「シャンソン・フランセーズ10~ようこそ劇場へ」~歌い手の矜持、歌の回帰、物語の森~

昨日、渋谷区総合文化センター大和田の伝承ホールで開催された、「シャンソン・フランセーズ10~ようこそ劇場へ」に伺いました。今では本当に貴重になってしまった「劇場」=「ライブ」という場に戻ってきた作り手達が、この時間に込めた想いや矜持を、生演奏ならではの豊かな音とともに全身で浴びた濃厚な時間でした。

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アンコール、SNSで拡散するのじゃ、とのお告げが金髪ミニスカピアニストから下ったので慌てて撮った一枚。

 

女房がお世話になっていることもあり、毎回のシリーズを欠かさず見てきたこの企画。今までも時々感じましたけど、今回は特に、歌い手の矜持、というか、こだわりを強く感じた気がします。プロデューサ田中知子の「自分のやりたいことをやるんだ!」という強烈なこだわりは、この企画の最大の通奏低音なんだけど、今回はむしろ、歌い手側のこだわりや、何かもっと面白くできないか、とか、もっとこうしたい、という思いの強さを感じた気がした。

実際、女房に聞くと、田中さんが用意した楽曲や構成に対して、歌い手のアイデアや思い入れが舞台の上に結構反映されていたそうです。オープニングの登場の仕方や、演出のちょっとした工夫。衣装の選び方一つにしても、演出や曲の解釈に合わせて帽子から脚の見せ方までこだわる。「振れ幅」を自分のウリにしているうちの女房に至っては、ソロ曲ごとに全部衣装を変えて、おかげで一人だけ舞台に一番近い楽屋(いわゆる早替え部屋)をあてがわれたそうな。

そういう歌い手なりのこだわりや表現への意欲、一言でいうと「矜持」というのが、このシャンソン・フランセーズを支える一つの柱になっているんだなぁ、っていうのを、今回の演奏会で改めて感じた気がしたのだけど、それって、「シャンソンの名曲や昭和歌謡をクラシック歌手が歌う」というこの企画自体が歌い手にとって一つの挑戦に他ならないからなんだよね。簡単に言えば、オリジナルの曲をオリジナルの通りにカラオケみたいに歌っても意味がない、ということ。クラシック歌手が違うジャンルの歌に挑戦する以上、そこに何かしらオリジナルとは違う意味や解釈、別の物語を生み出さないと意味がない。

またちょっと手前味噌になりますけど、今回、女房が歌った「美しい9月」は、シャンソンの女王ともいわれるバルバラの歌った名曲です。でも、バルバラのいかにもシャンソンっぽい低い地声で歌われるこの曲を、ソプラノの女房が歌うとなれば、甘いも酸いも噛み分けたフランスのイイ女が、ちょっと昔の恋を回想しながら歌っている歌にはできない。1オクターブ上の音程で歌われた女房の「美しい9月」は、まさに美しい9月の恋の只中に生きる若い女性のその刹那を歌った悲恋の歌に変貌する。

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この帽子も相当こだわって密林から購入したもの。

 

それ以外にも歌い手に何かしらの「挑戦」やこだわりを求める曲は一杯あって、橋本美香さんが歌った「帰り来ぬ青春」も、ボーイッシュな衣装も相まって、オリジナルにはないどこかユニセックスな端正さを感じたし、つい先ごろ亡くなった弘田三枝子さんの「人形の家」をわざわざバリトン歌手の和田ひできさんに歌わせる、というあたりも、オリジナルとは違うアプローチによって歌の魅力を再発見しよう、という意図を感じる。歌い手は一曲一曲に自分なりの「挑戦」や「新しい解釈」をこめなければならない。それはこの企画の中の「定番曲」(=スタンダード)である「侯爵夫人さま、全て順調でございます」に対しても例外ではなくて、今までの演奏とは違う何かを付け加えようとする。最近の風潮を取り入れたビデオ電話ネタだけじゃなく、アダムス・ファミリーねたを盛りこんでみよう、となれば、歌い手一人一人がそのキャラにどうなり切るかそれぞれに工夫を重ねる。橋本さんはナゾのウサギぬいぐるみを抱え、田辺さんはどこから調達したのか分からない長ギセルをくわえ、和田さんは付け髭を用意する。個人的には、三橋先生が手にしたオタマで魔女鍋をかき混ぜてる演技でww。

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この馬になりたいとずっと憧れていたんだそうです。いいのか。それで本当にいいのか。

 

そういうアプローチを別の言葉で言うと、「リバイバル」ということなんだよね。過去の名曲やスタンダードに違う意味や解釈を付け加えて現代に甦らせる。そう考えると、今回の演奏会全体に流れる一つのテーマが、「リバイバル=回帰」ということだった気がするんです。ようこそ劇場へ、というタイトル自体も、「おかえり劇場へ」と読み替えることもできるし、上述した歌い手の一曲一曲へのこだわりが、コロナ禍という舞台表現に襲い掛かった災厄を越えて舞台に「戻ってきた」という強い思いに支えられていた要素もきっとあると思う。

コロナ禍を越えて「帰ってきた」のは、客席にいた我々聴衆もそう。相山潤平さんのコミカルな演技付きの「ジジ・ラモローゾ~みんなのジジ」が、村のハンサムな歌い手が去ってしまった不幸な村の物語を語り、高橋淳さんが熱く「歌ある限り」を歌い上げると、聞いていた私としては、そこに、「歌=ライブ」を失った現代の自分たちの喪失感と、歌を渇望する思いを重ね合わさずにはいられませんでした。だからこそ、そのあと、同じ「ジジ・ラモローゾ」がリフレインされ、「ジジ」の帰還が告げられると共にメドレーの歌の饗宴へとなだれ込んでいく後半には、「歌が戻ってきた」という感慨と、この場に「帰ってきた」幸福感が重複してしまってなんだか胸が熱くなってしまった。

女房に聞けば、プロデューサの田中さんは、「ジジ・ラモローゾ」のリフレインにそんな「回帰」の意味を込めたつもりはなかった、というのだけど、客席にいて同じ思いを抱いたのは私だけじゃなかったんじゃないかなぁ。田辺さんの「想いの届く日」を、コロナの終息と、再びライブがもっと熱く再開する日を夢見ながら聞いたのは、私だけではなかったと思う。

フィナーレの「生きる時代」、シャンソン・フランセーズでは前回でも演奏された曲だったけど、コロナ禍で歌の意味がすっかり変化してしまった。自分を縛る鎖を解いて自由に生きる、という歌のメッセージは、もともと、人が生み出した様々な制約からの解放を歌っていたのだけど、今この歌が届けるのは、コロナという目に見えない災厄に対して人の心の自由をどう確保するのか、その自由を感じることができる「ライブ=音楽」の場をどうやって守るのか、というメッセージ。客席で思わず涙してしまった私を含めた沢山のお客様の中には、そんなメッセージや物語を心に描いた方が沢山いらっしゃったんじゃないかな、と思います。

作り手のこだわりや強い思いが、名曲たちを現代にリバイバルさせ、そしてそこに、新たな物語が生み出されていく。その物語は、作り手達が想像していなかった新しい種をまき、種は客席のお客様の心でまた新しい物語の枝を広げていく。枯れた大地に歌という水と種が撒かれて、豊饒な物語の森が再生(=リバイバル)していく、そんなイメージを膨らませた、みっしりと濃厚で豊かな時間でした。

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出演者の方からいただいた、夜終演後の出演者の皆さんの集合写真。女房が大変お世話になりました。素敵な時間を本当にありがとうございました!