芸術劇場のザルツブルグの「椿姫」〜表現手段としての「オペラ」〜

先日、新国立劇場で上演された、二期会の「皇帝ティトの慈悲」を見てきた女房が、非常に複雑な表情で帰ってきました。「とても評判になっている舞台だけど、あんまり楽しめなかった。」とのこと。「演出家がやりたいこと、表現したいことが強烈に存在しているのは分かるのだけど、それが、元のオペラのメッセージとどうしても合致してこないところがあって、その違和感があまりにも強烈で、訳が分からなくなるんだよ」だって。

同じ舞台を見たS弁護士夫妻と、この舞台について話す機会があって、その場で、彼が、

「演出家(コンヴィチュニー)が、オペラを表現しようとしているのではなくて、自分の芝居を上演する手段として、オペラを使っているんだよね。」

ということをおっしゃっていました。舞台を見ていない私は、そんな人たちの感想を聞くしかないので、あまり大したことは言えません。ただ、女房が感じた違和感の一つに、「歌手が客席に下りてきたり、客席と舞台がコミットしたりすること自体に、観客が喜んでいるようなところがあって、それがさらに違和感を助長した」という感想があって、それは面白いなぁ、と思った。

オペラの舞台で、役者が客席に下りてきたり、客席のお客様を「いじる」という演出は、多少はありますけど、そんなに一般的ではないですよね。客席通路を使った演出、というのはしょっちゅうありますけど、客を巻き込んだり、あるいは役者自体が客席に座ってしまう、という演出は、あんまりない。

でも、そんな演出、いわゆる演劇の世界では常識的に行われていることで、さほど目新しい演出じゃないんです。そもそも、日本の伝統芸能である歌舞伎が、「花道」という世界的にも画期的な表現形態を持っていること自体、舞台と客席の強い一体感を生み出している。花道を進む役者さんが、客席のお客様の差し出した酒杯を受ける、なんていう芝居が、既に江戸時代には存在していたんです。小劇場演劇の世界でも、客を「いじる」演出を、つかこうへいさんがかなり積極的に取り入れていて、全然目新しいことじゃない。

それを「ティト」が相当積極的に取り込んだことで、そのこと自体を取り上げて、「すごい」「面白い」と反応しているお客様が結構多かったような気がしたんだって。でもね、大事なのは、そうやって客席に役者が降りてくることによって、「何を表現しているのか」ということなんだよ。闇雲に客席に役者が降りてくるってのは、意味のない内輪受けギャグや、知ったかぶりのウンチク芝居とあんまり変わらない。客席にコミットする、というのは、そういう意味では相当危険な「飛び道具」なんです。もちろん、「ティト」において、この飛び道具は、ものすごく計算された、演出家の意図を表現するための道具として使われていたようですけど、うちの女房からすると、その「意図」と作品自体が矛盾を起こしていることが、どうしても許容できなかったようです。

この「飛び道具」、しっかりした計算に基づいて使われると、すごくいい感じになりますけど、使い方を間違うと、結構痛い目に合う。「ティト」を見て、「面白いからやってみよう!」なんて、中途半端に客席をいじる演出に走る人が増えなきゃいいけど・・・

それはそれとして、オペラの舞台が、そのオペラの世界を表現することよりも、演出家の主張を表現する「表現手段」となる傾向、というのは、なんとなく、特にドイツの舞台において顕著な気がします。先日、NHK教育で放送されていた、ザルツブルグ音楽祭の「椿姫」の舞台を見ていて、「ああ、やっぱりドイツだなぁ」と思った。ウィリー・デッカー演出のこの舞台は、ネトレプコという非常に知的なソプラノと、ヴィラゾンという、ドミンゴを彷彿とさせるような、芝居も歌もピカイチのテノールを得て、ヴィオレッタとアルフレードの悲劇を、彼ら自身のもたらした悲劇ではなく、彼らをそこに追い込んでいく社会と、運命の意志によってもたらされた悲劇である、という再構築を行った舞台。終幕、「第二のヴィオレッタ」を作り上げ、「お前はもう用済みだよ」といわんばかりに、呆然と立ち尽くすヴィオレッタを嘲笑しながら立ち去っていく群衆、という芝居に、そのテーマが凝縮されていました。

でもねぇ、先日の二期会の栗山昌良演出のオーソドックスな「椿姫」と、このザルツブルグの「椿姫」と、どっちが泣ける?と聞かれたら、栗山演出の方がよっぽど泣ける気がするんですよね。演出家の自己主張が強すぎて、別の芝居になってしまっている感が、どうしてもぬぐえない。それはそれで、アリだとは思うんだけどさ。オペラ自体の感動とは別の要素が入り込んでしまった時に、その新しい要素に対する興奮度が、オペラ本体から得られる興奮に匹敵するものじゃないと、なんだか中途半端な解釈講義を聴かされているような気になっちゃうんだよなぁ。

同じザルツブルグでも、昔見た、ミンコフスキが指揮した「後宮からの逃走」は、すごく興奮する舞台でした。ラストシーン、モーツァルトの音楽とは全く関係のない、アラブ民族音楽が流れ、それに合わせてアラブ風のダンスを踊り続けるセリム、というシーンがあって、これが本当に泣けるシーンだった。全然オリジナルとは無関係に挿入されたシーンなんだけど、モーツァルトの音楽や、オペラ自体の「友愛」というテーマにすごくしっくりくるラストシーン。今から思えば、現在のにっちもさっちもいかなくなったアラブ世界と西欧世界の衝突を予言するような、象徴的な舞台だったなぁ。

そう思うと、宮本亜門さんの「ドン・ジョヴァンニ」も、やっぱりすごかった気がする。賛否両論あるけど、私はものすごく興奮したし、ものすごく感動した。ラストシーンで泣ける「ドン・ジョヴァンニ」は初めてだったしなぁ。宮本さんの「コジ・ファン・トゥッテ」も楽しみだなぁ。