるいはバラエティなどで活躍されている姿を見て、何となく嬉しかったんだけど、一番贔屓にしていた浜美咲さんが、芸能活動をいったん休止したことがすごく残念だった記憶があります。

そしたら、昨日、娘が、「最近話題になっている、Indeedのコマーシャルの実写版ワンピースって、見たことある?」と聞いてくる。「あれで、ナギをやってるのって、セーラーマーキュリーだった人だよ」と言われて、びっくり。浜美咲さんが泉里香さんという本名で、グラビアアイドルやってる、というのも知らなかったんですけど、巨乳、というウリだけじゃなくて、ちょっと知性も感じるキュートな美しさが、セーラーマーキュリーの面影をそのまま残していてすごく嬉しくなる。

長い前置きになっちゃいましたけどね、本当に書きたいことは、そうですよ、やっぱりさくら学院ですよ。昔の推しがまた表舞台に出てきて活躍するのを見るってのは嬉しいもんだよねぇ。最近くらっと来たのは、新潟のメイクアーティストのutaさんがアップした、新潟で一番かわいい女子高生、白井沙樹さんの最新動画。在学中から際立って整った顔立ちだったけど、目力がさらに強烈になっていて、女神感が半端ない。大学受験に成功して、東京に上京してきてくれて、Freshマンデーで副担任のバイトとかしてくれたら、もう狂喜乱舞なんだけどなぁ。

それで今一番気になってるのが、麻生真彩の卒業後。年末年始のFreshマンデー見ていて、やっぱりこの人のエース感は半端ないなぁ、と思った。ある意味2017年度の絶対的エースだった山出愛子が、麻生真彩に対してかなりキツく当たっていた、というのは、山出さん自身が麻生さんの実力を評価していた、ということの裏返しだと思うし、今の麻生さんの立ち居振る舞いには、昨年の山出さんを彷彿とさせるようなリーダー感がある。黙って背中で見せて、みんなを優しく包み込む母性的な感じの新谷ゆづみさんに比べると、山出さんと共通する万能型の男性的なリーダーが、麻生さん。

でもね、これを書くと父兄さんに怒られそうだけどさ。山出さんとか岡田愛さんみたいに、卒業後もがっつり一線で頑張っている卒業生と比べて、麻生さんって典型的な美人とは言えないと思うんだよね。どちらかといえば愛嬌が先にたつFunny Faceなので、まず美人であることが前提で、そこに何をプラスアルファするのか、という芸能界においては、ちょっと入り口でハンデがある気がする。だから心配になっちゃうんだよなぁ。誰か麻生さんのパンチのある歌唱や、舞台上での爆発的な表現力とか、愛せずにはいられない笑顔の魅力とか、バラエティにも対応できる対応力の高さとかに気づいてくれんかなぁ。

以前の日記で、麻生さんが目指すべきは佐藤日向さんじゃないか、みたいなことを書いたのはそういう共通点もあって、佐藤さんも典型的な美人顔じゃなくて、ちょっと癖のあるFunny Faceの持ち主で、舞台上での歌唱や表現力で勝負する人だと思うんだよね。麻生さんにもそういう活躍の場があればいいんだけどなぁ。でも、そんなに焦ることはないのかもしれないんだけどね。白井さんだって、森先生の後輩目指して頑張っているけど、大学在学中に何かしら表舞台に出てくる予感はあるし、10年以上たって一線に復活してきた泉里香さんみたいな例もあるんだし。それにそもそも、表舞台に出てこなくても、みんなが幸せだったらそれでいいんだから。ううむ、なんだかまとまりがなくなってきちゃった。でもねぇ、父兄さんはみんな思ってると思うけど、昔の推しが表舞台に笑顔見せてくれたら嬉しいと思うんだよねぇ。ちらっとでもいいんだからさ。茨城の看護師さんが病院コントで出てきてくれたりとか、大島4人旅の写真とか出てきたりしたら、父兄はみんな昇天するだろうし、ゆいちゃんが卒業式の集合写真に顔出してくれただけで、みんな号泣だろうしなぁ。あ、オレも含めてね。

あけましておめでとうございます。ということで2018年振り返り

あけましておめでとうございます。2019年が始まりましたね~。20年前には世界が終わるはずだったのに、20年間もご苦労様でございます。これからも引き続き、色々すったもんだあっても、なんとか乗り切って前に進めるといいなぁ。

お年始は毎年、花巻温泉に集まって、のんびり過ごして、着物着てお正月気分を味わう、というのが恒例行事になっており、今年も同じように過ごしました。毎年の恒例行事が変わらず続く幸せ。

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なぜか男らしく自撮りをする娘と、ふにゃふにゃした母。

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そして花巻温泉あんぱんを食らう悪魔、じゃなくて父。

毎年お年始のこの日記の投稿では、その前年を振り返ったりしていますが、恒例行事を変わらず続ける幸せ、ということで、今年も、2018年を振り返りたいと思います。

家族のイベントという意味では、やっぱり娘の大学進学が一番のイベントでした。縁があって入団させていただけたワグネル・ソサィエティー・オーケストラの活動を中心に、娘の日常もずいぶん変化があって、高校の頃の活動よりもぐんとスケールアップした忙しい日々を送っているようです。今年の3月にはサントリーホール定期演奏会サントリーホールで毎年演奏会やってる学生オケって、何者さ。

女房のオペラ歌手としての活動も、これまでの活動がさらにレベルアップした感覚がありました。ほぼ毎年のように参加させていただいている室内歌劇場のせんがわ劇場シリーズでは、「天国と地獄」で初のプリマをいただき、常連として参加させていただいているシャンソン・フランセーズでもトリの大曲をもらい、浅草オペラのシリーズは南会津や大阪にまで展開。そして最大の挑戦が、「コシ・ファン・トゥッテ」のフィオデルリージ。2019年も、ポーランド語のオペラや、アメリカ歌曲の大曲など、さらに挑戦の場を広げていく予定。

