何をカッコイイと思うか

先日、女房と二人してぼんやりテレビを見ていたら、NHKの人気番組の一つ、「課外授業 ようこそ先輩」で、サッカーの北澤豪さんが出ていました。小学生に語りかける彼の語り口を聞きながら、女房と、彼が現役だった頃のサッカー日本代表ってのは、なんだかかっこよかったねぇ、という話をする。最近のサッカー選手にはないかっこよさがあった気がする。カズにしても、ゴン中山にしても、ラモスにしても。何が違うんだろう、という話を女房としていたら、女房が、

「かっこいい、と思う基準が、我々と共通していたってことじゃないかな」

と呟きました。なるほど。

例えば、北澤さんは、小学生に対して、非常に明確に、論理だった形で、サッカーに限らず、運動能力を高めていくときに必要な基礎能力を分析、説明していきます。単純な繰り返し運動を行わせた後で、その運動の意味を小学生に解説する彼の姿は、非常に論理的で、かっこいい。感覚的な説明ではなくて、筋道が通っている。いきなり応用から入るのではなく、基礎からしっかり固めていく姿勢も実にかっこいい。

また、彼は、サッカー選手を目指し始めたときに、「自分に足りないものはなにか」「自分が必要とするものはなにか」ということを確認するために、毎日のようにノートをつけていたそうです。自分の課題を明確にし、その課題をクリアするためのタスクを自分に課し、それを消化していく。

客観的な観察。論理的な思考。そして、それらに基づいて明確になった課題を、長期的な計画に基づいて着実にこなしていく。そういう、一本の強靭な筋が通った生き方を、我々は非常にカッコイイと思う。

実はこういう「かっこよさ」というのは、我々の世代にとっては実に新しい、新鮮なかっこよさだったと思います。我々の前の世代というのは、あまり深く考えることなく、ただがむしゃらに突き進んでいくことがかっこいいとされた世代のような気がする。明確な戦術もなしにひたすらに突っ込んでいくボクシングの輪島選手や、日本刀を振りかざして一本足打法を会得した王選手、あるいは、「天才的なヒラメキ」によって日本人を魅了した長島選手など。恐らくは彼らにも、ある程度計算された論理があったのかもしれませんが、世間はむしろ、彼らの論理性よりも、精神性や根性を尊んだ。それは、がむしゃらにパンチを繰り出し、真っ白に燃え尽きていった「あしたのジョー」の姿が象徴しているような気がします。論理を超えた精神性の美しさ。

でもこういうかっこよさというのは、裏返せば、高度成長という外的要因と、会社組織という外から与えられた枠の中で、あまり頭を使わずに、与えられた仕事をがむしゃらにこなしていく「モーレツサラリーマン」を支えていた精神的支柱とあまり変わらない気がします。つまるところ、あしたのジョーは、モーレツサラリーマンと同じ基盤にたって燃え尽きていった。定年後、仕事以外の生き方を知らずに呆然と立ち尽くしたかつてのモーレツサラリーマンたちと、燃え尽きた矢吹丈の姿には、実は共通点がある。

そういう、精神論や根性論から離れたところで、明確なロジックと客観的な分析に基づき、着実に成果をものにしていこう、という、別の「かっこよさ」をアピールしたのが、あの頃のサッカー日本代表の選手達だったように思います。彼らを語る上で、確かに彼らの精神的な強さ、根性といったものも取り上げられはしますが、むしろ、目的に向かって客観的に、着実に進んでいくクールさと熱さを兼ね備えたかっこよさが、我々にとって新鮮であり、かつ共感できたことだった。それは、故 山際淳司さんが、数々の傑作スポーツノンフィクションの中で描いた、「明確な論理と計算に基づいて自分のスタイルを貫き通す、クールなスポーツマンたち」の中に結晶しているような気がする。

さて、そして現在です。既に旧世代と化した我々の眼から見れば、最近の「カッコイイ」人たちというのは、非常に刹那的な気がする。一瞬の輝き、一瞬の栄華を花火のように打ち上げることが「カッコイイ」。ふさわしい実例かはちょっと疑問かもしれませんが、「金八先生」でも取り上げられ、全国で流行している「よさこい踊り」というパフォーマンスを見ていると、数分間の激しいダンスの中で全部を燃焼してしまおう、というような刹那的なカタルシスを感じる。でも、舞台というのはやっぱり、「通し狂言」一本の濃密な物語世界の魅力に尽きる気がするんだけど、そういう根気を感じない。

「根気」を感じない、というのが、最近のかっこいい人たちの共通点のような気がします。ホリエモンしかり、村上ファンドの目玉おじさんしかり。もちろん、マスコミが取り上げている彼らの刹那性とは別に、彼らなりの着実な計画性や長期ビジョンがあるんだとは思います。でも、今の若い人たち(うわー、オッサン臭い単語)が彼らに注目するのは、そういう着実さよりも、打ち上げ花火的な刹那さのような気がします。安藤美姫が、「トリノ五輪が終わったら、引退してお嫁さんになりたい」と言った、という言葉が、今は結構非難されたりしていますけど、彼女が人気のあった頃は、一つの「かっこいい生き方」として受け入れられていた気がする。一瞬で頂点を極めて、後はその貯金でのんびり、贅沢に暮らす。株式上場で巨万の富を一瞬で築き上げたら、あとは宇宙旅行買って、シャアのコスプレをやる。ほんとに恥ずかしいからやめてほしいなぁ。

状況がどう変わっていくかわからない、不確実性の高い時代。だからこそ、長期的なビジョンとか、長い目で見た事前準備、といった地道なアプローチが無意味になることが多い。状況に合わせ、よく言えば柔軟に、悪く言えば刹那的に行動を変えていける可塑性こそが尊ばれる時代。一つのことにこだわるのではなくって、状況に合わせて変化していく、あるいは変化していかなければならない時代。何かの新聞で、「明日のことは分からないし、先のことはどうなるか分からない。だから、今のうちから準備しておく、なんて意味がない」と言い切る若者の姿が記事になっていましたっけ。「地道」という単語自体が、段々死語になっていくのかもしれませんねぇ。

でも本当は、明日の見えない時代だからこそ、常にきちんと自分の課題を見つけて、自分のセールスポイントや、自分の勝負できる強みをきちんと磨いておくことが大事なんじゃないか、と、オジサンは思いますけどね。明日が見えないから、と、今現在の利益、今現在の快楽を追い求める傾向があんまり強くなると、なんだか世の中、ひどくカッコ悪い薄っぺらな人間ばっかりになってきちゃう気がする。そう思うこと自体、最近の若い人たち(ああオッサン臭い)から、「カッコわり〜」と笑われることなのかもしれないけれど。