シャンソン・フランセーズ 7 ”La Vie ~人生~” ~やっぱり続けないと~

BABYMETALのYUIMETAL脱退のショックがまだ抜けてないんですが、身近な友人の中で、この手の話にシンパシー持ってくれる人が二人いるんです。一人はガレリア座で、先日の「小鳥売り」でスタニスラウスをやったS藤さんで、彼はハロプロの沼にはまっている。先日彼と、YUIMETALが脱退した喪失感について、「やっぱり推しが脱退するのは沁みますよねぇ」「でも、沼はハマったらとことんハマった方が楽しいですよねぇ」なんて話でしみじみしてしまった。

で、もう一人が、シャンソン・フランセーズの仕掛け人、ピアニストの田中知子さん。知子さんは私のBABYMETALやらさくら学院なんかよりはるかにキャリアの長いモノノフ(ももクロのファン)で、今年の1月に有安杏果さんが卒業宣言した時にかなり落ち込んでらっしゃって、ああ、YUIMETALが卒業したらオレもこんな感情ミルフィーユ状態になるんだろうなぁ、と、あの頃から予感はあったなぁ。

でもね、BABYMETALも新体制宣言したしさ。ももクロは、百田さんが、「スマップとかTOKIOとかの男性アイドルさんみたいに、40代になっても50代になってもアイドルとして頑張ってる女性アイドルの先駆けになりたい」みたいなことを言っていて、やっぱり続けることって大事だと思うんですよ。安室さんだって、あのクオリティでここまで続けたことで生まれるオーラとか、発信力とかあるわけだし、松田聖子という怪物もいる。続けていくこと、守り続けていくことで、生まれてくるパワーとか感動とかって、あると思う。

それって多分、グループとしての成長、だったり、企画としての変遷、という、時間とか歴史が生み出す、多層的な意味空間だと思うんだね。同じ楽曲でも、あの人とこの人が歌うことで違う意味が生まれたり、新しくこの人があの歌を歌うのか、という感慨とか、新しい発見があったり。これまでここにハマっていたピースが、別のピースに入れ替わった時に生まれる化学変化とかさ。というわけで、今日のテーマに戻ってくるぞ。アイドル論じゃないぞ。先日、10月24日に渋谷の伝承ホールで開催されたシャンソン・フランセーズの感想だ。

モノノフの田中知子さんの仕掛けるシャンソン・フランセーズも、今回が七回目。うちの女房が出ている、ということで、過去の公演を何回か拝見しているんだけど、今回は、かなり新しいメンバーが加わって、それが、結構多層的な意味空間を生み出していた気がする。私が見てきたシャンソン・フランセーズの一貫したテーマ、というのが、時間、ということで、時間の流れに枯れ葉のように弄ばれる人の人生の儚さや、そんな流れに抗いながら大切なものを頑なに守ろうとする人の意地。それが、今回、新しいメンバーの参加で、別の意味でふわっと浮かび上がってきたような気がした。

象徴的だな、と思うのが、三橋千鶴・大津佐知子・植木稚花、という3人の歌い手の扱いで、シャンソン・フランセーズの重鎮、ともいえる三橋さんが、今回はトリを歌っていない。むしろ全体の物語の語り部という立ち位置で、確かな歌唱と存在感で全体の柱になっている。そこに、植木稚花、という若々しい歌い手が、その三橋さん演じる老いた歌い手の若い頃、という立ち位置で現れる。その対比の中に、大津佐知子がトリの「私の神様」を歌う、という構成が、すごく面白かった。歌い手としてまだ発展途上で、ギリギリの表現の限界を見極めようとするような大津の歌唱自体が、シャンソン・フランセーズ、というシリーズ自体が、化学実験のように、まだまだ様々な個性や可能性を実験しつつ成長していこうとしていることを象徴しているような。その成長の原点には植木さんの溌剌とした若さがあり、その成長の頂点には三橋さんの円熟の芸がある。そして、その道の過程の一つとして、大津の挑戦する表現がある。大津自身が、最初にシャンソン・フランセーズに参加した時に、ちょっと色物の「キャラメル・ムー」から飛び込んで、「私の神様」を歌うまでになった成長物語と、その「キャラメル・ムー」の時に大津が着た同じ衣装を着て、今回初参加となった植木稚花の今後の成長物語とか、なんかアイドルの成長物語っぽくないかい?

