「台所のおと」〜凛としていて力みがない〜

幸田文さん、という方は、幸田露伴の娘、という認識しかなく、その著作に触れたことは一度もなかったのですが、先日、図書館で何気なく手に取った「台所のおと」がちょっと気になり、借り出してきました。昨日読了。凛とした生き方の筋が、すっと通っていて、しかもヘンな力みがない、実に爽やかな感動。

解説によれば、終戦後に文壇に現われた幸田文さんは、登場した時点で、当時の人たちから見ても、極めて凛とした存在感のある方だったそうです。要するに、昭和20年代後半においても、幸田さんの描き出す世界は、一種のノスタルジーを持って受け止められた。それは、幸田文さん自身が身に着けていた明治のモラルと気骨のようなもの自体が、終戦後には既に日本から失われていたことを意味している。

この本に収められた10篇の短編は、全て昭和30年代から40年代にかけて書かれたものですが、恐らくは当時から見ても極めて時代がかった作品群だったと思います。それを現代の私が読んだ時に、風俗に対するノスタルジーも勿論あるのだけど、それよりもむしろ、そこにある極めて普遍的な「人情」のようなものに感動する。描かれている素材は確かに、今の若者たちには到底理解できないような時代風俗であったり、極めて古風な生き方だったりするのだけど、その中で生きる人たちの心の動揺や気持ちの有り様に対して、こんなにも心がゆさぶられるのはなぜだろう。

「音」を通してしっかりと結びついた夫婦の絆。妻の立てる台所の音の中に、今まさに消え入ろうとする自分の命が脈々と受け継がれていることに、心明るく穏やかに生きる夫。冒頭の「台所のおと」の描き出す、一つの「音の詩」のような静謐な世界。もちろん、こんな風に穏やかで温かな人間関係ばかりを描いているわけではなくて、「食欲」のように、表面的には和やかで献身的な妻の内面で吹き荒れる嵐を、「食欲」という極めて肉感的な実感を持って描き出す、怖い作品もある。病気という運命にひたすらに弄ばれて、視力を失った後でも、残された聴覚に届いてくる子供の声に癒される人間の強靭な生命力を描き出す「呼ばれる」など、日常生活のぬるま湯の中に浸かっている心に、突然小さな氷の塊がひやっと触れていったような、強烈な印象を残す名品ばかり。個人的に一番好きなのは、「祝辞」。新婚時代から、成熟した大人の夫婦に落ち着いていくまで、いくつもの波乱を通り抜けながら、しっかりとお互いの関係を確かめ合っていく男女の物語。

全ての作品に一貫しているのは、「仕方ない、人間というのはそういうものだもの」とでも言うような、全てを許し、肯定する、人間存在への透徹した視点。それは決して、憎悪や嫌悪、否定、といったマイナスのエネルギーに結びついていかない。「そうだよ、だって、そういうものだものねぇ」という感じの、全てを受け入れる包容力。そんな突き抜けた視点の中に、どこかしら凛としたものを感じる。そしてそんな高い視点から見下ろした人々の心の葛藤やドラマは、時代を超えた普遍性を持って我々に迫ってくる。その迫り方も、決して押し付けがましくない、飄々としたユーモアさえ感じさせる、とても心地よい読後感をもたらしてくれるのです。

こういう視点や、語り口、どこかで感じたことがあるなぁ、と思っていたら、そうだ、杉浦日向子さんだよ、と思いつきました。登場人物たちを突き放しているんだか、抱きしめているんだか、あったかいんだか冷たいんだか分からないのだけど、どこかにこやかに微笑みながら高いところから見つめているような。その視点が揺るぐことは決してなくって、常に一貫した、背筋の真っ直ぐした足運びを感じさせる、端整な文体。思いがけず、いい文章に出会えて、なんだかすごく嬉しかったです。幸田文さんの作品も、いくつか追いかけてみたいと思いました。