文学と音楽と~ドビュッシーとマスネと~

自分がやっているオペラ、歌、というのは、言語と音楽が融合した芸術なので、この「言語」と「音楽」という2つの異なる表現の間で悩む瞬間が必ず出てきます。特に自分がやっていた「日本語でオペラをやる」という活動では、訳詞、という別の問題が出てきてこれが凄く悩ましかったんですね。オペラの原詩はもともと「詩」という芸術作品なので、これを日本語にしてさらに原曲の音価に沿わせていかないといけない、というのが大変な作業で、毎回のオペラ公演で常に大問題になりました。メロディに乗せることでただでさえ何を言ってるのか分からなくなりがちなので、ある程度原詩の芸術的・文学的な言い回しを犠牲にして、身も蓋もないシンプルな言葉に置き換えたり、オペラでよくある、同じ歌詞を違う旋律で何度も繰り返す所で少し言葉を変えて、何らかの芸術性を担保しようとしたり、逆にそこを利用して状況説明の言葉を付け加えたり。

最近読み耽ってた青柳いずみこ先生の「ドビュッシー 想念のエクトプラズム」を先日読了。この「文学と音楽」という2つの異なる芸術の間で生涯苦悩したドビュッシーの姿を活写することで、より普遍的な「文学と音楽」という、歌い手にとって最もセンシティブなテーマに切り込んでいく青柳先生の文章が名文すぎて、この本自体が論文でありつつ芸術作品になっている、という二面性を持った本。二面性、というのもこの本の大きなテーマなので、もうドグラマグラのようなめくるめく知と音楽の冒険書。「犬として育てられた猫のよう」とか、「作曲家として育てられた演奏家のようにして作曲した」みたいに、分析的に無茶苦茶わかりやすいのに比喩の芸術性がすごく高い文章が、これでもかとばかりに続いていく。その文章の持つ力の根源にあるのは、青柳先生ご自身が、フランス文学者のご家庭に育ちながら、ピアニストとして一流の演奏家である、という、筆者自身のアイデンティティの二重性。それが、「ジキルとハイド」と言われたドビュッシー自身の二面性と重ねて自覚されている所から来ている。そういう自己分析ですら研究者の冷徹な視線で語られていて、最後のページを読み終えた後、久しぶりに読了後のずっしりとした恍惚感に浸りました。

当時の最先端だった世紀末フランスのデカダンスの潮流にどっぷり浸かった文学青年だったドビュッシー。オカルトにものめり込んだ彼は、終生、エドガー・アラン・ポーのゴシックホラー「アッシャー家の崩壊」のオペラ化に取り組み、そしてその文学への愛情の深さ故にそれを果たすことができなかった。それは彼が、ポーが生み出したおどろおどろしい世界を愛するがあまり、作曲家としてよりも、その文学世界を解釈する文芸評論家として、自分の解釈を音楽にしようとしてしまったこと、そしてそのための道具として彼が持っていた音楽言語が、不安や恐怖を描き出す道具としてふさわしくなかったから、という青柳先生の分析には、表現者が必ず直面する永遠の命題が提示されているようにも思います。女房に言わせると、ドビュッシーの歌曲って、言葉に寄り添い過ぎていて「全編レチタティーヴォみたい」なんだそうです。世紀末デカダンスの騎手ヴェルレーヌの「月の光」という詩に、ドビュッシーフォーレも曲を付けているそうなのだけど、カタルシスが全然違うらしい。でもそれって、詩、言葉というものと不可分なオペラや合唱曲、歌曲に向き合う時に、歌い手が必ず直面する課題だったりする。歌をやってると、歌詞の解釈や世界観に酔ってしまって、楽譜に書かれた音符やフレーズの意味、作曲者の意図をそっちのけにしてしまい、結果的に言葉が不明瞭になる、なんていう経験がいっぱいあります。言葉ってそれだけで結構強い力を持つ表現手段だから、抽象度の高い音楽という表現手段を簡単に飲み込んでしまうんだよね。

文学と音楽、という切り口でいうと、先日観劇した江東オペラの「ウェルテル」も素晴らしいパフォーマンスでした。ゲーテの傑作にしてベストセラー、当時の欧州に自殺ブームを引き起こした青春小説の傑作。だけどこれがマスネの手にかかると、堂々たる昼ドラ風メロドラマになっちゃうんだよねぇ。恐らくはドビュッシーができなかったのはこういうことで、文学作品の持つ芸術性や哲学性、世界観とかにこだわってしまうと作曲家としての仕事が出来なくなってしまう。マスネは極端としても、どこかで自分の持っている音楽技術や表現に引き寄せないとオペラも歌曲も書けないんだろうな。青柳さんの本の中で、そういう手練手管に長けた作曲家としてリヒャルト・シュトラウスが上がっていて、ドビュッシーが彼のことを「詐欺師」と呼んだという分かりやすい逸話が紹介されてました。

「ウェルテル」の公演ちらしです。

マスネのメロドラマの中で軸になるウェルテルとシャルロッテの2人を、江東オペラの主宰者である土師雅人さんと竹内恵子さんが好演。竹内さんのしっとりと豊かで肉感的なメゾの声が、人妻の苦悩を歌うシャルロッテにぴったり。そして土師先生のウェルテルは出てきた時から、コイツ死ぬな〜っていう蒼白いオーラがメラメラ上がってる感じ。歌唱も、会場全体がガッツリ底鳴りする圧巻のパワーで、確かに頭撃ち抜いても20分ぐらいは平気で歌えそうな感じしました。

残念だったのは、前半のロミオとジュリエットをご覧になったお客様が、後半のウェルテルを待たずに大勢帰ってしまったこと。客席が一気に寂しくなってしまって、これが本当に残念だった。こういうチケットの売り方も感心しないし、こういう観劇の仕方ってのも感心しないなぁ。友達の出ている舞台を見に来て、ついでに見たステージや共演者の素晴らしいパフォーマンスに感激する、なんてことはよくあることで、そうやって自分の経験値や知識を増やしていくのが舞台を楽しむ醍醐味なのに、自分でその世界を身内の発表会見て満足するレベルに留めてしまうのは、歌い手にとっても観客にとっても不幸だと思います。

陰鬱な物語の中で、唯一明るい光を放っているシャルロットの妹ゾフィーを演じた我が女房どの。抜粋上演とはいえ、しっかり演出もついたオペラ舞台を演じること、そしてマスネの流麗な音楽を目一杯楽しんだようです。まだ10代の明るいお嬢さん、という設定のおかげで、やけに早口のパッセージが多かったらしく、暗譜にはかなり手こずっていたのですけど、終わってみれば「楽しかったなぁ」「またやりたいなぁ」としきり。光があるから影が際立つ、という、これも実に舞台効果を計算した、ある意味あざとい昼ドラ風の設定だけど、やっぱりこのゾフィーの明るさと、彼女の声を中心に響くクリスマスの明るい讃歌の中で死んでいくウェルテルっていう構図は胸を打ちますねぇ。愛する人に受け入れられず孤独に死ぬウェルテルと、人の原罪を背負って死ぬキリストの誕生の讃歌を重ねることで、ウェルテルをキリストと重ねたのかなぁ、と女房に言ったら、マスネはそこまで考えてないと思う、と速攻却下されました。考えすぎるとドビュッシーになっちゃうもんね。

ウェルテルの出演者と指揮者の伊藤先生。土師先生、自殺するお芝居楽しそうだったなぁ。