もう一つ、新たな血を感じさせたのが、バイオリンの西田史朗さん。とにかく自在。浅草オペラで山田武彦先生の自由さに触れた時にも思ったけど、自由な人が自由な人と出会った時の化学変化って、本当にすごいね。山田武彦さんと浅草オペラ、西田史朗さんと田中知子さん。こういう幸福な出会いの場に居合わせる興奮っていうのも、長く続いたシリーズの醍醐味かもしれない。えびさわなおきさんのアコーディオンもかっこよかったけど、西田さんのバイオリンもむっちゃいいなぁ、みたいな。

そういう中で、シャンソン・フランセーズのぶれない軸、というか、決して変わらない基盤、みたいな部分を、常連の和田ひできさんや、三橋さん、中島佳代子さんなんかが支えている気がしたんだよね。今回、伝承ホールの上手側の桟敷席、という、客席と舞台を横から眺めることができる席に座ったんですけど、この席は、正面を向くと、自分の右耳から舞台の声が聞こえて、左耳から、ホールに響いて戻ってくる声が聞こえる。そういう意味で、会場自体を圧倒的に鳴らすことができる、和田さん、三橋さん、中島さんの安定感には感動しました。会場から戻ってくる音の豊かさが素晴らしい。ホール全体がガンガン鳴る、といえば、関定子さんがとにかくすごかったけど、今回はちょっとゲスト歌手感が強かったかな。久利生悦子さんが歌った「思い出のサントロペ」は、以前大津が歌ったコール・ポーターの「ミス・オーティスの嘆き」にシチュエーションが似ている、ということで、一度ちゃんと聞きたかったんだけど、ゴージャス感の半端ない久利生さんの歌唱で聴けてよかった。

田中さんは、「もうネタ切れ」と言い続けているみたいなんですけど、いいと思うんですよ、同じネタ繰り返していても。同じネタをやったとしても、それは決して以前のままではない。歌い手が変わり、伴奏者も変わり、同じ歌い手でも声の表現が変わり、同じ表現は二度とない。聴衆はその変化の中に、時間の残酷さと、時間の豊饒さを感じ取るんです。だから、続けることには意味がある。知子さん、本当にお疲れさまでした。シャンソン・フランセーズ、知子さんのライフワークとして、ずっと続けてください。老人ホーム舞台にした黄昏のシャンソン・フランセーズ、みたいなネタでもいいから。

YUIMETALがBABYMETALをアイドルにしていたんだよ

YUIMETALが水野由結さんに戻る、と言う報道が出て、一夜明けました。昨夜、この日記にこのニュースについて書こうかな、と思ったんだけど、全然頭の整理がつかなくて何も書けなくなっちゃった。一夜明けて、ちょっと整理できてきた気もするので、書いてみますけど、まだぐちゃぐちゃな部分もあると思う。でも何かしら書いてみます。東京ドーム公演あたりから現場に行きだした私ですらそうなんだから、8年間追いかけてきたメイトの人たちは本当に悲しいだろうなぁ。

YUIMETALが、「カワイイメタル」「アイドルとメタルの融合」といわれるBABYMETALの、「カワイイ」「アイドル」の部分を受け持つ柱になっていた、というのは、多分誰もが認めることだと思う。SUMETALのパワフルなボーカルと美しさ、最近とみにダンスにパワーが増し、かつ美貌に磨きがかかってきたMOAMETALの二人が、アイドルからMETAL QUEENへ変貌していくのに比べて、YUIMETALのダンスは、パワーではなくむしろ、最小限の動きで最大限の表現をするキレ味の鋭さと、一つ一つの動きが無駄なくつながっていく流れのよさが持ち味だった。さらにその少女らしさの抜けない可憐な顔立ちと、3人の中でも際立っているボケっぷりで、YMY(ゆいちゃんまじゆいちゃん)、という、実にアイドルっぽいニックネームがつくくらいに、YUIMETALはBABYMETALの「カワイイ要素」の象徴だったと思う。