そうやってスケールアップしている家族を尻目に、私自身は、といえば、サロンコンサートをやったり、ガレリア座の二公演に参加したり、麗鳴の30周年記念演奏会に参加したり、と、いつものように充実した舞台活動をこなしたんですが、一方で、なんとなく自分の年齢を意識する場面が増えた気がしていて、そろそろ、やりたいことは今のうちにやっておかないと、という焦りが出てきていたりします。そんな焦りもあって、サロンコンサートのシリーズでは、ずっとやりたかった「仮面舞踏会」のレナートを歌ってみたりしたんですが、2019年は、無謀かもしれないけど今のうちにやっておかないと・・・という企画を準備中。また詳細は別途宣伝しますね。

先日誕生日を迎えて、私も54歳。家族に、「54歳の抱負は?」と聞かれて、「やりたいことをやりたいようにやる」と答えました。背伸びかもしれないけど、今からどんどん手が届く範囲が狭くなってくるかもしれないし、まだ手の届くうちに、やれることをやらないと。そんな焦りの中で、ひょっとしたら全然違う地平が見えてくるかもしれないし。そんな思いで、この2019年を過ごしていきたいと思います。今年もよろしくお願いいたします。

 

フィクションが現実を侵食・再生産するのが「さくら学院」

さぁ、今日もさくら学院のことを書きますよ。さくら学院ってのはねぇ、語り始めると本当に止まらないんだよ。ずっと書きたかったこと、2017年度の学院祭のことだ。

2018年度の学院祭の寸劇が素晴らしい脚本で、デロリアンになることが決まって狂喜乱舞している父兄多数、というのが、最近のさくら学院を巡る最大のトピック。ただ、張り巡らせた伏線の中で、「『カメラを止めるな』みたいな伏線を後半で回収する脚本は難しいんだ」と言っていた森ハヤシ先生が、WAGE時代に書いた「公園」というコント(Youtubeで見ることができます)を見ると、森先生自身が、前半に仕込まれた構造が後半の展開で回収される、という脚本を、若い頃から書いていたことが分かる。そう思って振り返ってみれば、2017年の「Friends」の寸劇にしても、前半に仕込んだ「山出と岡田を仲直りさせるためのアイデア」が、後半にことごとく失敗していくプロセスが笑える、という構造になっていて、もともと森先生は、そういう脚本を書くことに長けている人なんじゃないかな、と思います。

で、本題の2017年度学院祭の寸劇のこと。脚本のベースになっているのが、当時中三の3人、山出愛子さんと岡田愛さん、岡崎百々子さんの関係にある、というのは、2018年度の脚本と同じ構造なのだけど、本音をぶつけ合って大げんかしている山出さんと岡田さんに対して、気が優しくて言いたいことの言えない岡崎さんが、本当の気持ちをぶつける、というシーンが全体のクライマックスに置かれていた。

面白いのは、その寸劇の物語が、卒業公演に向かっていくプロセスの中で現実に再生産されたこと。2017年度のRoad to Graduationのデロに収められている特典映像のクライマックスが、岡崎さんが泣きじゃくりながら、メンバーに向かって、「やる気がない子は帰っていいから!」と言い放つシーンで、ここで岡崎さんを良く知る麻生さんのナレーションが、「百々子が大きな声でメンバーを叱ったのはこれが初めてだった」と告げる瞬間、寸劇で描かれた「本当の気持ちをなかなか言えない岡崎さんが、しっかり自分の気持ちをぶつける」というフィクションが、現実のさくら学院の危機を救う、という形で再生産される。さらに、あのセトリを巡る話し合いの中で、岡崎さんの「2017年度のさくら学院ならできます」という名言を生むにあたって、フィクションで描かれた中三の人間関係がさらに重みを増し、物語が物語を再生産するメタ構造を構成するに至って、2017年度の一年間のドラマが極めて重層的なものになった。

こういう、フィクションが現実に変貌していく、あるいは再生産される、というのが「さくら学院」というアイドルの一つの大きな魅力で、それは2017年度の寸劇だけではなくて、BABYMETALの中元すず香の伝説の「歌の考古学」の授業でも現れた構造。「島唄」の生まれた背景に第二次大戦の沖縄戦の悲劇がある、という説明から、故郷の広島に根付く原爆の悲劇と平和への希求を語ったすぅさんのプレゼンテーションは、一つの物語として感動的なだけではなく、それがBABYMETALの伝説的な「LEGEND S」という大きくスケールアップした物語と化したことで、物語が拡大再生産されるそのプロセス自体が奇跡の物語になった。他にも、秋桜学園合唱部で描かれた人間関係は、黒澤美澪奈倉島颯良のその後の関係性に確実に影響していたり、I・J・Iの歌詞がそのまま2016年度のセトリを巡る物語とシンクロしたり、という重層性もある。

さくら学院の中で語られた数々の物語の中には、現実や時間の壁を越えられずに消えていった物語もあれば、今でも壁を乗り越えようと七転八倒している卒業生のリアルな物語もある。そういう終わりのない物語たちが絡み合いながら8年間続き、そしてきっとこれからも続いていくのだ、という時間感覚が、このグループの魅力を本当に多層的なものにしている。父兄の願いは、無限の可能性と未来を秘めたこの才能あふれる子供たちの物語の全てが、大きくても小さくてもいい、綺麗な花を咲かせてハッピーエンドで終わること。みんな、幸せになれ。