団体演奏における個と全体の問題

昨日この日記に書いた、日本のオケの話で、S弁護士ご自身から、いくつかコメントが参りました。彼によれば、

「弦楽器と管楽器では若干事情が異なるかもしれない」、とのこと。

管楽器というのは基本的にソリストなので、第一奏者のソロ演奏が本当に「絶対」であり、それは欧州のオケでも変わらないそうです。彼によれば、

『ヨーロッパ有名オケの金管奏者のインタビュー記事だったと思いますが
「1番が音を外したら、2番も外す!」
と、半ば冗談・半ば本気で話しているのを読んだことがあります。』

とのこと。すごいねぇ。

ただ、弦楽器のように、大人数が一つの声部を受け持ったとき、欧米のオケと日本のオケに決定的な違いが出てきてしまう。それは、S弁護士の言葉を借りれば、

『「全員が弾きたいときに弾く」ことが前面に出るオケ文化と
「同じタイミングで音が出る」ことを優先するオケ文化がある。』

ということで、日本のオケというのはきっと後者なんだね。演奏していく中で、「合わせる」ために個人の主張を削ぎ落としていく文化と、「合わせる」ために個人の主張をぶつけ合って、なんとかコンセンサスを作り出していこうとする文化との違い。

S弁護士が面白い話を紹介してくれていて、これはあまりに面白かったので、そのまま引用してしまいます。(事前許可もらってないのですが・・・すみません)
 
『・・大学オケのコーチにきいた話を思い出しました。

コーチが留学中に聴いたコンサートの話で、たしかベーム指揮、ベルリンフィル
ある楽章で、弦楽器のセクション同士が、合わない。
たとえば 1st.vn.セクションが、セクションとして「弾きたい」音楽の流れと、チェロセクションが「弾きたい」音楽の流れが、違う。
音楽は、聴き手にも分かるくらいハッキリと、軋む。

これは、物理的なタイミングだけではなくて、どう弾くか、という表現の問題でもあります。
修正して、タテの線を合わせるのは、彼らなら、簡単なことだったはずです。

しかし、コーチが言うことには

ベームは、合わせようとしなかった。そのまま弾かせた。
セクション同士も、お互い譲らない。そのまま弾いていく。
聴衆にも、セクション同士の軋みが分かって、すごい緊張感だった。
軋みながら音楽が進むうち、ゆっくりと、ゆっくりと、音楽が合っていく。
結果的に、タテの線もあっていく。」

すごい話ですね。
個々のプレイヤーが「こう弾くんだ」とハッキリ主張して、それがセクションとしてまとまっているので、セクションとして「こう弾く」という主張が、強烈に強い。

そのセクション同士が何かのはずみで合わないときに、「譲らない」というのが、すごい。
譲らない=弾きたいときに弾く、その結果、音楽の展開とともに、次第に合っていく。

それは、合わせるために合わせるよりも、強烈な説得力を持つのでしょうね。』
 
以前、この日記で、「英語でしゃべらナイト」に出てきたマンハッタン・トランスファーのメンバーが、「大事なのは、それぞれの個性を思い切りぶつけ合いながら、それらをうまく『ブレンド』すること」と言っていて、和音を作る、という作業を、ハーモニー、と言わず、ブレンド、という言葉を使っていたのがとても印象的だった、という話を書いたことがありました。要するに、そういうことなんだね。

日本人は「個」が十分成熟した民族ではない、とよく言われます。個人個人が自己主張してもいい、と言うと、人の音を全然聞かずに、ひたすら自分の声をガンガン出す。自分自身の自己分析が甘いから、自分の声が全体の中でどう鳴っているか、という点を客観的に分析することができない。ひたすら「合わせろ」というと、今度はやけに無個性な音に萎縮していってしまう。そこのバランスが難しいし、このバランスがうまくいった団体が、非常に日本的な美点を持った演奏団体に脱皮していく。別に、欧米流の「ブレンド」ばかりが優れているわけじゃない。アプローチの仕方が違っているだけのこと。