もう一つ、YUIMETALをアイドルとしてのカリスマにしていた要素が、彼女自身が持っている「物語」の力。多分どんなアイドルでも、下積みの苦労だったり、メンバー同士の絆だったり、大きな苦難を乗り越える力だったり、そういう何かしら奇跡のような感動の物語を持っているもので、アイドルを応援する人たちはみんな、そんな物語にのめりこんでしまう。BABYMETAL自体が、ソニスフィアの奇跡、と呼ばれる伝説の舞台を経て世界のメタルバンドに成長していく物語の中で、常に語られるのが、武道館で巨大なセットから落下したYUIMETALの挿話。終盤の「ヘドバンギャー!」のパフォーマンスの途中で、YUIMETALが、セットの隙間から、数メートル下に落下。残る二人でパフォーマンスをやりきり、続く「イジメ、ダメ、ゼッタイ」で、笑顔でステージ上に戻ってきたYUIMETALが全力のパフォーマンスで会場を圧倒したエピソード。BABYMETALという物語の中で、YUIMETALという人は、何かしらの苦難を自分の努力とその真面目さで乗り越える、という役回りを与えられた人だった。

そういう意味でも、YUIMETALという人は、BABYMETALの中の「アイドル」のコアになっていたんだと思う。SUMETALのお姉さんで、元乃木坂だった中元日芽香さんが、卒業にあたって、「アイドルとは」という持論を語っていて、引用すると、

 

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アイドルの一番のウリは
素のキャラクターと
仕事への"姿勢"なんだと思います。
 
シンガーには敵わないし
ダンサーには敵わないし
芸人には敵わない。
 
パフォーマンスが完全でない分
いかに目の前のことに真摯に取り組むかが求められている職業

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と言っていて、YUIMETALは、優れたダンスパフォーマンス能力を持ちながら、さらに「目の前のことに真摯に取り組む」姿勢を崩さない、真っ直ぐで真面目な努力家で、日芽香さんのいう、アイドルとしての仕事の姿勢を持った人だった。

YUIMETALが水野由結さんに戻った後、どんな人生を歩もうとするのか、それは彼女自身が決めることなんだけど、別にまた無理して芸能活動に戻ってこなくても全然いいと思う。自分の選んだ道が正しい道。いっぱい寄り道をすればいい。日芽香さんは、メンタルを患った自分の経験をもとにして、心理カウンセラーとして活動されているらしいけど、弱い人に寄り添う日芽香さんらしい、本当に素敵な選択だと思うし、さくら学院の先輩には、日本一ファンの多い茨城の看護師さんもいる。さくら学院の担任の森ハヤシさんが、最近のトークイベントで、「さくら学院の父兄さん(ファン)は、誰もさくら学院の生徒が有名になってほしい、なんて思ってなくて、生徒が幸せになってほしい、と思っているんです」と言っていて、水野さんのファンも、みんなそう思っていると思います。水野さんが、さくら学院のイベントにOGとして遊びに来てくれて、楽屋でみんなと一緒に笑顔で映っている写真を、1年に1回見られたら、もうそれ以上の幸せはないんです。水野さん、YUIMETALとしての8年間、本当にお疲れ様。最高の時間をありがとう。これからあなたが歩む道が幸せでありますように。

インフラ投資を軽視しちゃだめだよ

世の中ではCS、とかいうイベントをやってるらしいけど、なんのスポーツの話ですかね。まぁよく知らないけど、どこかの関西球団が、またぞろストーブリーグをにぎわせているようで、本当にいい加減にせいよ、と思いますが、今日はそういう愚痴を書きたいわけじゃなく、もっとまじめな話を書きます。まじめな話。

就職協定を廃止する、というニュースがあって、それはそれで一つの方向性かな、と思うのだけど、その報道の中で、どこかの会社の経営者が、「入社後時間をかけて社員を育成するより、即戦力が欲しい」というコメントを出していて、そういうことを言ってる会社はダメだな、と思ってしまう。経営の合理性=経済合理性だけを追求すれば、優秀な社員に育つかどうか分からない新人教育にコストをかけるのはいかにも無駄、と思うかもしれないけどさ。じゃあ逆に聞くけど、その「即戦力」っていう人ってのは、誰がどこで教育してくれるんですかね?

