現場に特攻を強要しちゃだめ

今日のテーマは若干センシティブな話なので、誤解を招くようなことを書いてしまうかもしれません。色々言葉を選びながら書いてみたいと思います。奥歯にモノがはさまったような言い方で、「イライラするなぁ」と思われるかもしれませんが、ご容赦のほどを。

最近何かと話題の堀北真希さんが出演されていた、「妻と飛んだ特攻兵」を先日ちらっと見ました。実話を基にしている、というのも驚きだったんですが、「特攻」という、太平洋戦争を語る上で必ず出てくる攻撃手段について、ちょっと世の中の見る目が変わってきたのかなぁ、というのが大きな感想だったりする。

我々が中学生だった頃、「特攻」というのは、終戦間近の日本軍の狂気の象徴として語られていました。個人的に強く印象に残っているのは、「さらば宇宙戦艦ヤマト〜愛の戦士たち〜」という映画を巡る、原作者の松本零二さんの言動です。映画のラストシーンが、「第二次大戦における特攻攻撃を思わせる」と主張した松本さんが、共同監督としてクレジットされることに難色を示した、という報道があった記憶があります。「特攻」は、いわゆる「玉砕」と共に、日本軍が犯した数々の「愚行」の一つとして語られることが多かったと思う。

実際、兵士の自死を前提とした捨て身の攻撃という戦術が、「ここまでして抵抗する日本を降伏させるには、本土を徹底的に焦土化しなければならない」という連合軍の判断につながり、大都市への無差別爆撃、そして、原爆、という、一般市民を巻き込んだ歴史上最悪の大虐殺につながった、という側面も、否定できないと思います。個別の戦術として見ても、有人攻撃だったからといって特に命中精度が高かったわけでも、敵への被害が拡大したわけでもない、という話を聞いたことがある。そういう話自体が、この戦術の狂気と愚かさを強調するためのレトリックだったのかもしれませんが、いずれにせよ、軍隊、という組織が選択するべき戦術として最悪の戦術であり、その後のイスラム過激派集団による、自爆テロ、という戦術にアイデアを提供した、という意味でも、この戦術を生み出してしまった日本軍の罪はとてつもなく重いと思う。

でも、そういう組織としての狂気や愚かさが強調されるあまりに、現場で実際に命を散らした一人一人の特攻兵の心にあった使命感や、愛する人たちを守りたい、と思う気持ちにまで、蓋をして語ろうとしない、目を向けない、という空気があったように思うのは、考え過ぎかしらん。その延長線上で、自分の身を犠牲にして人々を守る、という行動そのものにも、何かしら真っ直ぐに賞賛できないトラウマのようなものが、我々の世代の深層心理に埋め込まれてしまっている気もするんです。世界的に見れば、「自己犠牲」というのは色んな局面で賞賛されていて、ハリウッド映画なんかでは、自分を犠牲にして愛する人を守る、なんてシーンが山のように出てきますよね。「ディープ・インパクト」のラストシーンもそうだし、「スター・トレック カーンの逆襲」のMr.スポックも、「マトリックス」のキアヌ・リーブスも、自らを犠牲にして人々の危機を救った。アイアンマンはじめ、ハリウッド映画のヒーローは、自分の身を挺して人々を守る。そういう自己犠牲の精神に対して、どこか真っ直ぐに感動や賞賛ができなくなってしまったのが、戦後日本の屈託なのかも、という気がする。福島原発を決死の思いで守り抜いた吉田所長やフクシマ50を侮辱した某大手新聞社の精神構造の底にも、そういう屈託が横たわっていたんじゃないか、というのは考え過ぎかしらん。

「妻と飛んだ特攻兵」で、愛する妻と共に、押し寄せるソ連の軍団の中に突っ込んでいく兵士の姿は、そういう戦後日本のトラウマを超えて、美しく共感を持って描かれている気がしました(また堀北真希さんが綺麗なんだ)。このドラマの元になった谷藤徹夫・朝子夫妻の特攻が、軍隊の命令ではなく、ポツダム宣言が受諾されて戦争が終結したにも関わらず押し寄せてくるソ連軍の恐怖におびえる市民を守りたい一心での、軍紀違反だった、というから、組織が生み出した狂気ではない、純粋な自己犠牲と夫婦愛のドラマとして描くことができる事例だったのかも、とも思います。

そう思う一方で、「特攻」が美しく語られ過ぎてしまうことについては、個人的にはやっぱり抵抗感があったりします。兵隊は自分の命を犠牲にするのが当たり前だろう、という認識が共有されてしまうことほど、前線の兵士にとってつらいことはない。お前たちの安全は絶対に守る、だから安心してミッションにあたってくれ、というのが現場作業を進める際の絶対必要条件で、最前線に立った時に、お前ら死ぬ覚悟もできてないのか、臆病者、卑怯者、なんて罵られるほどしんどいことはない。最前線に立つ兵士は、その場所にいるだけで、多くの自己犠牲を払い、危険に身をさらしている。それは兵士に限ったことじゃなく、消防士や警察官、あるいは工場、介護、医療の現場にだって言えること。そんな現場の人々の想いに感謝し、尊敬し、なんとか負担を軽くできないか、一緒に考えようと思うか、それとも、「死ねよ、仕事なんだから」と言い放つか。

現場の人々への感謝とリスペクトがあって初めて、現場の人たちが見せる勇気や自己犠牲が感動を生むのであって、組織の狂気やヒステリー、あるいは勝手なセンチメンタリズムやヒロイズムの幻想によって「押し付けられた自己犠牲」ほど、現場に過酷なものはない。東日本震災の時、ヒステリー状態に陥った政府の無茶苦茶な命令に対して、「行けと言われれば行きます。それが仕事ですから」と言い切った自衛官がいました。そういう現場を支える人々へのリスペクトと感謝を忘れちゃいけないし、そういう人たちに「特攻」を強要しちゃいけない。軍隊だけじゃない、どんな組織だってそうです。医療現場で、「人の命がかかってるんだから不眠不休で働くのが当たり前だろう」と言われるのだって「特攻」と構造は同じ。現場に無茶な自己犠牲を強いる「特攻」の罠はどこにでも転がっているんです。

先日、天津で起きた大爆発は、現場の稚拙な消火活動が原因かも、と言われているそうです。誰かがコラムで、「中国は権力とカネが全てで、権力もカネもない現場仕事は軽視され、嫌われる」と言っていました。市民の安全を守る、といった使命感なんか期待できそうもない現場と、それを生み出した国民性の帰結として発生した大惨事。

現場の力は国の力。使命感を持って、自分の身体を張って現場を支えている人たちをもっとリスペクトしないと。そんな現場の人たちに特攻を強要するような国になっちゃいけないし、現場の人が危険にさらされているのに何もできない国にもなっちゃいけない。