簡単に言えば、例え4プルが1プルより大きな音を出していないオケであったとしても、1プルから4プルまでが全く同じ音量でぐわん、と鳴れば、そりゃすごいオケになるわけですよ。「合わせよう」としてしっかり合う。なおかつ、主張しようとして主張している。それが理想の形であって、主張しながら合わせるアプローチもあれば、合わせながら個々のレベルを底上げしていくアプローチもある。「僕は下手な合唱団を上手に歌わせるのが得意でねぇ」とおっしゃった辻正行先生は、この「底上げ」がとても上手な方だった、と認識しています。

でも、女房あたりに話を聞くと、正行先生の「底上げ」のやり方というのが、またすごく面白いんです。全員を上手に歌わせるために、逆に、団員の中の技術的な序列を明確につけるんですね。「みんな等しく上手だねぇ」なんて、ヘンな平等主義に陥らない。私も、正行先生の練習を見学していた時に聞いたことがあるんですけど、「ソプラノの中で、この人とこの人しかこのフレーズを歌いこなしている人はいないんだから、その人たち以外の人は、歌えるようになるまで歌いなさんな」なんてことを平気でおっしゃってました。「この人と同じだけ歌えてる、と思う人だけ歌いなさい」と。

「団体としての和を乱さないためには、みんな平等であるべきだ」なんて言ったりしないんです。誰もが平等に扱われる、なんてことはない。えこひいきは絶対しないんだけど、でも明確に、「この人は歌える人」と名指しし、序列を明確にする。「この音域になっちゃったら、もうこの人に任せなさい。他の人はいくら頑張ったって、こんな音は出せないんだから」なんて、しょっちゅうおっしゃってました。でも、これが逆に、そのパートの音を均一化して、美しい一体感を生み出す結果になるんだよね。

「この音が出せるのはあなたしかいない」なんて言われたら、名指しされた人は、他の人の手前、その音は死ぬ気で出します。美しく出せるように、必死に努力します。「歌えない」と言われた人の中で、遠慮深い人たちは、「そうよね、私たちは歌えないんだから、小さい声で歌おう」と思う。すると、結果として、その人たちも、ヘンに頑張ったノド声を出さないから、力が抜けた自然ないい声が出たりするんです。向上心のある人たちは、「私だって、あの人と同じくらい歌えるようにならなきゃ!」と思って、「歌えている」と言われた人の真似を必死でやる。

結果として、そのパートの歌声は、「歌えている」と言われた人の声やフレーズ感にそろってくる。遠慮深い人たちの声も、そういう人たちを邪魔しないクリアな声になってくる。柱になる人たちを明確に特別扱いすることによって、結果的にパートとしての一体感が醸成されてくる。悪しき平等主義は、かえって団体としての一体感を殺いだりするんです。もちろん、それができるのは、「正行先生の耳」に対する団員の絶対的な信頼があるから。「正行先生が『あの人は歌えている』とおっしゃるのなら、間違いない」と団員が思っていなければ、こういう一体感は生まれてこない。

団体演奏における、個と全体の関係性、というのは、ものすごく面白いテーマですね。今、教育現場で言われている「個性を伸ばす」なんて議論とも通じる話。「個性を活かす」ためにどうしたらいいか、なんて話をする時に、「だからどの人もそれぞれの個性を主張できて、平等に扱われるべきだ」なんて、個性重視=平等主義、という不思議な等号を持ち出す人がいたりしますけど、実は大間違いかもしれないよね。

個性を重視した結果として、明確に見えてくる序列がある。大切なのは、その序列は決して、その人たちの全人格を序列化したものではなく、一つの物差しに沿った序列に過ぎないのだ、ということを、認識すること。様々な物差しがあり、それぞれの物差しにおいて、優れているとみなされた人々が、周囲からきちんと尊敬される。そういう物差しが一つしかない(例えば、「学歴」とか、「資産」とか)状態こそが、非常に不幸な「没個性社会」の状態なのかも。多様な物差しを持ち、誰もがその物差しを認めることが、社会の多様化であり、本来あるべき「個性重視」、ということなのかもしれない。連想はそこまで広がっていきます。面白いなぁ。