お前のそういう考え方が古いんだよ、と言われるかもしれないけどね、この経営者のコメントを聞くと、人材教育、という企業のインフラ整備に当たる部分を他の人に押し付けて、その人が育ててくれた人材をかっさらおう、と言ってるようにしか聞こえないんです。もし本当に企業が人材教育を放棄して、即戦力ばっかり欲しがるとしたら、本気で人材教育に力を入れている企業は馬鹿を見ることになる。育てても育てても他の企業に人材をかっさわれるなら、教育自体無駄、と思う企業がどんどん増えてくる。そうして全ての企業が、人材教育を放棄して即戦力ばっかり欲しがったら、誰が新卒の学生を現場で鍛えてくれるんですかね。それは大学の役割だ、なんていう企業もいるかもしれんけど、大学の机上で学ぶ疑似体験が、現場で役に立たないなんてのは企業人の常識でしょうに。戦力になる社会人を育てられるのは、企業の現場しかないんだよ。

同じような議論が、私が属している通信業界で盛り上がった時期があって、いわゆる「ユニバーサルサービス」という議論です。日本全国津々浦々に通信網を張り巡らせて、その通信インフラを維持していくのは誰の責任なのか、という議論。当時のNTTが、かつての電話加入権資産によって構築した通信インフラを拡大維持していくには相当のコストがかかる。でも誰もそんなインフラの維持コストを負担したくない。人の作ったインフラをその都度借りて、最低限の設備投資で通信サービスを提供したい、と思う。

通信の世界では、そういうインフラ維持費用を、「ユニバーサルサービス費用」ということでみんなで負担しあいましょう、ということで議論は決着したのだけど、人材教育、というのも同じだと思うんだよね。誰かが、「この技術を支える人材を育てて、技術を継承するのがわが社の使命だ」と思って必死に頑張っているのに、そうやって育てた人材を「即戦力」の名のもとに高給エサにかっさらっていくのであれば、それは美味しいところどりの「クリームスキミング」のそしりをまぬかれない。そしてそういう会社が、自分だけが負担している技術維持コストに耐えられなくなってつぶれてしまったり、その技術を放棄してしまうと、困るのは産業界全体だったりするんです。

最近話題になりましたが、資生堂が、歌舞伎専用の化粧品の製造を中止する、というニュースがあった。経済合理性だけを追求すれば、その技術や伝統を維持するコストを一私企業が負担する、というのは非合理なこと。撤退する、というのは企業の経営判断としては非常に正しいのだけど、それでいいのか、と思うよね。同じように思った方々の声のおかげで、資生堂は、化粧品の製造を続ける、と方針転換したようだけど、もしそうなら、この資生堂の事業を何らかの形で支援してあげる仕組みを作ってあげないといけないと思う。少し前に大騒ぎになった同じようなニュースで、古美術の修繕に不可欠な和膠(にかわ)の製造会社が店を閉めて、もう古美術の修繕ができないかも、みたいな話がありましたよね。社会的使命感で、なんとか産業のインフラ技術を維持しようと頑張っているけど、もう無理、と悲鳴を上げている会社は沢山あるんじゃないか、と思う。そういう社会インフラをしっかり支援維持する仕組みとか、社会的使命感の共有、というのが必要な気がします。資本主義、という経済合理性だけで動く社会の仕組みの中では、軽視されがちなインフラ整備を、社会全体で何とか維持していかないといけないんじゃないのかな、と。人材教育っていうのも、社会のインフラを整備するのと同じくらい、日本企業全体で取りくまなきゃいけない大事な使命だと思うんだよ。人材を育てるのってホントに大変なんだぜ。若手が育たなくて、即戦力として期待した助っ人外人が大ゴケしたら、あっという間に最下位に沈んじゃうんだからさ。あれ、何の話だ。

