年を取ったということか

昨夜、女房が、「最近のマスコミの報道姿勢って、ほんとにヘンだよねぇ」とぶつぶつ言っている。

いじめが原因で自殺したと思われる中学二年生の女の子を巡って、いじめの存在をなかなか認めようとしなかった校長先生に対する非難が集中しています。「いじめが原因に決まってるじゃないか」「いじめを認めようとしない学校側の不誠実な対応はなんだ」…と、非難一辺倒の論調の中で、あるコメンテータが、

「でも、校長先生がこうやって、『いじめがあったかどうか分からない』と言っているのは、いじめを行ったとされている子ども達への配慮かもしれませんよ」

と言った。イジメがあったといえば、誰がいじめた、という話になる。お前がいじめたせいで、あの子は死んだんだぞ、といわれれば、生きている子ども達の心理にどれだけの影響を与えるか。本当に陰湿なイジメだったのか、それともほんの軽口のつもりだったのか。そこの見極めは、すごく慎重にならないといけないはず。

女房が、お、いいこと言う人もいるじゃん、と思ったら、このコメントは本当に完全なまでに無視されて、番組はまた、「いじめが原因だ」「学校が悪い」の非難一辺倒の論調に戻っちゃったそうです。

その一方で、非履修科目問題で自殺した校長先生の話題になった時、遺書には明確に、「非履修問題で悩んでいた」と書かれているのに、TV番組では、

「非履修問題だけが自殺の原因ではない、他にも個人的な悩みもあったようです」

と言っていて、女房は、「一体なんなの」と思ったそうな。片方で、「いじめが原因」と断定し、片方で、「非履修だけが原因じゃない」と二枚舌を使う裏には、「いじめを放置していた学校が悪い」「非履修を放置していた学校が悪い」…つまり全ては、「学校が悪い」というシナリオに結びつけるべきで、それを邪魔する要素(学校もそれなりに色んな配慮をしている、悩んでいる校長先生はかわいそうだ、といった要素)は一切捨象してしまおうとする短絡がある。集団で「学校」という存在を「イジメ」ている、いじめの構造と何が違うっていうのさ。
 
マスコミの偏重ぶりについては、この日記でも何度も取り上げていて、とにかくマスコミの言うことは全て疑ってかかることが大事、と言い続けているのだけど、最近そういう局面が本当に多い気がするんです。中学生が自殺したとなれば、一番最初に言うべきことは何か、といえば、「いじめがあったと認めなさい」と、犯人探しに必死になることではなくて、「自殺しちゃだめだ」「生きなきゃだめだ」というメッセージを強く強く発信することのはず。犯人探しをし、誰かを人身御供にして安心してもなんの意味なんかない。かろうじて意味があるとするならば、「人をいじめて自殺でもされたら、こんな風に犯人扱いされちゃうぞ」という、非常にネガティブな意味しかないし、であれば犯人探しよりもまず明確に、「イジメはよくない」というメッセージを発信するべきでしょう。

犯人探しをするから、責任逃れがあり、実態としてのイジメを隠蔽しようとする。つまりは、今のマスコミの姿勢そのものが、いじめの抜本的な解決を阻んでいる。見方をさらに変えれば、誰かを犯人=人身御供にして自分が安心する、という精神構造こそが、子どもの世界におけるイジメの精神構造と完全にシンクロしていることになぜ気付かないのか。この国のマスコミだけに限った話じゃないだろうけど、白痴化したマスメディアには本当に不快感が募る。

「最近本当にヒドイよねぇ」と、ぶつぶつ女房と愚痴を言いながら、どうして最近こういう感想を持つことが多くなったのだろう、と考える。女房がぼつりと、「年を取ったということでしょうかね」と呟く。

年を取る、ということは、色んなことに懐疑的になること。子供の頃に学校で教わった直球勝負の「建前の世界」だけでは、この世の中は成り立っていないことを知ってしまうと、その建前を振りかざすマスコミの論調がものすごく軽薄に見える。必ずその裏に「本音」が隠れているはずだ、という目で見れば、色んな事象はマスコミの言うほど単純な様相を持ってはいない。

確かに、我々自身が、年を取るに従って、そういう多面的な視点(というか、根性が曲がっているだけのような気もするが)を持ってきた、というのもあるとは思うけど、やっぱりTVというメディア自体が、最近とみに白痴化してきている気はするんだよねぇ。放送作家や、番組制作方の知的レベルが劣化しているか、あるいは、強固にマニュアル化された番組制作ノウハウが、作り手の考える力を奪っているのか…いずれにせよ、この国のマスコミの言うことは一切信用しない方がいい、というのが、自分の思考の自由を守るのに必要な行動パターンですね。困ったものだが…