「闘」〜背筋が伸びる小説〜

病院を舞台にした群像劇・・・というと、「病院へ行こう」というお茶らけた映画があったりしましたっけ。幸田文さんの「闘」は、気品あふれる文体と、結核という死病と闘う患者たちの壮絶な群像、という点で、お茶らけからは遠いところにありますけど、描かれている状況は相当下世話な世界です。看病に疲れ、闘病に疲れ、むき出しになっていく人間のエゴ。夫婦の争い、家族の争い、色恋沙汰、嫉妬地獄。患者たちを取り巻くそんなドロドロの人間模様に対峙する医者や看護婦たちも、それぞれの悩みと世間との軋轢を抱えて、決して単なる聖職者とはいい難い人間臭さを持っている。そんな「下世話」な世界を描きながらも、この作品の読後感に、どこかしら爽快感があるのは何故だろう。

幸田さんの、きりりとした文体が一つの要因だとは思うのだけど、幸田さんが登場人物たちに向ける、冷徹なまでの観察眼、というのが一番大きい気がします。結核という死病に向き合ってしまうと、どんな人間も、とても平静ではいられない。患者本人は勿論のこと、その家族や関係者も、自分の中にある本質的なものをさらけ出しながら、病と闘っていくしかない。結果としてその闘いは、スマートな近代兵器による闘いではなく、もっと動物的な、爪や歯や握りこぶしで、血まみれ汗まみれになりながらの、傷だらけの闘争にならざるを得ない。そういう血と肉のぬめぬめとした触感すら感じる闘いを、ある意味、動物を観察するような、非情な観察眼で見通している作家の視線。

面白いなぁ、と思ったのは、現代の病院の雰囲気とかなり違うなぁ、と思う部分。とりわけ、この小説に描かれる病棟の中に流れる、一種の「長屋」の人情みたいな、患者同士の交流。この小説が書かれた昭和40年代という時代には、まだそういう人間同士の密なコミュニケーションがあったんだろうな、と思う。患者同士のいたわりあい、いがみ合い、患者と看護婦、あるいは付添婦との恋愛感情など、この小説に描かれる病棟の様子は、現代のシステム化された病院とは、随分趣きが違う気がします。

多分その相違感の最大の要因は、現代の病院の患者さんのベッドには、1台ずつTVがある、ということでしょうね。患者がベッドでTVを眺めていれば、一瞬でベッドは「個室」化する。他人には邪魔できない聖域になる。そこには交流が生まれる余地がない。TVがなければ、同じ部屋の患者同士で会話を交わすしかなくなるわけで、「個」の確保される余地はずっと狭くなる。そういう相互交流が鬱陶しい、という側面もあるだろうし、逆に患者にとって闘病の励みになる、というプラスの側面もあるかもしれない。いずれにせよ、各人が自分のTVを持っている、というのはすごく大きな相違点じゃないかな、という気がします。

もう一つ、最近結構思うことなんだけど、いかに死病に冒されていても、人間は最後まで人間なんだなぁ、ということ。「風立ちぬ」みたいな美しい姿だけじゃない。結核だろうが癌になろうが、寝たきりになった患者は死を目前にして、そのまま空気のように美しく浄化されていくわけはない。明日には死ぬ、という瀬戸際まで、人間の肉体はその活動を続けるわけで、汚い話だけど、全身癌に冒された人でもウンチもすればオシッコもする。きれいな女性を見れば気を惹かれる。そういう人間の本性は、死ぬ間際まで変わらないし、逆に、死病に冒されることで社会から切り離されて、帰属する場所を失い、家族からもお荷物扱いされた患者たちは、「人間」という動物に成り果てた形で、その人間の本性を、より先鋭的に表出しはじめる。

この小説の中には、数々の死が出てきます。そのどの死も、裸になってしまった人間が、一人孤独に向き合いながら迎える死です。にも関わらず、ある死は毅然とし、ある死は端然とし、ある死はもがき、ある死は壮絶なまでに醜い。数々の死を並べる中で、読者に突きつけられるのは、その人の一生のありようが一番はっきり出るのが、その死に様の姿である、という事実です。すなわち、「人間、いかに生きるべきか」という問いかけそのものが、「人間、いかに死ぬべきか」という問いかけと同義である、という事実。

昼メロ並みのウェットな人間関係を描きこみながら、人の生き方という重たいテーゼにまで読者の意識をいざなっていく幸田文さんの文体。極めて女性的でありながら、実はものすごくハードボイルドな視点。こういう文章を読むと、実に背筋がピンとする。