吉田秀和「たとえ世界が不条理だったとしても―新・音楽展望2000‐2004」

吉田秀和さんという方については、時々雑誌の文章を拝見する程度で、著作を本格的に読んだことはありませんでした。そもそも私は、オペラという舞台表現に関わっているとはいえ、いわゆるクラシック愛好家という所からは遠いところにいます。なので、吉田さんの文章に触れる機会はさほどなかったのです。従い、吉田さんと言えば、NHK-FMで、なんだか不機嫌なんだか上機嫌なんだかさっぱり分からない老人が、囲炉裏端でぼそぼそと昔話をしているような、あの番組の語り口の印象が一番強かった。

今回、吉田秀和さんの新刊「たとえ世界が不条理だったとしても」を読んだのは、この日記にたびたび出てくる、親友のS弁護士が、この本をクリスマス・プレゼントとして贈ってくれたから。前述の理由で、音楽評論、と聞けばちょっと腰が引けるのですが、このタイトルにすごく心惹かれ、読み進めました。昨日読了。音楽について書かれた清澄な音楽を聴いたような、ゆったりとした充実感に浸る。

小林秀雄丸山真男との交流を語る老文筆家の文章は、この世代の文筆家の文章のもつ格調の高さを保ちながらも、決して難解ではない。厳選された食材を老練な包丁さばきで仕上げながら、決して高級ぶらない隠れ家のような料理店で、頑固親父が運ぶお膳をいただいているような、実に味わい深い文章。今をときめく大指揮者の演奏であっても、「つまらない」と一刀両断する一方で、若手演奏家のアグレッシブな演奏の中に秘められた叙情性を看破する、鍛え抜かれた耳。嫌味なく、さりげなく垣間見える膨大な楽譜への探求と思索。一つ一つの評論は、音楽という題材を描きながら、音楽を通して、社会を、人間を、思想を、信仰を語る可能性について、常に模索し続けている。音楽の持つそういう一種の呪力に対して、無理解だったり、無防備だったりする社会や、音楽のそういう魔力を引き出そうとしない演奏家たちへ、いらだったり、絶望したりしながらも、常に音楽の可能性について語り続ける姿は、時に攻撃的と感じるほどに前向き。全く前進することを止めない90歳の精神。それほどにエネルギッシュでありながら、文章は全く押し付けがましくなく、語り口は常に柔らかで温かい。取り上げられている演奏会やCDにほとんど触れていない自分としては、いくつもの文章が理解できない自分に対する苛立ちもありましたけど、久しぶりに重厚かつ滋味豊かな評論文を読んだ気がしました。

中でも、この本のタイトルにもなった、「不条理と秩序」という一遍は絶品です。書かれたのは2000年。あの、少年によるバスジャック事件に触れながら、「なぜこんなことが起こるのか」と、運命の不条理に立ち尽くす。不条理な暴力、不条理な災厄。そして吉田さんは、「だからといって、暴力や災厄に遭遇していない日常が、条理とはいえないだろう」といいます。平穏な我々の生活そのものが、単なる偶然に乗っかった危ういものでしかない。世界は不条理と偶然という、無秩序で暴力的なものに満ち満ちている。そんな不条理の中で立ち尽くしたとき、吉田さんの耳に響いてきたのは、バッハの音楽だった。

素晴らしい秩序の中に吹き抜けるさわやかな風のような、こんなに美しいものが人間には作り出せる。その人間の可能性の彼方にあるものを信じれば、この世界がいかに不条理であっても、なんとか生きていける気がする。なんとか文章を綴っていける気がする。そう語る老文筆家の独白には、思わず襟を正して耳を傾けねばならないと思わせる力がこもっている。

奥さんを亡くされて、筆を取れなくなってから、再び仕事を再開した経緯について書かれたあとがきは、なんだか胸にじんと来ます。奥さんの死去、という、吉田さんにとって最大の不条理に直面した後、全ての仕事を放棄して、まさしく死んだように暮らした生活の静謐な平穏。吉田さんにとって、すでに死は、そんな平穏に充ちたものなのかもしれません。そんな死の平穏を全身で感じながら、それでも前進していこう、それでも生きていこうとする93歳。その機関車のような強靭な精神の輝きに、ただ頭を垂れるしかないような、そんな敬虔な気持ちで本のページを閉じました。本をプレゼントしてくれたS弁護士、本当にありがとう。