はてなブログに移行したんだけどね

はてな日記が終わる、というので、はてなブログに移行しました。今までもGAGブログで使っていたので、特に問題あるまい、と思っていたのだけど、いきなり、iPadから記事の書き込みができない、というトラブル発生。しばらくPCからの投稿のみになります。新しいサービスに移行するとそういうトラブルがどうしても出てきちゃうんだよね。ネット上のサービスって、常にそういうリスクと背中合わせだと知って利用しないとだめなんだよなぁ。

ということで、いきなり愚痴から始まってしまいましたが、今後はこちらのブログにて、よしなしごとをブツブツ呟いてまいります。今後ともよろしくお願いいたします。

 

2018年度の麻生真彩が本当にいい感じになってきたんだけど

2018年度のさくら学院は、なんといっても麻生真彩の年で、それは彼女が生徒会長ではなくトーク委員長に選ばれ、会場からの応援の拍手が鳴りやまなかった時から始まっている。歴代のトーク委員長と比べても、杉崎寧々に匹敵するか凌駕するほどに、場の空気や流れを自分でコントロールできる支配力とカリスマ性、中元すず香を彷彿とさせる弾けたダンス。そしてなんといってもその歌唱のパワフルさ。個人的には、「My Road」の「返す言葉の棘」の最後の母音のロングトーンのパワーに圧倒されて、今年のMy Roadでこのパートを誰が歌っているのか気になってしょうがないんだけど。

 

そんな麻生真彩が、年度冒頭に迷走したのも当然のことで、毎回のFresh マンデーで、今まで真っ先に挙手していた彼女が、後輩たちの後ろに回ろうと一生懸命周囲を見回している姿が、健気でもあり、どこか無理しているような感覚もあった。そのちぐはぐさをなんとかほぐそうとして、森先生企画のヒゲダンスが大コケしたあと、麻生さんはFreshの現場が怖くなってしまったんじゃないか、と心配していたりしたんだけど、あの伝説の一人回、「ぼっちでマンデー」で、他に気を遣うことなく自分の力をのびのび発揮できて、それからすっかりいい感じになってきていて、本当に安心して見られるようになってきた。もともと後輩への目配りも十分できる人だし、後輩たちの信頼感が画面から漂ってきて、麻生さんがいる回の安定感が素晴らしい。

 

と、麻生さんに注目していたら、最近、新谷会長のポジションの絶妙さもいいなぁ、と。新谷会長はボケのポジションなんだけど、どこかで常にほんわかした優しい存在感で、引っ張る麻生さんと、後ろからメンバーを優しく見守っている新谷さん、という関係性が見えていて、あのホラー回の最後に見せた新谷さんの涙とか、こちらが本当に癒される雰囲気を作ってくれる。この二人のバランスが本当にいい。

 

2018年度はとにかくライブの回数が少なくて、それが結構心配なような、ひょっとして卒業公演の一部地方公演のためにその前の公演回数を抑制しているのかな、と思ったり。学院祭は1日公演、ということなんで、ライブビューイング狙いで行こうと思っています。中2の四人もいい感じだし、転校生も個性的だし、小6の2人も成長著しいし、やっぱり追いかけ甲斐のあるアイドルなんだよねぇ。まじはまっとる。

ガレリア座第31回公演「小鳥売り」〜役が好きになるって、幸せなことだよね〜

ガレリア座の公演、「小鳥売り」が終演。台風接近で首都圏の鉄道が次々運休する中、練馬文化センターに足を運んでくださったお客様に、まず感謝。とにかく冒頭から舞台に対する反応が本当に温かくて、その温かな拍手や笑い声に乗せられて、本当に気持ちよく演じることができました。


