シャンソン・フランセーズ 7 ”La Vie ~人生~” ~やっぱり続けないと~

BABYMETALのYUIMETAL脱退のショックがまだ抜けてないんですが、身近な友人の中で、この手の話にシンパシー持ってくれる人が二人いるんです。一人はガレリア座で、先日の「小鳥売り」でスタニスラウスをやったS藤さんで、彼はハロプロの沼にはまっている。先日彼と、YUIMETALが脱退した喪失感について、「やっぱり推しが脱退するのは沁みますよねぇ」「でも、沼はハマったらとことんハマった方が楽しいですよねぇ」なんて話でしみじみしてしまった。

で、もう一人が、シャンソン・フランセーズの仕掛け人、ピアニストの田中知子さん。知子さんは私のBABYMETALやらさくら学院なんかよりはるかにキャリアの長いモノノフ(ももクロのファン)で、今年の1月に有安杏果さんが卒業宣言した時にかなり落ち込んでらっしゃって、ああ、YUIMETALが卒業したらオレもこんな感情ミルフィーユ状態になるんだろうなぁ、と、あの頃から予感はあったなぁ。

でもね、BABYMETALも新体制宣言したしさ。ももクロは、百田さんが、「スマップとかTOKIOとかの男性アイドルさんみたいに、40代になっても50代になってもアイドルとして頑張ってる女性アイドルの先駆けになりたい」みたいなことを言っていて、やっぱり続けることって大事だと思うんですよ。安室さんだって、あのクオリティでここまで続けたことで生まれるオーラとか、発信力とかあるわけだし、松田聖子という怪物もいる。続けていくこと、守り続けていくことで、生まれてくるパワーとか感動とかって、あると思う。

それって多分、グループとしての成長、だったり、企画としての変遷、という、時間とか歴史が生み出す、多層的な意味空間だと思うんだね。同じ楽曲でも、あの人とこの人が歌うことで違う意味が生まれたり、新しくこの人があの歌を歌うのか、という感慨とか、新しい発見があったり。これまでここにハマっていたピースが、別のピースに入れ替わった時に生まれる化学変化とかさ。というわけで、今日のテーマに戻ってくるぞ。アイドル論じゃないぞ。先日、10月24日に渋谷の伝承ホールで開催されたシャンソン・フランセーズの感想だ。

モノノフの田中知子さんの仕掛けるシャンソン・フランセーズも、今回が七回目。うちの女房が出ている、ということで、過去の公演を何回か拝見しているんだけど、今回は、かなり新しいメンバーが加わって、それが、結構多層的な意味空間を生み出していた気がする。私が見てきたシャンソン・フランセーズの一貫したテーマ、というのが、時間、ということで、時間の流れに枯れ葉のように弄ばれる人の人生の儚さや、そんな流れに抗いながら大切なものを頑なに守ろうとする人の意地。それが、今回、新しいメンバーの参加で、別の意味でふわっと浮かび上がってきたような気がした。

象徴的だな、と思うのが、三橋千鶴・大津佐知子・植木稚花、という3人の歌い手の扱いで、シャンソン・フランセーズの重鎮、ともいえる三橋さんが、今回はトリを歌っていない。むしろ全体の物語の語り部という立ち位置で、確かな歌唱と存在感で全体の柱になっている。そこに、植木稚花、という若々しい歌い手が、その三橋さん演じる老いた歌い手の若い頃、という立ち位置で現れる。その対比の中に、大津佐知子がトリの「私の神様」を歌う、という構成が、すごく面白かった。歌い手としてまだ発展途上で、ギリギリの表現の限界を見極めようとするような大津の歌唱自体が、シャンソン・フランセーズ、というシリーズ自体が、化学実験のように、まだまだ様々な個性や可能性を実験しつつ成長していこうとしていることを象徴しているような。その成長の原点には植木さんの溌剌とした若さがあり、その成長の頂点には三橋さんの円熟の芸がある。そして、その道の過程の一つとして、大津の挑戦する表現がある。大津自身が、最初にシャンソン・フランセーズに参加した時に、ちょっと色物の「キャラメル・ムー」から飛び込んで、「私の神様」を歌うまでになった成長物語と、その「キャラメル・ムー」の時に大津が着た同じ衣装を着て、今回初参加となった植木稚花の今後の成長物語とか、なんかアイドルの成長物語っぽくないかい?

もう一つ、新たな血を感じさせたのが、バイオリンの西田史朗さん。とにかく自在。浅草オペラで山田武彦先生の自由さに触れた時にも思ったけど、自由な人が自由な人と出会った時の化学変化って、本当にすごいね。山田武彦さんと浅草オペラ、西田史朗さんと田中知子さん。こういう幸福な出会いの場に居合わせる興奮っていうのも、長く続いたシリーズの醍醐味かもしれない。えびさわなおきさんのアコーディオンもかっこよかったけど、西田さんのバイオリンもむっちゃいいなぁ、みたいな。

そういう中で、シャンソン・フランセーズのぶれない軸、というか、決して変わらない基盤、みたいな部分を、常連の和田ひできさんや、三橋さん、中島佳代子さんなんかが支えている気がしたんだよね。今回、伝承ホールの上手側の桟敷席、という、客席と舞台を横から眺めることができる席に座ったんですけど、この席は、正面を向くと、自分の右耳から舞台の声が聞こえて、左耳から、ホールに響いて戻ってくる声が聞こえる。そういう意味で、会場自体を圧倒的に鳴らすことができる、和田さん、三橋さん、中島さんの安定感には感動しました。会場から戻ってくる音の豊かさが素晴らしい。ホール全体がガンガン鳴る、といえば、関定子さんがとにかくすごかったけど、今回はちょっとゲスト歌手感が強かったかな。久利生悦子さんが歌った「思い出のサントロペ」は、以前大津が歌ったコール・ポーターの「ミス・オーティスの嘆き」にシチュエーションが似ている、ということで、一度ちゃんと聞きたかったんだけど、ゴージャス感の半端ない久利生さんの歌唱で聴けてよかった。

田中さんは、「もうネタ切れ」と言い続けているみたいなんですけど、いいと思うんですよ、同じネタ繰り返していても。同じネタをやったとしても、それは決して以前のままではない。歌い手が変わり、伴奏者も変わり、同じ歌い手でも声の表現が変わり、同じ表現は二度とない。聴衆はその変化の中に、時間の残酷さと、時間の豊饒さを感じ取るんです。だから、続けることには意味がある。知子さん、本当にお疲れさまでした。シャンソン・フランセーズ、知子さんのライフワークとして、ずっと続けてください。老人ホーム舞台にした黄昏のシャンソン・フランセーズ、みたいなネタでもいいから。