「日本沈没」「グエムル」〜何を守るのか〜

先日の日記にも書いたんだけど、年末から年始にかけて見た、2つの映画についての感想です。全然関係ない2つの映画なんだけど、連続してみると中々考えることが多くて面白かった。CGによる特殊撮影を駆使したパニック映画、という点では共通しているのだけど、その他の点で言うとかなり相違点があって、それがそのまま、日本と韓国という2つの国の精神基盤の相違を表している気がするのだね。

日本沈没」に対して、ネット上での辛口評価を見ると、パニックシーンの描き方が物足りない、という意見が結構ある。それは実際その通りで、子供時代に見た1973年版のカタストロフシーンの強烈な印象に比較すると、今回の「日本沈没」のパニック表現は随分とあっさりしている。ある意味生々しさが薄い。73年版の震災シーンは、これでもかこれでもかと描写される「地獄絵図」の映像に、中野昭慶特撮のかなりのチャチさもぶっ飛んでしまうくらい強烈な印象があった。今回の「日本沈没」では、格段に向上した特撮技術で、映像としてのリアリティは増したものの、カタストロフシーンの生々しさは相当薄れている。東京大崩壊の描写も、無人のビル街が次々に崩壊していくだけで、73年版のように群集の上に降り注ぐビルのガラス片(あれは無茶苦茶怖かったぁ)だの、炎に包まれて逃げ惑う人々、といった「残酷描写」は全く存在していない。

それは、73年版の製作当時の時代に、ことさらに終末観を煽る風潮があった・・・というのがすごく影響している気がします。同じく世界の終末を描いた「ノストラダムスの大予言」が74年に公開されていることも偶然ではない。70年代の日本には、高度成長期の裏返しとしての国土と精神の荒廃があって、それがそのまま、「終末が近い」という危機感につながっていた。そういう危機意識が、ことさらに終末への恐怖感を煽る映像になって表現されていた、と思う。

もう一つは、樋口真嗣という映像作家が持っているエログロなものに対するセンス・・・というのもあると思います。彼と常にコンビとして語られる庵野秀明(今回もメカデザインで参加してましたね)にしてもそうなのだけど、スプラッタ系のグロテスク映像や、ベタベタ感のある映像を作る作家ではない。それが作品自体の評価を左右している要素もあって、彼らの作る映像はリアルなんだけど、どこかしら生々しさ、というか、血の通った感じがしない。それは流血シーンやエログロシーンに対する自主規制があるハリウッド映画にも通じる薄っぺらさでもあり、逆に、万民に受け入れられるエンターテイメント性でもある。同じハリウッド映画でも、スピルバーグはすごく趣味が悪い、というか、グロ趣味なので、エンターテイメントとグロを共存させた映像を作り続けている。それがスピルバーグ作品のリアリティと評価を高めている部分って、結構あると思います。

私自身の感想としては、樋口・庵野的なドライでポップな表現が、日本映画の一線に出てきたことには結構好意的なんです。日本映画は割と伝統的に、ウェットで生々しい、一種極端な「自然主義」的映像をよしとする傾向があって、それはそれで素晴らしい作品を沢山生み出してきた。今村昌平作品なんて、ほとんど変態映画じゃないか、と思うくらいに泥臭い。今村監督ご自身も「僕は生涯変態であり続けたい」って開き直ってたけど。でも、グロだったり、生々しいセックスを描いてたり、やたらに貧乏臭くないといい映画じゃない、なんて言われると、ちょっと違うでしょって感じになるよねぇ。だからといって、北野映画みたいに、ひたすらドライに人殺ししまくっている、というのもちょっと病的で嫌いなんだけど。

で、一方の「グエムル」の表現は、というと、これは極端なまでにウェットでグロです。そもそも主役の怪物自体が、よくまぁここまでグロテスクな造型を考え付いたもんだ、と思うくらいにグロテスク。多少プレデターを意識した部分がある気はしたけど、まだプレデターの方が可愛い。水生生物が変異した、という設定なので、多少もとの魚類っぽさが残っているからよけいに生々しくってグロい。この怪物と闘う川沿いの売店の一家、というのがこれまたビンボ臭くて、その生活感が無茶苦茶リアルでウェット。(家族そろってカップラーメンすすってるシーンとか、あまりのビンボ臭さに笑うしかない)韓国映画はそんなに見ていないので、一括りにした評価はできないんですけど、この生々しさが、この映画の成功要因の一つだというのは確かだと思う。そういう意味では、ハリウッド的エンターテイメントではなくて、あくまでアジア的エンターテイメントとして成り立っていて、それがこの映画のオリジナリティを高めている。そういう意味では、「日本沈没」は、ハリウッド的な普遍性を手に入れた分、「何だかどこかで見たような」映画になってしまった恨みがある。

で、ここからがこの2つの映画を比較した本題になるのだけど(本題までが長いだろう。すみません)、「何を守るのか」という点についての描写について、色々考えさせられちゃったんですね。

樋口版「日本沈没」における大きなテーマは、「少しでも多くの命を守る」という点にあって、それが73年版「日本沈没」とは大きな相違点になっている。73年版「日本沈没」は、日本地図を上下さかさまに見る小松左京的「視座の転換」を迫ることがテーマで、「あなたが磐石だと思っているこの大地は、そんなに磐石なものでしょうか?これが消滅してしまったら、あなたはどうしますか?」という警告が主眼でした。でも、現代の日本人は、すでに、「大地は磐石なものではない。国家は磐石なものではない」ということを身体で体験してしまっている。それが阪神淡路大震災オウム事件が、日本人に与えた精神的パラダイムシフトでした。