トランペット吹きのマナちゃんが、とっても素敵な写真を撮ってくれました。

ガレリア座オペレッタに出会って、いろんな役を演じてきたのだけど、そんな中でも印象に残っているのが、「天国と地獄」のジュピター、「乞食学生」のオルレンドルフ、「美しきエレーヌ」のカルカス、「ヴェニスの一夜」のデラックア。今回やらせていただいた、ヴェプス男爵、という役も、これらの役と共通項があって、要するに権力をふりかざして民衆から金や色をむしり取ろうとする小悪党なんだよね。これらの共通項を持ったキャラクターを、少し前の日記で、イタリアに古くから伝わる「コメディア・デラルテ」の「パンタローネ」という、ステレオタイプのキャラクターの系譜を継ぐものじゃないか、みたいなことを書きました。でも、そういう伝統的なステレオタイプ、という位置づけだけでなく、ヨーロッパ各国に共通する風刺精神や諧謔精神が、金や色に汚い権力者を舞台上で笑いものにする、という仕掛け自体を必要とした、という側面も勿論あると思う。実際、オッフェンバックオペレッタには、ジュピターを初めとして、当時の最高権力者であるナポレオン三世を笑いものにするためのキャラクターが沢山出てくるし。

でもね、この小悪党たちが、本当に人間臭くて憎めなくって、やりがいがあるんですよ。その役についてすごく深掘りしたくなるし、このオッサン、どんな奴なのかなぁ、と思いながら役作りをしていくプロセスが楽しくて仕方ない。ヴェプス男爵なんてね、ドイツの小さな領国を口八丁手八丁で渡り歩いていて、ある程度事務処理能力も高いし、色んなイベントとか上手に仕切ったりするんだろうけど、出入りの業者から袖の下もらってたのがばれたり、宮廷の女官に手を出したりして、その領国から逃げ出して、みたいなことを繰り返してたと思うんですよ。爵位も貴族の中では最低位の男爵どまりだし。で、妹かお姉さんがうまく嫁いだ先の伯爵家を頼って、ライン・プファルツの大公家に家令みたいなポジションで雇われていて、相変わらず袖の下取ったり女の子のお尻追いかけたりはやめられない。そして、同じようなチャラい生き方をしている、伯爵家の跡継ぎで自分の甥っ子のスタニスラウスが、もう可愛くて仕方ない。

そんなことは台本には全然描かれていないんだけど、そういう書かれていない裏歴史みたいなのを考えたり、色んなセリフをアドリブで付け加えたりするのが楽しい。やっぱりこういうオヤジって、外見の威厳みたいなのに拘るから、髭生やすだろう、なんて思って、生まれて初めて髭生やしてみたり、昔はドンファンとしてならした、とは言え、ちょっと女性の口説き方は古臭いところがあるだろうから、求愛のセリフは歌舞伎調にするとそういうニュアンスが出るかな、とか。そういうことを考えさせてくれる役って、やっぱりやりがいのあるいい役、だと思うんです。(ちなみに、アドリブで付け加えた「ピコ太郎」ネタにちゃんと反応してくれた優しいお客様にも本当に感激しました。大感謝。)

昔、お芝居をやっていた時に、共演したプロの役者さんから、「北さんはそれなりに声色の引き出しとか、技術の引き出しがあるから、演技プランに煮詰まってしまった時に、そういう技術に頼っちゃうんですよね」と言われたことがあります。でも、今回のヴェプス男爵では、自分の技術とか、声の色やテンポ感をどうするか、みたいなことはあまり考えずに、この胡散臭いオヤジはこういう時どうするだろう、というのをひたすら役に寄り添って演じていた気がする。それが楽しいと思えたってことは、本当にこのヴェプス男爵っていう役が好きだったんだなぁ、と、演じ終わってみてから改めて思ったりします。

