『で』

最近何となく気になるのだけど、お話していて、「で」という接続詞を使う人が増えている気がするんだけど、これって、私の気のせいでしょうかね?

「それで」の略としての「で」なんですけど、こんな状況で登場します。お話ししていて、「xxxxなんですよね。」と、話が一区切りする。そこで、こちらから何か口を挟もうとするのをさえぎるように、「・・・で、xxxxでしてね・・・」と話を続けていく。何が気になるか、というと、私がそこで、合いの手を入れたりとか、あるいは自分の意見を述べようとするのを、「で」という言葉で遮られる感覚が、なんとなく引っかかってしまうから。

「xxxxなんですよ。『で』、yyyyなんですけどね。『で』、zzzzってこともあって、『で』・・・」

人によっては、この『で』のところが、『で、でね、でね、』なんていう感じでさらに強調されたりする。そこまでいかないまでも、この『で』というのは、多少なり引き伸ばした「でぇ」というような感じで発音されることが多くて、「私は話を続けます。ですから、ここで合いの手を入れたり、話を遮ったり、そちら様のご意見を述べたりしないでください」という強固な意志を感じることが多い。

私が極端に短気だ、ということも、この『で』が気になる要因だと思います。人がだらだら喋っているのを一方的に聞かされているのが苦手で、自分が喋りたくてうずうずしちゃう。そのうずうず感を『で』がいつまでも遮っているのが不愉快でしょうがない。

私を含めて、の現象なんだけど、話し手は、人に話を遮られることに対する耐性が弱くなっていて、聞き手は、人の話を一方的に聞くことの耐性が弱くなっている・・・という両面がある気がします。『で』を乱発しながら、「まだオレに喋らせろ」という話し手。その『で』に、「オレが口をさしはさむヒマがないじゃないかよ」といらついている聞き手・・・自分の意見を一方的にまくし立てることには執着する。でも、人の意見に耳を傾けるのはすごく苦手。そういう現代人のコミュニケーション能力の低下傾向が、この『で』という言葉に極めて分かりやすく現れている気がするんですね。

人が自分の話の途中で喋りだす。ひょっとしたら、自分の意見とは違う意見を言われるかもしれない。自分の意見を全然理解していないコメントかもしれない。自分の話したいこととは全然違う別の話を、突然始める気かもしれない。そういう「別の言葉」をぶつけられると、自分の言葉と、その「別の言葉」との間の隙間を埋めるために、色々と努力をしないといけない。実を言えば、会話、というのは、他人との間の認識のギャップを埋めるための作業であって、そういう努力のない会話なんてのは一方的な意見の表明に過ぎないのだけど、そういう「本当の意味での会話」をする能力=コミュニケーション能力が、最近極端に低下してきているのじゃないだろうか。

若者の間で、ものすごく意味のないメールのやりとりが流行っている、という話を聞いたことがあります。「おはよー」「おっす」といった挨拶だけのメールのやりとりとか、「何時起き?」「7時」といったどうでもいい状況報告とか。意見のぶつけあい、とか刷り合せ、という、相互理解のためのコミュニケーションではない、薄っぺらいメールの交換。人間として、どこかでコミュニケーションを求めているのに、異なる意見のぶつけ合い、という体力のいるコミュニケーションは、煩わしくてイヤ、という傾向。

以前にもちらっと書いたことがありますけど、この日記のような「ブログ」という表現形態も、一方的な意見の表明にすぎない。一方的な意見の表明ならだらだらいつまでも喋っているんだけど、人の話は聞けない・・・人との間の「会話」=コミュニケーション能力が決定的に欠如している・・・という人たちが結構増えているんじゃないかなぁ・・・。

・・・なんて、会社の打ち合わせで『で』を連発している人を眺めつつ、イライラしてしまう自分を反省しつつ、ちょっと考えたりするのでした。最近打ち合わせが多くて、一人でダラダラ喋っている人を見ていると、余計イライラしちゃうんだよねぇ・・・「さっさと結論言え!」とか、「さっきから同じことを繰り返し言ってるだけじゃねぇかよ!」とか突っ込みたくてしょうがなくなる。年を取ると短気に拍車がかかるからねぇ・・・よくないねぇ・・・