「遅れてる」って?

うちの娘の通っている小学校には、プールがありません。水泳の授業は、年に一度の臨海学校で、海で泳ぎを教わります。体育館もありません。ちょっと広めの講堂と、児童数の割には広い校庭があり、週に一度、全校生徒で近くの公園で思いっきり遊ぶ時間がある。それで十分、というのがこの学校の方針で、私も女房も、そういう教育方針にいたく感動してこの学校を選びました。

昨日、女房と話をしていたら、プールのない私立小学校ってのは他にも結構あるらしい。そのことについて、ある教育関係の掲示板で、「公立小学校に当たり前にあるプールがない私立小学校なんて、最低限の施設を備えようとしない怠慢な学校だ」みたいな意見が書き込まれていたんだって。女房と私で、「?」と首を傾げる。そんなにプールって大事かな?女房なんかに言わせれば、「プールの授業があると、後の授業が全然集中できなくなっちゃうから、かえって普通の授業の邪魔になるんだよね。プールがなくって、臨海学校で一気に海で泳がせるってのはとても素敵だ」と言います。激しく同感。

なんか、「なんでウチの小学校にはプールがないんだ」って言い出す感覚って、地方自治体のつまらない見栄の張り合い、みたいな話と同列に見えてしまうんですけど、それってうがちすぎかなぁ。「隣の町が立派なホールを建てたのに、なんでうちの町では立派なホールがないんだ」とかさ。もっとレベルを下げてしまえば、ご近所がみんなxxを買ったから、うちにもないと恥ずかしい、という、いわゆる「横並び意識」の産物にみえてしまう。

そういう横並び意識ってのは、教育の場ではすごくはっきり表に出てくる。隣の小学校では既にxxを教えているのに、うちの小学校ではまだやってない、なんてことを比べて、「うちの小学校は遅れてる!」と騒ぎ始める。でもね、ひょっとしたら、その小学校では、隣の小学校では教わることができない貴重な経験をさせてもらっているかもしれないよ。そういうところを見ないで、「xxを教えているか教えていないか」という非常に分かりやすいところで、「遅れてる!」と騒ぎ始める。結果として学校側は、そういう非難を受けるリスクを回避するために、できる限り早いうちに様々な知識を子供に詰め込む教育に流れる。詰め込み教育を批判しながら、詰め込まないと批判する、という、分裂症気味の世間の意見に翻弄される教育現場・・・

例えば、早期教育、みたいな話があります。以前この日記にも書いたけど、英語などの外国語は小さいころに勉強した方がいい、という話がある。実際その通りだろうけど、だからといって、日本語の基礎教育をおろそかにしてまで、英語の早期教育ばかりに力を入れると、日本語も英語も使えない中途半端な人材が増えるだけ。まずきちんと、一つの言語を、読み、書き、聞き、話す能力を身につけること。コミュニケーション能力の基本をきちんと身につけてから、他の言語に展開していけばいい。

うちの娘は小学校二年生で、まだ九九を習っていません。でも、我が家では別に、それを「遅れている」とは受け止めていない。小学校六年生になっても九九を教えない、なんていったら、それは問題だろ、と思うけど、小学校一年生で九九を教えるか、二年生で教えるか、三年生で教えるか、というのはたいした問題じゃないと思うからです。

小学校一年生や二年生のうちに、きちんと身につけておかねばならないこと、というのがあるはず。きちんと机に座って勉強する習慣。きれいな日本語を沢山読み、沢山書くこと。九九の前に、足し算引き算をきちんとできるようになること。でも女房に言わせると、世間の「教育熱心」な親御さんの多くが、知識や技術を、他の子供たちよりも、なるべく早く、なるべく沢山詰め込んでくれる教育を求めているらしい。「こんなにノンビリ構えている我が家ってのは、結構特殊なのかもしれないよ」だって。

でもね、見ていると、子供ってのは大人が考えているよりも、好奇心旺盛なもんです。言い方をかえれば、勉強が好きです。「ねぇ、xxってどういう意味?」とか、「どうしてxxになるの?」とか。数字遊びとか、先日NHKでやっていたインド式計算術なんかを見ると、目を輝かせて見入っている。そういう子供の好奇心に対して、大人の側が、「子供にここまで教える必要はないだろう」なんて思わずに、好奇心が満たされるまでしっかり知識を与えてあげる。その繰り返しで、子供は自然に色んなことを学んでいく。学校は、そういう親からの知恵の継承ではどうしても漏れてしまう最低限の共通部分を補う場である。それくらい、親は子供の教育に責任を負っていると思った方がいいんじゃないのかなぁ。