「クライマーズ・ハイ」〜死の価値、ということ/ジャーナリストであること〜

誰にも、自分が無条件に「反応」してしまうニュース、というのがある気がします。「反応」には色々あって、その時に自分が感じた感情の動きによって違う。なんともいえない不愉快感とか、心揺さぶられる感動とか、思わず思い出し笑いが出てしまうとか・・・世間が大きく取り上げたニュースであるほど、記憶は鮮明で、心の動きも大きくなる。オウム真理教事件阪神淡路大震災911テロといった大事件は当然ながら、最近急に出てきたロス疑惑とか、ピンクレディの引退、とか、85年の阪神タイガースの優勝とか・・・そういう、当時の自分の感性の網にひっかかった事件やニュース、というのは、今になっても胸になにかしら響くものがある。

85年の日航123便墜落事故は、私にとって、そういう「心の騒ぐ」事件の中でも特に大きなものの1つである・・・と感じます。ヘリコプターで救助される生存者の映像に衝撃を受けた記憶など、当時の強烈な印象は勿論なのですが、それだけでなく、85年当時、大学生だった自分にとっても、何かしら象徴的な事件だったような気がする。当時の自分がそんな風に感じていたわけじゃなく、今から思い返せば・・・という後付けの話なんですが・・・

以前書いた、「日本沈没」の感想文の中に、70年代の日本人は破滅への予感や憧憬のようなものを抱えていた・・・といったことを書きました。85年に、日航機が墜落した時、御巣鷹山に展開したのはまさに地獄でした。まさに地獄ではあったのだけど、航空機事故、という、ある意味分かりやすい原因によって生まれた地獄。そういう意味で、阪神淡路大震災のような自然の不条理でもなく、オウム真理教のような人間の心の闇から生まれた不条理でもない。人の作ったシステムの不完全さと、そこに居合わせた人の偶然の不運が生み出した悲劇。運命の残酷、であったとしても、不条理、というのとは少し違う。

そういう意味で、日航機墜落事故は、社会の根底を揺るがす力を持った事件ではなかったと思います。安全神話の崩壊、といった「過去の常識が覆る」大事件ではあったけれど、誰もがわが事として、明日、家のドアを開けて外に出るのが怖い・・・というような、底知れぬ恐怖感を抱くような事件ではなかった。若干ネタバレになりますが、「クライマーズ・ハイ」の中の大きなテーマとしても、命の価値、というテーマがある。大きな事故でなくなった方も、普通に病気でなくなった方も、同じ死であって、価値に違いがあるわけじゃない。でも、我々の中に強烈に残る「死」というものは確実にある。阪神淡路大震災の死と、日航機の死が、私にとってどっちが重いか、といった意味の違い・・・のようなものはどうしても生まれてしまう。「クライマーズ・ハイ」を読了してまず真っ先に思ったのは、一つ一つの死に対して等価に誠実でいる難しさ。

そういう「死の価値」という点から見た場合、日航機墜落事故は、95年の社会を揺るがした大事件と比較しても、ある意味冒涜的な扱いをされたのじゃないか、という気がしてならない。前述のように、70年代から続く破滅の予感や憧憬のようなものを抱いた当時の大衆にとって、「他人事」として接することができる地獄絵図・・・それは、大衆の醜悪かつ俗悪な好奇心を刺激した。結果として、写真誌が酸鼻窮まる現場写真を掲載して大問題になったのは、時代の悪意・・・とでも言えるような現象だったような気がする。ものすごく正直に言えば、私自身、その写真誌を見てみたい、という好奇心が湧いたことは否定できない。

例えば、阪神淡路大震災で、同じように死屍累々たる現場写真を掲載する写真誌がいたとしたら、大バッシングを受けただろうと思います。でも、日航機事故ではそれを求める大衆がいた。そういう大衆の下らないグロ趣味の好奇心に応えるべきなのか、それとも死の尊厳を誇り高く誠実に描ききるべきなのか・・・現場の記者たちには、きっとそういう葛藤があっただろうし、それ以外の局面でも、マスコミ人としての姿勢を問われる厳しい瞬間が、何度となく訪れたのだろうな、と思います。

横山秀夫の「クライマーズ・ハイ」を手に取ったのは、何より、「半落ち」での感動の記憶のせい。「半落ち」のネット上の感想文を漁っていたときに、「クライマーズ・ハイ」の書評を読み、これは読まねば、と決意。横山さんご自身が、事故現場である群馬県の地元新聞社に当時在籍されていた、という事実を踏まえ、事故報道の最前線にいた元新聞記者の視点で描かれた「圧倒的な作品」という評判。ページをめくるのがもどかしく、そしてめくるたびに期待を裏切らない感動が立ち現れる。ここ数年来出会った本の中でも、屈指の作品でした。

新聞社という、利潤を追求する企業であり、所属する人々の様々な思惑が交錯する小社会の中で、ジャーナリストとしての良心を守りながら、未曾有の大事故をひたすら描ききろうとする気骨のデスクの奮闘・・・そんな風に簡単にまとめてしまうのが失礼に思えるほどに、綴られる文章の一つ一つにこめられた思いは熱い。熱い、たぎるような思いが詰まっているのに、決して暑苦しくない、爽快感さえ感じるのは、その熱い思いに決してのめりこむことなく、きちんと向き合って描き出すことのできる確かな文章力。

ジャーナリスティックであること、というのは、決して、客観的に、冷静に対象を描き出すだけじゃない。自分の立つべき場所をきちんと定めること。そこから見える対象に対する深い愛情と、社会に対する誠実さ・・・そういう「熱さ」があって初めて、本当にジャーナリスティックな文章を綴ることができる。人の命に対する熱い思いを抱いて新聞記者を目指す少女の姿に、ジャーナリストとはどうあるべきか、が凝縮されている。

酷暑の中、傷だらけになりながら地獄の現場を目指す記者たち。組織の思惑に踏みにじられるジャーナリストの思い。凄惨な現場からのレポート、一瞬の決断に至る息詰まるドラマ、そして、親と子の絆・・・例によって、通勤電車の中で読みながら、あまりに熱いものがこみあげてきて、意味もなく唸り声だのなんだの上げそうになってしまう。脳死状態に陥っているのではないか、と疑うほどに、知見のない報道を繰り返す最近のマスコミ人たちに是非読んでほしい、まさしく骨太の一冊でした。