フィクションが現実を侵食・再生産するのが「さくら学院」

さぁ、今日もさくら学院のことを書きますよ。さくら学院ってのはねぇ、語り始めると本当に止まらないんだよ。ずっと書きたかったこと、2017年度の学院祭のことだ。

2018年度の学院祭の寸劇が素晴らしい脚本で、デロリアンになることが決まって狂喜乱舞している父兄多数、というのが、最近のさくら学院を巡る最大のトピック。ただ、張り巡らせた伏線の中で、「『カメラを止めるな』みたいな伏線を後半で回収する脚本は難しいんだ」と言っていた森ハヤシ先生が、WAGE時代に書いた「公園」というコント(Youtubeで見ることができます)を見ると、森先生自身が、前半に仕込まれた構造が後半の展開で回収される、という脚本を、若い頃から書いていたことが分かる。そう思って振り返ってみれば、2017年の「Friends」の寸劇にしても、前半に仕込んだ「山出と岡田を仲直りさせるためのアイデア」が、後半にことごとく失敗していくプロセスが笑える、という構造になっていて、もともと森先生は、そういう脚本を書くことに長けている人なんじゃないかな、と思います。

で、本題の2017年度学院祭の寸劇のこと。脚本のベースになっているのが、当時中三の3人、山出愛子さんと岡田愛さん、岡崎百々子さんの関係にある、というのは、2018年度の脚本と同じ構造なのだけど、本音をぶつけ合って大げんかしている山出さんと岡田さんに対して、気が優しくて言いたいことの言えない岡崎さんが、本当の気持ちをぶつける、というシーンが全体のクライマックスに置かれていた。

面白いのは、その寸劇の物語が、卒業公演に向かっていくプロセスの中で現実に再生産されたこと。2017年度のRoad to Graduationのデロに収められている特典映像のクライマックスが、岡崎さんが泣きじゃくりながら、メンバーに向かって、「やる気がない子は帰っていいから!」と言い放つシーンで、ここで岡崎さんを良く知る麻生さんのナレーションが、「百々子が大きな声でメンバーを叱ったのはこれが初めてだった」と告げる瞬間、寸劇で描かれた「本当の気持ちをなかなか言えない岡崎さんが、しっかり自分の気持ちをぶつける」というフィクションが、現実のさくら学院の危機を救う、という形で再生産される。さらに、あのセトリを巡る話し合いの中で、岡崎さんの「2017年度のさくら学院ならできます」という名言を生むにあたって、フィクションで描かれた中三の人間関係がさらに重みを増し、物語が物語を再生産するメタ構造を構成するに至って、2017年度の一年間のドラマが極めて重層的なものになった。

こういう、フィクションが現実に変貌していく、あるいは再生産される、というのが「さくら学院」というアイドルの一つの大きな魅力で、それは2017年度の寸劇だけではなくて、BABYMETALの中元すず香の伝説の「歌の考古学」の授業でも現れた構造。「島唄」の生まれた背景に第二次大戦の沖縄戦の悲劇がある、という説明から、故郷の広島に根付く原爆の悲劇と平和への希求を語ったすぅさんのプレゼンテーションは、一つの物語として感動的なだけではなく、それがBABYMETALの伝説的な「LEGEND S」という大きくスケールアップした物語と化したことで、物語が拡大再生産されるそのプロセス自体が奇跡の物語になった。他にも、秋桜学園合唱部で描かれた人間関係は、黒澤美澪奈倉島颯良のその後の関係性に確実に影響していたり、I・J・Iの歌詞がそのまま2016年度のセトリを巡る物語とシンクロしたり、という重層性もある。

さくら学院の中で語られた数々の物語の中には、現実や時間の壁を越えられずに消えていった物語もあれば、今でも壁を乗り越えようと七転八倒している卒業生のリアルな物語もある。そういう終わりのない物語たちが絡み合いながら8年間続き、そしてきっとこれからも続いていくのだ、という時間感覚が、このグループの魅力を本当に多層的なものにしている。父兄の願いは、無限の可能性と未来を秘めたこの才能あふれる子供たちの物語の全てが、大きくても小さくてもいい、綺麗な花を咲かせてハッピーエンドで終わること。みんな、幸せになれ。