リリーのすべて、マーニー~人の限界を知ってしまった僕らは~

二日続けてちょっと重ためのインプットがあったので、書き留めておこうかと。

昨日、ちょっと前にWoWoWで放送されたのを録画していて、ずっと見ていなかった、「リリーのすべて」を見る。娘は既に映画館で見ていて、「すごくいい映画だったから絶対見なよ」と推薦されていたし、何と言っても監督が、あの「英国王のスピーチ」のトム・フーパーさんだ、と聞いて、これはいつか見なければ、と思っていたのです。昨夜遅くに、何となく、リビングにいた女房と一緒に見てしまって、終わってから、二人して、うーん、と顔を見合わせてしまいました。

そして今日は、これも夫婦で、METのライブビューイングで、新作オペラ「マーニー」を見る。これも終演後、イチゴパフェをつつきながら、うーん、と色々語り合ってしまった。

ということで、今日はこの2つのインプットについて。映画とオペラ、ということでジャンルは違うんだけどね。こういう、読み合わせ、じゃないんだけど、同じ時期に入ってきたインプットで、不思議と共鳴しあう感じがあって、そういう「食い合わせ」みたいな現象が結構好きだったりするんです。なので、あえて強引に共通点を探してみたりする。

リリーのすべて」の時代背景は1920年代だし、「マーニー」の時代背景は1960年代なんだけど、どこかに共通点を感じてしまうのは、科学の可能性についての信頼や信仰、なんだよね。「リリー」にしても「マーニー」にしても、描かれているのは、人間の内面や心理の中に隠された「本当の自分」を探し求める物語。「リリー」はその解決方法として、性転換手術、という科学の力に頼るわけだし、「マーニー」においても、フロイト的「精神分析」、つまり科学の手法が色濃く見える。「リリー」においてはその映像の美しさ、映画の完成度の高さ、そして「マーニー」においてはその音楽の革新性の方が評価されるべきなのだろうけど、観客の一人としての純粋な感想を言えば、その「科学によって人の心の問題を解決できる」という基本的な姿勢に、なんとなくうさん臭さを感じてしまったりするんだよなぁ。

性転換手術や精神分析によって救済される心があることは確かなことだと思うし、それこそが科学の進歩だ、ということを否定する気はない。でもね、じゃあ人間の心理を全て科学が解明したか、というとそんなことはないじゃないですか。「マーニー」を見た後で、なんとなく女房に話したんだけど、そもそも死刑廃止論者や、あるいは、未成年や心神耗弱状態の犯罪者を有罪に問わない刑事制度の根底にある思想というのは、悪事を起こす人の心は、何かしら科学的な手法によって「治療」することができる、という科学信仰なんじゃないかな、という気がするんだね。治癒することができる病んだ魂を、人の手で裁くべきなのか、という発想。

でもね、科学自体が人が作り出したものである以上、その科学にだって限界はある。そんなに簡単に人は人を治せないと思うんだよ。そして現代の我々は、既にそのことに気が付いているよね、と思うんだ。心の問題だけじゃない、国と国の間のいさかいや、どうにもならない衝突も含めて、科学ではどうにも解決できない闇がある、ということ。

「マーニー」を見に行く前に、女房がそのあらすじを話してくれて、私が、「なんかヒッチコック映画みたいだね」と言ったら、本当にヒッチコックが映画にしているお話でびっくりしたんだけど、ヒッチコックの映画にはそういうフロイト心理学の分析手法に影響された映画が多くて、代表作の「サイコ」なんてまさにそのものだよね。今見ても十分面白いんだけど、どこかに当時の時代の空気を感じてしまうのは、科学が人の心の闇を全部明るみに出してくれる、という楽観主義にある気がする。人間の心って、そんなに簡単に見通せるものじゃない、ということを、僕らはもう知ってしまっているから。

「リリー」にせよ、「マーニー」にせよ、そういう現代の我々の科学への絶望、というか、人間心理の混沌を垣間見てしまった、「知恵の実を食べすぎた」現代人の視点もしっかり加味されていて、むしろそこが面白く見えたりする。「リリー」においてそれを象徴しているのが、ゲルダ、という奥さんで、この映画の主役はこのゲルダさんだ、と思います。男女の性的な結びつきを超えて、相手の人としての本質的な部分を心から愛することの純粋さと苦悩を全部抱え込んだ、アリシア・ヴィキャンデルさんの演技が本当に泣ける。

そして、「マーニー」において、主人公の一筋縄ではいかない心理の多重性を表現していたのが、「マーニーの影」ともいえる四人の女性アンサンブル。マーニーのそばにいて、彼女の内面をコロスとして表現する役割を与えられているのだけど、それこそ「サイコ」的な多重人格の表現としても、さらに主人公の心の闇の深さの表現としても出色の設定と思いました。

逆に、こういう「自分探し」の作品が出てくること自体、現代の我々が、科学でも解明することのできない人間の心の複雑さや謎に心惹かれている証左なのかもしれないね。久しぶりのちょっと重ためのインプット、色々考えてしまいました。