役作りのプロセスでは結構癇癪持ちで、色々周囲を不愉快にさせることも多かったですが、我慢して付き合ってくださった共演者の皆さん、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。いつまでたっても発展途上の歌唱に辛抱強くダメを出し続けてくれたマエストロ、それを支えてくれたオケのみんな、素敵な舞台を作り上げてくれたいつもの裏方スタッフさんたち。そして、このヴェプス男爵、という愛すべき役を、私に演じさせてくれた主宰の八木原くんに。本当にありがとう。そして何より、この役を一緒に愛してくれたお客様一人一人に、ありがとうございました。

一つ終わって、また次のこと。役者の醍醐味は、色んな人の人生を疑似体験できること。その楽しみを探して、また新しい舞台に挑戦していきます。今後ともよろしくお願いいたします。やっぱり舞台っていいなぁ。


二幕舞台。本当に綺麗な舞台でした。

「透明なゆりかご」、とか、「グッド・ドクター」、とか

医療もののドラマっていうのは人気があるんですねぇ。汚いものも綺麗なものも含めて、人間の本質が一番露骨に表面化する瞬間っていうのは、人の生き死にに関わる瞬間とセックスに関わる瞬間で、映画やドラマがその二つを永遠のテーマにしているのは多分そういう理由。セックスに関する描写が自己規制のせいで制限されている昨今、医療ドラマが人気なのは、それが今、テレビドラマという表現の中で、人間の本質を描ける一番いい題材だからなのかな、とも思う。

少し前に最終回を迎えた「グッド・ドクター」にはかなりハマりました。娘は最近首まで浸かってしまっているTEAM NACSの戸次さん目当てに、私は、さくら学院の卒業生の松井愛莉さん目当てに見てたのだけど、とにかくどの役者さんも存在感があって本当に素敵。真ん中にいる山崎賢人さんや上野樹里さんの演技が素晴らしいのは勿論なのだけど、子役の役者さんたちがみなさん達者で、それにもすごく泣かされました。8話でお兄さん役で出ていた池田優斗君の複雑な感情表現、最終話の松風理咲さんのひたむきな演技には脱帽。さらに、戸次さんを初めとして、2話の黒沢あすかさん(塚本晋也さんの「六月の蛇」に出てた性格女優)、院長役の柄本明さんなど、脇役の演技も重厚。そういう中で、松井愛莉さんが本当に自然体のいいお芝居をやっていて、さくら学院にいた頃は本当に何もできなかった松井さんが、いい役者さんになったなぁ、なんて思ったり、8話でお母さん役で出ていた酒井若菜さんが、実はグラドルだった頃から結構好きだったんだけど、本当にいい女優さんになっちゃったなぁ、なんて思ったり、おじさんなりの色んな感慨もあった。

そして、今日、帰宅して、偶然テレビをつけたら、懐かしい鈴木杏さんがお母さん役をやっている「透明なゆりかご」の最終回をやっていて、もう号泣してしまって困ってしまう。鈴木さんの目には魔力があるね。あの大きくて透明な目から、一粒涙がこぼれるだけで、もうこちらはボロボロ。このドラマでも酒井若菜さんがお母さん役をやってるんだね。酒井さんって、なんか富田靖子さんみたいなポジション占めつつあるんだなぁ。

女房の実家が小児科医で、義兄が新生児医療のエキスパートだ、ということもあって、こういう医療ドラマ、特に子供の病気を題材にされると、それだけでなんとなく思い入れてしまう、というのもあるんですけど、やっぱりこういう物語に入れ込んでしまうのは、ふゆちゃんのことがあったからだな、と思います。娘の幼稚園の同級生で、脳腫瘍で6歳で亡くなったふゆちゃんは、年をとった者が先に死ぬ、という条理が、決して絶対ではない、ということを私に教えてくれました。吉田秀和の「たとえ世界が不条理であったとしても」を読んだ時にも、ふゆちゃんのことが頭をよぎった。どれだけ世界が不条理だったとしても、僕らはこの世界で前を向かなければならない。病気と闘う子供たちはみんな、僕らにそういう心の力をくれる天使なんだと、本当に思う。