オーケストラ伴奏「水のいのち」〜表現できるからこそ怖い〜

一昨日、女房が、大久保混声合唱団の練習で、昨年の秋に開催された「ひたすらないのち」演奏会の記念文集を受け取ってきました。昨日、その文集をちらちらと読ませてもらっているうちに、急に聞きたくなって、この演奏会で初演された、高田三郎先生の「水のいのち」のオーケストラ伴奏版を聞くことにする。随分前に、女房がDVDをもらってきていたのですが、高田三郎先生の曲を集めた全編4時間という演奏会の規模を聞いて、ちょっと手が出ずにいたんですね。いくつかの演奏をつまみ食いした後、最後の、600人という巨大な合唱団による合同演奏、オーケストラ伴「水のいのち」を聞く。

冒頭の「雨」の演奏から、自分の知っている「水のいのち」とは全く別の曲に聞こえて、びっくりしました。こんなに変わるものなのか。「水たまり」の冒頭や、「川」の冒頭などは、曲が始まった途端に、「ああ、違う!」と思ってしまいました。かえって、後半、「海」「海よ」の二曲は、わりと自分の中でしっくりくる感じがあった。思わず、全編を聞き終えてから、辻正行先生が指揮された「水のいのち」の映像(女房がステージマネージャをやった「その心の響き」演奏会で、正行先生の指揮する姿をずっと固定カメラで撮影した映像。有限会社シン・ムジカで購入できると思います…なんてさりげなく宣伝)を見直して、自分の中の「水のいのち」を再確認してしまった。「ちょっと耳を洗いなおすよ」と言ったパパに、娘は、「耳はきれいになった?」と聞きました。きれいにする、というのとはちょっと違うんだけどね。

「違う」と思ったのは、「こんなの『水のいのち』じゃない!」なんて喚くようなネガティブな意味ではないんです。こういう「水のいのち」もあると思う。それよりも驚愕したのは、オーケストラ編曲によって、曲の解釈がものすごく明確になること。編曲者がその曲をどう解釈したか、という方向性・色合いがものすごく明確になること。その方向性や色合いが、自分が思っている曲の解釈や色合いと異なっていると、「違う」という感想になる。でも、もちろん、その解釈が「間違っている」ということではないと思うのです。

例えば、冒頭の「雨」の伴奏において、オーケストラの音色は非常に祝祭的に、祝福と幸福感に満ちて構成されていました。なるほど、そういう解釈もあるのか、と思った。万物を洗い、万物を包み込む優しい雨のベールは、確かに、天からもたらされた神の祝福と捉えることができる。曲自体の明るい色調もあって、そういう解釈はある意味すんなりと納得できる。

でも、私の中の「雨」は、どこかもっと「涙」に近いものがあったんです。それは、全体がピアニッシモで歌われる「雨」の中盤、唯一たっぷりした音量で歌われる「涸れた井戸 踏まれた芝生 こときれた梢 なお踏み耐える根に」という一連の歌詞の情感のせいか、と思います。虐げられ、夢や希望を失って傷ついたものたちが、それでも懸命に生きる姿の上に、雨はわけへだてなく降る。それは確かに祝福なのかもしれないのだけど、どこかで哀しみに充ちた色合いがあるんじゃないか。

オーケストラという道具は、様々な音の音色によって、そういう「解釈」や「感じ方」の方向性を非常に明確に、雄弁に語ることができる。でも、そうやって表現されてしまうと、原曲の持っていたシンプルなピアノ伴奏ゆえの多様性、多元的な意味世界が失われてしまう。表現手段が豊かになればなるほど、表現されるものがどんどん制限されていってしまう不可思議さ。

そんな「解釈」の相違はさておき、オーケストラ伴の「水のいのち」は、雄大なスケール感とドラマ性で、原曲のメッセージをある一方向においてスケールアップさせた、感動的な曲でした。こういう「水のいのち」も本当に面白いと思う。小松一彦先生は、「この曲を色んな機会に演奏していきたい」とおっしゃっていましたから、東京でも歌える機会があれば…と思います。