NINAGAWA12夜〜400年のがっぷり四つ〜

以前、市川右近さんが演出した、二期会の「ポッペアの戴冠」を見たことがあります。舞台を平安時代の王朝物語に移しかえ、ネロとポッペアの恋を、時の帝と側室の恋愛に置き換えた舞台。とても意欲的な試みで、歌い手さんたちも大熱演だったのだけど、かなり違和感も強く、刺激的ではあるけれど、「キワモノ」演出すれすれの舞台でした。

どこに違和感を感じたか、といえば、どうがんばっても、二期会ソリストさんたちの歌舞伎の身体表現が、「身についた身体表現」になっていないんですね。歌舞伎っぽい手振り・身振りを、なんとなく素人さんが真似ている・・・という風にしか見えない。もちろん、普通の素人さんが真似る歌舞伎芝居とは段違いではありますけれど、それでも、歌舞伎の基礎の所作が身についた人の演技ではない。

・・・と言ってくると、実を言えば、西洋演劇や、オペラを含めた西洋舞台芸術を、「西洋の身体表現」をきちんと身に着けていない東洋の日本人がやる・・・というのにも、相当の苦労や鍛錬が必要になったりします。世界でも活躍されている日本人歌手の方々を見ると、日常の立ち居振る舞いから、日本人離れした所作を普段から身につけてらっしゃる印象がある。そういう「西洋の身体表現」、あるいは「西洋の舞台表現」に日本人がチャレンジする、というのは、かなり大変なことなのかもしれない。

そういう意味で、「ポッペアの戴冠」で感じたのと同種類の違和感を、松本幸四郎さんの「マクベス」で感じたことがある。もちろん、レベルは全然違いますよ。でも、高麗屋の「マクベス」は、どこかしら、日本人が必死に背伸びをして、西洋人の表現や所作を極めよう、という姿勢が見え隠れした気がする。観客側がそういう目で見ているのかもしれないのだけど、どこかに、東洋人が金髪のカツラをかぶっているような無理を感じてしまう自分がいる気がするんです。

ポッペアの戴冠」にせよ、「マクベス」にせよ、きわめて普遍的な素材。だからこそ数百年の歴史を経て生き残った素材だし、そういう普遍的なテーマだからこそ、日本人の我々が演じたり、あるいはものすごく大胆な読み替えも許容してくれる懐の深さがある。でもだからこそ逆に、中途半端な身体表現ではなく、ものすごく基本のところから、まさしく「体に染み付いた」表現にしていかないと、その普遍性故にかえって中途半端な表現に見えてきてしまうのかもしれない。

・・・長い前置きになりましたが、先日の日曜日、歌舞伎座の「NINAGAWA十二夜」の千秋楽の舞台を見てきました。臨海学校に行っている娘の留守に、折角だから夫婦で大人の娯楽を、と、女房が確保してくれたチケット。400年の歴史を経て、まさに「体に染み付いた」身体表現、舞台表現をもって勝負することの素晴らしさを実感させてくれた、素晴らしい舞台でした。

あまりに衝撃的な舞台で、言いたいこと、語りたいことは山のようにあるのだけど、なんだか整理がつきません。身についた身体表現の持つ凄み。菊之助さんが再演にあたって、「もっと歌舞伎にしたい」とおっしゃった、その傍らで、お父様の菊五郎さんは、「これだけ歌舞伎役者が出ていればどうやったって歌舞伎調になる」とおっしゃる。この菊五郎さんの自然体のコメントがすごい。自分の身についた表現への自信、引き出しへの自信。別にシェイクスピアだから、蜷川だから、どうだってのさ。俺たちは歌舞伎役者なんだから、歌舞伎しかできゃしないよ、とでも言いたげな。結果として、歌舞伎として再構築されたシェイクスピアは、ほとんど一つの古典歌舞伎作品ででもあるかのような、普遍的なエンターテイメント性とテーマ性を以って、かえって原作の魅力をさらに増したかのように思える。盛り込まれる様々な現代的なギャグに腹を抱えて笑いながら、古典歌舞伎の手法を駆使して舞われる二幕冒頭の獅子丸の舞に、彼(彼女)の切ない恋心を見て思わず胸がきゅんとなる。シェイクスピアの普遍性と、歌舞伎という400年間培われた強固な舞台表現が、まさしくがっぷり四つに組んだ時に、双方の魅力が十二分に発揮された、中途半端ではない一つの完成形が生まれる興奮。

蜷川さんはパンフレットの中のコメントで、「稚拙な現代劇の手法は持ち込まない」「歌舞伎というのは圧倒的に俳優主導の演劇である」とおっしゃっています。400年の歴史を持つ歌舞伎表現のパワーにゆだねてしまえば、シェイクスピアだろうがなんだろうがなんとでもなるさ、とでも言いたげな。それは、歌舞伎という世界を知り尽くし、かつ、シェイクスピアという世界を知り尽くしているからこそ、双方の持つ普遍性と魅力をそのまま裸でぶつけ合わせることこそが、本物を作り上げられる近道なのだ、という確信と信頼。そうやって双方を直接ぶつけ合わせたとしても、決して「蜷川色」を失うことはない、きっちり自分の色は付けさせてみせるよ、という、自分自身に対する自信のなせる業。

そしてその蜷川演出は、鏡という道具で、「二面性」というテーマを、分かりやすく、大胆に、かつ素晴らしくケレン味たっぷりに魅せてくれる。男女の双子、という、菊之助演じる主役の二人の二面性、シェイクスピアと歌舞伎、西洋と東洋、舞台と客席、男と女。そしてそれらすべての二面性が、「女形」という歌舞伎表現の粋を封じ込めた琵琶姫=獅子丸、という登場人物一人の中に集約されていく求心力。歌舞伎でありながら、シェイクスピアでありながら、まさに「蜷川」舞台である、その凄み。

役者のアンサンブルも見事で、どの役者さんもその持ち味を十二分に発揮しながら、決して個人芸にとどまらないバランスのよさ。菊之助の、ほとんど夢か奇跡のような両性具有性、左團次トリックスターぶり、亀治郎翫雀の自由奔放な道化ぶり(千秋楽ならではの脱線も、決して舞台のバランスを崩さないそのセンスの見事さ)、時蔵の気品と初々しさと残酷さと美しさ、そして何よりも、菊五郎の要所をきちんと締めた存在感。

十二夜」という素材は、菊之助さんのお知り合いの方の発案だそうですが、このロマンティック・コメディを選んできた着眼の素晴らしさに、世話物をやらせたらピカ一の、音羽屋さんのセンスを感じます。見事な再構築を成し遂げた台本、時にギャグも盛り込みながら、古典的な表現をしっかり踏まえた常盤津の完成度の高さ、舞台道具の見事さ。歌舞伎表現が、役者の身体表現だけでなく、台本・舞台道具・常盤津・照明、全てをひっくるめて400年の伝統の上に成り立っている歴史の重みを感じました。

幕切れでは、客席全員がスタンディングオベーションで、なんどもカーテンコールが重なる。歌舞伎座に何度も来ている女房も、「歌舞伎座スタンディングオベーションなんて初めてみたよ」と大興奮。笑って笑ってその後で、「大変な舞台に遭遇したのでは」と、全身に鳥肌が立つような、そんな感激の一夜を過ごさせていただきました。チケットを確保したわが女房どの、実に天晴れでござった。やっぱり400年の歴史はすごいよ。