95年のあのカタストロフとパラダイムシフトを経験してしまった日本人は、映像でいかに地獄絵図を見せられたとしても、そこにショックを受けない。どんな地獄絵図も、現実として起こった地下鉄サリン事件阪神淡路大震災の記憶を超えることができない。そこで、平成「日本沈没」のスタッフが選んだ新たなテーマが、「あなたは何を守るのか」というテーマ。

阪神淡路大震災の記憶を経て、「少しでも多くの命を守ろう」とするヒロインと、そのヒロインの思いを支えるために自分を犠牲にする主人公。「アルマゲドン」や「ディープ・インパクト」と同じようなテーマで、「パクリだ」なんていう声もあったりするけど、私は結構共感して見ました。ストーリ的な強引さ(大体、起爆装置を潜水艇がセットしなきゃいかん、というのはプランとして無理がないか?なんで船上から遠隔操作できないんだよ。これだけ日本列島ずたずたになってるのに、福島県は被害が全然ないってのもなぁ・・・)はともかくとしても、阪神淡路大震災に対して個人的に思いいれのある私としては、こういうテーマ設定自体に無条件で反応してしまうんだよね。安倍さんの「美しい国」政策の宣伝映画、と言われればそうも見えなくはないけど、そこまでうがった見方をしなくてもいい気はする。

草なぎくん演じる主人公は、愛する人と共に自分だけ国外脱出する道と、人々を守るために自分を犠牲にする道の間で悩む。その悩みは現代日本においてはある意味非常に健全なんだね。個を犠牲にするのが当たり前だろう、という、太平洋戦争時の狂気にもいかず、個を優先するのが当たり前だろう、という、戦争体験の反動として、極端に個が肥大化した現代的な我利我利発想でもない。自分しかできないことが人の命を救うなら、自分がやるしかないだろう、という、一種澄み切った境地。その境地に至るまでの個の葛藤。「アルマゲドン」みたいなアメリカ的品のなさもなく、「ディープ・インパクト」みたいなアメリカこそが世界、みたいな偏りもなく、非常にバランスのいい良質のエンターテイメント映画、ただし、オリジナリティという点ではかなり弱い・・・というのが、私の総合評価です。

さて、一方で、「グエムル」。「グエムル」においては、何のために闘うのか、何を守るのか、というテーマは、呆れるほど明快です。家族は、自分たち家族の一員である娘のために闘う。ものすごくはっきりしている。親が子のために闘う、というのはハリウッドや日本映画でもよく出てくるテーマだけど、面白いのは、じいさん、おじさん、おばさん、父親という家族全員が、娘のために一つになって闘うところ。例えば他の国の映画で、自分の姪っ子のためにここまで必死に戦うおじさんおばさんが出てきただろうか。それだけ、韓国という国は、家族の絆が強いんだね。

そういう韓国独特の家族というメンタリティだけでなく、民主化運動の闘士で今はフリーターであるおじさんとか、異様に情けない父親が実は相当の戦闘能力を持っている(多分、韓国では徴兵制度があるので、普通の成人男性は銃の扱いや基本的なサバイバル術は身につけている)とか、ラスト近くの抗議集会など、韓国ならでは、という描写が結構出てくる。そういう韓国の特殊性が前面に出ているにも関わらず、この映画は、韓国ローカルの映画ではなくて、世界的に通用するエンターテイメントとして完成している。それは、カリカチュア的なまでに強調されている家族の絆というテーマ自体が普遍性を持っているから。そういう普遍的なテーマを中心にすえているので、韓国ローカルネタは、むしろ映画自体のリアリティとオリジナリティを強める効果をもたらすことになる。

この映画に出てくる怪物のサイズが適当でいいよね、という感想をネットで見たけど、全く同感。ゴジラほど巨大な「天災」ではなく、ちょうど中型恐竜くらいのサイズ。この適度なサイズが、「家族が娘を取り返すために闘う」相手としてちょうどいい。ハリウッド的なハッピー・エンドに終わらないところも韓国映画らしいと思います。というか、韓国人って、予定調和的なハッピー・エンドを嫌うのかねぇ。あの「冬のソナタ」だって、決して100%幸福なハッピー・エンドではなかったし。何かしらの欠落・喪失を抱えながら、前に向いて生きていく、というエンディングが好まれるのかもしれないね。

総合的な映画の完成度と、そのオリジナリティ、という意味では、「グエムル」の方が相当得点が高いなぁ、と思いますけど、後味のよさ、爽快感、という点では「日本沈没」に軍配を上げます。ただ、2つの映画を見比べてみると、「何を守るのか」という点において苦悩する日本と、迷いのない韓国、という大きな相違が見えてくる気がする。日本においては、家族ですら既に「守ることが当たり前」の対象ではなくなっていて、家族の中で起こる殺伐とした事件が後を絶ちません。無条件に、家族という集団の前では個人は犠牲になるべき、というのは違うと思うけど、全ての他者の命を守りたい、という気持ち、少しでも多くの人たちを笑顔にしたい、という気持ちを共有することって、大事だと思う。今の日本では、そういうことを主張することすら、とても難しくなってきているんだなぁ、というのを、2つの映画を見比べて改めて感じてしまいました。