疲労感を越えて

最近、自分自身が偏狭になってきたのか、周囲との間のコミュニケーション・ギャップに悩むことが多くなってきました。そういう日常の愚痴めいたことは、あまりこの日記には書かないようにしているんだけど、先々週から先週くらいに、立て続けにそういうトラブルに見舞われて、ちょっと疲弊しております。

具体的なトラブルの内容についてはここでは書きません。ただ、そういうトラブルに見舞われるたびに、「相互理解」なんてことは結局不可能な夢なんだなぁ、と思うことがあります。一種の絶望と共に、徒労感というか、疲労感が訪れる。結局、人間同士がきちんと分かり合うことなんてのは不可能なのだ。世の中には、どうしても理解し合えない人種がいるのだ。

まだ、養老さんの「バカの壁」を読んでないんですけど、この徒労感・疲労感を感じる瞬間っていうのは、こちらの言葉を受け止めようとしない相手側の「見えない壁」のようなものを感じる瞬間なんですよね。「私は正しい」と主張している人に対して、「それは違う」と指摘した瞬間に、さあっと立ち上がる見えない壁。

この「見えない壁」が立ち上がった瞬間に、相手に何を言っても、「オレは正しい」「なぜならば、オレはこういうことをやっている」「ああいうことをやっている」「お前がなんと言おうと、オレがこういうことをやっている以上、オレは正しい」という、自己正当化のための様々な証拠や言い訳をひたすら積み上げていく作業が、延々と繰り返されていくだけなのです。自分の周りの壁に新しいレンガをひたすら積み上げていく作業。そして、我々の「あなた、それは違うでしょ?」という言葉は、一切受け入れられることもなく、相手の自己正当化の壁にぶつかって、手前で落っこちていくばかり。この徒労感、疲労感といったら。

この壁を取り払うのは、相互に、相手の立場を理解しようとする思いやり。相手の立場に立ってものを考える想像力。自分の意見や主張を客観的に見直すことができる謙虚さ。でも、我々自身も含めて、そういう精神のポジションのようなものを維持し続けていくことって、本当に難しいんですよね。

こういう疲労感、絶望感を感じながらも、私が、舞台表現ということにひたすらにこだわっていたいのは、舞台から我々が発信する音楽や演技という表現に対して、客席がさぁっと反応していく瞬間の中に、そういう「見えない壁」が取り払われていくような、まさしく舞台と客席が一体となった「相互理解」の瞬間があるような気がするから。以前この日記に書いた、吉田秀和先生の言葉の通り、「たとえ世界が不条理であったとしても」音楽を続けていくことには意味があるのでは、と思うから。そこには調和があり、共感があり、一つの感情の共有があり、様々なギャップを乗り越えた至福の瞬間が待っているような気がするから。

週末、蔵しっくこんさぁとの公開リハーサルがありました。まだまだ一杯足りないところがあり、トラブルも一杯起こり、お客様に見せられるようなレベルではなかったかもしれないのだけど、それでも、ご来場くださったお客様は、本当に楽しんでくれました。沢山ダメももらったけど、そのおかげで、本番に向けてやるべきこともはっきり見えてきた気がする。

そんな「共感」「一体感」の幸福を感じる一方で、今回の公開リハーサルで、どうしても我々と空気を共有することができない人種がいるんだなぁ、という絶望感も感じてしまいました。(誤解のないように付け加えておきますが、ご来場くださったお客様の中には、そんな方は一人もいらっしゃらなかったんですよ。)それは本当に残念な出来事で、女房も私も、リハーサルが終わってから相当落ち込んでしまった。もちろん、我々だって、オペラやオペレッタを見てもチンプンカンプンな人たちが、世の中に沢山いるのは知っていますし、そういう人たちにまで、「こんなに楽しいのに理解できないのぉ!」なんて、我々の表現を押し付けるつもりはないんです。でも、今回は、「私は音楽演奏家を支援している」「私は文化活動をボランティアとして援助している」と自称している人が、我々の演奏に対して、「あんな大きな音で歌って踊って、近所迷惑だと思わないんですか?普通の演奏活動じゃありません。少し考えてください」なんて言ってきたものだから、結構落ち込みも激しかったんです。

それでも、我々は、舞台を、音楽をやめることはない。表現することをやめることはない。偏狭な精神や、見えない壁にぶつかって、何度も何度も、徒労感や疲労感を感じたとしても。自分たちの音楽や表現によって、全く見知らぬ他人同士が、一つの時間・一つの感情を共有する瞬間の幸福を知っているから。客席から湧き上がった温かい拍手に、身も震えるほど感動するあの瞬間を知っているから。そうやって、ひたすらに自分の表現力を磨いていくことが、我々にできる唯一の、「相互理解」のための努力だと思うから…。