ガレリア座「ホフマン物語」と、東京シティオペラ協会「2つのオペラ」〜フランス音楽の異端と純粋と〜

最近またぞろこの日記の更新が滞っていて、色々と追い付いていない感満載なんですが、とりあえず、滞留中に終了した、ガレリア座の公演、「ホフマン物語」と、女房が出演した、東京シティオペラ協会「2つのオペラ」の感想を、2つの演奏会を比較しながら書きたいと思います。並べてみると、これがまた面白い比較のできる題材になりました。まずは、「ホフマン物語」から。
 

第一幕、オランピアの幕で、自分の作った人工の目のすばらしさを歌うコッぺリウスのアリア。ガレリア座の照明を長く担当してくれている、寺西さんの夢のような照明テクが光ります。

22年前にガレリア座が、無謀ともいえる全幕オペラ上演に挑戦したときに取り上げた、「ホフマン物語」。以来、オッフェンバック作品の上演は、ガレリア座の主宰者である八木原さんのライフワークの一つ(もう一つはカールマン作品の上演)になり、過去、「天国と地獄」「美しきエレーヌ」を上演しています。ガレリア座にとってはなじみの深い作曲家なのだけど、北としては、今回の練習で八木原さんが口にした、「オッフェンバックっていうのはね、ドイツ人なんですよ。だから構造的にとてもしっかりした音楽を書く。ある意味フランスっぽくないんです」という言葉が、妙に心に残っています。22年前はそんなこと考えもしなかったんだけどね。

オペレッタという表現方法を発明し、19世紀末パリの舞台芸術の最先端を作り上げたクリエーター、オッフェンバック。今までは割と普通に、フランスの音楽家、という風にしかとらえていなかったのだけど、言われてみて突然その音楽の違和感に気づいた気がしました。確かに同じフレンチオペレッタでも、シャルル・ルコックの「小侯爵」とか、メサジェの「ヴェロニク」なんかとは根本的に違うものが加わっている気がする。なんだか和声感や、音楽のフレーズ感が違う気がするんだね。ルコックにせよメサジェにせよ、なんだかウネウネする感じがあるんだけど、オッフェンバックにはそれがない。むしろ男性的でがっちりしている。あの有名な舟歌とか、結構ウネウネした音楽のように聞こえるけど、純粋なフランスの重唱のウネウネ感とはどこか違う。

そういうオッフェンバックのドイツ的な特徴がとてもよく出ているのが、男声の重唱とか合唱の作り方で、「美しきエレーヌ」の、アガメムノン・カルカス・メネラウスの3重唱とか、「ホフマン物語」の第三幕の男声三重唱とか、ものすごく構造的にがっちり作ってある。プロローグ・エピローグの男声合唱とか、一つ間違うと、ウェーバーの「狩人の合唱」みたいな響きが聞こえたりする。

オッフェンバックの音楽の基礎が、パリにとってはまさしく異邦人のドイツの音楽だった、という点こそが、当時のパリの文化に革命をもたらすことができた要因の一つなのかもしれない。結局のところ、文化にブレークスルーをもたらすのは外からやってくる異端の視点を持った表現者で、19世紀パリの芸術を驚嘆させた日本の浮世絵と同じくらいの衝撃が、オッフェンバックの音楽にはあったのかもしれないよね。「パリ、シャンゼリゼモーツァルト」というオッフェンバックの通称自体にも、そういう「異邦人」あるいは「コスモポリタン」としてのオッフェンバックが垣間見えて面白い。モーツァルトザルツブルグ出身のドイツ語圏の音楽家だったし、欧州全域を股にかけて活動していたコスモポリタンだったわけだから、音楽の才能以外の部分でも、オッフェンバックと重なる。

逆に、日本の浮世絵などの東洋趣味に色濃く影響されながら、純粋にフランス的な音楽を追求した究極の姿を見た気がしたのが、ドビュッシー「放蕩息子」と、ラヴェル「子供と魔法」をカップリングした、東京シティオペラ協会の「2つのオペラ」。


タイトルイラストスライドを背景に、出演者全員とイラスト担当のH君の集合写真。本当に素敵な舞台でした!

第一部に上演されたドビュッシーの「放蕩息子」は、22歳のドビュッシーがローマ賞のために精力を注いだ作品だけあって、ドビュッシーにしては大変きちんと作られている気がした。構成もきちんとしているし、クライマックスに向かっていくドライブ感とかは、がっちりした交響曲のフィナーレを思わせる重厚さ。演じられた下村将太さん、小宮順子さん、佐藤健太さん、というお三方が重量級の歌唱を聞かせてくれたこともあったのかもしれないけど、どこかでドビュッシーが、教科書的な、ドイツ的ながっちりした構造的音楽を指向しているような感覚がある。

なんだけど、オッフェンバックとは逆で、根っこにあるのはフランスなんだな〜。どこが、と聞かれても私みたいな素人には答えられないんだけどさ。ドビュッシーの後の作品の萌芽がいたるところで聞こえてきて、いくらがっちり作ってもやっぱり滲み出るフランス人の匂い、みたいなものがあるんだなぁ、と思ってしまう。そういう「フランス的」な感覚を極限まで突き詰めたのが、ラヴェルの「子供と魔法」で、もうこれはどこを切り取っても、フランスそのものって感じがしちゃう。お話もがっつりラヴェルの極私的物語だしね。

それにしても、「2つのオペラ」を聞いた時に、フランス人ってのは本当にマザコンなのかも、と思ってしまった。「放蕩息子」のもとになったキリストのたとえ話は、父親と息子2人のドラマなのに、ドビュッシーの「放蕩息子」はどう聞いても母親と息子の物語になっている(父親はそれをただ追認するだけの添え物って感じ)。罪深い息子を無限の愛で許してくれる母親、というテーマは、第二部のラヴェルの「子供と魔法」にも通じる。そういう意味で、フランス人の深層心理が垣間見える面白いカップリングだなぁ、と思いました。企画の小宮順子先生のセンスに脱帽。

ホフマン物語」がドイツ的だな、と思うのはそういう部分もあったりしてね。「ホフマン物語」の3人のヒロインは、あくまで主人公ホフマンの想い人にすぎなくて、ホフマンの人生そのものを許したり救ったりする存在じゃない。傍らで見守るミューズは中性的な存在で、決して母性的な存在ではない。そしてホフマンは、あくまで自分の力と意思で、芸術に身を捧げることを決意する。なんとなく、ドイツ人というのはどこかで男性的なものへの畏敬が強くて、フランス人には女性的なものへの畏敬が強い気がする。

そう思って、ネットで、「フランス人 マザコン」と入れて検索してみたら、「フランス人男性は例外なくマザコンなので、日本人女性でフランス人男性と結婚を考えている方は気を付けましょう」という記事がわさわさ出てきました。そーなのかー。しかし、イタリア男性も例外なくマザコンだ、と聞いたことがあるから、ラテン系の人たちと結婚するときにはおしなべて気を付けた方がいいのかもしれないですね。もちろん、息子ができたらその子を思いっきりマザコンに育てることができる、というメリットもあると思いますが。